「……ふぅ」
なにやら難しい文字の羅列された参考書に問題集、細く綺麗な字がびっしりと書き込まれたノートで埋め尽くされた机の上に鉛筆を置くと、彼女は大きく伸びをして見せた。
畳張りの簡素な部屋は、その何処を見回しても空調らしきものが設置されていない。
四面の窓や扉の類は全開に開け放たれ、廊下には部屋に向けた扇風機が一台、静かな音を立てていた。
彼女の頭には鉢巻代わりのタオルが一本。そしてクリーム色のシャツ一枚。
そのいずれにも、うっすらと滲んだ汗のあと。
ふと、正面の窓から外を見ると、庭の楡の木の木陰から見える太陽は随分高くなっていた。
「…もうお昼じゃないの…道理で」
ふと、手元の目覚まし時計を見れば、それは十一時半を少し廻っていた。
「道理で」の意味は二つ。
ほんの数分前から感じた空腹感と、体感気温があがった理由に対するものである。
彼女は再度ひとつ伸びをすると、机の上を軽く掃除してそのまま部屋をあとにした。
…
「あれ…?」
下階に下りてきて初めて、彼女は家の中が異様なまでに静かなことに気がついた。
故あって母と娘六人という七人家族で、病院関係の仕事で普段いることの少ない母親だけならいざ知らず、五人もいる妹たちのことごとくがいないのだ。
長女である自分が受験生であることを気を利かせてくれるのはいいのだが。
「なになに…あたしたちは友達のうちで勉強会することにしたんで留守にします…お昼ご飯は適当に何処かで食べてください…?」
彼女は机の上の書置きらしいものを取り上げて、その内容を復唱する。
机の上を再度見回すと、包み紙に千円札が一枚。
恐らくは、朝早く仕事に出かけたらしい母親が、姉妹たちに宛がったうちの一枚なのだろう。
「…いい加減だなぁ」
それを玩びながらひとりごちると、彼女はこれからどう過ごすか思案する。
(うーん…図書館でも行こうかな…クーラー効いてるし)
そう思っては見るものの、熱帯の長湖に面する会稽地区で生まれ育った彼女にとっては暑気などさして苦痛にならない。
一家の特徴であるプラチナブロンドと碧眼は、かつてその先祖が北方系であることを連想させるのだが…彼女の場合は単なる気分転換の口実にしかならないだろう。
受験生…しかもかなり競争率の高い学園の医学部を狙っている彼女は、受験対策のためこの夏ほとんど外出らしい外出はしていない。
塾通いはしていなかったが、気晴らしで始めた近所の杖術道場にはいまだ週三日ほど通っているものの、それは外出のうちには入らないだろう。
精々一週間ほど前、こっそり夏祭りに出かけてちょっとしたアクシデントに見舞われ、常山神社で一宿一飯の恩を得たくらいだろうか。
考え込んでいた彼女であったが、やがてため息をひとつ吐き、問題集やらなにやらの入った鞄を椅子にちょこんと座らせた。
(やめやめ…静かなのはいいけど、こうも家にばかりいたら気分が腐っちゃうよ)
それが彼女の結論だった。
当人はそれほど当てにしてはいないものの、色々あって課外活動参加者の割りに、受験勉強するヒマだったら腐るほどあった彼女の志望校の判定はすべてA。
担任に言わせれば「これ以上特に何もしなくても、むしろ推薦書でも何でも出して良いくらい」というほどの成績を修めている。
実際、平均的な学力の高校生が理解できないような公式や記号が羅列された赤本、参考書の類も、買ってわずかな期間で手垢がつくぐらい目を通している彼女だからこそであったが…実際のところ、受験勉強といっても、既に覚えきったことを復唱するだけの単純な確認作業になりつつある。
生来お祭り好きで退屈を嫌う彼女にとっては些か食傷気味ですらあった。
「この辺で売ってる参考書も全部読んじゃったし…折角だから別の校区で探してみようかなぁ」
口にはそういってみたものの、実際はそうやって、出かける口実を自分自身に言い聞かせるようなものであったに違いない。
彼女は衣装棚から久しく着られることのなかった白の半袖シャツとソフトジーンズを引っ張り出し、その上から紺のベストを羽織ると、そのポケットに財布を無造作に突っ込む。
そのジーンズの腰には、護身用の組み立て式の杖が括られている。
道場の先輩から譲ってもらったものだが、組み立て式のわりに強度に問題はなく、持ち運びも便利なので愛用しているものだった。
そのまま軽い足取りで下階に下りてくると、妹が残した書置きを裏返し、一筆認めた。曰く、
−気分転換に出かけてきます。戻ったら私の部屋の窓を開けといてくれると嬉しいかな。 仲翔より−
「…ま、こんなところかな。じゃあ、行って来ま〜す♪」
誰もいない部屋に一声かけ、心なしか軽い足取りで家を出、鍵をかける。
そして彼女…虞翻は、久しく使っていなかった自転車に飛び乗って街へとこぎ出した。
夏影の狂詩曲 -Summerdays Rhapsody-
そのいち「ガール・ミーツ・ガール」
虞家のある会稽の街から自転車を漕ぐこと一時間弱。
彼女は揚州学区の閑散とした大通りを北へ向けて走り抜け、橋をひとつ越えて廬江の団地を抜けると、やがて預州校区に属する頴川の市街地に辿り着いていた。
実のところ、気分転換に出かける程度だったら隣町の蘇州地区のほうが近い。
彼女はいろいろあって様々な棟へ出向することも多かったが、蘇州周辺ならば過ごしていた時期も長く、概ねにその地理は知り尽くしている。図書館や動物園、自然公園といったちょっとしたレジャー施設以外にも、ゲームセンターなどのプレイスポットやそれなりに知られた飲食店も多く、少し家から遠出をして気晴らしに遊んで回るのに不自由はしない場所だ。
しかし、蘇州の街は陸遜を初めとする現在長湖部の幹部クラスの人間が多く住んでおり、色々あって彼女らに対して引け目を感じている彼女は、ばったり鉢合わせて気まずい思いをしたくないという感情から、あえて蘇州の街を避けて通ったのだ。
もっともそれすら口実のようなもので…学期中は長湖部の勢力範囲外であるから滅多に来れないことに対する好奇心が、彼女を頴川まで運ばせたのかも知れない。
頴川は預州校区にある学園最大にして最高のブランドとまで言われる学食街、通称「ヨチカ」を擁することからも知られるとおり、学園都市屈指の美食の街としても知られる。また名門氏族「清流会」の街としても知られ、図書館や美術館の類も多く、入館料の高ささえ気にならなければ暇つぶしの場所にも事欠かない。
対立関係にある蒼天会のお膝元ともいえる地域であり、蒼天会の幹部連中も多く輩出している地域だが…裏返せば、自分を知っている人間がそれだけ少ない場所である。精々、かつて会稽棟長で自分になんだかんだ目をかけてくれた王朗ぐらいのものだし、彼女も今は司隷に居るはず。鉢合わせる確率は低かろう。
一方で曹操や曹丕がなんでか虞翻をえらい評価しているらしいという話もあるのだが…だからといって顔が売れているわけではないし大丈夫だろう、と彼女は思っていた。
「さーて…何処かお昼に丁度良さそうな場所は…」
時計はもう一時近く、だいぶ空腹感も強くなっている。
自転車から降りて、不慣れな街の中、あたりを見回しつつ彼女は歩道を歩いていた。
特別方向音痴というわけでもないが、あまり長湖部支配範囲以外の地理に詳しいほうではない。
課外活動では綿密な計画行動を立てる虞翻ではあるが、その反動かプライベートの彼女はわりあい行き当たりばったりな行動を好む傾向がある。
「…あそこにしようかな」
目についたのは、大通りを挟んで向かい側にあったしゃれた感じの喫茶店だった。
看板には「喫茶・軽食」と銘打たれており、ランチメニューの掲示とおぼしき立て看板も出ている。
先の信号から向かいへ渡ろうと、再び自転車に跨ろうとしたそのとき。
「だから、そこを通しなさいっ!
なんなのよあなた達は!」
不意にそんな怒声と言うか、甲高い叫び声が角のあたりから聞こえてきた。
大通りの人通りは少なく、誰もそれを聞きとめている様子もない。
なにやらただならぬ気配を感じ取った虞翻、声のした方へと自転車を向けた。
…
路地裏には数人の若い男…恐らくは、どこかの学生だろうか…が、ひとりの少女を取り囲んでいた。
その男たちの人相と言うか服装と言うか…色とりどりに染め上げた髪に、これ見よがしに仰々しいアクセサリーやピアスを身につけた、何処からどう見ても不良そのものと言った風体である。
下卑た笑みを浮かべながら少女ににじり寄るそのリーダー格を、その取り巻きと思しき男たちがにやにや笑いながら成り行きを眺めていいるという塩梅だ。
(あ、五谿の制服だ。
あいつら、こんなとこまで来て悪さしてるんだ)
虞翻は呆れ半分に溜息を吐く。
蒼天学園都市内にある、学園に属していない男子校のひとつで、荊州校区と交州校区の境目あたりにあるのが五谿高校である。
山越高校と並び称されるほどの治安の悪さで、長湖部員からも「ヤンキー隔離所」と揶揄されるほどの、不良男子高生の吹き溜まりとも言える学校だ。
男たちは、それを着くずしては居るものの、その制服の色が彼らの所属をアピールしていた。
「つれねぇこといってんじゃねぇよ。
ちょっと俺達の相手してくれって言ってんだよ?」
「冗談じゃないわ、私はあなた達なんかと遊んでるヒマなんてないのっ!」
周りを囲まれ、壁際に追い詰められながらも少女は毅然とした態度で、相手の目を見据えたまま言い放った。
凛とした、と言うより、生真面目な学級委員長が不良生徒を咎めるような、そう言う印象が強い。
少女の容貌も、典型的な優等生のそれだった。
髪をきちんと切りそろえた、清楚な雰囲気のあるなかなかの美少女だ。
クリーム色のサマーセーターに、ブラウンのロングスカートと言う服装はともかく、今時珍しい黒縁眼鏡だけでも彼女の生真面目さを印象付けている風である。
「ヒマじゃない人間が真昼間から、こんな街中うろついてるかよ?」
「誘って欲しかったんだろ?
いい加減素直になれよ!」
「嫌っ!」
男のひとりが少女の手を無理やり掴んだ。
少女は身をよじって抵抗を試みるが、その華奢な体つきではその手を振り解くほどの力は期待できない。
少し離れた位置で成り行きを見守っていた虞翻だったが、しょうがないなぁ、という風に一息つくと、ジーンズの背中側に手を回しつつ男たちの背後に着いた。
「止めなよ、その娘嫌がってるじゃない」
「あぁ!?」
不意に背後から声をかけられ、男達が不機嫌そうな威嚇の態度を露わに振り返る。
その声の主がひとりの少女であることに気がついた男たちは、一瞬見せた怒りの表情を、下卑た笑みに戻していた。
「何だ嬢ちゃん…俺たちはこの娘とイイコトしたいんだよ」
「それともあんたも混ぜて欲しいってか?」
ギャラリーと化していたほかの不良たちからも、嫌らしい笑い声が上がる。
「そうねぇ…」
虞翻は一瞬考える仕草をし、
「丁重にお断りするわ…あんたたち好みじゃないもの。
醜男で馬鹿で穀潰しなら尚更だわ。
ついでに言えば、彼女とも絶対釣りあわないから、さっさと帰って真面目に勉強なさい」
にべもなく言い放つ。
その瞳は完全に男たちを蔑み、その視線は何かむさい物でも見るようなものだ。
交州学区での生活ですっかり鳴りを潜めていたその毒舌が、不良たちの神経を思いっきり逆撫でした。
「んだとこのアマぁ!」
当然、彼らの短い堪忍袋の緒は瞬時に弾け飛んだ。
「ちょ…ちょっと、あなた…」
逆上した男の拳が飛ぶのと、困惑した眼鏡の少女の声が同時に聞こえる。
鈍い音がして、少女は目を伏せた。
しかし。
「え…!?」
少女が恐る恐る目をあけると、信じられない光景が広がっていた。
プラチナブロンドの少女に殴りかかった男は、低いうめき声と共にゆっくりと地面に崩れ落ち…途中で何かに引っかかって力なくもたれかかっていた。
それを鬱陶しげに、少女はその身体を地面に打ち捨てた。
その手には、いつの間に手にしたのか、短い棒が握られている。
「弱いわねぇ…只でさえ不摂生してるのに、夏負けでもしたのかしら?」
「んだとぉ…」
挑発するように、さらに毒づく虞翻。
だが、その瞳に見据えられた男たちも、その迫力に圧されている格好になっていた。
「向かってくる自信がないなら、その娘を離してとっととどっかいってちょうだい…それとも、地面にキスするほうがお望み?」
余裕綽々の、見下したような目で虞翻は不良たちを見据える。
不良たちの目に危険な光が点る。
「…っ、言わせておけば!」
「やっちまえ!
完全に動けなくしてから、ボロボロになるまでマワしてやるッ!」
完全に頭に血が上った不良たちは、狭い路地ということを忘れ一斉に虞翻へと撲りかかろうとする。
虞翻は必要最小限の動きでその拳や蹴りの軌道を見切ってかわし、カウンター気味に放つ電光石火の突きで次々と沈めていく。
そしてものの数分で、不良たちは残らず地面に叩き伏せられてしまった。
彼女のその凄まじい技量と、叩き伏せられた不良達の戦闘能力の差はまさしく月とミドリガメほどにかけ離れていた挙句、地の利の優位まで得ていた状況である。当然の結果と言えた。
虞翻は不良たちが起き上がってこないことを確認すると、一連の出来事に呆気に取られた眼鏡の少女に歩み寄る。
「…大丈夫? 怪我はない?」
「え、ええ…でも、あなた…一体?」
恐る恐ると言ったその少女がそう誰何の言葉を投げかけたそのとき、虞翻の腹の虫が鳴いた。
そういえば、自分が昼食をとるために出かけてきたことを思い出し、そして人前でこんな大きな腹の虫を鳴かせてしまったことに恥ずかしくなって、紅潮して俯いてしまった。
それがあまりに可笑しかったのか、眼鏡の少女は噴出してしまい、思わず笑い出してしまった。
「えっと…」
「ご…ごめんなさい…せっかく助けて貰ったのに…そうだ」
眼鏡の少女は何かに思い立ったように手を打つ。
「良かったら、お昼御飯の美味しい所、紹介するわ。
本当は私がご馳走してあげる処だと思うけど…生憎手持ちが」
「んや、困った時はお互い様だよ。
実は私、この辺に来るのは初めてなの」
言ってしまってから、虞翻は言わでもなことまで言ってしまったことに気がついた。
今、彼女が居るのは豫州学区に属する頴川地区。
長湖部に属する虞翻にとっては、例え長期休暇期間であったとしても、本来なら敵地に等しい。
顔は知られてないといえど、もし目の前の少女が蒼天会の関係者だったら、目の前に居る虞翻をスパイと疑うのも当然のこと。
曹操の時代ならいざ知らず、性悪で鳴らした曹丕がこれを知れば、夏明けにどんな嫌疑を長湖部に吹っかけられるかわかったものではない。
しかし、目の前の少女は全くそんなこと、気にかけた風もない。
その清楚な顔立ちには些か不釣り合いにも思える、屈託のない笑顔で続ける。
「そうなんだ、じゃあ、私が案内してあげる」
「え…あ、うん。お願い」
相手の態度に何か不気味なものを感じながらも、虞翻は少女の後を追って裏路地を後にした。
(つつ…チクショウ…このままで済むと思うなよ…!)
完全に叩きのめしたと思っていた男がひとり、まだ意識を保っていただろう事など思うべくもなく。