沈黙が痛かった。
しかし、その痛みから目を逸らすこともなく…交錯していた両者の視線が、虞翻が再び歩みだしたことで逸れる。


「でも、私には死者を…あなたほどの人が慕い続けるほどの人を…もう恨み続ける事は出来そうにないよ」

虞翻は陳羣の傍らにしゃがみ込むと、丁寧な仕草で活けた花の際に露草を差し込んでいく。
淡い暖色の花の脇に、濃い藍のアクセントが生まれた。

「露草の花言葉は「尊敬」。
これは今、私が抱いた、彼女に対する気持ち…長湖の小覇王を言葉で止めてしまった、稀代の名軍師郭嘉に対する、ささやかな敬意よ」

寂しそうに笑い、そして静かに手を合わせ、黙祷する虞翻。

「仲翔、さん…あなたは…!」

当惑する陳羣の瞳にに、寂しそうな笑顔の虞翻が映しこまれた。


虞翻は立ち上がり、陳羣に背を向けた。


「私の本当の名は虞翻、字を仲翔。
長湖前部長孫策が臣にして、現部長孫権の行く末を託された…歯牙ない長湖の平部員。
それが、私よ」


お互いの表情は、お互いにわからなくなった。



夏影の狂詩曲 -Summerdays Rhapsody-
そのさん「出逢いの意味」



その数刻前のこと。

「ちょっとちょっとちょっと、あれは拙いことになるんじゃないの?」

虞翻と陳羣が出会った裏路地に暴走族風の男が屯しているのを発見し、その会話の内容を偶然耳にした孫策と魯粛。
物陰に隠れてその様子を窺い、その物騒な会話を耳にしながら魯粛の表情が見る間に変わる。
一方で孫策は脳天気に腕組みをしながら、感心したようにつぶやく。

「いや〜、やっぱり仲翔のヤツ…変わってないっつーか腕あげたなぁ。
あれだけの人数一度にノすなんて」
「そういう問題じゃないだろバカ伯符ッ!
あいつら、潁川を本拠にしてる山越高、五谿高の荒くれの集合体…ヤツらが本気になれば五百以上兵隊が集るはず」
「それ何か問題あるの?」

その一言に魯粛のイライラが頂点に達した。
不良たちに存在を悟られぬよう声を潜めたまま魯粛は、怒鳴りとばさんかの勢いで孫策に言葉を叩きつける。

「何言ってんのよこの馬鹿ッ!
あいつらは長湖部にこっぴどい目に合わされて、恨みを抱いてる連中だよ!
特に仲翔みたいに目立つ容姿のヤツ、あいつらの中にも知ってるヤツだっているでしょうが!!」
「そういえば長湖部立ち上げの頃、あたし公瑾と仲翔連れて五谿とかよく遊びにいってたっけなぁ」

ところが孫策はまるでその意味を悟っている気配がない。
他人事と言うより、日常茶飯事過ぎて感覚が麻痺しきっている感じである。
もっとも、それが異常事態であると悟っていたら悟っていたで、魯粛にとって頭痛のタネが一つ増えるだけだったのかも知れない。

因みにこの場合の「遊びにいった」は「ひと暴れしてきた」と同義である。
となれば、状況を理解したらしたで恐らく嬉々とした表情を浮かべているだろうことは、魯粛にも容易すぎるほど予想がついていた。

襲い来る頭痛を抑えるように、頭を抱える魯粛。

「余計拙いわよ!
てか早く何とかしないと…そうだ!」

魯粛は携帯を取り出すと、何処かへ向けてダイヤルする。

「…あ、もしもし?
あたしあたし…いや詐欺でも何でもないわよ、つかそんな遊んでる場合じゃない緊急事態だっつの!!
…うん、実は今ちょっと厄介なことになりそうでさ」
「何処電話してんの〜?」

まだまだ能天気な孫策。
否、魯粛の様子に流石に何か感じ取ったようで、むしろ何か起こりそうな予感に目を輝かせている風である。
魯粛は鬱陶しげにそれを振り払う。

「もう! あんたは仲翔たちを追っかけて!
携帯くらいは持ってんでしょ?
見っけたら電話! いいわね伯符!?」
「お、おう、わかった」

その剣幕に圧されたのか、孫策は虞翻たちの歩いて行った方角へ走っていった。

「ったく…あ、ゴメン。
んでね……………ってことで、早いトコ腕っ節に自信がありそうなのを何人か集めて、舒の公民館に来てくんない?
来てくれた連中にも夕飯奢るから……うん、お願い」

手早く用件だけ伝えると、魯粛は再度不良たちの会話に耳を傾けた。

(これ本当に拙いことになるかも…あたしらが居合わせたのは、仲翔にとってはサマージャンボの特等引いたようなモンだわ。
 でも…あいつらよりも先に仲翔を見つけないと)

その額に冷や汗が流れ、彼女は指定した合流地点へと駆けて行く。


孫策から再度連絡が入ったのは、それから20分後のこと…丁度、彼女が舒の公民館にたどり着いた頃であった。





虞翻にはもう、後ろを振り向くことが出来そうに無かった。

「私…やっぱり、興味本位で無闇に此処へ来るべきじゃなかったんだ。
余計なお節介をして…つまらない邪推ばかりして、あなたに気をもませてばかりで……本当に」

彼女が語った本心は、明らかに墓前の少女の思いを踏みにじってしまっただろう。


その表情を確認するのが、恐かった。


「違うわ!」


背後から、陳羣の叫び声が飛ぶ。
その声は、その場を去ろうとした虞翻の足をその場に留めた。

振り返ると、今にも泣き出しそうな、その少女が真っ直ぐ虞翻のほうを見据えていた。


「総ての物事には、きっと何らかの意味があって起こっている。
…生前、彼女が…奉孝さんが口癖のように言っていた言葉」

真剣な表情だった。
虞翻は、その姿から…その瞳から、目を逸らすことが出来ずにいた。

「だから…私とあなたがこうして知り合えたことにだって…意味はあったわ。
仲翔さん、あなたにはもう私が何者かなんてこと、気がついているんでしょう…?」

無言のままで虞翻は頷く。

「私…なんとなくだけど、途中から気づいていたの。景興さんからあなたのこと、聞いたことがあるから。
顔は知らなかったけど…最初はね、曹操会長が一目置いていた人だって…でも、噂で聞くあなたは、とても近づきがたい印象があったわ。
けど、景興さんは言っていたの…意地っ張りなところもあるけど、素直で優しい娘だって。
長湖部の虞翻がどういう人だなんてことは私だって知ってる。
でも、景興さんがいうような「仲翔さん」は…あなたは」

陳羣の眼からも、一筋の涙が零れ落ちた。

「あなたは、自分の身も顧みず、私を助けてくれた優しい人であることには変わりはない!
それに、奉考さんのことを認めて…本心から敬意を払ってくれたわ!
できることなら、あなたさえ良ければ、友達になって欲しいと思った…だから、私と知り合ったことと…此処へ来てしまった事を、そんな風に言わないでよっ!!」
「長文…」

まるで、胸に小さな棘が刺さったところから、きりきりと痛みを発する感覚。
虞翻はここ数ヶ月の間、こういう体験を何度も繰り返していた。


混乱する交州を収める方便とはいえ、自分も認めていた少女を心無い言葉で貶めたこと。
そのために、大切に思っていた少女を泣かせてしまったこと。
自分の本心を知って、心を痛めてくれていた少女の涙を見てしまったこと。

不甲斐ない自分に、交州の全てを託して学園を去っていった偉大な先輩を見送ったことも。


孫策が不運にも覇道を閉ざされたあの日、彼女はこうした想いを二度としたくなかったからこそ、務めて「独り」であることを選んだ。
自分が他人に深く関らなければ、悲しむことはないと。

自分がそうしたことに臆病だったことから取った逃げ道を、あの日、呂蒙が全てを賭けた荊州奪取に関ってから向こう、彼女はその「逃げ」の分の清算をさせられているのだということを、漠然と考えるようになっていた。


だったら、このこともきっと。


虞翻が歩み寄ろうとしたその時。

茅蜩の鳴き声を引き裂き、微かに聞こえたノイズ。
それがだんだんと近づいていることに胸騒ぎを感じ、振り返ると…麓の方に集団を成すバイクの群れが見えた。





「っつーわけでどうするよ、おめーら?」

受話器を置いて、魯粛からの電話の内容を面々に告げるは長湖部きっての問題児、甘寧その人であった。

金髪だった髪は生来の黒髪に戻っており、服装も黒のタンクトップにジーンズという一見普通の服装である。
しかし、その腰には相変わらず数個の鈴をこれ見よがしにぶら下げている。


引退してからも甘寧は、週末になるとちょくちょく長湖の悪たれ連中をかき集めて夜通し遊ぶのが習慣になっていた。
この日も甘寧の部屋には凌統、周泰、潘璋、そして大学生活一年目を満喫する蒋欽といった物騒な面々が集っている。
紺のノースリーブにデニムのロングスカートという蒋欽以外は、皆ジーンズやハーフパンツといったパンツルックである。潘璋に至っては、上着代わりに学校指定の体操服の上というずぼらな格好である。


「別に仲翔のこたぁどうでもいいけど、豪華夕食食いたいヤツァ来いってことでいいんかね?」

散乱する麻雀牌の中に寝転がってる、ずぼらそのものの潘璋が興味なさげに言う。

「でもさぁ、うちや文珪は子明の軍団に居たから知ってるけど…仲翔くらいの使い手なら五谿のボンクラ百や二百なんてわけないでしょ。
心配のし過ぎじゃないのぉ?」

その対面で寝転がっていた蒋欽のひと言に、そりゃそうだ、と相槌を打つ潘璋。


能天気と言うなら孫策ばかりでなく、彼女をはじめとした長湖の悪たれ連中の基本なのかも知れない。
と言うよりもむしろ、同じ孫策の側近として長湖部中興に関った彼女らからすれば、同じ側近仲間であった虞翻がどういう存在なのか、恐らくは現在の長湖部員でもっともよく知っているのは彼女らだと言ってもいい。

虞翻は務めて隠そうとはしているが、実際は長湖部員でも最強クラスの武を持っている。
公にはされていないものの、荊州攻略戦で最終的に武神・関羽を戦闘不能に追い込んだ「馬忠」の正体こそ、虞仲翔その人であることを彼女らは知っている。
確かに、呂布なき後学園最強と言われた武神を討った彼女にしてみれば、確かに周辺の不良数百人を独りで相手取る芸当は朝飯前かも知れないのだが。


「だが姉御…山越もだが、五谿もクズをかき集めれば百や二百じゃきかない…それに」

ひとり散らかった部屋を片付けていた周泰がそれに異を挟む。
孫権お手製と思しき「長湖さん」プリント入りTシャツが、彼女の持つ颯爽としたイメージを割と台無しにしている感じである。
彼女はかつて蒋欽が立てたチーム「湘南海王」でナンバーツーの座にいたが、蒋欽が卒業して実質的なチームのまとめ役になった今でも、彼女は現役時代よろしく蒋欽を「姉御」と呼んでいる。

「仲翔は確かに強い。
でも、厄介事を引き込みやすい間の悪いところがある…子敬の見立ては、大げさな話じゃないと思います。
それに…彼女にもしものことがあったら仲謀さんが悲しむ。私は、行きますよ」

立ち上がった周泰は、その表情に静かに闘志を帯びさせていた。

「確かにあの娘は口悪いけど、根はいいヤツだし…第一、幼馴染のピンチとあれば放っとく訳には行かないわ。あたしも行く」

買出しから戻った凌統も、買い込んで来た飲み物類を冷蔵庫に仕舞いながら言う。
実は彼女の家も虞家とは近所で、同じく近所の董襲ともども虞翻とは比較的親しい間柄である。

「おめーならそう言うんじゃねえかと思ってたぜ公績。
それに俺様も久しぶりにひと暴れしたいと思ってたとこだしな。これで三人だな」

色々悶着はあったが、今やよき戦友という間柄となった少女の言葉に、甘寧は嬉々として指折りする。

「うちのかあいい妹分も行く気満々か…そうだねぇ…あたしも久しぶりに暴れてみるかね。
子敬が態々あたしらまで駆り出してくるなんて、よっぽどのことでしょうしねえ」

甘寧たちの言葉に触発されるかのように、蒋欽も気だるそうな表情のままのっそりと起き上がった。

「公奕姉さんが来てくれるたぁ心強いな。
よーし…じゃあ文珪、おめーは留守番しとくか?」
「…んや、やっぱヒマだから行くー。
つか、承淵(丁奉)とか文嚮(徐盛)も呼ばない?
そんなに大事になるなら、ここの面子総出でも多分余るよ」

甘寧の問いかけに、大の字になったままの潘璋が呟く。
なんだかんだいって、潘璋も計算高いところはある。参加するとなれば、損得勘定はしっかりしてしまうのも、吝嗇(ケチ)で知られる彼女の性分なのだろう。

「じゃあ子衡(呂範)や元代(董襲)、子烈(陳武)にも電話かけてみよっか?
連中も受験勉強でだいぶストレス溜まってるみたいだから、呼べば喜ぶかもね」

凌統が携帯電話を取り出すと、潘璋ものそりと起き上がって電話に手を伸ばした。
羽飾りのついたバンダナを頭に巻きつけながら、甘寧は戸口へと向かい、残った二人に向かって告げる。

「あ〜、じゃあおめーらは来そうなヤツらに声掛けて来てくれ。
俺らは先行くから戸締りと火の元だけ頼むぜ」
「あ〜い」
「解った、なるべく早く行くからあたしらの分、残しといてよ」
「あぁ、保障はないけどな。
あ、てめえらっ! 待ちやがれぇぇ!」

言うやいなや甘寧、既に外へ出て行った蒋欽、周泰のバイクの音が聞こえると慌てて飛び出していった。





それはけたたましい音を立てて、黄昏時の沈黙を無粋な音で引き裂きながら、その数を増してゆく。

無意識に陳羣を庇う格好で立つ虞翻の前に、階段を上り、いかにもといった感じの長ラン姿の男が数名。
その先頭の男は、先程繁華街の裏路地で虞翻が叩きのめした男のひとりだった。


「探したぜお嬢ちゃんよぉ…先刻はよくもやってくれやがったなぁ」
「あんたは、さっきの」

下卑た笑いを浮かべながら、墓地を埋め尽くして少女ふたりを取り囲む男たち。


先程の男たちだけではない。
そこには、その連絡を受けてきたと思しき暴走族風の男がざっと百人弱。
麓の集り具合を見れば、最終的にはその数倍は集るだろう。


「今更何の用?
まさかこんな夕暮れに、大挙して墓参りなって風じゃなさそうね」

陳羣を背後に庇いながら、それでも虞翻は薄笑みを浮かべて男たちを見据える。

そのうちの数人は虞翻にも見覚えがあり、相手もまたその様子だ。
なぜなら、数年前に孫策達と五谿に乗り込んだとき、実際にたたきのめした中に居た顔だからだ。

「けっ、聞けば仲間をやったのは貴様だって言うじゃねぇか。
だからわざわざこうして出向いてやったんだ」
「おまえさんに恨みを持つ人間はな、山越にも五谿にもこれだけいるってことだよ」
「今日という今日は、いつもの借り…そのカラダで支払ってもらうぜぇ」

男たちのいやな笑い声が、まだまだ近づいてくる改造バイクの走行音が、茅蜩の声も風の音もどす黒く塗りつぶしていく。

虞翻の中に耐えがたい不快感が沸き、それと同時に冷や汗が流れる。
状況を冷静に分析すればするほど、ネガティブな答えしか浮かんでこない自分に、彼女は不安と苛立ちを覚えた。

(拙い…私ひとりなら何とか切り抜けられる…でも)

振り向けば背後には、この異常事態に色を失った陳羣がいる。
気丈な彼女も、流石にこの状況は堪えたと見えて押し黙ったままだ。
顔は強張って震えているが、叫ぶことは愚か恐怖の表情をも浮かべていないのは立派なものである。

しかしそんな態度ほど、かえって目の前の男たちのテンションをあげてしまう。
そして此処でヘタに暴れれば、墓を傷つけることになろう。
もし、郭家の墓に被害が出てしまえば。

(そんなことになったら、この子が悲しむ…せめて、場所は移さないと…!)

しかし、周囲を見渡しても一面の人垣。
入り口には近いとはいえ、四角い間取りの霊場の角に当たるこの場所は、囲まれた時逃げることも困難であった。

「覚悟しろや…ここでいくらわめこうが、助けなんて来ねぇんだからよ…二人合わせてたっぷり、可愛がってやるぜ」
「あんたたちの狙いは私だけだろう!?
彼女に手を出すな!!」

ベルトの後ろに留めてあった、分解された杖をすばやく引き抜いて組み上げると、彼女は青眼にそれを構える。

(え…!?)

陳羣には、目の前にいる少女からは想像もできないような、ある種のオーラのようなものが見えていたような錯覚に陥った。
彼女も幾度となく目にしたことがある、武の達人が放つような闘気…対峙したものを怯ませるほどの迫力が、今の虞翻にはあった。

しかし、不良たちは一瞬怯んだ様子を見せたものの…すぐに気を取り直してにやにや笑いを浮かべる。
数を頼みにしている自信からか、あるいは虞翻に強烈な手枷足枷が嵌っていることに気づいたのか。

「知らねぇなぁ、そんなこたぁ」
「それにテメェはその状況で、俺たちから逃げられると思ってんのか、あぁ?」

(ちっ…!)

虞翻も舌打ちせずにいれなかった。

恐らくは、両方なのであろうことを、彼女は悟った。
蛮勇を振るうだけのように見える彼らが、意外にそういうものに目敏く反応するそのことを、虞翻は呪わずにはいれなかった。

(こうなれば、いちかばちか)

虞翻もたちどころに、覚悟を決めたようだった。
後ろに小首を返し、強張ったままの表情の陳羣に告げた。

「私が余計なことをしたせいで、こんなことになっちゃったみたい…本当に、ごめん」
「仲翔、さん」

穏かな笑みだった。
突然の事態に我を失っていた陳羣も、その笑みに表情を僅かに緩めた。

「そんなこと、言っちゃだめ。
さっきも言ったでしょう? 私たちが出会ったことが悪かったような言い方、しないでって。
でも、責任はちゃんととってよ…ね?」

その言葉に苦笑する虞翻。

「解った。
何とか突破してみる…私の側を離れないで!」
「うん!」

虞翻は杖を一回転させ、青眼から脇構えに構えなおす。


「墓穴に埋められるのがいやなら…道を空けろ、ボンクラ共ッ!」


その一喝とともに、武神をも制した少女の闘気が開放された。

「け、生意気な…やっちまえ!」

怒号と共に男たちの喧嘩慣れしたごつい拳が波のように殺到する。

虞翻は片腕で杖を旋回させ、もう片腕で小さく悲鳴を上げた陳羣の腕を引く。
駆け抜けざまに数人の男たちを薙ぎ払い、進路上の障害物を踏み込みと同時に突き飛ばし、叩き伏せてゆく。

(これは…確か張遼先輩の払車剣…!)

型と獲物は違えど、彼女が放った技には陳羣にも見覚えがあった。


陳羣もまた、真偽定かならぬものを含めて、対抗する組織の主要な構成員のことは知り尽くしている自負はある。

長湖部の虞翻といえば、その優れた実務能力と交渉手腕を用いて、風紀の取り締まりや敵対勢力の調略に絶大な成果を上げており…交州校区の接収の裏には、一般生徒とさほど立場的に変わらない彼女が何らかの大きな役割を果たしていたのだろうということも、気づいている。
しかし…実際にあった人となりに大きな食い違いがあったことを認めることはもちろん、突拍子もないウワサでしかないと思われていたその事実が、真実であることを確信するに足る光景が、目の前で展開されている。


すなわち…彼女が学園最強の武神を討ち取った者であるという、その伝説が紛れもない真実であることを。


「このっ…!」
「怯むな、ヤツの片腕はふさがっているんだ、数で圧せ!」
「ち……通せって、言ってるだろうが!」

縦横無尽に杖を振るい、なおかつ周囲の墓石を壊さぬ様、虞翻は見事な杖捌きで男たちを石畳の上に沈めていった。
しかし、彼女にとって不運だったのは…その技の鮮やかさに魅せられたのが、敵ではなくて護るべき少女であったことだった。


一瞬。


ほんの一瞬、その技の美に目を奪われた陳羣が、足を止めた。
その足が、倒れて気を失った振りをしていた男の手に捕らわれる。


「あ…!」

繋いでいた手が、衝撃で解かれる。

「そら、捕まえたぞ!」
「…しまった!」

さらに背後から迫っていた男のひとりが、黒髪の少女を捕らえる。

「仲翔さんっ!」

それに気をとられたことが、勝負の明暗を分けた。
後ろを振り向いた瞬間、虞翻の背中に鈍く重い衝撃が走る。

よろめく身体を、渾身の力を足に集めて踏みとどまろうとするところへ、さらに重い蹴りが飛んでくる。
とっさに受け止めるものの、衝撃で後方へと吹き飛ばされる。

「梃子摺らせやがって…死ねっ!」
「やめてぇぇー!」

陳羣の悲鳴が木霊し、無慈悲にも気を失ったその顔へと拳が振るわれるか否かの刹那。



「死ぬのは…てめえだっ!」



「何!?」

割り込んできた影が、カウンターというにはあまりにも乱暴な拳の一撃を、男の顔面に叩き込んだ。
その影の正体は、明るい茶色の髪を散切りのショートカットにした少女。

「てめぇ! どっから湧いてでやがった!」
「待て!
おい、コイツはまさか…」
「間違いねぇ…長湖の小覇王、孫策だ!」

男たちはその、怒りの形相を浮かべる少女の桁外れな闘気に、流石に怯んだ様子を見せた。


「貴様ら…よくもあたしの親友につまらねぇことしてくれやがったな…!」


背後に倒された親友の姿を見遣り、怒りに身を震わせながら男たちを見据える孫策。


「覚悟しやがれクズ共ッ!!
ひとり残らず、ぶちのめしてやるッ!!」


かつて「小覇王」の異名をとった少女の咆哮が、真夏の夕空に木霊した。