電子音のベルが鳴り、少女は枕元の時計に手を伸ばす。
デジタル時計の表示は八時。少女はゆっくりと体を起こし、伸びをする。

のそりと布団から出て、眠たい目をこすりながら洗面台に向かい、大して乱れてもいない髪を梳かし始める…すると。

「…………………え?」

少女は何故か唖然として、洗面台の姿見に映る自身の顔を、始めて見る物のように覗き込んだ。

ややタレ目がちな、見慣れた自分の顔。
その頭には、艶のある栗色のロングヘアー。
しかし、そこにはあるべきものが存在していなかった。

「…ない?
十年以上あった…「ロバミミ」が…ない!?」

そう呟く少女…諸葛瑾は、何度も自分の頭の両サイドを触り、呆気に取られていた。



-子瑜姉さんと「ロバミミ」-



「いやゴメン、マジで気ぃつかなかった」
「別にいいんだけどね」

放課後の揚州学区のカフェテラスで、見慣れたクセ毛のない諸葛瑾と、魯粛は向かい合って座っている。

諸葛瑾にとって親友である魯粛でさえ、初めはその少女が諸葛瑾だと気付けず…見ず知らずの少女が何故自分を呼び止めるのか、小首を傾げる有様だった。
しかし流石はつきあいが長いだけあり、魯粛はすぐにその声と仕草で諸葛瑾の「正体」に気づいたのである。

「でもさ、いったいどうしたってのかねぇ…突然「ロバミミ」がなくなるなんて」

難しい顔で嘆息する魯粛。


「ロバミミ」。
それは、諸葛瑾のトレードマークといっても過言ではない、彼女の頭の左右両サイドに、普段存在するクセっ毛のことである。
その形がロバの耳のように見えることから、友人達からはその名で親しまれていた。

幼い頃、ある日突然出現したそれは、長い間彼女のコンプレックスでもあった。
どんな整髪料を使おうとも、その部分を逐一切り落としても、一日経たず元通りになってしまうのだ。

諸葛瑾もやがて諦め、かれこれ十年以上この「ロバミミ」と付き合ってきた。
何時しか、彼女もそれに愛着を持つようになり、毎日念入りに手入れしていたりもしていた。
そうなる頃には周囲も、彼女のトレードマークとして認知するようになり…絵本のロバのページでロバの写真を指して「←諸葛子瑜」などという落書きをするような大馬鹿者すら出現するほどに、親しまれる(?)ようになっていた。

余談だが、それをある打ち上げの席で孫権が彼女をからかう目的でそれをやらかし、たまたま居合わせていたもう一人の「ロバミミ」諸葛恪(言うまでもなく、諸葛瑾の四つ年が離れた妹だ)がその文末に「(諸葛子瑜)私物」と大書し、何食わぬ顔でロバの写真を切り抜いて持ち去るという一幕もあったという。


閑話休題。
魯粛の質問に、諸葛瑾は心底困ったような表情ののち、口を尖らせて反論する。

「そんなの、むしろ私が訊きたいわよ」
「心当たりは?
例えば、何か違うシャンプーか何か使ったとか」
「朝起きて、一番に鏡を見て、その時にはもう無かったのよ。
ついでに言えば、昨日使ったシャンプーもトリートメントも、何時もと同じモノだし…ドライヤーで整えようがちょん切ってしまおうがなくなるようなモノじゃない事だって、子敬も知ってるでしょ?
そもそも切ったって一日経たずに再生するのよあれ」
「そりゃあ、まぁ。
あの髪の部分、新しいSCPとして投稿しようかあたしも一瞬考えたぐらいだしな」
「どうしたらいいかなぁ。
これじゃ、誰も私だって解んないだろうし…第一落ち着かない」

諸葛瑾は本気で困っている様子だった。

誰だか解らない、というのも、そもそも魯粛にも最初解らなかったんだから、多分他の長湖部員も目の前の少女が諸葛瑾だと解る者は居ないだろう。
現にこの日、多くの幹部仲間とすれ違ったが、誰も気付かなかった。
声だけで気づいてくれたのが今のところ魯粛だけという事実もある。

何だか気の毒に思えてきた魯粛も、真剣な顔になって考えていた。
ふと、周りを見回すと、様々なヘアースタイルの少女の姿が目に飛び込んできて…。

「そうだ、子瑜。
ちょっとここで待ってて」
「え?」

魯粛は何を思い立ったのか、席を立つと、そのまま何処へとも知れず駆け出していった。





「よ〜し…こんなもんですかね。
目、開けて」
「ん…」

言われるがまま、ゆっくり目を開ける諸葛瑾。

魯粛の差し出す手鏡に映る自分の顔をのぞき込むと、そこには、両サイドの丁度「ロバミミ」があったあたりに、根元を紅いヘアゴムで結ばれた、小さなツインテールが出来ていた。

「ちょっと感じが違うけど…まぁ、見えなくはないんじゃないかと思う」

魯粛はあの時、カフェテラスの隣りにある購買へ駆け込み、ヘアゴムを買ってくると、その髪を「ロバミミ」っぽく結い上げることにしたのだ。

「う〜ん…なんか、子供っぽくない?」
「いいじゃないの。
結構似合ってるよ、子瑜」
「でもなぁ」
「何時までも気にしないの!
さ、そろそろ幹部会の時間だよ、行こっ」

様相をいつもと違えた「ロバミミモドキ」を弾いたり摘んだりしながら、尚渋った様子の諸葛瑾を引きずり、魯粛はその場を後にした。





「あはははは!
そ、それ傑作! 傑作ですよ子瑜さんっ!」
(こくこくこくこくっ)
「…………………煩い」

爆笑する歩隲と、表情を動かさないものの普段より明らかに勢いよく頷く顧雍の姿に、諸葛瑾はむすっとした表情でそっぽを向いた。
その様子を見、傍らの魯粛が「あっちゃ〜…」といわんばかりに首を振った。


案の定、幹部会で誰もそれが諸葛瑾と気付くものは居なかった。
傍にいた魯粛が逐一説明し、その都度皆同じような反応を示していた。

ほとんど表情の解らない顧雍以外は、皆笑いをこらえているのが見え見えだ。
中でも歩隲に至っては、この有様であるし…メトロノームよろしく首をタテにがくがく振る顧雍も、彼女なりの大爆笑状態なのは想像に難くない。


「え?
…えっと、可愛らしい感じでいいですね…あはは」
「あ〜、なんて言いますか、そういうのも悪くは…ないっスね、うん」

メンバーの中でも比較的気を遣ってくれる部類に入る駱統や吾粲ですら、言葉とは裏腹に必死で笑いをこらえている有様だった。
メンバーが姿をあらわすたびに諸葛瑾は不機嫌になっていくのも自然な反応と言えた。
そして…

「みんな揃った?
…って、あれ?
あなたは…えっと…どなたでしたっけ?」

孫権のその一言に、笑いをこらえていた顧雍以外の幹部会メンバーは遂に我慢の限界を迎え、どっと笑い声が上がり、たちまちの内に大爆笑になる。
慌てて魯粛が耳打ちをすると、孫権は慌てて、

「あ…え、えっと、髪型、変えたんだね?」

と取り繕おうとしたが、むしろ、それは逆効果であった。
再び、満座がどっと沸き、それが止めになった。

「……っ!」
「あ…!」
「お…おい、子瑜っ!」

諸葛瑾は立ち上がると、倒した椅子を直すこともせず会議室を飛び出していってしまった。

慌ててそれを追って孫権が飛び出していったのと、満座から一名を除いて笑いが消えたのは同時だったと言っていい。
魯粛はその唯一の音源…歩隲の頭に拳骨を一発見舞って黙らせると、会議室を飛び出していった二人の後を追いかけていった。





屋上に続く踊り場に座り込み、彼女は泣いていた。

愛着のあった「ロバミミ」がなくなったということもショックだったが、何より、孫権すら自分が誰かを理解してくれなかったことが、一番ショックだった。
荊州学区返還交渉の際、相手の参謀に自分の妹が居る、ということで随分陰口を叩かれたが、孫権はその都度「子瑜さんがボクを裏切らないのは、ボクが子瑜さんを裏切らないのと一緒だよ!」と、彼女をかばってくれていた。
それ程の信頼を寄せてくれた人が、ハプニングのためとはいえ髪形が変わってしまった自分に気づいてくれなかった…それが、悲しかった。

「あ、こんなトコにいた」
「子瑜さんっ!」

後ろから抱き付かれた感覚にはっとして振り向くと、そこには孫権の姿があった。
階下には、魯粛の姿もある。

「ごめんね、ボクが無神経すぎたよ。
何時もとちょっと感じが違ったから、からかってみようと思ったんだ…」
「……え…じゃあ…私の事」
「ちゃんと解ってたから…その髪型も、似合ってるよ、子瑜さん」

そう言って、笑って見せた孫権の目の端にも、うっすらと涙の跡があった。

「ありがとう…部長」

涙を拭うことも忘れ、諸葛瑾は孫権を強く抱きしめていた。





荊州学区・公安棟。
かつては江夏棟の名で呼ばれたそこは、帰宅部連合と長湖部の勢力範囲の境目にあたり、その二勢力の中立地帯となっていた。
魯粛は今回の事件の原因が諸葛瑾の妹・諸葛亮にあると考え、渋る彼女を無理やりに引きずってきた。

「ふむ。
まさか、こんな長い間効き目があるとは思わなかったが」
「やっぱりテメェの仕業だったのか、孔明」

呆れ顔の魯粛に、諸葛亮は「心外だ」といわんばかりの表情で溜息を吐く。

「勘違いしないで頂きたいな。
私がやったのは「ロバミミ」を作り出したこと。
おそらくお姉様の髪型が元に戻ったということは、アレが永続的なモノではなく…十年かけて効能を失ったということでしょうな」
「はぁ?」
「何ですって!?
っていうかなに使いやがったのよあんた私に!!」

諸葛亮のしれっとした一言に、二人は唖然とした。

特に諸葛瑾は、普段の穏やかな物言いは何処へやら、妹へ噛みつかんばかりの勢いでそう怒鳴りつける。
まあ、知らぬ内に何かしらの人体実験の被検体にされていたとなれば、諸葛瑾の反応も当然といえば当然のことなのだが…。

しかし諸葛亮、そんな姉の剣幕も何処吹く風、無駄に遠い目をして見せながら淡々と事情を語り始めた。

「お姉様も知っての通り、お母様の寝癖は相当に酷いでしょう。
毎朝、何十分もかけて髪を梳かすその姿を見て、幼いながらも私は心を痛めていた…そこで私は毛根に作用し、決まった髪形を維持する髪質に変える整髪料を開発したのです。
実際の効能がどれほどのものか試すため、私はある日、お姉様と元遜(諸葛恪)が寝入ったところを見計らい…」
「…………………………そう、よくわかったわ」

妙にドスの利いた声。
普段聞きなれないその少女の声に、魯粛は愚か、諸葛亮でさえ思わず息を飲んだ。

言うまでもなく、その声の主は諸葛瑾である。
諸葛瑾がゆらりと立ち上がると、その背後は怒りのオーラで景色が歪んでいる。

「お、お姉様落ち着いて…まさか私も、効果が十年も持続するなんて考えても…ひぃッ!」

その言葉か聞こえていないかのように、壁際に追い詰めた妹の襟首を、諸葛瑾は千切りとらんばかりにねじ上げた。

「し、子瑜…アンタが怒るのも解るけど、そいつ殺したらヤバい事になるから…いろんな意味で。
つかお前姉貴だけじゃなくて妹まで実験台にしたのかよ」
「………直せ」

そんな魯粛の言葉も無視し、諸葛瑾は普段より数段トーンの低い声で、妹に命令した。

「へ?
でもこれでお姉様の髪型は元通り」
「いいから、私の髪型を…私の「ロバミミ」を「普段通り」に戻せと言っているッ…!!」

何故か目深になった前髪から、殺気立った目が覗く。
その形相に恐れをなしたらしい諸葛亮は、まるで壊れた人形のようにがくがくと首を縦に振った。





かくして一週間後、その特徴的な「ロバミミ」は再び元通りになった。

一週間の間、彼女は先日のツインテールによる「ロバミミモドキ」で生活していたが、その間幹部会ではまず凄まじい目つきで入場して周囲を威圧し、笑いかけた歩隲(と顧雍)も視線を合わせることができない有様だったという。
その迫力たるや、期間内に行われた荊州関連の折衝で関羽すらも口を噤んでしまい、最終的に長沙棟の使用権を長湖部へ「返還」するという文書に調印させてしまったと言うほどだったとか、なんとか…。
そして一週間後、魯粛の結んだ「公安・柴巣ライン」による荊州学区分断の取り決めに調印した席で、彼女は完成した「整髪料」を受け取って、すぐに諸葛瑾の元へと届けた。
「今の子瑜なら様々な折衝事も巧くいきそうなのになー」とのどまで出かかっていたが、会う度にあの迫力で睨まれ続けられるというのも流石に厳しいので、そぐにその考えを月の彼方までぶん投げることにした。

魯粛立ち会いの下で無事「ロバミミ」が復活すると…諸葛瑾は憑き物が落ちたかのように、普段通りの穏やかな表情に戻った。


「いや〜、ホンッと良かったですねぇ子瑜さん。
あの髪型もキマってたのに残念ですね〜」
(こくこくっ)
「……黙れ、子山。
元歎も同意すんな」

先日の一件で一番大笑いしてた張本人の一言に、直前まで上機嫌だった諸葛瑾はむっとした顔で二人を睨んだ。

「でもやっぱり、その髪型のほうが子瑜さんらしくていいと思うよ。
よく見ると結構可愛いシルエットだし」
「それもそうですねぇ…いっそ、その根元にリボンでも結ってみます?
もっと可愛くなるかも知れないですよ」
(こくこくっ)

孫権の言葉に冗談とも本気ともつかない提案を投げてくる二人(?)。

「お前等なぁ…それより、今回は孔明のヤツも災難だったかもな」
「いいのよあのくらい、たまにはいい薬だわ」

魯粛は溜息を吐くが、まだ少しむっとした表情で諸葛瑾はそう吐き捨てる。


そうである。
何せその薬そのものが残っていなかったため、諸葛亮はかつて自分が作った試作品のレシピをほじくり返し、急遽作ることになったのだ。
材料も入手困難なものばかりらしく、その内訳が明かされることはなかったが、材料をかき集めて帰ってきた諸葛亮の白衣は見るも無残な状態で、しかも供をしたらしい趙雲たちに至ってはそれ以上の有様だったことを鑑みれば…。


「…………なんてーか、いろんな犠牲を払ったんだなぁ…その「ロバミミ」は」

孫権の言葉に再び上機嫌となった諸葛瑾の姿を眺めながら、魯粛はしみじみとそう言った。





そして、成都棟の(元)科学部部室では。

「………う〜む、まさか、また何年後かに同じ事が起こるんではなかろうな………」

姉の見慣れない形相を思い出し、思わず身震いした諸葛亮であった。

なお、諸葛姉妹の母親に実際この薬が使われたか否か、定かではない。
警察署長である彼女は庁舎に出仕する際、結局梳かしきれないぼさぼさ頭であることがほとんどだったが…実際に使用されなかったのか、はたまた薬が効かなかったのかを知る術は、何処にもないのだから。



(終劇)