揚州学区・呉郡学生寮、その陸遜の部屋。
その扉が乱暴に開け放たれると、必死の形相をした二人の少女が転がり込む。
そしてまた、乱暴に扉が閉じた。
一人は、緑なす黒髪をショートボブに切り揃えた少女-長湖部実働部隊の総括責任者・陸遜。
もう一人は、その頭の両サイドに、何かの耳のように跳ねたクセ毛があるロングヘアの少女。
今年卒業を控え、推薦での進学も決定したものの、来年も特別顧問として残留が確定している諸葛瑾だ。
「こ、ここまで来れば一安心ですね、子瑜先輩…っ」
「え、ええ…ようやく、逃げ切ったわね」
息も絶え絶えの二人は暗がりの中でお互いの顔を見合わせると、必死の形相を崩さぬままで呟いた。
髪を振り乱し、衣服すらもが大分乱れており、その様子からも彼女達がどんな目に遭ったかをよく物語っている。
…
正月の松の内も大分過ぎた1月18日に存在する学園休校日、この日に行われた体験入部イベントもそこそこの成功を見せた。
さらに次の日も特別休校ということで、ここのところ平穏そのものだった長湖部でも、その夜に新年会を兼ねた打ち上げを行うことになっていた。
昨年は帰宅部連合との悶着でそれどころではなく、さらに孫権が公孫淵の裏切り行為に相当なストレスを溜めている事を考慮し、少々羽目を外すくらいは…というのが、発案者・陸遜の弁だった。
しかし特別に招いた、卒業を控えた魯粛や甘寧らのリタイア組参加希望者のリクエストに応え、酒の類を持ち込むことを容認したのが間違いの始まりだった。
案の定、先ず孫権が暴走した。
そもそも「酒乱の気がある」と定評があるのに、公孫淵の一件から来た鬱憤に加え、いつも宴席を支配していたシャンパンが、よりアルコール度数の高いチューハイや日本酒に替わっていたことで、テンションの上がりようが半端でなくなっていた。
普段なら止める筈の張昭が(数日前にようやく「正式に」部の運営から手を引いていたことから)不在で、挙句に孫権暴走時最後にストッパーとなってくれるはずの谷利が、よりにもよってこちらも家の都合から学園を離れることとなって、彼女との別れを惜しむ孫権と一緒になって呑んでいたのも災いした。
しかも悪いことに、これまで一滴もアルコールを口にしたことがない凌統が、特待生として大学進学が決まったことに気をよくして大杯を干し…正確には、甘寧と魯粛が面白がって凌統の口に一升瓶を突っ込んだのだが…とにかくこれで酒乱の本性を顕した凌統が大暴れを始めたのが狂乱に拍車をかけた。
甘寧の暴走を止められる呂蒙が、センター試験の為に学園を離れていたのは不運だったとしか言いようがない。
その狂気ぶりは、文科系幹部の中でも武闘派に近い敢沢はもとより、普段大人しい孫登や孫和すら、酔った勢いで陸遜にへばりついてくる有様だった事からも窺えよう。
特に孫登に至っては、普段の病弱ぶりを忘れたかのように「プチ孫権」と化す傍若無人ぶりを発揮し出す始末だ。
陸遜をはじめまったりムードで打ち上げを楽しんでいた者たちのところへ、孫権姉妹(正確には従姉妹同士だが、この際些細なことだろう)を筆頭とした酒乱共がなだれ込んできたことで、程なくして会場は阿鼻叫喚のサバトと化した。
その狼藉っぷりに恐怖した何人かが会場を次々に飛び出していくと、夜の帳の落ちた建業棟周辺で、酔いどれ天使と哀れな小羊達による鬼ごっこが展開されたのだ。
冗談抜きで操を奪われそうになったすんでのところで二人は何とか脱出し、会場からそう遠くない呉郡寮へ逃げ延びた…それが、冒頭までの顛末となる。
…
「とにかく…」
「…ええ」
「「助かったぁ…」」
安全を確認した二人は同時に、まるで糸が切れた人形の如くその場にへたり込んでしまった。
-長湖新春戦争-
所変わって、会場のすぐ傍の物陰に、二人の少女が隠れている。
一人は艶やかな黒髪を三つ編みに結った、気の強そうな少女。縁無しの眼鏡が、妙にはまっている。
もう一人は、亜麻色髪をセミロングにした小柄の少女。白のリボンをヘアバンドのように結っており、それが暗がりでは妙に目立って見える。
「…どうしよう~…はぐれちゃったよぅ…」
「しっ! 情けない声出さないの。
つーか敬文、そのリボン目立つから、外しときなさい」
「うぐぅ…うん…」
敬文こと、長湖部次期部長後見補佐を務める薛綜は、震える手で結ったリボンを外し、ポケットに仕舞いこんだ。
もう一人、眼鏡の少女は長湖部風紀委員長の厳畯、字を曼才。
こういう宴会事だからこそ、会場に居なければならない彼女達が、何故会場から遁走し隠れているのか…理由は陸遜達と何ら変わることはなかった。
「仲翔さんが居なかったらどうなってたか解らないわね…まぁ、あのヒトもどうなったことやら」
しみじみと呟く厳畯。
この年度頭の宴会で、仲翔こと会稽の虞翻は孫権の逆鱗に触れて交州学区に左遷されていたのだが、今日は卒業間際という事で特別に交州から呼び戻されていた(実際、孫権や一部メンバーとの仲は周囲がよく知らなかっただけで、風評とは正反対だったのだが)。
そう言う経緯からか、この日の虞翻は陸遜や厳畯達に混じっていた。
直截な物言いも影を潜め、これまで彼女を快く思っていなかった者達とも、この日はかなり打ち解けていたようである。
孫権その他が暴走を始め、混乱を極めた時に逃げる連中の殿軍を買って出たのも虞翻だった。
かつて、課外活動で孫策を窮地から救った杖術の腕を活かし、群がる酔いどれ天使達を捌く虞翻の姿を思い返し、薛綜の目に涙が溢れる。
「うぅ…仲翔さぁん…」
「泣かないの敬文!
仲翔さんの犠牲を無駄にしないため、絶対に呉郡寮まで逃げましょう、ね?」
泣きべそをかく薛綜を叱咤し、厳畯は無理やりにその手を引いて立たせた。
「…ぐすっ…今日一緒に居ても…」
「あたしもこんな日に正直、一人は御免よ。
朝になればあいつらも正気に戻るはず…それまでは、なるべく一人でいない方がよさそうだしね。
寮に戻れば、先に逃げ遂せた誰かがいるかも知れないから…そこにお邪魔させてもらおうかね」
その提案に、涙を拭いながら頷く薛綜。
彼女を勇気づけるように頷いてみせると、厳畯はそーっと暗がりから顔を出し、辺りの様子を窺い始める。
そこには寒々とした、ただ転々と街灯の灯りが見える、静寂に包まれた冬の夜道が広がっているだけ…そのように見えた。
厳畯は生唾を飲み込み、相方に振り返る事なく、神妙な表情のまま告げる。
「よし…合図したらここを出て全力で呉郡寮まで走るわよ…いい?」
「うん…」
「…いち、にの…」
厳畯のカウントダウンとともに、息を飲む薛綜。
共に運動神経に自信があるわけでもない。だが、ここまで自分自身でも信じられないほどの逃げ足を発揮してここまで逃げ果せたのだ。
己のカジバヂカラを信じる以外無い…そう言い聞かせ、覚悟を決めて構えた。
「さんッ!」
合図と共に飛び出した…のは、二人だけではなかった。
「残念―――ッ!」
「うそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!?」
視認出来ない両サイドの死角、そこから三つの影が実にいいタイミングで飛び出し、二人に折り重なるように飛びついたのだ。
瞬く間もあればこそ、二人は強烈なタックルを喰らって地面に組み伏せられてしまった。
「ふっふっふー! この朱桓様から逃れようなんざ百年早ぇんじゃい!」
「流石は休穆ぅ良い読みしてるわねぇ~♪」
「姿隠して声隠さず~甘いぜぇお二人さんよぅ」
一瞬遅れて厳畯は、飛び出してきた野獣共の正体を悟り愕然とする。
その声は紛れもなく朱桓と朱然、そして全琮のもの…事もあろうに、現長湖部においても剛力無双として知られる猛将に、若手でありながら軍略機略において並ぶ者ない名将がトリオという、絶対に敵に回したくない相手。いつか対蒼天会の学園無双で、戦略上の行き違いがあって大喧嘩していたはずの朱桓と全琮だったが、どうやらこの
どうしようもない絶望と己の運命を呪い、厳畯は呻くように恨みの声を夜空に放つ。
「ちっくしょー! やっとここまで逃げてきたってのにー!!」
「うぐぅぅ~!」
悔しそうにうめく厳畯、その下で苦しそうにもがく薛綜。
元々運動神経に自信のあるわけではない彼女たちが、酔いどれているとはいえ剛力の朱桓、剣術の達人である全琮と朱然に組み伏せられたら脱出はほぼ不可能だった。
すっかり観念した少女二人に折り重なった三人はというと…。
「んで、分け前どうするぅ?」
「あたいはどっちでもいいよ~? 休穆は?」
「う~ん…じゃあうち等は敬文もらいっ! いいよな義封?」
「おーけーおーけー。じゃあ子黄は曼才持ってってね♪」
「有難き幸せ~」
分け前の交渉は意外にあっさりと済んだ。
だからと言って、哀れ囚われの身になった二人の運命は基本的に救いがないことに変わらなかった。
…
寮の外からがやがやと声が聞こえていた。
追っ手が誰かまでは解らないが、それが未だに諦めていないことを知った陸遜は、念には念を入れて机上の小さなスタンドすらも付けず、挙句にベランダの窓にバリケードまで築いた上で、カーテンのわずかな隙間から外を伺う。
息を殺して、部屋主から借りた毛布を頭からすっぽり被っている諸葛瑾も、同じようにして外を伺うも、数人の影が目の前の路地を行き過ぎていったことを確認し、こちらに気づかれていないだろう事を確認した上で再び部屋の中央に戻る。
光が漏れない程度に、自身も頭からもう一枚の毛布を被った陸遜の手にも、それと向かい合う諸葛瑾の手にも、秋の学園祭イベントで使われた小さなペンライトが握られている。
彼女の寮部屋の扉にも、鍵をかけた上で厳重にバリケードが築かれているという厳戒態勢だ。
「これでひとまずは安心ね…ちょっと暗いのが難点だけど」
「ええ。
でも、スタンドの光も結構目立ちますから」
「でも、本当にいいの? お邪魔させてもらって」
「はい。
むしろ朝までいてください…今日ばっかりは、一人は嫌です…」
自分が貸したシャツの袖を引っ張って、泣きそうな顔で見つめてくる陸遜。
しかたないなぁ、と呟きながらも、諸葛瑾もそれに関しては同意見だった。
そのとき、ドアをノックする音がした。
二人はぎょっとして顔を見合わせると…ドアの隙間からうめくような声。
「は、伯言…いたら助けてくれえぇぇぇ!」
「御願いぃ~!!」
小声ながらも必死そのものの、聞き間違えようもないその声にはっとして布団を跳ね除け慌ててドアを開けると、二人の少女がなだれ込んだ。
間髪いれないタイミングですぐに扉が閉ざされ、再びバリケードの小机で扉を塞ぐと…陸遜はペンライトを翳して二人の亡命者の顔を確かめる。
赤みがかったショートカットの少女は吾粲、飴色の髪をポニーテールに結っているのは朱拠。いずれも必死さと恐怖が綯い交ぜになった、普段この二人からは考えられないような表情をしている。
「孔休、子範!
よく無事だったわね」
「し、死ぬかと思ったわ畜生っ…!!」
そう言ってへたり込んだ吾粲だが、その姿は酷いものだった。
そもそも二人とも靴など履いておらず、それどころか吾粲はこの寒空の中にもかかわらず、上着というか長袖体操服の上を着ていない。
一体どれだけの勢いで走ってきたのか、まるで直前まで息をすることすら忘れていたかのように荒く呼吸し、時々嘔吐くかのように咳き込んでいる。
更に見れば、同じように荒く息をしつつ怯えきった表情で、こちらの様子を伺う朱拠に至ってはスカートすらも履いておらず、厚手のストッキングもボロボロだ。
恥も外聞も捨て、まさに命からがら逃げてきた…それを経書の百万遍など軽々一蹴するかのように体現している二人へ、陸遜はしみじみと言った。
「どうしたの、とは訊かないわよ…解ってるから」
「しゃ、洒落にならんぞアレは…何で女の子同士で操を狙われにゃならないんだか」
「あ~ん…怖かったよぅ~」
「それにしても、よく逃げ切れたわねあなた達」
いつのも気丈さは何処へやら、泣きついてきた朱拠を宥めつつ、諸葛瑾は当然の疑問を投げかける。
「仲翔さんが血路を開いてくれたからぎりぎり逃げて来れたんだけど…敬文とか曼才とか、どうなったのかな…徳潤(敢沢)の野郎も相当呑んでたみたいだし。
つか徳潤の野郎マジでなんなんだ、酒入って人格豹変するだけじゃ飽き足らず、仲翔さんと互角以上にやり合うとかマジで聞いてねえぞ…!」
ようやく息が落ち着いてきたのだろうが、それでも吾粲が何か恐ろしい怪物にでも出会ったかのような表情を崩さず、あらましを語る。
吾粲は、ある理由から虞翻がどれほどヤバいレベルの戦闘能力を持っているかを知っていた数少ない現幹部の一人だ。
「ええ…いや、まあ、実際観てきたあなた達の言葉じゃそれ疑う余地ないけど…うーんごめんね仲翔」
流石にこの中では虞翻との付き合いが長いほうになる諸葛瑾、結果的に彼女を見捨てて先に逃げてきた後ろめたさなのか苦笑しながら、今此処に居ない友へ謝辞を述べる。
同時に、普段は運動神経のからっきしな敢沢も、酔った勢いで何かのタガが外れたのか、虞翻の動きを止めたというから相当なものである。自分たちと同じ文科系幹部でありながら、自分たちのような「狩られる側」ではなく「狩る側」に回っている事実に、諸葛瑾だけでなく陸遜も苦笑しつつ口の端が引きつっている。
そして「虞翻の武力」のヤバさに関しては陸遜や諸葛瑾も知らないわけではない。そんな虞翻を(決して本気ではなかっただろうと信じたいが)制した相手に捕まれば無事では済まないだろう。
「そういや子山(歩隲)は?
曼才達ならいざ知らず、アイツがヘマするとは思えんが」
「うぅ…知らないよぅ…何時の間にか元歎(顧雍)と一緒にいなくなってたじゃん」
「見てないのね…公績先輩が興覇先輩に羽交い絞めにされてたくらいの頃に、二人して裏口からこっそり出て行くの」
陸遜は、トイレから戻ってくるところでこの惨状に気づき、部屋には入らずこそこそと逃げる歩隲と顧雍の姿を目の端で捉えていた。
その時には自分も孫登達の襲撃を受けていたのでそれどころではなかったわけだが。
「嘘ッ、そんな早く逃げてたのぉ!?
ずるいよぅあの二人ぃ!!」
事実を知った朱拠が非難の声をあげる。
だが、言葉に出さずとも陸遜、諸葛瑾のみならず、吾粲もいち早く逃げた二人の気持ちも解らなくはないといった風に苦笑を隠せない。
この場合は要領の悪かった自分達を責めるべきだろう。
「元歎が一緒なら、先ず捕まってるとは思えないわね。
恐らく、時間もあったろうから寮には帰らず元歎の家にでも逃げたんでしょうね」
しみじみと呟く諸葛瑾。
「だよなあ。
で、悪いんだが」
「ぐすっ…
「大歓迎よ。
情けない話だけど、私も怖くて」
何時の間にか掛け布団を被りなおして、自分のスウェットの換えを差し出してくる陸遜の姿に、二人の顔がようやく安堵の表情に変わった。
…
一方その頃、武昌棟の多目的室…すなわち今回の狂宴の発生地点。
逃げた連中を追っかけて、甘寧や凌統、徐盛に周泰といった猛者たちは方々へ散らばり、数人しか残っていないのですっかり静かになった宴会場は、それでもまだプチハチャメチャ状態を継続していた。
「くそぉぉ、捕まってたまるモンですかぁ!」
柔かそうな黒髪をショートカットにした、ややキツめの顔に黒縁眼鏡をかけた少女が部屋の小窓から脱出しようと釣り下がっている。
その形相は、必死そのもの。
少女の名は潘濬、字を承明という。
かつては荊州学区で関羽の信任を得、後方の守備を任されていたのだが、張湖部の荊州攻略の際、力及ばず軍門に屈した少女だ。
彼女は帰宅部連合に対する信義を貫こうとし、部屋に閉じこもっていたが、孫権自らが彼女を諭し、以来幹部として厚遇されていた。
同じ直言の士であっても、張昭のようにやり込めてくるタイプではなく、親友がそうするように真摯な姿勢で諭してくれるスタンスが気に入られ、孫権の信任は非常に厚い。
だが、あくまでそれは孫権が素面であった時の話に過ぎない。
酔った孫権にしてみれば、そんな潘濬とて所詮は「お気に入りの玩具」のひとつでしかないのだ。
それはさておき。
彼女は最初の大脱走の際、機転を利かせて外に飛び出すと見せかけ、階上のトイレに隠れていた。
しかし、騒ぎがひと段落した頃を見計らいトイレから出たところで、徘徊していた孫権とばったり出くわしたのが運の尽き。
陸遜という玩具を見失ってヒマを持て余していた孫登・孫和姉妹を交えた壮絶な鬼ごっこの末、彼女は宴会場に戻ってくる羽目になったのだ。
元々、運動神経は悪い方ではなかったが、虞翻のような戦闘能力があるわけでも、荒事慣れしていたわけでもない。
そんな虞翻ですら、酔っているだけの同朋を傷つけまいと相当手を抜いていたとはいえ、隙を突かれて敢沢に捕獲されてしまったのだ。
ある意味では、そうした技能を持たない彼女がここまで抵抗しているのもある意味では敢闘賞ものだ。
「う~、逃がさないのらぁ~承明ぃ~」
「わぁぁ! そんなところに手をかけないで下さい部長~!」
「お~、いいよいいよぅ、もっとやれ~♪」
「おねぇちゃんがんばれ~」
「もう少し~」
潘濬は、そのスカートの根元を孫権に捕まれ悲鳴をあげた。
それを見て、座の中央で敢沢と孫登・孫和姉妹が無責任に声援を送る。援軍の期待できない状況に、潘濬は泣きたくなった。
部屋の隅のほうでは、座った目をした朱桓と朱然が、制服の半袖にブルマというマニアックな格好をさせられ、泣きべそをかいている薛綜に酌をさせ、時折抱きついては慰み者にしている。
孫権が最初に座っていた辺りでは、散々弄ばれた後なのだろう、下着姿で突っ伏している厳畯と、弄んだ張本人の全琮が、酔いつぶれて倒れている。
その近くには、普段孫権の後ろにくっついている谷利が、手酌で何かぶつぶつ言いながら痛飲している。
部屋の中央には、頭から酒を浴びせられ、衣服を乱され酔いつぶされた虞翻の姿がある。
どれも一瞬後の自分をみているような気がして、潘濬の顔が蒼白になった。
もっとも、あがいたところでその末路をたどる時間がわずかに先延ばしになる程度でしかないなどということは、そろそろテンパり始めている潘濬に理解できたかどうかは疑問だが。
「むぅぅ~しぶといなぁ~…えいっ!」
「え?」
次の瞬間、孫権は潘濬のスカートの根元を掴んだまま、勢いをつけてぶら下がた。
スカートに限らず、この学園の制服は課外活動に伴う戦闘行為のために相当丈夫な生地を使っているはずだが、偶然ホックの辺りに手をかけていたからたまらない。
勢いでホックが外れ、スカートがずり下ろされ…。
「―――――――っ!」
その惨劇に、潘濬は声にならない悲鳴をあげた。
その顔が、恥ずかしさのあまり瞬間沸騰する。
間の悪いことに、彼女は下着の上にはスカート以外に何も身に付けていなかった。
普段堅物振りを発揮して、お洒落にも気を使わないと思われた彼女らしく、シンプルなストライプの下着が姿をあらわす。
その目の前で露になった下着を隠そうと手を放してしまった潘濬と、未だにそのスカートから手を放そうとしない孫権は一緒に崩れ落ちた。
反射的にそうしてしまったとはいえ、哀れにもこれが彼女の運命を決定づけてしまったと言っていい。
「むぅ…白地に青の縞パンか…やるな承明」
なにが「やるな」なのか知らないが、しみじみと呟く敢沢。
頭から落っこちた潘濬は、痛む頭をさすってなおも逃れようともがく…が、既に彼女の上にはマウント・ポジションをキープした孫権がいた。
口元はこれ以上ないくらい妖しく歪み、手の動きが否応なく恐怖をかきたてる。
潘濬は涙目で、必死になって逃げようとするが、竦んだ身体に上手く力が入らない。
「あ…あ…」
「つ~かまえたぁ…たぁっぷりかあいがったげるから覚悟しろ承明ぃ~」
そして建業棟に、哀れなる潘濬の悲鳴が木霊した。
…
「開けろおらぁ! 居るのはわぁってんらお~!」
「逃亡者はお持ち帰りらぁ~
鉄製の扉を執拗に蹴り続ける激しい音と、酔った魯粛と甘寧の声がする。
蹴っているのは恐らく甘寧であろう。
慌てた陸遜達は、下駄箱やテーブルでバリケードを固めて抵抗した。
「な、何、なんで? 何で居るのがバレたのよっ!?」
「そんなの知らないよっ!」
小声でやり取りする朱拠と吾粲。
「まさか…!」
築かれたバリケードの上から、可愛らしいカエル柄の散りばめられたパジャマに着替えた陸遜が小窓から外の様子を伺った。
そこには、制服のスカートと体操服の上着をそれぞれの手に握り締めながら…物凄い形相で蹴りを入れてくる甘寧の姿が見えた。
「やっぱり…二人の匂いを嗅ぎつけたんだ」
「んな馬鹿な! 犬じゃあるまいしそんなこと」
当然の物言いをする吾粲。
しかし、陸遜は真顔で答える。
「承淵から聞いたことがあるの。
興覇先輩って、匂いだけでどんな料理を作っているのかは愚か、材料まで完璧に言い当てるって。
私も最初は信じられなかったけど…そんな嗅覚なら、人の匂いを嗅ぎ分けるくらい出来るかも」
「うそ…でしょ?」
その言葉に顔面蒼白になる朱拠。
陸遜が授業で使っている竹刀を持ち出してきた諸葛瑾も姿をみせる。
「開けたら一巻の終わりよ…私、窓のほう見てくる。
ここ三階だから多分大丈夫かもしれないけど…」
「いえ…酔ってるあの人たちに常識なんて通用しません!
私も行きます! 孔休、子範、此処は任せた!」
必死の形相で、かつ強い語調の小声で、陸遜が指示を飛ばす。
「ちょ…ここあたしたちで何とかしろとか無茶だろー!!」
「いくらあの先輩でも、寮のドアをぶち破った前科はないわ!
つっかえにした物なんて壊れてもいいから、兎に角死ぬ気で踏ん張りなさい!!」
その言葉に観念する暇があったかどうか…二人はバリケードを背に、柱に足を突っ張ってなんとかその衝撃をこらえるしかできなかった。
だが、無慈悲にもそうやって二人へ扉の防備を押しつけなければならないのっぴきならない事態が、同時進行で起こっていたのだ。
二人がベランダのほうへ行くと、なにやら声がする。
ギョッとして駆け寄れば、その声の主が潘璋と凌統であることに気がついた。
こちらも鍵をかけているベランダの戸がガタガタと乱雑な音を立てる。
「公績ぃ、石かなんか持ってない~?
こりゃ割るっきゃないっしょ~?」
「そだね~ってんなモン持ってるかっつーの!」
「だったら部屋から何かもってくりゃいいじゃん?じゃん?」
「や~よ、つかガラスなんて割ったら後々めんどいし~」
そんな物騒な会話に、二人は息を飲んで顔を見合わせる。
「ううっ…確かこの隣って、義封の部屋よね。
確かにこの寮の間取りならベランダ伝いで来れるけど、あのバカまさか二人に鍵渡しやがったの…」
「というかあの二人まで来てるなんて予想外だったわ…まさか私達狙いだったなんて」
歯がみする陸遜と諸葛瑾。
窓の外の二人は上機嫌に叫ぶばかりで、今のところ入ってくる様子はない。
何か言っては二人でげたげたと笑っているが、それは中に立てこもる少女達の背筋を凍らせるには十分すぎる内容だった。
しばらく考え込んでいたが、陸遜が意を決したように立ち上がった。
「こうなったら先制攻撃あるのみ!」
「え、ちょっと伯言!?」
諸葛瑾から竹刀を奪い取り、陸遜はバリケードを蹴散らすとベランダの扉を開け放って外に踊り出る。
「お~? 伯言みーっけ…」
「先輩、御免なさいっ!
せやああああああああああああっ!!」
それに気を取られた潘璋と凌統の一瞬の隙をつき、ベランダの手摺を使って宙に舞った彼女は正確に二人の脳天を打ち据えた。
パジャマの上着の裾を鮮やかに翻して着地すると、凌統と潘璋は折り重なるようにして倒れた。
この年度に入って、部下として宛がわれた丁奉に感化され、陸遜も剣術道場に通うようになったのだが、その成果がきっちり現れたらしい。
一瞬の出来事にぽかんとする諸葛瑾が、感心したように呟く。
「……お見事」
「感心してないで下さい…とにかく、のびてるうちに動きを封じましょう」
「え…ええ、そうね」
気を失った二人を運び込むと、タオルを持ち出してきて、なれた手つきで手かせ足かせにしていく。
その上で毛布をかけてやると、気を失っていた二人は何時の間にか寝息をたて始めた。
その様子をみると、陸遜と諸葛瑾もほっと一息ついた。
その決着がつく頃には、玄関のほうも静かになっていた。
朱拠が恐る恐る小窓を除くと、どうも酔い潰れたらしく、外の二人は抱き合うようにして大いびきをかいていた。
吾粲と顔を見合わせて安全を確認すると、二人はその場に力なく崩れ落ちた。
嵐は、去ったのである。
…
その翌日のこと。
「昨日はすいませんでした先輩…この通りです」
「いや、それはむしろあたしたちの台詞だ…本当にごめん伯言」
「ごめんなさいぃ~平にご容赦をぉぉ~」
陸遜の部屋では、一晩寝て正気を取り戻した凌統と潘璋、そしてその二人をのばした陸遜がお互いに土下座している珍光景が展開されている。
そこには明け方、それぞれ衣服を取り返し、それに着替えた朱拠と吾粲、そして明け方自分の部屋に戻って私服に着替えてきた諸葛瑾の姿もある。
皆、陸遜が用意した朝食代わりのインスタントスープを啜っていた。
そして甘寧と魯粛はというと、朱然の部屋に放り込まれ、未だ高いびきをかいている。
一通り平謝りしあうと、沈んだ表情で頭を抱える陸遜。
「今回の件…学園管理部にどうやって説明しよう…」
「ってか…バレたらむしろヤバいのあたしら卒業生とリタイア組だから…握りつぶしてもらえると助かるかな」
「善処します」
潘璋のひとことに陸遜も苦笑する。
「てか、あたしらがこの有様だったんじゃ…部長はどうなったろうな」
「他の子達も心配だし…早めに見に行ったほうがいいかも」
「そうだな。
興覇と子敬はどうする?」
「義封にゃ悪いが、あのまま寝せとけばいいよ。
子敬はともかく、あんたたち子明抜きで興覇を無理やり起こせる自信、ある?」
潘璋の言葉にお互いの顔を見合わせ、頷いた一同、衣装を調えると会場へと駆け出していった。
…
その頃、会場のど真ん中で目を覚ました孫権は大きく伸びをした。
「ふぁ…あれ、ボクどうしてこんなトコで…ええええ!? 何これぇえええええええええええ!?」
次の瞬間絶叫する孫権。
見渡せば、周りは目も当てられぬ惨状の光景が広がっている。
そこいらじゅうに転がった一升瓶とチューハイの缶、そして散乱した紙コップ。
少し離れたところで、大の字で寝ている敢沢と、その腕を枕代わりに、抱き寄って寝ている孫登と孫和。
その隣りに、ずぶ濡れになって死んだように寝ている、服を乱されたままの虞翻。
己の傍らには、あられもない姿の厳畯と潘濬が、憔悴しきった顔で寝ている。
主賓席には、未だ目を覚まさずぶっ倒れたままの全琮。
誰がやったのか、これもあられもない姿だ。
窓際に、日差しを浴びながら突っ伏して寝ている谷利。
手には、一升瓶が握られているが、何故か彼女だけは服装が乱されていない。
部屋の隅では、泣き疲れて眠っている薛綜を抱き寄せながら、幸せそうな顔で眠っている朱桓と朱然。
整然と並べられていたテーブルも、あるいは倒され、あるいは酔った誰かがやったのか、積み上げられたり無意味に並べられたりしている。
何人かが居ないのは、恐らく途中で逃げたか、あるいは会場の外で大暴れしたことは、窓の外、路上で大の字になっている周泰と、花壇に頭から突っ込んでいる徐盛を見れば予想がつくことだった。
最初から一緒に飲んでいた筈の賀斉、呂岱、周魴、太史享らの姿がないのも、会場外に飛び出していったからだろう。
「…何が…いったい何が…」
あまりの惨状に呆然とする孫権。
よくみれば、自分も上着を肌蹴させていると言う、みっともない格好をしていた。
慌ててそれを直すと、スカートの下には何も身に付けていないことに気がついた。
慌てて辺りを見渡すが、その下に身につけていたと思しきものは、何処にも落ちていなかった。
「…嘘でしょ…? どこいったんだろ…」
「うぃーっす、起きてるぶちょ…うっ!」
呆然と立ちつくした孫権の姿を見た吾粲、その光景に思わず絶句した。
そう、その孫権の頭には…その姿に、駆け込んできた陸遜達も噴出しそうになる。
「な、なに? みんなどうしたの?」
「ぶ…部長、頭、あなたの頭の上…っ」
「へ…?」
必死に笑いをこらえる陸遜が指差し、孫権が恐る恐る頭に触れると…
そこには、彼女が探していた例のものが被せられている。
その正体に気付いた瞬間、顔面蒼白になる孫権。
「やあぁぁぁ―――――! みんな見ちゃ駄目ぇぇーッ!」
恥ずかしさのあまり、可哀想なくらい顔を真っ赤に染め上げ、孫権が部屋から飛び出していった。
一拍置いて、少女達の笑い声が会場跡に弾けた。
…
このあと孫権はしばらく、気まず過ぎて居合わせた陸遜達とはしばらく口も利けず、潘濬達も、それぞれの畏怖の対象となった人物たちをそれとなく避け、近づかなかったらしい。
そして真冬の路上で高いびきをかいていた周泰たちも、大方の予想通り風邪を引いて寝込んだとのことだった。
酒をかぶってびしょ濡れのままだった虞翻も、その例に漏れることはなかった。
更に朱然もこの一件で部屋の鍵を紛失する羽目になり、しばらく陸遜に土下座しつつ彼女の部屋から自分の部屋へ出入りすることを余儀なくされたという。
当然ながら、孫権の頭に彼女の下着を被せた犯人も不明である。
この事件は学園史に載る事こそなかったが(当たり前か)、それでも当時の長湖部員の間では長く語り草になったという。
当事者・孫権にとってはかなりのトラウマになったようで、以降孫権卒業までこうしたイベントは自粛されるようになったという。
(終劇)