「左回廊、弾幕薄いよ! 何やってんの!」

トランシーバーを左手に、蒼天学園公認のモデルガンを右手に、長身の少女が檄を飛ばす。
小さなお下げを作った黒髪を振り乱しながら、窓の外へモデルガンを乱射しつつ指示を飛ばすその少女の名は留略という。
長湖水泳部の現部長・留賛の妹である。

長湖部次期部長選抜に伴う内輪もめ…後に「二宮の変」と呼ばれる事件を経て、孫権が引退した直後の混乱を突いた蒼天会の大侵攻作戦が実行に移された。
それを、前線基地である東興棟で留略と、先に引退した全jの妹・全端がその猛攻を食い止めている状態だった。


世に言う「官渡公園決戦」以降、これまで多種多様な形式で執り行われた「戦略活動」も、個々の勢力が巨大化するにつれてその形式は「軍団を率いての直截的な意味の合戦」が主流になっている。
しかし、こうした大合戦においては、部隊を率いる主将や、総指揮を採る大将の将器もさることながら、物量と武器の質により優劣が決することも多々あるのが常識。
数だけでなく、その形式では戦闘経験も武器の質も勝る蒼天会にとって、「学園無双」と呼ばれるこの擬似合戦形式は有利であったが、それでも留略達は地の利を活かしてぎりぎりで食い止めていた。


「主将! 向こうのほうが火力も上です! もう保ちませんよぅ!」
「泣き言なんて聞きたかないね! なんとかおしッ!」

隣りの少女の泣きそうな叫び声に叱咤を返し、空いた手にモデルガンをもう一丁構えた留略はそれも眼下の敵軍に打ち込んでいく。
相手の幾人かの額や胸に、特性の弾丸が炸裂した染料をつける(脱落者=戦死者となるルール)ものの、寄せ手は怯むことなく校舎の壁に取りつこうと次から次へと押し寄せてくる。

その有様に短く舌打ちする留略。留略とて不安でないわけではない。
何しろ、ここを取り囲んでいる大軍とて、相手の先手に過ぎないのだ。
その背後には、名将で知られる諸葛誕の率いる第二陣が控えている。
同時に江陵棟も王昶を総大将とする軍の大攻勢を受けており、近隣からの応援は期待できそうにない。

援軍として進発した長湖副部長・諸葛恪や水泳部副部長・丁奉らの到着が遅れたら…陥落は免れないだろう。
東興が突破されれば、長湖部本部がある武昌棟まで一気に詰めよられてしまう。それだけは何としても避けなければならない。

「皆ッ、元遜さん達が来るまでの辛抱だ! ここが踏ん張り所だよっ!」

最悪のシナリオを頭から振り払うかのように、留略は叫んだ。
だが、不利な戦線を懸命に守り抜こうとする少女達への激励は…何よりもむしろ、挫けそうな自分に対する叱咤のようにも聞こえていたに違いない。

(正明姉さん…承淵…御願いだから早く来てぇ〜!)

それが偽らざる、今の留略の本心である。



-東興冬の陣-



そのころ長湖部本拠・武昌棟では。

「奇襲をかけろ、と?」
「ええ」

出陣を目前にして、狐色の髪をポニーテールに結った小柄な少女は、長湖部の最高実力者であるクセ毛の少女…諸葛恪に、臆面も無く告げた。

「確かにあなたの威名は、蒼天会にもよく知られています。
王昶、胡遵らの輩はあなたに及ばず、あなたの親戚の諸葛誕さんも、才覚としてはあなたに一歩譲るところがあり、良く対抗できるものはいないでしょう」

少女の言葉に、諸葛恪は思わず顔を綻ばせた。


諸葛恪というこの少女、確かに智謀機略に優れ、長湖部にも右に出るものが無いほどの天才である。
しかし、やや性格に難があり、大雑把な性格の癖に自信過剰で不遜な一面がある。
姉の諸葛瑾、諸葛亮ばかりでなく、陸遜もこの欠点を指摘しているのだが…当人はその才を孫権に持て囃されたことで有頂天を極めており、ロクに忠告を聞いた例がない。


少女は諸葛恪の手前そう言ったものの、実際は王昶、胡遵、諸葛誕といった輩は現蒼天会の中でも屈指の名将。
どちらかと言えばエリート路線を歩き、実務や対外戦略の経験にきわめて乏しい(しかもその少ない実務経験ですら当人の性格が災いしてまともな結果を出していない)諸葛恪が対抗できるか実際怪しいところである。
ましてそれが大軍を率いてやって来ているわけだから、数で劣る自分達がまともに当たっても勝ち目などあるわけがない。

とはいえ、それをストレートに言って「はいそうですか」と聞くようなタマではない。
せめてもの救いとして、何を気取っているのか彼女が感情に任せて気に入らない人間を退けたりなどという話は不思議となかったが…だからと言って、このまま彼女の独断専行に任せていても芳しい結果にはならないことは長湖部の良識派誰もが考えていることだった。
だからこそ、少女は諸葛恪のそうした性格を良く熟知しているらしく、先ずはその顔を立てた。
効果はてき面のようで、むしろこのやり取りを見る限り…大将の器として相応しいのはこの少女である事は誰の目にも明らかだった。


「しかしながら、相手は許昌、洛陽に詰めているほぼ全軍とも言える大軍を投入しています。
負けることは無くとも、相当の苦戦は免れません。
ここは機先を制し、我々の威を示すことが、戦略の妙かと思われます」

彼女は、こうして諸葛恪の自尊心を逆撫でしない言葉を選んで、おもむろに自分の考えを述べた。

「ふふ…その言葉、尤もだわ。
ならばあなた達水泳部員に先鋒軍を任せるから存分にやって頂戴、承淵」
「畏まりました」

上機嫌の諸葛恪の言葉に恭しく礼をすると、その少女は本営を退出した。
すると、そこには松葉杖をついたセミロングの少女が待っていた。

「承淵、首尾はどう?」
「バッチリです。今すぐにでも出られますよ正明部長」
「流石だわ」

にっと笑って見せるその少女に、セミロングの少女…現水泳部長・留賛も笑顔で返した。


狐色髪の特徴的なこの少女、その名を丁奉、字を承淵という。
元々は初等部において「慮江のトビウオ」とまで呼ばれた天才スイマーであり、中等部に編入して間もなく、建業棟沿岸から赤壁島までの往復10q遠泳を日課とするずば抜けた体力が孫権の目にとまり、最年少クラスのユースとして抜擢された逸材。
やがて「鈴の女夜叉」甘寧直伝のゲリラ戦術と、名将陸遜の軍略を己の物として修め、さらには柳生新陰流を修め天性の武に磨きをかけた、長湖部でも屈指の猛将である。


「で、先輩にも御願いがあります。
あたしは集めた決死隊の連中引き連れて先に行くので、他の娘達と一緒に後詰めをお願いします」
「ちょ…どういう事よ?」

留賛はその言葉にやや気分を害した様子だった。

留賛はかつて初等部にいた頃、黄巾党の反乱に巻き込まれ、反抗的な態度をとった見せしめとして片足に大怪我を負い、後遺症で今でも杖無しで歩くことはままならない。それゆえ、水泳に青春をかけたことで知られている。
彼女自身もそれゆえに激しく動き回る立ち回りは苦手だが、膂力そのものはかなりのもので、指揮能力も非常に高い。
しかしどうしても、彼女の身体的な事情から、どうしても彼女の軍の移動能力はお世辞にも高いとは言い難い。
そのことから、お荷物扱いされているのでないかと思ったのだろう。

「いえ、あたしが先行して敵の目を惹きつけます。
その間に、季文(朱異)の別動隊が蒼天会の連中が作り始めてる浮橋を始末する手筈。
アレを壊せば、勝敗の帰趨は決まると思いますから…先輩は遊軍として東興棟の連中と連携し、さらにあたしの軍と椅角の構えをとれば一気にせん滅できると思うんですよ。
…ぶっちゃけ、あのアホロバの好きにやらせて巧く行くと思います?」
「…確かにそうだわ。
でもアンタの子飼いだけじゃ…いくらなんでも危険よ」

留賛はつまらない邪推をしたことに気付き、それを恥じたが…それでも、冷静に考えても丁奉のやらんとしているのはパッと見、手柄を焦るばかりに相当の無茶をやらかしそうにしか見えないだろう。

ついでに諸葛恪、四つ年の離れた実姉で、長湖部にも優れた実務能力と人格者ぶりで重きを成した諸葛瑾と似たような、まるでロバの耳にも見える癖毛を持っていたことから…そう、あまりにも偉大すぎる姉との区別と言うこともあり、多くの者から「アホ(な方の)ロバ」と陰口を叩かれる存在であった。
当然留賛も、丁奉のこの発言をまるで咎める気配すらない。

それはさておき、丁奉は。

「いえ、いくらあたしだって勝算のない無茶はしませんよ。
相手の先鋒は韓綜だって聞きましたし、相手が彼女なら、大体の布陣や行動の癖は解ります。
任せといて下さいよ!」

自身満々の表情で言う。
百倍近い人数の中に突っ込んでの陽動など、彼女の経歴を知らない者なら危ぶんで止めに入るところである。


しかし、留賛は知っている。
目の前の少女は、高校二年生にして、既に課外活動五年目に入ろうというベテラン中のベテラン。
そして、少人数での奇襲戦法を何よりも得意とした猛将の戦法を、直々に受け継いだゲリラ戦の達人であるということを。


「解った。
それじゃあ、陽動は任せたわよ!」
「はい!」

留賛がその肩に手を置いてやると、その小柄な少女は元気のいい笑顔で応えた。





そのやり取りから三十分ほど後、丁奉率いる奇襲部隊は、東興棟を対岸に臨む地点へ到達した。
遠目に、未だ東興守備を任された少女達の奮戦も見て取れる。

「間に合ったみたいです、主将!」
「お〜、流石は略ちゃんだよ〜。
頑張ってるね〜」

三十に満たない人数の先頭に立ち、丁奉は感心したようにそう言った。

「感心してる場合じゃないですよ主将。
それに、この人数で奇襲をかけるってもどうするつもりなんですか?
向こう、少なく見積もってもうち等の五十倍は居ますし…身を隠すようなところも見当たらないですけど?」

側近と思しき少女が、たしなめるような口調で言う。
しかし、丁奉の答えは…ある意味では予想出来てたとはいえ…少女たちには外れて欲しかったモノだった。

「決まってるじゃん、泳いで渡るんだよ」
「うげ……………やっぱり」

あっけらかんと言い放つ丁奉に、少女達はげんなりした様子でうなだれる。


彼女達長湖部員が本陣を置く揚州学区では、校舎の棟と棟の間は幾つものクリークに分断されており、普段の移動には船やボートを利用するのが普通である。まぁ中には、泳いで棟移動するツワモノもいるにはいるのだが…今は二月である。
はっきり言って、水温がひとケタ台になるこの時期、泳いでの渡河は冗談抜きで命がけだ。
この先遣隊を率いる丁奉も、かつてこの時期の渡河で死にかけた事があったほどである。


「ボートなんかで渡ったら狙い撃ちだからね〜、水の中なら治外法権よ?
それに韓綜の裏をかくつもりなら、そのくらいはやったほうがいいでしょ?
第一何の為のウェットスーツだと思ってんのよ」
「そりゃまぁ…そうですけど」

眉根をひそめる少女。
少女達はこの時になってようやく、直前になって用意されたウェットスーツの意味を悟ったが…それでも寒気を完全にシャットダウンできるものではない。
まして、泳いで渡るにも300メートル近くある。
途中で体力が尽きたら、それこそ戦闘どころじゃなくなるだろう。

顔を見合わせる少女達を見て、丁奉は怒気を露に言い放った。

「こうしている間にも略ちゃん達は追い詰められてるんだよ!?
もういいよっ、あたし一人で行くから!」

言うが早いかジャージの上下を脱ぎ捨て、普段着込んでいるらしい水着一枚になった彼女は、傍らの少女から愛用の大木刀を引っ手繰ると、凍るような河へ飛び込み対岸へ向けて泳ぎ始めた。
その様子を呆然と眺める少女達。

「あ〜あ、行っちゃったよ…どうする?」
「どうするも何も、主将(アレ)一人で行かせる訳にもいかないでしょうが」
「仕方ないなぁ。
あたし達も行くよ、主将に遅れるな!」

主将の姿を眺め、少女達も意を決したように頷く。
そして各々ジャージを脱ぎ捨てウェットスーツ姿になると、次々と獲物を手に河へと飛び込んでいった。





その頃、対岸では。

「主将、対岸に敵の応援部隊が現れました! 数はおよそ三十!」
「はい?」

その報告に、寄せ手の先鋒を任された韓綜は首を傾げた。


この韓綜、長湖部の立ち上げからその重鎮として名を馳せた烈女・韓当の実の妹であり、元々は彼女も長湖部の幹部候補として優遇されていた少女である。
だが、生真面目で礼儀正しい人格者の姉と異なり、この妹は放蕩に耽り品行も悪く、自分を常にかばってくれた姉の引退後、わが身に危険を感じて蒼天会に寝返りを打ち、以来長湖部との境を度々混乱に陥れていた。
それゆえ、前部長・孫権を筆頭とする長湖部員全員から恨みを買っている。
しかし逆を言えば、それだけ長い間前線を引っ掻き回していながら、荒くれ揃いの長湖部員を向こうに廻してまったく遅れを取っていないわけで、そのあたり、流石に名将と言われた韓当の妹だけはあった。


「うちらの五十分の一にも満たないわね。
てゆーか、どうやって渡ってくるつもりかしら?」
「えっと…物見の報告では、何でも河に次々飛び込んでるらしいんですよ」
「マジ?
……あ、ホントだ」

韓綜は双眼鏡を手にとると、その光景を確認して唖然とした。
そして、心底呆れたように呟く。

「どうしようもないアホも居るモンねぇ。
冬の長湖で寒中水泳なんて、正気の沙汰じゃないわね」
「どうします主将?
もし泳ぎ着けば、ここを強襲されそうですが」
「放っといていいんじゃない?
結構距離あるし、ここまで泳ぎつけてもマトモに動けないんじゃないかしら。
数も少ないし、せいぜい好きにやらせときなさいな」
「それもそうですね」

そうやって取り巻きと時々その様子を眺めては嘲笑し、その姿が水面から消えると、その侮蔑の笑い声はさらに大きくなった。

韓綜以下、これが命取りになろうとは、誰も想像できなかったに違いない。
だが、韓綜がもし、このアホな行為を実行に移す者の正体を察していたら、このあとの展開は大きく変わったはずだ。
それだけ、ここでの読み違い…否、正確な情報を得られなかったことは完全に致命傷だった。


「そいつ」が、まさか真っ先に自分の方に向かって来るなど思ってもいなかったのだから。





先に報告が入ってからものの15分程度で、丁奉率いる先遣隊は韓綜の陣取る水辺から50メートルほどの地点にたどり着いていた。
丁奉の合図で、少女達はシュノーケルを装備して水に潜り、徐々にその距離を詰めていく。

余談だが、このとき先頭を行く丁奉はあくまで水着一枚、しかも素潜りのままだ。
彼女は時折、息継ぎを兼ねてわずかに顔を出し、岸の様子をうかがう。
韓綜は完全に丁奉達の存在を忘れ、東興棟へ向けて動き出した…その時。


「ぷはっ…よ〜し、到着〜」

丁奉の能天気な声とともに、冷たい河の流れの中で潜泳を敢行した少女達が、一度に顔を出した。
その水音に驚いた韓綜達を尻目に、一番に河から上がった丁奉は、唖然とした蒼天会軍の少女達の目の前で、まるで子犬のように顔を震わせると、満面の笑顔で小さく手を振りながら、

「は〜い、お元気ぃ?」

と、やってみせた。
目の前の少女達は、呆気に取られてぽかんとそれを眺めていた。

「う、ノリ悪いなぁ…挨拶は?」
「駄目ですよ主将〜、蒼天会のバカ共にそんなユーモア通じませんって」
「そ、そ。コイツ等、オツムの血の巡り悪いから」
「むぅ…それもそうか」

続々と泳ぎ着いた少女達が、ネタが不発に終わってややご機嫌斜めの丁奉にそんなことを言った。
というより、これだけの小ネタを仕込めるくらいの余裕があったのだから、奇襲を受けたほうがどれだけ呆気に取られていたかが窺えよう。

「…はッ!
て、敵しゅ」
「遅いッ!」

正気に戻ったが早いか、少女は叫ぼうとした。
その刹那の間に、木刀を構えた丁奉が駆け抜けざまに次々と少女達を打ち据え、昏倒させていく。北辰一刀流の極意、"仏捨刀"である。
夷陵回廊戦で垣間見せた見様見真似の剣技は、その後に水泳の片手間に入門した剣術道場での修行の成果があって、二年経った現在では見違えるほど洗練されていた。

「皆、主将に続けッ!
寒けりゃその分動き回りゃいいんだよっ!」
「応よ!」

丘へ上がってきた少女達も、獲物を手に取り、四方八方の敵を打ち崩していく。

彼女らはウェットスーツのお陰でそれほど動くに支障はない。
むしろ、韓綜の軍の動きを窺うために待機した間に失った体力を取り戻し、その奇襲に驚いた蒼天会先鋒軍は、瞬く間に恐慌を来たし、大混乱に陥った。
そして、恐怖にかられる軍団員を取りまとめようとする韓綜の前に、丁奉が立ちふさがる。

韓綜は息を呑む。
この奇襲の下手人が丁奉だという事実を知って、ヤツならこういうことを必ずする、ということは知っていたのでそこに対する驚きは殆ど無い。
だが…見栄っ張りの諸葛恪が、明らかに自分以上に目立つ活躍をしそうな丁奉を、単独で急襲させてくるなど、完全に想定外だった。

彼女が後悔に歯がみするよりも早く、目の前の少女の表情が赫怒に変わる。

「あなただけは許さないから…覚悟なさい、この裏切り者ッ!」
「く、くそッ!
やってくれたわね承淵!」
「一対一なら、あんたに遅れは取らないよッ!」

怒号とともに両雄の剣がかち合った。

丁奉は韓綜の繰り出した一撃を無造作に弾き飛ばすと、先ず肩口に強烈な一撃を見舞う。
さらに間髪入れず、逆風に放たれた太刀を左脇腹に叩き込むと、韓綜は呻き声を上げることなくその場に崩れ落ちた。





蒼天会の軍勢をあらかた追い散らし、戦況も落ち着いてきたその時。

「あ、お〜い、正明せんぱ〜いっ!」

ノーテンキな笑顔でぶんぶんと手を振る丁奉の姿を認めた留賛は、一瞬呆気に取られた。
と同時に、丁奉が何を仕出かしたかを理解した。
早足をするかのように杖をつき、そちらへ向かっていくと…

「くぉのおバカ!
この寒い時期になんつーカッコしとるんじゃあ!」

ごきん!

「きゃんっ!」

ややフック気味に振り下ろした拳骨を、その狐色髪の天辺に叩き込んだ。
頭を抱えてうずくまる丁奉。

「う〜…痛いですぅ〜…陽動はちゃんと成功したじゃないですかぁ」
「やかましい! 皆にまで迷惑かけやがって…そういう馬鹿にはこうしてやるッ!」
「あうぅぅ! なんでぇ? どうしてぇぇ!?」

留賛が丁奉を小脇に抱え、額にウメボシを食らわせるその光景を、すっかり体の温まった奇襲軍団の少女達は苦笑して眺めていた。





その後、別動隊の朱異の働きで蒼天会軍が作成中だった浮橋が壊され、蒼天会本隊は一気に劣勢に追い込まれる。
更に東興津を抑えた朱異、東興棟の留略、遊軍となった留賛・丁奉各軍団による椅角の構えが図に当たり、先鋒の将を失って士気の落ちていた胡遵軍は壊滅状態となった。
また着陣した諸葛恪率いる長湖部軍本隊により、諸葛誕率いる蒼天会軍第二波の侵攻も食い止められたのである。

王昶率いる南郡棟攻略中の別働軍も、南郡棟守備隊の奮戦に攻めあぐね、東興侵攻軍の敗北の報を受けて退却した。
とりあえず、当面の危機は去ったのである。

ついでに言えば、丁奉達の脱ぎ捨てたジャージやらなにやらは、後から来た諸葛恪達が回収して東興棟に届けたくれたのだそうな。
それまでの間丁奉はずっと、水着一枚で寒空の下を暴れまわっていたわけであるが…。





その翌日、丁奉の寮部屋。

「くしゅん!」
「八度五分…文句つけようも無く、風邪だな。
あたしも初めて知った、馬鹿でも風邪はひくんだな」

体温計の表示を見て、陸凱は呆れたように呟いた。
その脇では、先に引退した陸遜の妹・陸抗も心配そうにその様子を眺めていた。

「しょーちゃん、大丈夫…?」
「あぅ〜…頭痛いよぅ〜…寒いよぅ〜」

氷嚢を頭に乗せ、ガチガチと歯を鳴らすほど震えながら呻く丁奉。

「ったく…寒中水泳やらかした後、小一時間あの寒空の下、水着一枚で駆けずり回ってたとかどっかの自称最強かお前?
それとも、H(バカ)は死ななきゃ治んないってかオイ?」
「ふーちゃん、言い過ぎだよぅ…しょーちゃんだって、頑張ったんだから」

呆れを通り越して怒りのボルテージが上がりつつある陸凱を陸抗がなだめようとするが…これは逆効果だったらしい。

「甘い、甘いよ幼節!
一度きちんと思い知らせておいた方が、この馬鹿の為だ! 喰らいやがれッ!!」

とうとう怒り心頭に達したらしい陸凱は丁奉を無理やり起こすと、こめかみの両サイドにウメボシを仕掛けた。

「あうぅぅ〜!痛い痛い痛い〜!!勘弁してぇ敬風ぅ〜…」
「だ、駄目だよぅふーちゃん!病人にそんなことしたら!」

おろおろしながらそれを宥める陸抗。
後に、その場は違えど、一致団結して斜日の長湖部を支えていく少女達の、ささやかな平和のひとコマがそこにあった。



余談だが、この時丁奉とともに寒中水泳に望んだ少女達もまた、症状の軽重に違いはあれどやはり皆風邪をひいたという話である。
中でも一番酷い症状を出した丁奉は、その後一週間ほど寝込んだという。
原因もさることながら、その悪化の裏に陸凱や留賛のウメボシ攻撃が作用していたかどうか知る術は無い。