冀州校区、ギョウ棟。
かつては邯鄲棟と呼ばれ、先代、先々代の学園混乱時代から、この地屈指の堅城として知られる棟だ。

袁氏生徒会役員の残党と、曹操率いる蒼天会との戦いも、この地の陥落をもって一区切りのついた形だ。


「ようやく、落ちたな」
「そうね〜、こんなに梃子摺るなんて思ってもみなかったなぁ」
その棟がよく見渡せる小高い丘の上に、二人の少女が立っていた。

その腕には、蒼天会役員であることを表す腕章と、その身分を表す紙幣章をつけている。
片一方の、小柄で赤みがかった髪の少女のつけているのは、学園組織の中でも数名しか存在しない一万円章だ。


小柄な少女は、いまや蒼天生徒会を掌握する、蒼天会長の曹操。
その傍らに立つのは曹操幕下きっての参謀・郭嘉。


「会長、ギョウ棟主将の審配、ご命令通り捕縛いたしました」
「ん、ご苦労様」
報告に駆けつけた少女に労いの言葉をかける曹操。
「でさ、何人か集めて棟の執務室を掃除しといて。
例の娘は、別の部屋で待ってて貰うように…くれぐれも、丁重にね」
「畏まりました」
命令を受けた少女は再び、本陣のほうへ駆け戻っていく。
それを一瞥もすることなく、郭嘉が口を開く。
「…会長、あんたマジであいつを口説き落とすつもりか?」
「もっちろん。
アレだけの逸材、放っとく手は無いでしょ」
そうして、嬉々とした表情で身を翻し、その場を立ち去る曹操。

「…きっと無駄だと思うけどなぁ…」
呆れ顔でそう呟く郭嘉を他所に、曹操はこれから会いに行く少女にどんな言葉をかけようか、どう用いようかと、そのことで頭が一杯になっているように見えた。



-邯鄲の幻想(マボロシ)-



宛がわれた部屋で、少女は椅子に腰掛けたまま項垂れていた。

飴色の光沢がある髪を、スタンダートなツインテールに纏めている髪型は幼い印象を与えるが、その幼い顔立ちのせいか良く似合っている。
笑えばかなりの美少女のように思えるが、その鳶色の瞳は虚ろで、何の表情もみせていない。

手は布で戒められているが、その布は手触りこそ柔らかだが恐ろしく丈夫な、学園の制服にも使用されている特殊素材だ。
かつて「鬼姫」と恐れられた呂布の力を以ってしても、紐状に捻ってあるこの布を引き千切ることが出来なかったと言うウワサがある。


少女の名は審配、字は正南。

かつてこの地を治めていた実力者で、曹操との戦いに敗れて失意のうちに引退した袁紹の側近のひとりであった。
袁紹が学園に覇を唱えるべく動き出すと、その才覚を見出され、参謀として抜擢された逸材だ。

自分を認めてくれた袁紹への忠誠心は正に鉄石、その遺志を奉じ袁尚の副将としてギョウ棟の守備を任されていた。


そう、「いた」のだ。


彼女はギョウ棟を追われてしまった主・袁尚の留守を護り、迎え入れるために必死に棟を護ってきた。
曹操の腹心・荀ケなどは彼女を「我が強くて智謀に欠ける」なんて酷評していたが、その指揮能力の高さは曹操も舌を巻くほどだった。

攻めあぐねた曹操は、審配が従姉妹の審栄をはじめとした同僚達と不仲であったことを利用し、離間の計で内部から切り崩したのだ。
ギョウ棟を守った忠義の名将は、哀れにも身内の手によって戒めを受けることとなった。


「いい様ですね、正南先輩」

不意に扉が開かれ、一人の少女が入ってきた。

黒髪をポニーテールに結った、真面目そうな雰囲気の少女。
先に袁氏を見限って曹操の傘下についた辛毘、字を佐治である。邯鄲陥落の直前に、審配とも顔見知りだったことから、降伏勧告を呼びかけてきた少女だ。

審配は一瞥し、再び視線を戻す。

「知ってますか?
あなたがあの時投げ捨ててくれたティーセット、アレは私の宝物だったんですよ?」

審配は何の反応も示さない。
意に介さず、少女は続ける。

「此処の初等部に入学した際、記念に祖母が贈ってくれた大事なものだったんです」

独白を続ける少女の顔にも、表情は無い。
いや、正確にいえば、感情を努めて押し殺しているように見える。

「…だから…何」

一拍置いて、審配はようやく口を開いた。

「宝物を壊された仕返しに、私をこの窓から放り投げてやるとでも?」
「…!」

相変わらず表情は無い。
だが、抑揚の無い声には、明らかな蔑みの響きがある。

辛毘の表情は、見る間に険しくなっていった。

「折角あんたの頭を狙ってやったのに、外したのが残念…」
「貴様ぁぁー!」

刹那。辛毘は審配を無理やり立たせると、その顔面へ向けて思いっきり拳を振り下ろそうとした。

「はい、そこまで」
その拳が、寸前で止まる。
手首を捕まれた辛毘が振り向くと、曹操を始めとした蒼天会幹部の面々が何時の間にか立っていた。

手首を掴んでいるのは、曹操が最も信頼するボディーガード・許チョ。
この緊迫した事態にあってもぽやんとした表情を崩さないあたりは、流石は許チョといったところか。

「曹操…会長」
「駄目だよさっちゃん。
どんな事情があっても、捕虜の私刑はご法度なんだからね!」
そんな一連の事態の渦中にあっても…審配の表情は相変わらず、虚ろなままだった。



整然と片付けられた執務室。


部屋の壇上、曹操が卓に着き、その後ろには、相も変わらずぼんやりした表情の許チョが立っている。

その左には夏候惇、張遼ら曹操幕下きっての猛将たちが揃い踏み、右には郭嘉、荀攸、程cといった鬼謀の知者がずらりと並ぶ。
その片隅には、先程揉め事を起こした辛毘の姿もあった。


壮観な風景である。
この中央に立たせられ、曹操と面と向かい合って立つものの殆どは、その威風に居竦み、あるいはその名誉に打ち震え、あるいは己にもたらされる末路に恐怖する。


しかし、審配はそのどれにも当てはまらない。
席を与えられ、腰掛けている彼女の表情は変わらない。


「っと、さっきのはごめんね。
理由はどうあれ、あたしの監督不行き届きが招いたことだから」
気を取り直すように、曹操は努めて明るい口調でそう言った。
「いやぁ、この邯鄲棟を落とすのにそりゃあもう苦労させてもらったわよ。
いくら棟内部を知り尽くしてるからって、あそこまで護りきれる人なんて滅多に居るもんじゃないよ」
「…何が…言いたいの?」
ようやく、沈黙を守っていた審配が口を開いた。

相変わらず表情は無く、声に抑揚も無い。
学園で袁紹を見かけると、顔良や文醜といった輩に混じって、明るい笑顔を振り撒くこの少女の姿をよく見ていた曹操は、少し寂しい気持ちになった。


しかし、それを億尾にも出さず、曹操は続ける。
「ようするにあたし、キミのこと気に入ったんだ。
…どうかな、蒼天会に協力してくれないかな?」
「…部下になれ、と?」

僅かに、審配の視線が鋭くなる。

「ぶっちゃけて言えば、そういう事になるのかな。
もちろん、ただでとは言わないよ。
何か条件があれば…あ、もしかして袁尚たちのことが心配なら、可能な限りその立場は保障する。
キミが彼女達を説得してくれるならそれでも…」
「ふざけた事言わないでッ!」

その瞬間、審配は怒声をあげ立ち上がった。

ギョウ陥落以降、彼女が見せた初めての感情は、怒り。

「私は腐っても袁家の…ううん、袁本初の遺志に殉じる者!
そこの辛毘みたいな日和見主義者と一緒にされるなんて侮辱以外の何者でもないわ!」

その言葉に、辛毘の顔色が変わる。
曹操は目配せをして、その両隣りに立たせていた徐晃と夏候淵に辛毘を制させた。

それを余所に、激昂する審配は自分の階級章に手をかけると、それを無造作に引きちぎる。

「虚しく虜囚となった今、本初様に合わせる顔も無い…私の答えは、これだッ!」
「!」
ほんの一瞬前、曹操の顔があったあたりに何かが飛んできて、背後の黒板に当たって跳ねた。


床に落ちたそれは、審配のつけていた貨幣章だった。
袁紹の寵を受けながら、富貴を求めず、ただ誠心誠意仕えたことを示す、その重責に似合わない低い階級章は、まこと彼女らしいといえる。


そのとき…曹操の表情から、笑みが消えた。
その小柄で幼い少女の見た目とは裏腹の強烈な威圧感を感じ、居並ぶ諸将の表情にも緊張の色が浮かぶ。


「さぁ…放校だろうが、退学だろうが、好きになさい! もう、未練は無いわ!」
だが、審配は臆することなく、気丈にもそう言い放った。

凄まじい感情と威圧感が入り混じるこの空間に、居合わせた者の背に冷汗を流れる。

「そう…なら、キミに相応しい罰を受けてもらうよ…」
静かだが、内面に沸き起こる憤怒をこめた曹操の視線が、審配を射抜く。

しかし審配はなおも気丈に、それを睨み返していた。



どの位時間が経っただろうか。

あのあと審配は、最初に居た部屋に戻されていた。
その手に、戒めはない。


階級章を失うということはすなわち、学園課外活動からの脱落…戦乱の世で言えば「死」を意味する。
死者に対してなおも戒めを与えるということは、人道にもとる行為というべきだろう。


(終わったのね…すべて)
彼女は、ジャージのズボンのポケットから何かを取り出し、手の上に載せた。


それは小さなロザリオの着いた、銀のネックレス。
官渡公園での決戦が行われる直前、兵卒を預かる将の証として袁紹から下賜されたものだ。

審配にとっては、敬愛する袁紹に認めてもらえた確かな証。
殆どの袁氏生徒会役員達が自身の保身の為に打ち捨て、あるいは討たれて戦利品代わりに持ち去られていってしまった。

恐らくは、これを保持しているのは彼女のほかは、今なお戦い続けているであろう袁尚、袁熙姉妹か、高幹といった袁紹の身内連中くらい…いや、それも怪しい所だろう。


(…申し訳ありません…私は、あなたの遺志を守ることは出来なかった…)
手の中のそれを、強く握り締めた。

彼女が見つめる窓の先には、リタイアしてのち、一般生徒として生活する袁紹が居るだろう学生寮が見えた。


(私は学園を、あなたの元を去ります。
 …これで、さよならです…二度と、お会いすることは…)


その瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。


「お待たせ〜」
先程とはうって変わって、実に能天気な調子の曹操と、郭嘉のふたりが部屋に入ってきた。
審配は慌てて涙を払い、再び気丈な表情で、曹操と向き合う。

脱落者となっても相変わらずの態度に、曹操も苦笑が隠せない。

「まぁ…いろいろ考えさせてもらったんだけどね。
やっぱりこれしかないと思ってわざわざ来て貰う事にしたんだ。入って」

曹操が促すと、ひとりの少女が部屋に入ってきた。

「えっ…?」

その人物を見た瞬間、審配の表情が凍る。


山吹色のヘアバンドで留めた、流れるような光沢のあるストレートの黒髪。
多少やつれてはいるが、目鼻の整った気品のある美貌と、制服の上からでも解るスタイルの良い長身。
その雰囲気は、深窓の令嬢という表現以外に出て来そうに無い。

彼女こそ、袁紹そのひとだった。


「たっぷり、叱って貰うといいわ。
…後は、彼女にキミの処遇を任せるから…じゃあね」

それだけ言うと、曹操たちは二人を残し、部屋を後にした。


閉じた扉の音が、何よりも残酷なものに審配には思えていた。



「…あ…あの、私…」
沈黙を破ったのは審配だった。

「私…何も出来ませんでした…。
…顕甫お嬢様を護るどころか、曹氏蒼天会に一矢報いることさえ」

袁紹は黙ったままだ。
その沈黙が、自分を責めたてているように思えた。

「私にそんな力は無いのに…いきがってつまらない意地張って…こんなことに」
俯いた瞳から、涙が零れる。

不意に、抱き寄せられる感覚に審配は驚き、顔を上げた。

「…え…」
「御免ね…私が愚かなばかりに、あなたをこんなに苦しませてしまうなんて…」
「そ…そんなっ! 本初様は何も悪くないです!」

袁紹は頭を振る。
表情はわからないが、その声は涙声だった。

「…私は、たくさんの娘達を…私を信じてついて来てくれたみんなを…裏切ったのよ。
そして、残ったあなたたちに、すべてを押し付けて逃げた卑怯者よ…」
「本初…様」
「許してなんて言えないわ…本当に…ごめんね…」

泣き崩れる主の姿に、審配は困惑を隠せずにいた。


しかし…審配は思い返していた。

この部屋に入ってきた袁紹の顔は、酷くやつれていた。
官渡の決戦に敗れ、失意の引退宣言をした時よりもずっと、やつれているのが解った。

覇道を断たれ、一線を退かなくてはならなかった無念がそうさせたのだと、審配は最初思っていた。


しかし、彼女はそれが間違いだったことを理解した。
袁紹はずっと、自分のせいで失ったかつての仲間達や、残った自分達の事を思い、それに罪の意識を抱き、苦しみつづけていたのだろう。


恐らくは、ひとりで。


彼女はやるせない気持ちを覚えていた。
それと同時に…自分が彼女を信じてついてきたことが間違いでなかった確信を覚える。

悔いは、何処にもなかった。


彼女はそっと、泣き伏すその体をそっと抱き締める。

「…大丈夫です。
みんなきっと、あなたの事を恨んでなんか居ませんよ」
「…え?」

審配は、その温もりを確かめるように体を預ける。

「考えたプロセスが違ったかもしれないけど、みんな同じ未来を目指して、あなたについてきたんですから。
だから、もうそんなに、ご自分を責めないで下さい…」
「…でも」
「…それでもあなたが、ご自分を許せないと言うなら」

泣き笑いのその表情は、何処か吹っ切れたように見えた。


自分は心底、この人のことが好きだからこそ、この人を見捨てることが出来ないから。
それが自分の償いの道であると、そう思ったから。


「私にも、その苦しみを、背負わせてください」


「…正南、さん」
泣き崩れた大切な存在…その体を、審配は強く抱きしめていた。



部屋を立ち去り、曹操は屋上から北の空を眺めている。


ギョウ棟の救援を諦めた袁尚・袁煕の姉妹が、袁紹とも縁の深かった烏丸工業高校を頼って北を目指したという情報も入っている。
ここで彼女らを逃したままにしていては、この先も大きな障害となり続けるだろう。

故に、曹操にはこのまま華北四校区の平定を中途で終わらせる考えはない。
むしろ…徹底的に袁氏の残党を叩く覚悟を固めていた。


しかし、それとは別に…。

「どうして、なんだろうね」

遠く空を眺めたまま、曹操は呟く。

「公台(陳宮)も、雲長(関羽)も、あの娘も…どうして、あそこまでひとりのひとについて行けるんだろうね」

その背中は、酷く寂しそうに見えた。
元々小柄な少女だが、郭嘉にはそれが一層小さく見えるように思えていた。

郭嘉は、口にくわえた煙草に火をつけ、その味を一度確かめる。
そして、おもむろに言った。

「…そりゃあな、きっとあたし達があんたにくっついていくのと変わらないんだと思うぜ」
「え?」

曹操は思わず、郭嘉の方を見る。
彼女は普段通り、ポケットの中でくしゃくしゃになってよれたままの煙草から煙をくゆらせ、先ほどの曹操と同じように北の空に視線を泳がせている。

「あいつ等にはあいつ等の信じたヤツと同じ未来しか見てないように、あたし達は曹孟徳と同じ未来しか見てないんだ…そういうもんさね」
「…そっか」

曹操はため息を吐き、屋上の手すりに背を預ける。

「…さ、もう往っちまった連中は放っておいて、これからのことを考えようぜ。
まだまだ、先は長いんだからな」
「ん…そだね」

郭嘉に促され、曹操もその場を立ち去ろうとした。


ふと、眼下に目をやると…棟から去って行く二人の姿が見えた。

かつて課外活動で己の覇道を貫こうとした少女と、それを支えた名臣は、今や只の一生徒でしかない。
しかし、彼女等はそれでも、よき友で在り続けることを選んだようだった。

いや、多分、これからふたりは本当の"友達"になるのかも知れない。


曹操の目には、それがあまりに寂しくも…羨ましくも見えた。


曹操は、不意に足を止める。

「ね、奉孝」
「何だ?」

呼び止められ、振り返って見る曹操の顔は、とても寂しそうに見える。

「もし…もしもだよ。
あたしが…本初お姉ちゃんみたいになったら、キミはあたしについてきてくれるかな?」

呆気に取られる郭嘉。
次の瞬間、彼女はさも可笑しそうに笑った。

曹操は少し不機嫌そうに頬を膨らませた。

「な、なんだよ〜!あたしは真面目に話してるんだよっ!」
「ははは…そんなこと、させねぇよ。
…あたしの命に賭けても、会長を袁紹みたいな目に遭わせやしない。
頼まれたって、遭わせてなんてやるもんか」
「もしもだって言ったじゃん」
「…その、もしも、もありえないさ…絶対にな」

微笑んだ彼女が見上げる空は、何処までも青く澄みきっていた。
最期の言葉は、その身に待ち受ける、あまりに過酷な未来をも覆せるように…そんな彼女の願いもこめられているようだった。

その笑顔の意味を曹操が知るのは、それより少し後の話である。