「暇だねぇ」

揚州学区の中心地、寿春棟の屋上に少女がひとり、大の字になって流れる雲を見上げていた。

スタイルには難があるが、顔立ちそのものは十分に美少女の範疇に入るだろう。
明るい栗色の髪をショートに切り、見た感じも少年のようである。

「なによ伯符、またこんなことろでふててるの?」

何をするでもなく、ただぼーっと空を眺めるその少女の視界を、ひとりの少女が遮った。

年の頃は寝転がったままのその少女とさほど変わらない。
ちょっとキツめの顔に散切りの黒髪を載せたその少女は、皮肉めいた笑みを浮かべる。

「別にぃ」

伯符、と呼ばれた少女はその顔を避けるように寝返りを打つ。
しかし、黒髪の少女はその動きを見透かしたかのように、一瞬早くその視線の先に自分の顔をもってきた。
逆に返しても、その先には変わらぬ表情が待っている。

「なぁ君理、あたしの顔なんか見てて楽しいか?」

呆れ顔の少女。
君理と呼ばれた少女は、その傍らに腰掛けた。

「人に話をしたいときはその人の顔をちゃんと見なさいっていうのが、うちの父ちゃんの口癖でね。
親孝行なあたしとしては、何時でもそれを実践するよう心がけてんのよ」
「自分で言うなっての」

寝転がっていたその少女は苦笑し、その身体を起こして座り直した。


少女の名は孫策、字を伯符。
かつて荊州学区は長沙棟を中心に、様々な暴動を鎮圧して名をあげ、反董卓連合軍でもその人ありといわれた孫堅の妹である。



-水際の小覇王-



司隷特別校区における一連の騒乱が沈静化してきた頃、孫策の姉である孫堅は荊州学区の覇権を賭け、襄陽棟において権勢を振るう劉表と妨害、直接攻撃何でもありのトライアスロンで対決した。
ところが、あと僅かで勝利、というところで劉表側の仕掛けたトラップに引っかかり、孫堅は不運にも高さ数十メートルの崖に落ちて大怪我したため、引退を余儀なくされてしまった。
普通の人間なら死んでるだろうが、それでも何の後遺症もなく、二月ほどベッドの上に居ただけで済んだのが彼女の凄い所だ。

とはいえ、この事件で指導者を失った孫堅の軍団は瓦解。
その妹達を取りまとめることになった孫策は、彼女等を比較的騒乱の影響が少ない曲阿寮に留め置くと、数ヶ月前からここ寿春棟を支配する袁術のもとに厄介になっていた。


「で? その親孝行な君理さんが、このヒマ人に何の御用で?」
「御用もへったくれもないわよ。
伯符、あんた何時までこんなところでくすぶってるつもり?」

なおも緊張感のない様子の孫策の受け答えに、君理と呼ばれた少女の表情から笑みが消える。

君理こと、朱治は揚州学区でも名門の一族の子息である。
孫堅が作り上げた軍団の若手として課外活動に参加していたが、軍団瓦解後は呂範、孫河らと一緒になって、孫策と行動を共にしていた。

「聞いたわよ、慮江の話。
あのバカ令嬢、またあんたとの約束破ったんでしょ」

そこには同情めいたものはなく、何者かを非難するという響きさえある。
それは彼女の言うところの「バカ令嬢」…すなわち、この寿春棟の主である袁術だけを指しているわけではないように見える。

「毎度のこった、いちいち腹立ててられるかよ」

呆れたようにため息を吐き、再び仰向けに寝転がる孫策の顔を、朱治はなおも追いかけて覗き込んだ。
孫策は「なんだよ、まだ何か用か?」と言わんばかりの表情でその目を覗き返す。

「ねぇ伯符、あんた何時まで袁術の飼い犬で居るつもり?
言っておくけど、あんなバカが好き勝手やってられなくなるのも時間の問題よ」

朱治は真剣な表情だ。
彼女が、こうまで食い下がってい来ることは珍しいことでもある。
老婆心ではあったろうが、朱治が自分の為を思ってそう言ってきていることは孫策にも解っている。


実際に寿春…否、袁術を取り巻く情勢はそれほど良いとはいえない。
何時までもこのまま安穏としていられるわけではないことは、孫策自身も常日頃から感じていることだった。


「そうだな…でも、姉貴の軍団は散り散り、あたしに独り立ちできる基盤もない。
せめて、公路(袁術)お嬢様から手下をパクる材料があれば…?」

そこまで言った時点で、何かを思い出したように跳ね起きた。
唐突だったので朱治は吃驚して、

「きゃ…!
な、何よ伯符」
「ある…あるぞ!
あのドケチから兵隊をふんだくる方法が!」

嬉々とした表情の孫策に、朱治はその意味を図りかねて小首を傾げる。

「ちょ…どういう事?」
「へへっ、まぁ、今に解るさ」

怪訝な表情の朱治を尻目に、孫策はおもむろに立ち上がり、その場を立ち去った。
その場には、今一つ状況が飲み込めず、呆然としたままの朱治だけが残った。





「兵を借りたい?」

それからすぐ、孫策は袁術に面会の約束を取り付け、会うなりそう切り出した。

当然ながら意図を量りかねる袁術にしてみれば、この唐突極まりない要請は怪訝どころの騒ぎではない。
先に朱治が孫策に述べたとおり、学園内に新たなる独立勢力を立ち上げ、自分がその支配者として学園を併呑するという野望につかれたこの「身の程知らずな令嬢」にとっては、孫策の存在は恐るべき獅子心中の虫であり、同時に得がたい手駒である。性格に難のあるこの袁術であるが、孫策の持つ才覚はきっちりと見抜いており、高く評価しつつも可能な限り飼い殺しにしておきたいというのが本音である。
故に、孫堅の軍団を人質に近い形で保持し、なおかつ自由に動かせる兵団を与えたくはなかった。
このあたり、袁術がただのタカビーお嬢様ではないことを良く物語っているが…同時に、それが彼女の器の限界だったのかも知れない。

訝るどころではなく、隠しきれぬ不快感を示す袁術に、孫策は重ねて言上する。

「従姉妹の呉景たちが今、丹陽地区で劉繇の圧力に苦しめられているのを、助けてやりたいんです。
そもそもお嬢様におかれましても、秣陵を拠点に得手勝手に振る舞う劉繇は勢力拡大の障害。
お互いに悪い提案ではないと思いますが」

ふぅん、と怪訝そうに鼻を鳴らす袁術。

「でもねぇ…今徐州攻めの計画が進行中で、余分な労力を割く余裕なんてないですわ」
「ほんの数人で構いません。
あとは、道すがら頭数を集めますから」
「う~ん」

あくまでとぼけた感じで答えを渋る袁術。
しかし、孫策にとってはそんなことも想定内の反応だ。

「無論こちらもただで、とは申しません。
あたしの姉がかつて洛陽棟に一番乗りを果たした際、校舎の片隅で見つけた蒼天会のマスターキー…質として献上いたしましょう」

懐から袋を取り出し、中から一枚のカードキーを捧げ出す。
それを見た瞬間、袁術の顔は瞬時に綻んだ。

「え? 私にこれを?」
「歯牙無い居候の身が持っていても役に立たないものです。
これを代賞とし、是非貴方の厚恩に対する恩返しの機会を与えていただければ、それ以上のことはありません」

恭しく差し出されたそれを、袁術は一瞬躊躇いながらも…すっとその手から取りあげた。
孫策が上目に覗くその表情に、内心「しめしめ」と思っていた。

その、由緒ある品物を手渡された袁術は、もはやそれを手に入れた喜びで頭が一杯になりかけていた。
辛うじて保っていた僅かな理性でも、流石の孫策とはいえ長湖周辺地区の勢力は平らげきれないだろう…そう思い込む様に動き始めていた。
袁術は大仰に一つ咳払いをする。

「仕方ないですわね~…でしたら、部下として三十名、貴方に預けて差し上げますわ。
それに今確か、蒼天学園水泳部長のポストが空いていた筈…蒼天会に掛け合って、そのポストに就けるよう、取り計らいましょう。
そうすれば、討伐遠征主将としての名目も立ちますわね?」
「勿論です…破格の待遇、痛み入ります」

恭しく一礼する孫策。
袁術からはうかがい知れぬその顔には、「してやったり」の表情が張り付いていた。



「はぁ!? あんたいったい、何考えてるのよっ!?」

水泳部長の認定を表すバッジを階級章の脇につけた孫策を迎えた朱治の第一声が、それだった。

「随分な言われ様じゃないか。
要らないものを要るものに変えてもらっただけだし、第一最初にあたしを焚きつけたのはあんただろ?
そもそもこれですら、半分も返してくれねえんだからアレの器も知れてんな」

あっけらかんとそう言い放つ孫策に、朱治は目眩すら覚えそうになった。

「だからって…だからって何も蒼天会のマスターキーを渡すことないじゃない」
「だって此処にいる分にはまったく使い道なんてないし、思いうかばないし」

孫策はなおも能天気な表情でさらりと言ってのける。


孫策の言うことも、あんまりといえばあんまりな言葉である。
蒼天会のマスターキーといえば、東西南北へ広大に広がる蒼天学園都市の、いわば最大権力者の証。
確かに司隷特別校区から遠く離れた一校区支配者にとっては、その実際の大きさからは想像もできないほど重く…ましてやそんな一校区の支配者の下に飼われているような身分であればなおさらだ。
そう言う意味で言えば、孫策の言い分も理解できないこともない。

もっとも、孫策自身はカードキー一枚“ごとき”にどうしてそんなに大騒ぎしなければならないのかあまり解っていないようだったが。


「それにしたって…くれてやる相手が違うよ。
それに、あいつがそんなの持ったら何仕出かすか…」

呻くようにそう呟く朱治。

この思い切りの良さだとか、物怖じしないようなところは彼女の長所でもあることは朱治も解っている。
それでも、使い方次第では“天下取りの特急券”にもなるマスターキーをこんなにあっさり手放してしまったことを惜しくも思っていた。
孫策の天運、天賦を考えればなおさらのこと、朱治は心底残念そうに項垂れた。
だが、孫策は。


「あたしが欲しいのはあんなちっぽけなものじゃない。
この学園の覇権、そのものだ」


真顔でそう言い切る。
朱治は、そこに戦慄すら覚えた。

「伯符…あんた」
「あんなモノは、ただの権力の象徴の抜け殻だ。
そんなの、欲しいヤツにくれてやればいい…今の公路お嬢様にこそ、お似合いだよ」

手摺りにもたれ、掻き揚げた前髪をそっと風が薙いでいく。

「あたしは手始めに、この地に覇を唱えてみせる。
権威などは必要ない。あたし自身の力だけで、それを成し遂げてやる。
姉貴がやれなかったことを、あたしは存分にやってみたいんだ」

朱治はそれに返すべき言葉を失ってしまう。


彼女の言っていることは、あまりにも無茶苦茶。
覇王の質を秘めていると噂された孫堅すら、学園の権威を無視することは敵わなかった。
それなのに、孫策はそれを捨てることなどあまりにも容易いことのように言っている。

しかし…朱治には何故か、目の前の少女ならそれが出来てしまうように思えていた。


「それにさ」

振り向いた孫策が、不意にいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「本当に必要になれば…きっとまた戻ってくるんじゃないかな、ああいうのってさ?」

その笑顔が妙に眩しかったのは、照り返した太陽の光のせいじゃないように、朱治は思った。
その笑顔につられるように、彼女も微笑んだ。

「そうだね…あんたなら、またきっと手に入れちゃうかもね、あれくらい」
「そう言うこった。
大体アレだって、本物かどうかわっかんねえし」

朱治も孫策に倣って、手摺りにもたれて吹く風に身を任せてみた。
心地よい風だった。

「一応な、散り散りになってた連中とかにも声掛けたよ。
子衡(呂範)や伯海(孫瑜)も来るし、公瑾(周瑜)がなんとかして徳謀(程普)さん達連れ出してくるとか言ってたし、みんな途中合流だ」
「そっか。
じゃあまた、賑やかになるね」

孫策は無言で頷く。

その表情は、これから起こることへの期待に満ちている。そこに恐怖も不安もない。
こんな風に、これから隣の少女が巻き起こす“風”に身を任せてみたら…朱治の心が躍る。

「さ、そろそろ出かけようぜ…あたし達の、天下を獲りに!」
「ええ!」

互いの拳を突き合わせた少女ふたり。
その眼下には、いくつもの水路が蒼く彩る揚州学区と、広大な長湖が広がっていた。