「長湖部」こと「長湖校区連合生徒会」の本部がある建業棟。
その周辺が亜熱帯気候の様相を呈する長湖の畔に属するこの地でも、この年は珍しく寒波に支配され、その日も雪が舞っていた。

その建業棟の広場には、集まって何か指示を受ける少女たちの間を、伝令役と思しき少女が慌ただしく駆けていく姿が見える。
いずれもが手に様々な得物を取り、その多くの表情に悲壮感すら漂わせている。
軽口を叩くような余裕を持つ者など、そこにはいない。その理由は、この寒波のせいばかりではなかった。


長湖部に対して、蒼天会の大々的な攻勢がかけられてきたことも、何も今回が初めてというわけではない。
校区の各所、網の目のように張り巡らされたクリークが天然の堀となり、それ自体が鉄壁の要塞となっている揚州校区の地の利を生かすことは勿論、これまで多くの名主将が巧みな軍略をもって幾度もその危機を乗り切ってきた実績がある。
どんな名主将でも、いずれは卒業その他の理由により課外活動の舞台を去って行くが…校外勢力である山越高などとの様々な「折衝」は、新しい世代の名主将を生み、そのリレーによって長湖部の安寧は保たれてきていた。

その年度末に起こった、その「忌まわしき事件」さえ起こらなければ。


まるで葬儀の参列を思わせるような、悲痛な表情の少女達の集団が、ふたつに割れる。
そしてその間を、棟の方から歩いてきた数人の少女達が厳かに歩いて行く。

先頭を行く、襟足の跳ねたセミロングの、眼鏡をかけた緑髪の少女の前に、ぼさぼさの栗色ロングヘアを無造作にまとめた、小柄で勝気そうなツリ目の少女が拱手して出迎えた。

「陸凱主将、出撃準備整いました!
いつでも出撃できますっ!!」

栗色髪の少女…山越高校区のとある中学校から、勇猛さを買われてヘッドハンティングされてきた俊英のユース・戴烈へ、陸凱と呼ばれたその少女は、溜息を吐いて頷く。


棟の門前まで進み、陸凱は集められた少女達…蒼天会の軍を食い止める最前線である、荊州校区は江陵棟へ赴く長湖部軍団のほうを…否、「長湖生徒会」の生徒会室のあるあたりを見やる。

その瞳は何処までも悲しげで。
舞い散る雪は、凍り付いた彼女の涙のようにも思えた。



-意思の担い手たち-



後にその事件は、当時の学園史を「三国学園史」としてまとめ上げた陳寿、そして長湖生徒会の記録部により「二宮事変」と記された。


そのあらましを一言で言うなら、次期部長の座をかけた、ふたりの少女の取り巻きが引き起こした内輪揉め…というところであろう。
権力の集中する環境であれば、何処にでもある、凄惨かつ醜い「後継者争い」の典型例であり、「長湖部」から「長湖生徒会」に至るそれまでの四年間を「名君主」としてとりまとめてきた長湖生徒会長・孫権の名に、最後の最後で付けられた大きな瑕と、そう評する者も居る。

切欠はこの年の秋口、孫権の二つ下の従妹である孫登が、不運にも風邪をこじらせて世を去ったことにあった。
そもそも病がちだった孫登が、この学園への入学を許されたのも奇跡のような話であったのだが…それ故に彼女の入学が叶ったときの孫権の喜びようも、そしてあまりにもあっけなく身罷ったときの悲しみも、非常に大きなものだった。
彼女はそれでも、孫登と同い年で別の従妹にあたる孫和を後継者と定め、己が学園を卒業した後にも長湖生徒会が問題なく存続していくよう、気丈に振る舞い「長湖生徒会長」としての職務を遂行し続けていた。

その身辺に不穏なものが漂いだしてきたのは、このとき中学三年生だった、孫権とは遠縁に当たる孫覇が学園へやってきた頃だった。
このときはその理由について明らかではなかったが、孫覇は全jの後見を受け、ゆくゆくは「有事により長湖生徒会長不在の危機に陥った際、その候補となり得る者」として、孫権の傍に置かれるようになった。
利発である以上に、孫登を失ってぽっかり穴が空いた孫権の心の間隙に入り込むような孫覇の振る舞いに、やがて鬱ぎがちだった孫権は彼女に心を許してしまい…孫覇を取り巻く者達の目論見通り、彼女を正統な後継者として考えるようになっていった。


蒼天生徒会、帰宅部連合生徒会、そして長湖生徒会という三つ巴のバランスで保たれてはいたが、まだこの学園都市が乱世の直中であることには変わらない。
孫覇にそれだけの器量があればだが…長幼の序に拘ることなく、より良い「君主」を頂くことは決して悪ではない。
孫和は温和で楽天的な性格であったが、飛び抜けた才覚を有しているわけではない。

だが、それは後付けの理由に過ぎない。
孫権が己の心の隙間を埋めてくれる孫覇を溺愛し、孫和を疎んじるようになるのも自然な流れであった。
その孫覇とその周辺に焦臭いものを感じ、危機感を抱き始めるものが現れ始めるのもまた。


そして孫覇が学園に現れて一ヶ月、ついにそれは牙を剥いた。
孫覇を巧みに操り、長湖生徒会を足がかりに学園支配を目論むある存在と…孫覇の取り巻きとして学園に潜り込み、その存在の手足となっていた悪魔達が、これから長湖生徒会を支えていくべき有能な人材を、生徒会を支える名臣達に大弾圧をし始めた。
陸凱の族姉であり、長湖部にこの人ありと言われた陸遜を筆頭に、朱拠や吾粲、陸凱と同年代で前途有望株でもあった顧譚や張休…その他多くの心ある者が言われ無き罪科をかぶせられ、何者かの闇討ちに遭い、次々に課外活動の表舞台から追いやられていった。

特に陸遜の末路は悲惨なもので…彼女はこともあろうに、親友であったはずの長湖部長・孫権や、全jにより言いくるめられて孫覇派の筆頭に祭り上げられた歩隲に追い詰められる形で心労に倒れ、病院に担ぎ込まれる有様だった。

ぼろぼろになっていく長湖生徒会中枢部の惨状に、孫権や歩隲が真実を知ったときには総てが手遅れの状態だった。
彼女らに出来たことは、その悪魔達の旗印となっていた孫覇を学園から放逐することに過ぎず…そのためにまた多くの犠牲を払うこととなった。


蒼天生徒会が好機として、この混乱に乗じてくるのもまた自然な流れであったろう。
陸遜に対する疑いは晴れたこと以上に、彼女の主将としての力量が買われた抜擢であるとはいえ…陸凱自身が、完全に納得できているわけではないのだ。


(自業自得…そう思って放っておくことができたのなら、もっと楽だったのかも知れないけどな)

木枯らしに晒される建業棟を眺めながら、陸凱は心の中でひとりごちる。

(ああ、納得なんかできるものか…そんな簡単に、割り切れてたまるか。
 伯姉や子黙(顧譚)たちだけじゃない…何の…何の罪もない敬宗(陸胤)まであんな目に遭わせたあの人は許せない。
 だけど…)

彼女は雪の舞う空へと、その思いを馳せる。





「…あなたの気持ちも、よく解るわ。
敬宗(陸胤)を…双子の妹をあんな目に遭わされても黙っていられるって言うなら…むしろ私があなたを許さない」
「だったら!」

感情のあまり大声を出してしまったが、少女はそこが病室であることを思い出し、一端は口を噤んだ。

「だったら、どうしてそんな事…!
あたしは、あたしは絶対に嫌だ!
あんな奴…どうなろうがあたしの知ったことじゃ…!!」
「あなたが仲謀さんをどうしても許せないなら、私にそれを止める権利はないわ…でもね、敬風」

ベッドの少女は、あくまで優しく、穏かな口調でそう呼びかけた。


「「長湖生徒会長」のためになんかじゃない…!
「これまで長湖部を支えてきた総ての人」のために、あなたにも「長湖部」を援けていって欲しいの…!」


そう言い切る陸遜の瞳は、何かを強く訴えて来るような強い意志を秘めている。
陸凱はその瞳から眼を逸らせられなかった。


その表情は、酷く悲しげで…涙はないが、その声も、表情も、泣いているように陸凱には思えた。


「一昨年の夷陵回廊…私は大好きだった公瑾(周瑜)先輩の意向に逆らってまで大任を受けた。
大好きな人がいっぱいいて、いろんな思い出の詰まった長湖部を…無くしたくなかったから」

彼女は寂しそうに笑って、言葉を続ける。

「私はもう、長湖部に関わることは出来ないわ。
私に出来るのは…これから部を支えていくだろうあなたたちに、この想いを託すこと。
幼節(陸抗)だけじゃない…これから長湖部を支えていく承淵(丁奉)たち…勿論、あなたにも、よ」

取られた手から、確かな熱を感じる。

「そんな…そんな言い方勝手すぎるよ、伯姉…っ。
あたしたちに、伯姉たちの代わりなんて勤まるわけないよ…っ!」

その手から逃れることも出来ぬまま、俯いたままの陸凱は戦慄くように呟く。
その目から、何時の間にか大粒の涙が落ちていた。

「ごめんね。
でも、私は心配なんて全然してないわ」

陸遜は身を起こし、傍らの少女をそっと、抱き寄せた。
突然のことに驚いた陸凱は、間近になった族姉の顔を覗き込んだ。


「あなた達は、きっとあなた達が思っている以上に、ずっと凄いことができるって、信じてるから」





「あんなこと言われたら、断るに断れないじゃないか…伯姉の卑怯者」

どんよりと空を覆う雪雲の中に、その時に見た族姉・陸遜の穏かな笑顔を見た気がして、陸凱は泣き笑いにも見える表情で呟く。

「えっ?
何か言いました?」

そのつぶやきに戴烈は、怪訝な表情で彼女の顔をのぞき込んでくる。
いや、独り言だよ、と陸凱は苦笑し、そして悲壮な覚悟を漂わせる軍団を眺め、その決意を確かめるかのように目を閉じる。



尊敬する族姉を、大好きな妹を追い詰め傷つけた孫権のことが許せないのは変わらない。
それでも、彼女がこうしてまた「長湖生徒会」を守るために戦場に出ようとしている理由は、ふたつ。

その妹が、族姉が、それでも「長湖部」を守りたいと言った。
そして、彼女の愛すべき友人たちが、その思い出と共にまだ「長湖部」にいる。


彼女が「長湖生徒会の主将」として力を揮う理由が必要なら、それで充分だった。



「我らは江陵の援軍として赴く!
全軍、出撃!」

刮目し、下された号令と共に整然と出立する少女たち。
雪の舞う校庭から、少女はその強い意思を胸に、戦場へと消えていった。










陸凱率いる軍団が江陵棟に辿り着いた時、雪のちらつく校門前は人並みでごった返していた。
要するに凄まじい大混戦だったのだが…正確に見れば、恐慌状態だった長湖部勢がほとんど総崩れ寸前の状態であることが見て取れた。


「此処まで予想通りだと却って清々しいもんだねぇ…」
「落ち着いてる場合ですか! 早く助けに…」
「もうちょい待って。もう少し喰らいつかせてから」

陸凱は、気の逸る戴烈を宥め、草陰に潜んで戦況を眺めていた。


道中、走らせていた伝令からの報告を逐一受け、予想を遙かに超える規模の攻勢に色を失う幕僚達を余所に、彼女は与えられた情報を整理し、その正確な規模と取るべき方策を思い描いていく。
蒼天会軍の総大将は王昶であることを、陸凱は前もって知っている。

王昶は字を文舒といい、陸凱達の世代より、一学年先輩に当たる。
劉氏蒼天会の時代から名門氏族のひとつとして知られる太原王氏一門の末葉に属し、先だって学園を放逐された、クーデター未遂事件の首謀者であった同族・王凌の謀には荷担せず、それどころか文武共に突出した類い希な能力により蒼天会軍で重きを成し、「三征」のひとりに数えられる怪物じみた存在だ。
同姓で盟友の関係にあるという現・荊州校区総代の王基共々、長湖生徒会に対する最大最悪の「障壁」にして、「災厄」といってもいい。


そしてたどり着いた先には、その想定とほとんど変わらない光景が展開している現実に、彼女は最早笑うしかなかった。


(んまーあっちの主将があの天然性悪の王昶で、こっちが感受性の塊みたいな公緒(朱績)なら仕方ないかね)

場違いと知りつつ引きつった笑みを浮かべる陸凱に、「笑ってる場合じゃないですよー!!」と小声で窘める戴烈。


陸凱は王昶がどんな手を使って、江陵の主将である朱績を引きずり出したのか直接は知る由がない。
とはいえ、相手の性格の悪さならよく知っている。
あの何とも言えないナイスな性格の持ち主である王昶なら、先に引退したばかりの長湖部総参謀・朱然の妹で、これまたその後を継ぐ者としてプレッシャーの中にいる朱績を江陵棟から引きずり出すなんて朝飯前だろう。


彼女はそれでも狼狽する他の幕僚達の動きを制し、その機を見極めるべく戦場を睨み続ける。

(だがな、調子に乗りすぎだよ、王文舒先輩よ。
 さあ…隙を見せてみな。
 その首、後腐れの無い様にこの場であたしが貰い受けてやる!)

笑う表情の中、その瞳に獰猛な狩人の光が宿る。


勢いの乗っているだけでなく、後方にまだ動かぬ「本隊」が存在することを察知した上で、相手の掩殺の備えを崩させ…あべこべに相手本隊を動かしてから不意の一撃で大打撃を与える。
読み違えば江陵を失うことはおろか、自分たちも全滅必至だろう。


やがて…伏兵の王渾軍があらかた出尽くし、その読み通り、後方に控えていた王昶の本隊が動き出すのと同時に、陸凱は叫んだ。


「待たせたな、全軍突撃ッ!
蒼天会の座敷犬共を一匹残らずここで叩きのめせ!!」
「おーっ!」

ようやく下された陸凱の号令一下、彼女の軍団は怒号と共に、勢いづいた蒼天会軍の横っ腹めがけて突っ込んでいった。


これによりあべこべに蒼天会軍に大打撃を与えることには成功するものの、肝心の王昶、王渾らの主要な将は今一歩のところで取り逃してしまった。
これに利無しと覚った王昶は、数日の睨みあいの末に軍を引き、ひとまずその脅威は回避された。





王昶が引き上げ命令を下すそれより少し前。
間一髪で江陵の窮地を回避した陸凱は、姿を見せない朱績の籠っていた江陵の執務室を訪ねていた。

江陵の副将から事情を聞いていたので、大体どうしているかは陸凱にも予想はできていたが…まったくそれと異なることなく、朱績は部屋の隅で座り込んで、膝に頭を埋めている様子を見て、彼女も思わず吹き出しそうになった。


「てかさぁ…気持ちは解るけどそんな教科書通りの挑発に乗るなっての」

そんな挑発の仕方なんて教科書に載ってはいないんだろうが、と心の中で自分ツッコミする陸凱。


相当なショックだったのは解るが、ここで代表者に何時までもヘコんでいられても士気にかかわる。
そう判断した陸凱は、あえて普段通りの調子で茶化して見せたが…当然ながら、この失態の悔しさに未だ涙を止めるきっかけすらつかめない朱績からそんなツッコミが飛んでくるとは、陸凱も当然思ってはいない。


「…だよ…っ」
「ん?」

そのとき、嗚咽の中からそんな声が聞こえた。

「あたしに…あたしなんかに…お姉ちゃんの…代わりなんてっ…」
「そ〜だろうね〜」

この重苦しい雰囲気を意に介するでもなく、あくまで軽く流す陸凱に、朱績は悔し涙を払うことなく睨みつけた。

「伯姉なら言うに及ばず、義封先輩だったらきっと笑って流しただろうね。
周りが呆れたって、自分の感情を無闇やたらと周囲に振りまくような人じゃなかったし」

それでも陸凱は取り合おうともせず、更に少女の心を抉るような言葉を容赦なく吐きつけた。

「酷いよっ!
…何でそんな、酷いこと…平気で…」

朱績が掴み掛かってきても、陸凱はまったく動じない。
そのまま彼女の胸に顔を預け、再び泣き出してしまう朱績を…陸凱は振り払おうとせず、その体を抱き寄せる。
そして、諭すように告げた。

「なぁ公緒、あたしたちはどう頑張っても、あんな人たちの代わりになんてなれやしないんだ」
「…ふぇ…?」

見上げた朱績が見る陸凱の苦笑いは、心なしか寂しそうに見えていた。

「いくら能力があったって、たとえ血のつながりがあったって…あたしや幼節が伯姉の代わりなんて出来ない。
他の連中で言えば…承淵も頑張ってるけど…甘寧先輩の牙城に迫ることは出来てもその代わりになるのは無理だろう。
世洪はお姉さん(虞翻)みたいになれないだろうけど…まぁ、あれはなれないほうが無難かもな。
今ですらわりと手がつけられんというのに」

少しだけ笑い、そして真顔で続ける陸凱。


「あんたも同じだ、公緒。
だからそんな、全部巧くやれなきゃ駄目だなんて、自分を追い詰めるのは止せ。
あたしたちはあたしたちなりに、頑張るしかないから…失敗したら、次へ活かしていけばいいよ。
あたしたちお互いで、足りない部分をフォローし合いながらでもいいからさ」


その言葉に、弱々しいながらも「うん」と朱績は頷いた。





それから少し時間が空いて、落ち着いた朱績を連れ出して来た陸凱は、宛がわれた応接室にふたりで向かい合う形で座る。
陸凱は、気を利かせた主将誰かの指図で、差し入れられたわずかな菓子類と茶をすすりながら外の様子を眺めていると、それまで無言で俯いていた朱績が、これまでの戦況を語りだした。

陸凱はこれ以上混ぜ返すこともせず、それを静かに聞いていた。

「…本当はね」
「うん」
「本当だったらね、叔長と挟み撃ちにするって話、昨日の打ち合わせでしていたんだ」
「叔長だと!?」

陸凱は耳を疑った。


叔長とは…「長湖三君」の一角になぞらえられていた諸葛瑾の従妹にあたる、諸葛融の事だ。
その諸葛瑾の妹であり、次期部長の後見役と目されている俊才・諸葛恪の縁者でもあることから、早期からユースとして課外活動に参加しては居るものの…多少の悪知恵が働く程度の、我儘勝手の見栄っ張りで子供じみた性格の問題児。
大雑把なくせしてやたらと才能を鼻にかける諸葛恪共々、あの穏やかで誠実さと忍耐強さを絵に描いたような諸葛瑾と血を分けた存在なのかどうか、疑わしく思えるようなロクデナシ…陸凱ならずとも、長湖生徒会の大多数の者がそう思っているだろう鼻つまみ者だ。


「でも、何時まで経ってもまったく動いてくれる気配もなくて…。
何かあったのか聞きたかったけど…あの包囲じゃ、連絡も取り合うことができなかった」

朱績は信じていたのだろう。
性格云々はともかくとしても、知恵のまわる諸葛恪の妹であれば、きっと己の手に負えずとも最良の手を打ってくれるだろうことを。

「何を馬鹿な!
あの小娘、援軍の将になるのを嫌がって、お役御免とばかりにさっさと逃げを打ちやがったんだぞ!
だからあたしがあんたの助勢買って出る羽目になったんだ、このクソ寒い時になあ!!」

陸凱は苛立たしく頭を振ってそれを否定する。

「そんな…!
あの子…私が行くからには大船に乗った気分で待ってろって…そう言って…!」

思って見ない事実を聞かされ朱績の顔から一気に血の気が引いた。

「追い打ちをかけるのもアレだがなあ…あの大法螺吹きの出任せを鵜呑みにする奴があるかよ。
大体にしてアホロバ(諸葛恪)の尻馬に乗るしか能の無いガキに、こんな重要な任務の主将出来るわきゃねえだろ」

呆れたような溜息を吐く陸凱の言葉に震える朱績。
それは、恐怖などからではなく、信用していた人間に裏切られたというショックからだったことは、次の瞬間一気に顔が紅潮して来た事からも明白だ。

朱績は怒りで震える拳を、思いっきり床にたたきつけた。


陸凱は敢えて伏せたが、諸葛融は「むしろ江陵なんて取らせちゃって、ボロボロになったところをやっつけちゃえば簡単でいいじゃん」と、朱績のことなどどうでもいいと言わんばかりの暴言を吐いていたのだ。陸凱も流石にぶん殴ってやろうかと思ったが、丁度居合わせた朱然が凄まじい形相で睨んで、子供じみた捨て台詞を残してその場を逃げ去ったというのが真相だ。
そのことを話そうものなら、今の朱績であれば迷わず彼女らの元に殴り込みに行くだろう。


(結局、あいつらも子瑜さんには遠く及ばない。
 しかもあいつらは、自分にそれ以上のことが出来て当然って勘違いしてやがる。
 馬鹿につける薬はない、か)

嫌いではあったが、陸凱は彼女らのことが心の底から哀れだと思った。

(でも…お前は違うよ、公緒)

だからこそ…怒りと悔しさで涙を浮かべる朱績の姿は、陸凱ならずとも好ましいものに見えていただろう。


「さて、机と書きモン貸してくんないかな。
今回の始末もそうだけど…ついでだ、あの馬鹿の件も一緒に報告しておいてやる」
「え…」

今度は朱績が自分の耳を疑う番だった。
朱績は陸凱のやろうとしていることの重大さを悟り…上っていた血が、まるで急転直下する感覚を覚え、狼狽する。


いくら諸葛融が主将にあるまじき不手際を犯したとはいえ、相手は次期部長後見役の妹だ。
下手に告発すれば、逆に陸凱が処断されかねないはず。


「ダメ、それはダメだよ敬風!
あんな連中のために敬風の手をわずらわせるなんて…」

建前でそう言ったつもりだったが、朱績も陸遜を姉のように慕っていた一人だ。
陸凱も陸遜のようになってしまうのではないかと、そんな心配をしてくれているのだろうと、陸凱は思った。

彼女は心配そうに見上げる朱績に、ニヒルに笑って返す。

「大丈夫、十二分に勝算しかねえよ。
こないだの事件で懲りてるあの会長になら、少なくともあの馬鹿姉妹よりは道理が通るし…いざとなりゃ、あんたのねーちゃん(朱然)は勿論、今運動部連合をまとめてる定公(呂岱)さんが黙っちゃいるまい。
大体あのアホロバにそんな人たちを相手取れるような度胸があったら、今頃ここにはあたしじゃなくてあのアホロバが来てたんだろうよ。納得したか公緒ちゃんよ?」

そうして部屋の机からメモ用紙と筆箱を取り出すと、陸凱はその場で何やら書き出し始めた。
恐らくは、きちんとした報告書として報告するための草案を書いているのだろう。

「やっぱり、敬風は凄いや」

そんな陸凱の姿を見て、朱績はそう呟いた。

「そうかい?」
「…うん。
今のあたしじゃ、とても太刀打ちできそうにないよ…いろんな面で」

その言葉に、羨望はあっても嫉妬じみたものはない。
この素直なところは、陸凱に限らず多くの同僚たちが好感を抱いている朱績の美点でもあった。

「でも、あんただっていいとこはいっぱいあるだろ。
例えば…」
「例えば?」

朱績にそう真顔で聞かれて、陸凱は返答に困ってしまった。
こう言うときは「そ〜お?」とか言って能天気に流してくれる従姉妹の陸抗の方が数倍やりやすいと、陸凱は思った。

「う〜ん…まぁ、少なくとも奴らよりはマシだわな。
少なくとも今回の失敗で、次どうすればいいか勉強にはなったろ?」
「う〜…やっぱりバカにしてる?」
「あのなぁ」

ぷーっと膨れて抗議する朱績の姿に…陸凱は、彼女の良いところはまだおおっぴらに言わないほうがいいのだろう、と思った。


これからは、もっといいところが増えていくかもしれない、と思ったから。


(そうなれば…あたしたちも伯姉たちの期待に、少しは応えられるのかな?)


窓の外を見れば、雪はもう止んでいた。
雲に覆われた、くぐもった茜色の空のなか、彼女は満足げに微笑む陸遜たちの顔を見たような気がしていた。



(終)