「独立政権を作るべきではない」

隣に腰掛けた、赤い髪の小柄な少女がそう呟く。

「董昭たちが何考えてるのかなんて知らないけどさ、文若が考えていることなら良く解ってるつもりだよ…でもね」

そう、ため息を吐く。


私が彼女と行動を共にするようになってから、既に二年の月日が流れていた。
乱れた学園を自らの手で立て直すと言って、ただがむしゃらに駆け抜けてきた少女と共に、何時か自分も彼女と同じ夢を見ているような、そんな気がしていた。


「“魏の君”の名前なんて、あたしにとっては“奸雄”の呼び名となんら変わることもないんだ」
「ええ」

そう言った瞳も、彼女の心も、私が知る彼女のまま、変わることはなかった。


何時から、それが食い違っているように思えるようになったのだろう?
董昭が発議した、魏地区独立政権樹立運動の頃からだろうか?
彼女が、実績や品行を問題とせず、広く人材を募ると言う「求賢令」の発令を求めた時だったろうか?
それとも…彼女が孔融先輩を不敬罪で処断した時から?

もしかしたら、もう私が彼女と出会ったそのときから、それはあったのかもしれない。
私が勝手に作り上げた「曹操のイメージ」と、現実に目の前にいる「曹操本人」の違い、というものが。





私は部屋の中、彼女が寄越してくれたと言う箱を眺めていた。
何処にでもある、ケーキを入れるような真っ白な紙の箱。
中身は何も入ってなくて、何か書いてあるのかと思って分解してみても、文字どころか何の汚れも見当たらない。


中身のない、純白の空箱。


もしかしたらコレは、それ自体が彼女のメッセージなのかもしれない…そう思い至るのに時間はかからなかった。
その意味しているものに思い至った時、私はそれに気づいてしまった自分自身を呪わずにいられなかった。

「もうそこから取るべきものは何もない」

すなわち、もはや「曹操」にとって私…「荀ケ」が無用の存在である…そう示唆しているようにしか思えなかったからだ。
私の瞳から、堰を切ったように涙が溢れた。



-輪舞終焉-



そのあと、どのくらいの間、そうしていたのか解らない。
何時の間にかあたりはすっかり暗くなっていて、その夜闇の中、目の前に鎮座している白い紙箱が、妙に目立って見えた。
瞬きもせずに目をあけていたせいのか…それとも、既に涙も涸れ果ててしまったのか…乾ききった私の瞳には、その白さがただ、痛かった。





曹孟徳が、董卓軍団残党の手から逃れ落ちのびてきていた「学園の君」…「献サマ」こと劉協様を許棟へお迎えしてから一年以上の間…私は生徒会執行部として、「新生」した蒼天会の立て直しのために尽力してきた。
件の曹操さんは、新生蒼天会の重鎮にありながら、自ら前線に立って、学園の君に仇なす勢力を次々に平らげ…その功績は今、比類なきものになっている。

正直な話、「新生」したと言っても、今の蒼天会には何の力もない。
その兵権は勿論、実務機関もほぼすべて、実質は曹孟徳の手に委ねられている。
彼女の存在を危惧した者たちが、これまで幾度も反乱計画を練っても、大概は実行前にその首謀者の縁者に至るまで根絶やしにされていた。

もはや、あまりにも存在が大きくなりすぎた彼女がとるべき道はそう多くない。
しかし。





「あたしは…学園の君なんてモノになる気なんてない」

何時か、久し振りにふたりきりで話す機会があった時、彼女ははっきりとそう言った。

「献サマは…ううん、伯和ちゃんすっごいいい子だし、あの子を困らせるつもりはないよ。
あの子があたしのこと、好きで居てくれるみたいに…あたしだって、あの子を大切な友達だって思ってるんだ」

そう話す彼女の目は、酷く悲しそうに見えた。

「でも…伯和ちゃんがそれを望んでも、あたしがあたしであることまで止めたくない。
これはあたしのわがままなんだ。
あたしに対する、生徒会三役という以上の見返りが必要だというなら…あたしがあたしとして振る舞える自由があればそれでいい」

でも、そう言い切った彼女の瞳に、偽りなど何処にもなかった。
しかし…それが彼女らしいことだと解ってはいても、私の心のどこかでは、その考え方そのものは理解できていなかったのかも知れない。


袁紹・袁術もまた、あわよくばその「頂点」を目指していた。
劉氏に使える名族の一員として生まれた私には許されない大逆だとしても…むしろ曹操さん(かのじょ)のいう「自由」よりも、他の覇者達が持っていたようなありふれた「野望」の方が何故かすんなりと理解できてしまう。

彼女と離れていることが多くなった昨今、私は外で多くの「功績」を上げ続けるその姿に酔いしれながら…一方でどうしても拭い去ることのできない闇が、自分の心を侵食し始めていたことに気付いていた。
それが大きくならないように願ううち…私は彼女に対して、自分の身勝手なイメージを作り出し…そうなることをただ願っていたような気がしていた。
それが、「彼女が彼女でないものになるイメージ」であると知りながらも。


もう、私の心は限界を迎えていたのかも知れない。
彼女が「魏の君も奸雄も同じ」と言い放ったその時に。


モノ言わぬままの白い箱。
私はそれを燃やしてしまおう、と思った。

この中に彼女との想い出も詰め込んで、一緒に焼いてしまえばいい。
楽しかったことも。
辛かったことも。
ひとつ残らず、全部。
そうすれば、楽になれるような気がした。





私はマッチと、火が周りに燃え移らないように大き目の皿を取り出し、その上に紙箱を置いた。
おもむろにマッチを一本取り出すと、ふと、脳裏にひとつの考えが浮かんだ。

「もし…このまま私が死ぬのなら…神様は幻でも見せてくれるのかしらね…?」

誰に言うともなく、そう呟く。

昔読んだ童話では、少女は寒空の中、売れ残ったマッチの火の中に、楽しかった思い出の日々の幻を見ていた。
だったら、すぐに消えてしまうマッチの火ではなく、この紙箱を燃やしたら、何が見えるのだろう?
捨て去ろうとした想い出が、走馬灯のように流れていくのだろうか?
自分がまだ、こんなことに思いを馳せるくらいの心の余裕があったことに、私は苦笑した。


私はマッチに火をつけ、紙箱の中に投じた。





曹操さんはこのときの合肥戦線出立にあたり、わざわざ、正式な嘆願書をもって、私の従軍許可をとってくれたという。
「そうでもしなければ、一緒に前線へ出ることすらできなくなったなんて、不便になったもんだねぇ」と笑って。

私は嬉しかった。
彼女が蒼天通信を抑えて間もなく…私が彼女の手伝いをし始めてから、毎日がジェットコースターに乗っているように目まぐるしく情勢が変わり…一日一日全精力を注いで課外活動を行っていたあの日々に戻ったみたいな気がしていた。
でも…私の心の闇は…もうその心の躍動すらすぐに打ち消してしまうほど、深く私の心を侵食していた。





燃え盛る火の中に、やはり幻は見えない。
私が彼女と過ごしてきた日々の想い出も、心の中に色褪せず残ったまま。

そんなことは解りきっていた。
この行為に何か意義があるかどうかなんて、自分自身にだって解らなかったのだから。

私は何を求めていると言うのだろう?
彼女との想い出を、総てなくすことなのだろうか?
それとも、またあの頃みたいに…ただ、その傍らで一緒に居たいというのか?


「…解らないよ…っ!」


切なくて、苦しくて…気が狂いそうなほど、何かを求めているのに、その「何か」が見えてこない。

私は、この火に何を求めようとしたのだろう?
いや、この白い箱の中に、何が入っていることを望んでいたのだろう?
心に渦巻く奔流が、その堰を破って噴出そうとした時。



「荀ケは、ただ、荀ケであればいいんだよ」



はっきり聞こえたその声に、私はその声の方向へ振り向いた。
何時の間に開け放たれたのか…さして明るくもない廊下の非常灯が、嫌に明るく見えて私は目を細めた。

そこにいた人影が、一瞬「彼女」に見えた気がした。
私は反射的に手を伸ばそうとする。
叫びだしそうな感情の奔流が、衝動的に五体を動かし、その距離を詰めたとき。


「公達」

いたのは、穏かな笑みを返す、同い年の姪っ子…荀攸だった。

「伯母様、その箱の中には…何が見えました?」

求めて止まなかった幻はもう、消えうせていた。





それから、火が燃え尽きるまで、ふたりでただそれを眺めていた。
相変わらず目に映るのは、炎の柔らかな緋の色と、その中で黒く小さく変わっていく、白かった紙箱の慣れの果て。
私には、まるでそれが今の…いや、これまでの自分のように思えていた。

緋の炎は彼女。
私はずっと、その炎が消えないようにしてきたんだと、そう思えてきた。
だったら…その「白い箱」が私自身であると言うのなら。


「なぁんだ」


私はきっと、とんでもない思い違いをしていたのかもしれない。

きっとこの白い箱には、最初私が思い込んだ意図など、何処にもなかった…。
その火の中に映るは…初めて出会った時から変わらない、赤い髪の少女の笑顔ひとつ。


「答え、見つかりました?」
「うん。
“荀ケは荀ケでしかない”って、こう言うことだったのね」

小さく、私は頷く。
堰を切ったように、後から後から涙が流れ落ちてくる。

私はもう、この感情を止めることはしなかった。
同時に、私にもはもう、彼女に渡せるモノはなくなってしまったことを知った。
けれども。


私の心の靄は、もうすっかり晴れて…その向こうにあった私なりの「答え」を、ようやく見つけることが出来た。





合肥棟の屋上で、眼下の戦場を眺める少女ふたり。
眼下の喧騒に比べ、曹操と夏侯惇がいるその場所だけが、まるでそこだけ別の世界のように静かだった。

「文若さんたち…引退、するんだってな」
「うん。
でも…いいんだ」

背後に立つ従姉妹に振り向くこともなく、寂しげな笑顔を空に向けながら、曹操は呟いた。

「あたしの気持ち、ちゃんと解ってもらえたと思うから」
「そうか」

夏侯惇も、それ以上は何も言わなかった。
少女は、かつて自分を影ながら支えてくれた少女が身に付けていたストールを翻す。


(今までありがとう、ケさん。
 もう、自分を見失ってってまで…無理をしなくていいんだ。
 あたしのことなら、大丈夫だから。だから)


今まで影ながら支えてくれた少女に、彼女はしばしの別れを告げた。


(いつか、また、一緒に遊びに行こうね。
 あたし達が初めて出逢った、お互いに小さかった、あの日のように)


その瞳から流れる涙は、風が払ってくれた。