「部長〜っ、こっちこっち!」

見晴らしのいい土手の一部を占拠した少女たちが、そこに姿を現した少女たちに呼びかけた。
長湖部長・孫権を筆頭とした何名かの食料調達組が合流を果たし、戦利品の分配を開始した。


合宿上がりの着の身着のまま、体操着の半袖にハーフパンツといういでたちは凌統、朱桓、潘璋などの体育会系。

ばっちり浴衣を着付けているのは部長孫権を始め、顧雍、朱拠、薛綜といったお嬢軍団に、意外なところでは周泰がこの仲間に入っていた。
普段流すままにしている銀髪を綺麗に結って、白地に向日葵柄の浴衣を着飾ってみればまるで別人。これまでの「戦歴」を物語る所々の古傷があっても十分な美人なだけはあり、十分に人目を集める容姿だった。
それで散々からかわれてしまったせいか、彼女は何時も以上に引いた位置にいる。

それでもって思い思いの私服を身につけているのは諸葛瑾、谷利、潘濬、そしてお目付け役の張昭といったあたり。
諸葛瑾は白のワンピース、潘濬らも半袖やシースルーなど涼しげな軽装になっているのに、何故かごっそりと色々着込んでいる張昭。


「なぁ…なんであのねーさん、あんな暑苦しい格好してやがるんだ?」

何かむさい物でも見るような目つきで張昭を一瞥し、ひそひそ声で隣の吾粲に耳打ちする潘璋。

「知りませんよそんなの。あたしらに対するあてつけかなんかじゃないんスか?」
「言えてる、観てるだけで暑っ苦しいわね、アレ」

うんざりした表情の吾粲に、凌統も皮肉たっぷりに相槌を打つ。
朱桓もそれに続く。

「こんな蒸し暑い日に、どー観たって冬物のロングスカートに長袖の上掛けとか正気の沙汰じゃないっしょ」
「それとも単に年寄りだから寒がり…げ」
「なぁんですってあんたたちぃ〜!?」

薄緑の半袖パーカーに白のキュロットスカートという私服組の全jがそこまで言いかけたところで、背後にものすごい形相の張昭が睨みつけるように立っていた。
たちまちにして、彼女らの周りにいた無関係な少女をも巻き込んで、張昭の怒りの説教が飛ぶ。

「相変わらずねぇ、あの人も」
「連中も面白がって聞こえよがしにいうのも悪いんだけどねぇ…どっちもどっちだわありゃ」

それを離れた位置で眺める諸葛瑾と厳oも呆れ顔だった。



-真夏の夜のシンデレラ 後編-



「そういえば、結局伯言たちには会えなかったわね。
承淵たちも何処にいったもんだか」
「ええ…元歎曰く中学生軍団は帰ったようだし、伯言たちは会場の何処かにいるってことなんだけど…」

厳oの目配せを受け、草の上においたタロットから目を離し、なにやら呟く顧雍。

着ている浴衣も黒一色、帯も暗紅色なのでまるで和製の魔女である。
紫の地に朝顔柄の浴衣を着る孫権、ハイネックで山吹色のサマーセーターに緑チェックのスカートという厳o、白ワンピースの諸葛瑾と四人で並ぶと、いろんな意味で浮いている。

それはさておき。

「居る事は確かだけど、人が多すぎて巧く気配がつかめない、って?」

顧雍がこくり、と頷くのを見て、肩を竦ませる厳o。

「元歎先生の占術をもってしてもだめとなりゃ、諦めるしかないですかね?」
「だから来るのを待って、合流すればよかったのよ。
どうせ急ぐことだってなかったんだし」
「そうだね…でも、いるんだったら帰り際にばったり出会うかもしれないし」

諸葛瑾の尤もらしい意見に、ちょっと残念そうな表情の孫権。
その時、一発目の花火が、轟音を伴って夜空に大輪の花を咲かせた。





そのころ、境内脇の本営に、木々の隙間から花火を眺めてる少女が四名。
それは陸遜、朱然、そして変身中の虞翻とその妹虞譚であった。


結局放送を掛けようにも、虞譚は見ず知らずの娘三人はもとより、運営委員の大人たちにも警戒して口を利こうともしない。
目の下を真っ赤に腫らして、不安そうに俯いているままだ。

仕方ないので迷子がいるという放送だけ掛けてもらい、心当たりのある人間が来るのを待つことになった。


「ちっくしょ〜…とんだ災難拾っちゃったな〜」
「何て言い草よあんた…まして本人目の前にしてちょっとは自重しなさいよ。
それより、私思ったんだけどさ」

不満げの朱然だったが、陸遜が小声で、

「…あの娘、よく観ると仲翔先輩に似てない?」
「ん?…あれ、そういえば」

彼女にもようやく思い至ったらしく、次の瞬間にはにんまりと笑みを浮かべる。
不意に自分の名前を呼ばれて、虞翻はどきっとした。

「そうだよ、ランプの光で解り辛かったけど…確かに、あの髪の色に髪型とか」
「ね、そっくりだよね」

くすくすと笑い合うふたり。


確かに虞譚の髪型は、三つ編みにこそしていないが、両サイドに垂らした髪の先をリボンで結っている。
ツリ目かタレ目かの違いもあるが、確かに面影はあるかも知れない。

まして虞姉妹は長姉の虞翻を筆頭に、皆基本的に母親似であり顔立ちはみな似ているから当然といえば当然だろう。


「この娘もうちょっと大きくなれば、きっと先輩みたいな美人になるのかしらね?」
「あ〜…でも見た目だけにしてもらいたいもんだな。
この可愛らしいのからどぎつい言葉が飛んでくるのは遠慮願いたいトコだ。
そもそもお前、こないだアレだけこき下ろされてたじゃないか。しかも目の前で」

朱然の軽口に、虞翻の顔色が変わった。


彼女が言っているのは、虞翻が交州学区に左遷させられたときのことを言っているのだろうことは間違いなさそうだ。

あの日、虞翻は孫権や張昭と示し合わせての狂言とはいえど、陸遜に対して散々な罵声を浴びせてしまっていた。
「いちマネージャー風情が、一時の幸運で成り上がって、周瑜の後継者を気取っているだけじゃないか」と。

芝居とはいえ、自分もその才覚を認めた少女を心無い言葉で貶めた罪の意識に、虞翻は未だ苛まれていた。
朱然の言うことも恐らくはほとんどの部員が思っていることだろうことは、虞翻も承知していたことだが…やはりそういう風に見られていることを改めて思い知らされ、少し胸が痛んだ。


「でも、あの人は言われるほど悪い人じゃないような気もするの。
それに、私は付き合いはないけど…公紀(陸績)が親しくしてる人だし、アレもきっと何か訳があったのよ」
「この御人好しめ…つーか公紀も同類のような気もするけどな」
「その同類と従姉妹の私はどうなんのよ」

ジト目で睨む陸遜。
朱然はそれを気に止めた風もない。

「うーん…結構似たもの同士だと思うぜ?
正しいと思ったことは梃子でも曲げない真面目委員長タイプだよ、あんたも公紀も先輩もさ」
「…お姉ちゃんのこと…知ってるの?」
「「へ?」」

その時、沈黙を守っていた虞譚が、恐る恐るといった風にその会話に割り込んできた。
どうやらひそひそ声で話しているつもりが、何時の間にか普段の調子で喋っていたらしい。

呆気にとられていた陸遜が、

「え…えと、じゃあ…あなた本当に仲翔先輩の…?」

と問うと、虞譚はこくりと頷いた。





「ふたりとも、そろそろ休憩に入ってくれやぁ」
「ど〜も〜」
「じゃあ頼みます〜」

祭り会場の一角、テント張りの大きな休憩所の軒先で焼き鳥をひっくり返す少女たちは、その数本を手前の皿へ盛り付けると、やってきた初老の男性に後事を託して引っ込んだ。
青い半被に豆絞りという格好で、バイトに勤しむのは歩隲と敢沢の長湖部苦学生コンビであった。

「いやぁ、覚悟はしてたけどやっぱ重労働だわこりゃ」
「文句いうなって。
祭りも楽しんでお金も入るんだから、上出来だよ」

敢沢は汗をぬぐいながら、裏手に設置されている従業員用の薬缶から注いだ麦茶を一口に飲み干す。

「そういえばさ、結局部長たちって何処いったんだろ?」
「わかんね。
もう花火始まったんだし、どっかで集ってみてんじゃないの?」

興味ない、といった感じの敢沢。

「それもそうか。
あ、それよりさ、さっきトイレ行ったときに伯言たち見かけたんだけどさ」
「じゃあ部長もいたんじゃないの?」
「ううん。
それがね、ひとりは義封だと思うんだけど、もうひとりがね…ちょっと此の辺じゃ見かけない感じの娘だったんだ」

難しい顔の歩隲。

「親戚かなんかじゃないのか?
陸家にしろ朱家にしろ、あの一族蘇州地区にはゴマンといるからなぁ」
「いや…黒髪に緑がかった眼だったから、あの血筋じゃないと思う」
「よくそんな細かいところまで…」

呆れたように呟く敢沢。
それを他所に、歩隲はしきりに首をひねっていた。

「でもさ、なんかあの顔、どっかで見たような気がするんだけどね〜」
「気のせい、もしくは他人の空似ってヤツだろ?
あ、ほら花火上がった」

敢沢の指差した先で、三連発の花火が上がった。





「ああ…うちの公緒(朱績)がそういえば言ってたな。
虞姉妹って五人姉妹か六人姉妹だったっけ?」
「六人よ、確か。
親戚やら何やらで親しくしている娘を入れると実質十二人姉妹みたいだって…そう言えば、うちも幼節や親戚の娘が先輩の妹さんと仲良かったから聴いたことあったわね」

うんうんと頷く朱然に相槌を打つ陸遜。

「しっかし、ここまでちっこくなるとあの先輩の妹って言われてもピンとこないな…」
「…なんだかその人、随分曰くありげな人みたいね」

それまで沈黙を保っていた虞翻が、ようやく会話に割り込めるタイミングをつかんで口を開いた。

「曰く…確かにそうかもな。
口の悪さだけなら学園屈指って感じで」
「そんな大げさな…確かに、皮肉屋ではあったけど」
「みんなそう思ってるよ」

呆れたように肩を竦める朱然。
その時。

「…おねえちゃんたち…仲翔お姉ちゃんのこと、嫌いなの…?」

振り向くと、怒っているとも悲しんでるとも取れる複雑な顔をして、目の端に涙を溜め込んだ虞譚が三人をじっと眺めている。
流石の朱然も、しまった、と思ったようだ。

「い、いや嫌いとかじゃなくってさ…。
うんっと、なんっつったらいいのかな…なんか近寄りがたいっていうか」

慌てて取り繕おうとする朱然だが、これは却って逆効果だったらしい。
大声で泣き喚きはしなかったものの、虞譚はぼろぼろと涙を落としながら俯いてしまった。
流石の朱然もばつが悪いと見えて「困ったなぁ」と頭を掻いている。


後輩たちの本音で相当ダメージも大きかったが、泣き出した妹の姿が虞翻に更なる追い討ちをかけた。

こうなったら収まりがつかない。
思うより先に、彼女は妹を抱き寄せていた。


「Y夏…さん?」

怪訝そうな陸遜の声がする。

「私…この娘の気持ちが良く解る。
私もね、しばらく前に…あなたたちの言う先輩のように、友達と大喧嘩したの」

言葉を失うふたり。

「私も本当は離れたくなかった…。
でも私、未練を残したくないからわざと心にもないことを言って…。
もしかしたら、私がそんな馬鹿なことをしたばかりに、この娘みたいに私のことを考えてくれている友達が辛い思いをしてるかもなんて…そこまで考えていなかったから…」

彼女はそこまで呟き、口をつぐんだ。


内容こそ正体を明かさないための方便ではあったが、言葉に託した気持ちは紛れもない本心からの言葉だった。


あの時、事情の知らされてなかったうちで諸葛瑾だけが、自分の為に泣いてくれた。
「あなたは周りばかりじゃなく、自分自身も傷つけずに済まない大馬鹿だ」と。

彼女ならきっと、こんな自分自身の身を切り売りするような捨て身の計略を、実行前に断固阻止しただろう。
例え、それが後の苦難につながったとしても。


「…大丈夫ですよ。
きっと、Y夏さんのお友達だって、きっと解っているはずです」
「あたしだってあの人嫌いじゃないんだ。
妹たち同士で仲いいってのはあるけど、あの世代の子達ってなんだかんだであの人に世話焼いてもらってる子多いって言うしさ。
あたしたちには厳しくしてるのだって、きっとホントは私たちのことを思ってのことだって…ただの嫌な人だったら、そんなこと思わないよ」

後輩ふたりがそう、慰めてくれた。
腕の中で泣いていたはずの虞譚も、それが本当の姉と知らずに頭を撫でてくれた。

「……ありがとう」

虞翻はそれだけでも心が少し軽くなった気がした。
だが…それとともに自分が仮初の姿で彼女たちの気持ちを玩んでいるのではないか、という罪悪感も覚えていた。


「あ、やっぱり思奥だ!」
「おね〜ちゃ〜ん、思奥いたよ〜!」

それからすぐ、天幕にとびこんできた双子の後から、半べその虞忠と慌てた様子の虞も入ってきた。

「お姉ちゃん!」

それまで虞翻の膝の上にちょこんと腰掛けていた虞譚は、姉たちの姿を認めてぱたぱたとそちらに駆け寄る。
末妹を抱き寄せ、虞忠はその場にへたり込んでしまった。

「良かったわね、あんたたち」
「わ、伯言先輩に義封先輩!
もしかして先輩たちがこの娘見つけてくださったんですか!?」

想いもがけぬ人物に出会って、虞も目を丸くした。

「ああ、あたしが人混みからみつけてやらなかったら今ごろこの子は人波の藻屑だ。感謝しろ娘共」

ふんぞり返ってみせる朱然に、もう苦笑するしかない虞。

「あはは…恩にきります。
あれ、そちらの方は?」

そう言って虞翻の方に視線を送る。

陸遜が簡単に、自分たちが孫権たちとの待ち合わせに間に合わなかったこと、その時、ちょっとしたピンチを救ってくれた彼女に出会い、折角だから祭観覧の同行者に誘ったこと、虞譚の面倒をみてくれたことを説明した。

「そうだったんですか…申し訳ありません、ご迷惑をおかけしました」

やはりというか、虞も他の妹たちも、自分が彼女らの長姉であることなど気がついている風はない。

「いえ。
それよりこの娘はまだちいさいんだから、ちゃんと気をつけてやらなきゃダメよ」
「はい…気をつけます…え?」

頭を上げて一瞬怪訝な表情をする虞。
それを読み取った虞翻も「まさか」と思ったが、

「どうかした?」
「あ…い、いえなんでもないです。
先輩方も、本当にありがとうございました」

再度、深々と頭をさげる虞姉妹一同に、「気をつけてね」と残すと、虞翻たちもその場を後にした。





その際、虞翻は時計の針が既に九時半を少し回っていることに…即ち、自分が帰るためのタイムリミットが近づいていることに気がついた。


「今日は楽しかったわ。
あなたたちのおかげで、この地を発つ前のいい思い出ができた…本当にありがとう」
「いいえ、お誘いしたのも私たちだから、そう言っていただければ幸いです」
「なんだか名残惜しいけど…もしまたこちらに遊びにきたときには連絡くださいな。
長湖の周辺であれば、いくらでもご案内しますよ」

そう言って、朱然は自分たちの連絡先を書き込んだメモを押し付けてきた。
どうやら自分が虞翻であることに、彼女たちは最後の最後まで気が付いていないように見えた。

「うん…じゃあ、君たちも元気でね」

それだけ残すと、虞翻は帰路に着く人混みにまぎれた。


二人の影が見えなくなると、彼女は足早に人混みから離れようとする。

思わぬハプニングのために、彼女は予定外に時間を浪費していた。
先ほどから時折視界がぶれる感覚に何度か襲われていたが、どうやらそれが時間切れが迫っていることを示すサインであるのだろう。

そして、その間隔は短くなっている。


「あっ!」

やはりというか、バスも相当に混んでいる。

現在時刻は十時五分前。
薬を飲んだのが七時ちょっとすぎだから、その正確な時間は解らないものの、もう猶予がないことは良く解っていた。

(いけない…もしあの中で変身が解けたら、地方紙の珍事件枠確定だわ…どうしよう…!)

困惑する彼女を、さらに強い眩暈が襲ってきた。


−その薬を一度に大量に飲んでしまうと、変身が解けるときに意識を失うことがあるようです。
 変身が解ける直前くらいから動悸や眩暈に見舞われるでしょう。
 時間に余裕を持って行動されることをお勧めしますよ…−

虞翻は数時間前の、諸葛亮の言っていた言葉を思い出していた。

(…こんなに強い症状が出るなんて聞いてないわよ…っ!
 か…過剰な喧伝は…立派な詐欺よ…!!)

逆恨みであることは解っていたが、それでも虞翻は諸葛亮を恨まずにはいれなかった。

まさかここまで、前後不覚になるような症状が出るとは考えていなかったのだ。
ウマい話には必ず裏がある、ということを今更のように思い知らされていた。

(…意識が…途切れる前に…人影の少ないほうへ…)

彼女は気力を振り絞り、人の目を巧みに避けて林の奥深くへと入っていく。

まだ止まぬ祭囃子が遠く聞こえるのは、単にその場から距離を離しているだけではないのだろう。
ふらつく足で、密集する木にもたれながら更に奥へと進んでいく彼女は気づかなかったが…林は途切れようとしていた。


次の瞬間。


「…あ…!」

彼女の視界に飛び込んできたのは、深く沈みこんだ、夜闇で底の見えない涸れた用水路だった。


気づいた時、茂みの草に足をとられて彼女は思い切りバランスを崩していた。


「姉さんっ!」

夢か現か、その意識の狭間で彼女は虞の叫び声が聞こえた気がした。


そして、虞翻の視界は暗転する…。







虞翻が目を覚ました時、そこは見慣れない部屋だった。


「え…!?」

慌てて跳ねるように飛び起きる。

差し込んできた光に、彼女は既に夜が明けたという事実を信じきれず、一瞬「ここがあの世というヤツか?」と思ったが…見覚えのある少女がそこにいたことに気づき、その考えを即座に否定した。

「あ、気がつかれたんですね! 大丈夫ですか?」
「う…うん。ここは…」
「私の実家…ああ、申し遅れましたが私、この常山神社の神主の娘で」
「…知ってる。
こうして話すのは初めてだけど…帰宅部連合の趙子龍を知らない人間はこの学園にいないでしょうね」
「光栄ですわ」

そのお世辞とも皮肉とも取れない言葉に、趙雲は穏かに微笑んで返した。

まだ意識ははっきりしないところもあったが、虞翻はとりあえずここが彼岸の世界でないことだけは理解した。
もしこのとき趙雲が巫女衣装を着ていたらもしかしたらあの世だと思ったかもしれないが、白ブラウスに紺の巻きスカートという、どうみても私服といういでたちなのでここはやはりあの世ではないのだろう…というような根拠のない理論が脳裏をよぎるあたり、虞翻の意識はまだ本調子ではないようだ。

「いったい…私はどうしちゃったのかしら…?」
「私も又聞きの話になるのですが…」

趙雲は、困惑する虞翻にこれまでの経緯を簡潔かつ、詳しく教えてくれた。


どうやら、意識が途切れる間際、彼女が聞いた虞の声は幻聴ではなかったようだった。

用水路に転落する刹那、虞と虞忠が間一髪でその手を掴み、その体を引き寄せた時には既に虞翻は意識を失っていたらしい。
結局、虞は思案の末、本殿にいる趙雲の元を訪ね、彼女が意識を回復するまで趙家の一室で休ませてもらうことになったのだが…結局、終バスも出てしまったことで、病院にいる母親に了承をとって姉妹揃って趙家に泊めてもらうことになったのだということだった。

しかし、そこでひとつ引っかかるところがあった。
即ち彼女が意識を失う間際、彼女の変身が解けていたのか否かだ。

虞譚を引き取りに来た時…虞は自分の正体に気が付いていないようだったが。


「ごめんなさい、なんだか迷惑かけたみたいで」
「いえ、うちの家族も賑やかなのが好きなくちですし…立場上、来客も多い家ですから」
「かくいう私も、こちらに一泊させていただいたのですがね」

そこには何時の間にか、諸葛亮の姿があった。
黒無地のシャツに短めのデニムスカートという意外にノーマルな取り合わせに、流石に暑いのか腕まくりした白衣を身につけている。

「先に言わせて頂きますが…やはり心配になって後をつけさせていただきました。
如何な薬でも体質によって効果や副作用の出方が異なることもありますゆえ」
「私ぜんっぜん気がつかなかったけど…?」
「気が付かれたら尾行の意味がありますまい?
御陰で、非常に良いものを見せて頂きましたよ」

そりゃそうだけど、と心でツッコむ虞翻。
文句をいいたいのも山々だが、言ったところで効果がないことは解りきっているし、体力の無駄だと思ったのでやめておいた。

「長湖部の皆さんがいらした様なので、あなたがここにいることをお伝えしようと思ってたんですけど…孔明さんから事情をお聞きしましてね。
実はその薬、私も二月に使わせていただいたものですから。
ああ、ご心配なく…あなたはここに運ばれてきたとき、既に薬の効果は解けていたようです。妹さんたちも、どうして家にいたはずのあなたが会場にいたのか、不思議がられてましたよ」

趙雲は苦笑して言った。


余談だが、帰宅部連合の関羽と趙雲はバレンタインデーにおける最大の被害者といって良い。
今年は長湖部とのいざこざで関羽が既に一線を退いていたため、「羽厨」が「雲厨」と化して前日から趙雲を襲撃したのだ。帰宅部連合との一大決戦「夷陵丘陵の戦い」はその一週間後のことであるが、幸か不幸か、バレンタインデーのその日だけは例年通りの狂気ぶりであった。
開戦初期の連合の勢いは、その「羽厨」の怒りがそのまま帰宅部軍の士気の高さにつながっていたが、時間が経って長対陣が続く故に「羽厨」達のテンションががた落ちして大敗北につながったのでは…等という突拍子のない説を唱える学園史家もいるらしい。

趙雲は、諸葛亮の被写体になるという条件と引き換えに変身薬を開発してもらい、事無きを得たのであった。
不幸なのはそういう伝手のなかったために例年通り逃げ回る羽目になった「益州の宝塚」張任や、曹操の謀略により学生生活最期でその標的にさらされた夏候惇であろうか。


それはさておき、趙雲の言葉からも、妹達には会場で遭遇したのはバレていないことに、虞翻は少しほっとした。


「どうでしたかな仲翔先輩、夏祭りにおけるシンデレラ体験のほどは?」

諸葛亮が、いつもどおりの意味ありげな笑みで問い掛けてきた。

その一言に、虞翻は昨夜の記憶に思いを馳せる。
楽しかったこと、寂しかったこと、いろんなことが脳裏に浮かんできて、

「…なんだか、いろいろなことがありすぎて…巧く言葉にできないわ」

とだけ言うのが精一杯だった。


ただ、その笑顔はこの上なく淋しそうであった。





勧められた趙家の朝食をご馳走になって、虞姉妹は常山神社を後にした。

これから一週間の間、学園都市の各所にある神社でも祭が行われる。
常山神社でも、これからの一週間祭一色だ。

「ねぇ姉さん。何であんな姿になっていたの?」
「え…?
あ…あんた、私のことが…?」
「一体何年、あんたの妹やってると思ってるのよ。
余人ならいざ知らず、あたしが姉さんの声を聞き間違えると思ったら大間違いよ」

帰り道、小声で虞が耳打ちしてきたその言葉に、虞翻は心臓が飛び出るのではないかというほど驚いた。


そういえば、自分が変えたいと念じたのは髪の色と瞳の色だけだった。
まさか声だけで自分の正体を見破る人間がいるなどとは考えもつかなかったからだ。

だが、流石にこのカンのいい妹のこと、きっとあのときは気を利かせてくれたのだろう。
きっと、それで自分は危地を救われたのだろうか。そう思った。


「それに思奥も姉さんのこと、ひょっとしたらわかってたと思うよ?
あのあとしきりに、お姉ちゃん可哀相だ、って言ってたから。
あの時先輩たちが何か言ってたみたいだけど、そんなんじゃない、って膨れてたからね」
「そっか…」

軽口を叩いていた虞が、不意に真剣な顔をして言った。

「あの人たちが何言ってたか知らないけど…姉さんは姉さんが思っているほど、悪い人じゃないよ」

そんな妹の言葉に、虞翻も嬉しいやら恥ずかしいやらで、苦笑するしかなかった。

「大きなお世話。
さ、お昼ごはんに間に合わなくなるから、早く帰るわよ」

青空の下、長湖へ通じる大通りを、少女たちは駆けていった。





後日談。


「う〜ん、イイですよ先輩…幼常、もう少し光を」
「こうですか師匠?」

背後に反射板を持つ少女のひとりが、その角度を微妙に調整する。

「おーけーおーけー。
威公はもう少し左に…そうそうその位置」

そのファインダーの先には、なんとも釈然としない表情の虞翻がいた。
それは私服姿でも、制服姿でもなく…学校の授業で使うスクール水着だった。

「ねぇ孔明…なんで写真撮るのにこんな大掛かりなことする必要があるの?
それに何で私の水着を?」

祭の日から一週間後、彼女は諸葛亮の呼び出しを食って、自分が普段授業で使っている水着持参の上で益州学区は巴棟の室内プールにきていた。

聞けば、全会一致でプールサイドで水着姿の虞翻を撮ると言う事で決定したという。
全会、ということは、恐らくここに集った馬謖、楊儀、董厥、樊建、蒋エンといった面々との協議の上であろうが、そんなことはどうでもいい。

「ふむ、良い質問です先輩。
かつて赤壁島で蒼天会軍と戦うに際し、あなた方と論を戦わせたことは覚えていらっしゃいましょう?」
「論議? アレが?」

その一言に、虞翻は明らかに嫌そうな顔をする。
もっとも虞翻に限らず、あの日論陣に参加した者にとって「アレは断じて論議ではない、諸葛亮の萌え解説とやらで煙に巻かれた長湖部の厄事だ」というのが共通見解だった。

「その時私は思ったのです…この部はこれほどまでのツンデレ眼鏡っ娘の天国と化していたのか、と。
あの日以来、私は密かに簡雍先輩の協力を仰いで、秘密裏にその写真を集めていたのでありますが…」
「おいおい…」

盗撮だろそれは、と喉まで出かかった言葉を、彼女は飲み込む。
言っても無駄だろうと思ったし、そういえば幹部会の者でもそうした被害に遭った者が結構いたのを思い出したが…その下手人の正体を知ってなおのことげんなりした。

そして相手もそんな彼女の胸中を気にした風もなく長嘆して続ける。

「ですがあなたの写真のみ、どうしても納得のいくものが手に入らなかったのです。
そういうわけで、こう言う機会を狙っていたのですよ」

もう何て言ったらいいのか…虞翻は呆れるあまり偏頭痛を起こしていた。
それと同時に、これを代償にしてまで趙雲が避けたバレンタインの一日はどれほどのものだったのか、想像するに背筋の冷える虞翻であった。

「というわけで今日は存分に撮らせて頂きますよ?
それでは一枚目、入ります」

そして、泳ぐ者の居ないプールの一角にフラッシュが光る。


結局、虞翻はその日一日を丸々潰す羽目になったが…幸いにも、夏休み明けの模試で成績が落ちたという話はない。



(終わり)