「はぁ?」
あたしの言葉の何処がおかしかったのか…目の前の少女は心底呆れたような顔をして見せた。
そしてたっぷり三分ほど顔を見合わせると「…はぁ〜」と特大の溜息をついて、視線を手元の本に戻す。
「やっぱどう転んでも公緒は公緒か。
夾石棟の一件聞いたときはちったあ成長したかと思ったんだけどなぁ」
「ど〜ゆ〜意味だよっ!」
なんかすっごく馬鹿にされてる。
この緑の跳ね髪の少女…敬風こと陸凱はあたしの友達だけど、どういうわけかあたしに対しては辛辣すぎるきらいがある。
そうだ、この態度はアイツによく似ているんだ。
あたしのことを散々に馬鹿にして…そして、何時の間にか超えるべき壁として立ちはだかった蒼天会の雄・王文舒に。
−巣立つ若鳥を謳う詩−
あたしの名は朱績、字は公緒。
かつてはこの長湖部でその人ありといわれた名将・朱治、そして朱然の妹として、その名を辱めないよう日々努力している…つもり。
だけどあたしが頑張ろうとすればするほど、かえって散々な結果になってばかり。
君理お義姉ちゃんや、義封お姉ちゃんがこれまでやってきたことがあまりに偉大すぎるって言うのもあるんだけど、みんながあたしにもそれぐらいのことができるんだろ、って前提で話をしてきてる気がして、それがなんとなく息苦しかったりもするんだよね。
しかも敵にも味方にも一癖も二癖もある人間ばかりで、どんどん気が滅入ってくる。
でも、この間の寿春攻略(あ、それは全体の結果としては失敗だったんだけど…)で、あたしはようやく「敵方の嫌なヤツ」…つまり王昶先輩に一目おいてもらえるようになったみたい?
なんだけど…。
「というかあんたは自分のやってる武道の流派も知らんのか。
そんなことだから何時まで経っても「朱績ちゃん」呼ばわりされるんだ。
相手のことをどうこういう前にちったぁ自分について勉強しろ」
敬風はあたしのほうに視線を戻してくる気配がない。
完璧にあきれ返った様子。
けどあたしとしては納得行かない。行くはずがない。行ってたまるかっての。
知らないものは知らないんだし、わざわざ恥を忍んで教えてもらおうと、好物の珍味・鮭冬葉まで差し出したのにこの態度。
当然ながらあたしもムキになりますとも。
「何でよぅ!
あたし杖術なんて全ッ然知らないもんっ!
あー…そういう敬風だってホントは知らないんでしょ? うんうんわかるわか」
「知ってるも何も、神道夢想流はおまえがやってる香取神道流の流れを汲む杖術の流派だ。
いうなれば親戚のようなものだろ。
神道流やってるなら知ってて当然の知識だと思うけどな」
一瞬鬼の首を取ったように喰ってかかるも、敬風は「何を言うかこの馬鹿は」と言わん限りの表情で淡々と返してきやがった。
あたしは絶句するしかなかった。
夾石棟では結局、あたしは王昶先輩に勝ったわけじゃない。
あっちが勝手に決めて、勝手に引き下がっただけ。
当然、相手の技…杖術って言うらしいんだけど…の正体なんか掴むどころの騒ぎじゃない。
だからあたしは、次に直接対決する機会のため、その技に詳しそうな人に話を聞きに着た、というわけ。
本当だったら承淵(丁奉)とか幼節(陸抗)とか、長湖部でも武道に通じた人に聴きたかったんだけど…承淵は最近色々ありすぎてそっとしておいてあげたかったし、幼節は幼節で余りそういうものに興味がなさそうだからやめた。
だから長湖部でもかなりのトリビア王である敬風に聞くことにしたんだけど…やっぱやめときゃよかったかも。
「…知らない。
ていうか断じて知らない。
というかあたしの通っているのは剣術道場であって、そんな聞いたこともない獲物を扱う道場じゃないもん。
…道場のパンフとかにもそんな説明なんて書いてなかったし」
「まぁ確かに杖術の知名度そのものはそんなにはないだろうが」
やれやれ、といった感じで敬風は本に栞を挟み、徐に立ち上がる。
見れば、何時の間にか時計は五時を回っていた。
あたし達が陣取っていた学食は、寮生も利用するので九時ころまでは開いているけど…あたし達の寮では当番制で食事を作る事になっているので、そろそろ引き上げないと確かにマズい。
あたしは彼女の後について席を立った。
歩きかけたところで、不意に敬風が足を止めた。
「まぁ、確かに本音言うと、あたしも詳しいことはよく解らんよ。
だが一応、知り合いに神道夢想流の使い手がひとりいるはずだな」
「はい?」
あたしは思ってもみない言葉に絶句した。
鏡がないから解んないけど、きっとあたしはすごくマヌケな顔をしてる事だろう。
「先に言っておくが、あんたが目の仇にして止まない王昶先輩じゃないぞ。
ちゃんと長湖部身内の人間だ」
そうして再び彼女は再び歩き出す。
あたしも気を取り直してその後に続く。
敬風は歩きながら、あたしの献上した鮭冬葉を一切れ、口に放り込んでしばしその味を確かめていた。
「それ、初耳だよ。
だって承淵が柳生と北辰、幼節も柳生でしょ。
あたしが香取神道流で」
「不慮の事故で姿を消した世議は截拳道、同じく季文は少林寺の棍だな。
棍と杖もまた勝手が違うものだが」
敬風はまるで当然のようにさらりといったけど…世議(呂拠)と季文(朱異)はこの間、部内のごたごたに巻き込まれて退部してしまった仲間。
あたしは二人のことを思うと…寂しくなるから、あまり口にしないことにもしていた。
当然ながら、ふたりがどんな武術に通じていたかとかなんてあたしもよく知ってる。
「ついでにあたしが何をやってるかは知ってるか?」
「諸嘗流でしょ、古武術の」
ばかにするなコノヤロウ。
しつこいようだがあたしは身内だったら大体誰がどんな武術に通じているか知ってるつもり。
防具があってもそれが意味を成さないといわれる諸嘗流の使い手は、少なくとも長湖部では敬風以外にはいないと思う。
だからこそ、杖術なんて知らなくても当然。
身内に使ってる人間なんて聞いたことも…。
「じゃあ、世洪は?」
「え?」
あたしは小首を傾げた。
世洪(虞)…なんかいまいちピンと来ない。
あたしの記憶が確かなら…。
「確か世洪って…荒事の経験全くないでしょ?
お姉さん(虞翻)もお姉さんで、文理には強いのは知ってるけど…あれちょっと待って、そういえば去年の卒業生歓送コンサートの時」
「ようやく思い出せたか公緒ちゃんよ。
アレが「蒼天会三征」が一角・王文舒の特権かなんかだと思い込んでた時点で、一番肝心なところを見逃してるっていい証拠だ。
あの時仲翔さんが持ってたのが、いわゆる「杖」ってやつだ」
これはしたり、と敬風はニヤニヤしている。
こういう時の彼女の顔は…正直信用したものかどうか、迷うんだよなぁ。
何時だったか、これに騙されて毒キノコを食べさせられたような…そりゃあ死ぬようなキノコじゃなかったし、しばらくはトリップしてたみたいでいい気分だったのは認めるけど…ってそれは関係ない。
つーかその後しばらくこれで馬鹿にされたし散々だったもん。
けど、件のコンサートの中盤…確かに、あまりにも意外な人が意外なことをやってのけたった記憶はあったんだ。
いくら「演武」だからって、あれは「手を抜いていた人」と「付け焼き刃で身につけた技術」の応酬なんかじゃ、断じてない。
「当然…それが仲翔(虞翻)さんの専売特許、というわけじゃないからな。
世洪の奴も、いつからかは知らんがこっそり手を出してやがった。
少なくとも、あのコンサートの時点では十分、タツジン級のワザマエの持ち主だったと言ってもいいだろうさ。
今のあいつはアイツは部のごたごたに巻き込まれたくないから、わざとネコ被ってるんだよ」
「うっそ〜ん? あの世洪が?」
とはいえあたしはにわかには信じられず、美味しそうに鮭冬葉を味わうその顔を凝視した。
もしかしてあたしはまた馬鹿にされて、一杯食わされかかってるんじゃないかって身構えた。
当たり前の反応だよこのくらい。
「そうだなぁ…今はだいぶ落ち着いてきたから、久しぶりにやってるかもしれないな。
ウソだと思うなら、明日の朝五時頃に起きて寮の中庭見てみな。
運がよければ面白いものが見れるよ」
そう言って、敬風はまた一切れ、鮭冬葉を口に放り込んだ。
…
次の日の朝。
あたしはいつもより一時間半早い目覚ましに起こされ、晩秋の冷たい空気から逃れるように布団の中に…戻ろうとしたところでようやく、目覚ましを早くセットした理由を思い出した。
半信半疑というか、あたしはまったく信じていない。
はっきりいって騙されるのは癪だったけど…まぁウソならウソで、たまには朝から勉強してもいいかなと思ってとりあえず起きることにした。
確か中庭を見てみろ、とかぬかしてたよね。
いいわよ、見てやろうじゃないの。
どうせまだ街灯がついたままの、寒々とした石畳の景色が見えるだけなんだから。
そうして、あたしはカーテンを明け払った。
寮の三階にあるあたしの部屋のその位置からなら、ちょうど中庭が見れるはずだったから。
そうして辺りを見回す。
窓を閉めた状態では見える範囲もたかが知れている。
あたしは強烈な冷気が部屋に入るのを承知の上で窓まで明け払い、寒さを感じる前にベランダに飛び出し…そして見えたのは。
「誰もいないじゃないのさ」
その事実を確認するように、あたしは敢えてそれを言葉にした。
まぁ予想していたとおり、あたしはまたしても彼女に一杯喰わされたわけだ。
結局彼女の言葉を少しでも信じようとした自分に腹が立つと同時に、一気に寒気が襲ってきてあわてて部屋の中へ戻ろうとしたんだけど…。
「あれ…?」
もしそのときそれに気がつかなければ、あたしは今日も敬風にいわでもなことをいって、散々馬鹿にされたのかもしれない。
振り向きかけたとき、寮の玄関に人影が見えた。
遠目でもはっきりわかる学校指定の青いジャージ、そしてその特徴的なプラチナブロンドの髪は…。
「世洪?」
見間違えようがない。何処からどう見ても間違いはない。
彼女みたいな目立つ容姿の娘はそういないし、それに自慢じゃないけど、ゲーマーでも本の虫でもないあたしの視力は両目とも1.5あるからはっきり解る。
よく見れば手には棒の様なものを携えている。
その姿は確かに、あの日夾石棟で対峙した王昶先輩を…そして、あのコンサートで幼平(周泰)先輩と互角に立ち回った仲翔先輩の姿を連想させて止まない。
季文が振り回していた棍とは、明らかに長さが違うんだ。
木刀と、棍のほぼ中間ぐらいの長さ。
以前承淵が持ってたオバケ木刀よりももうちょっと長いぐらいかな。確かに、あたしの記憶にあったあの武器と一致する代物だ。
中庭に出てきた彼女はストレッチを始め、よく身体を解している様子。
ストレッチを終えると、身体も温まってきたらしい彼女はジャージの上を脱ぎ、袖を腰のあたりにまき付け縛り付けている。
そして、総ての準備を整えたらしい彼女は手に持った得物を構える。
次の瞬間。
「やっ!」
凛とした、よく透る声の気合一閃、彼女の技が、放たれた。
踏み込んで突き。
横薙ぎ。
打ち下ろし。
突き上げ。
時折織り交ざる掛け声で技はどんどん変化していく。
総ての技がまるで流れる水のように、まったく無駄のない連なったひとつの動きを…ううん、もう言葉じゃ全然説明できない。
「…綺麗…」
あたしは素直に、そう想った。
例えるなら、日本刀の美しさ。
引き込まれそうな美しさを持ちながら、あの前に自分がいたら…という恐怖感で背筋に冷たいものが走る。
けれどあたしは…その見事すぎる「練武」から、何時の間にか目が離せなくなっていた。
…
何時までそうしてただろうか。
「お〜い、公緒、起きてる〜?」
不意に真下から軽そうな声が聞こえてきた。
その声に、あたしは現実から引き戻された。
「お〜、珍しいじゃない。
寝惚けて這い出てきたってワケでもないみたいね〜」
下を見れば、上着を脱いだままの世洪がいる。
彼女は何時もの彼女に戻っていた。
これがついさっきまであの見事な技を繰り出したのと同一人物とは信じられなかった。
あたしは自分の目に写ったものの真実を確かめるため、自分もジャージに着替えてその上からパーカーを羽織り、中庭に出てきていた。
…
「…おはよ」
「うむ、おはよう」
軽く、挨拶を交わす。
でも、そのあとの言葉が続いてこない。
訊きたい事が多すぎて、一体何から話したらいいのか…そう思っていたら、彼女のほうから口火を切ってきた。
「あたしがこんな事してるなんて、やっぱり意外だった?」
「あ、えっと、その」
「あたしも隠すつもりはなかったけどね〜。
でもさ、あんまり騒がれるのって、好きじゃないから」
普段飄々とした世洪にしては珍しく、はにかんだような照れ笑い。
その様子に、なんだか悪いことをしてしまったんじゃないかという気になってくる。
「ごめん。
でも、気になったから…敬風が言ってたことが本当かどうか…」
「ええ?
まさかアイツこのこと知ってんの?
巧く隠してたと思ってたんだけどな〜」
目を丸くする世洪。
どうやらそのことは彼女にとって予想外だったみたい。
「ったくー…あいつもしかしら今この時点でも、どっかからにやにや笑いしながら見てんのかしら。
まあいいわ、あいつなら別に。
で…あんたはまたしても敬風に一杯食わされて見ようと此処に出てきた、というわけね」
腕を組んで、「うん、わかるわかるよ〜」とにやにや笑いの世洪。
あたしは頭を振る。
半分はあたりだけど、もう半分の理由が違うから。
「それもあるけど…あたし、これが本当だったら…世洪に、訊きたい事があったから」
「ふむ」
彼女は腕組みしてちょっと思案顔。
「あたしに答えられる範囲でならいいけど…後で良いかな。
流石にそろそろ皆起きだしてくるし、朝食の準備もあるからね」
「う、うん」
そしてあたしも彼女にくっついて自分の部屋へと戻っていった。
…
その日の昼休み。
あたしは彼女と図書館の談話室に来ていた。
学食を離れる時、子賤(丁固)とか他の娘達も何事かと思ってついて来ようとしたのを、敬風が気を利かせて巧く丸め込んでくれた。
振り向きざまににかっと笑って見せたあたり、昨日の鮭冬葉の礼のつもりなのだろう。
世洪にも何か奢ろうとしたけど、今朝のことをおおっぴらに言わなければ別にいいとのたまった。
けどまぁ、後でお茶の一本も奢る事にしておくかな。
「んで、訊きたい事って何なのさ?」
「う、うん。
その…世洪がやっているあれって…」
「神道夢想流杖術。
ああ、なるほど…あんたまだ、王昶先輩に打ち勝つことに拘ってるのか」
ずばり言い当ててくれるよ、このひとときたら。
あたしが余程解りやすい人間なのか、それとも彼女や敬風の洞察力がバケモノじみてるのか。
あるいはその両方なのかもしれないが、もう呆気にとられる他にない。
けど、そんな体面なんかどうでもいい。
今のあたしには…きっと世洪にも太刀打ちできるところはないことは解りきってる。
「うん…だから、せめて詳しい人に、どんなものだか教えてもらおうと思ったの。
どうしてもあのひとのことを、よく知っておきたいと思うから」
「なるほどねぇ」
彼女は腕組みしたまま「うんうん、わかるわかるよ〜」と頷く。
茶化されているようにも思ったけど、彼女にしてみればあまり真剣になられてもやり辛いから、そうやって場を和ませようとしているのかも知れない。
「王文舒先輩の腕前が実際どれほどのものかは、あたし知らないから何とも言えないけど…伝え聞く話では、皆伝とまではいかなくても相当な腕の持ち主であることは確かね」
「知ってるの?」
「道場の先輩にね、彼女に手解きをした人がいたらしいの。
半年ほどで止めたらしいけど…今も続けていれば、きっと時代を代表する使い手になってたんじゃないか、って言われているわ」
そこまで聞いて、あたしはまさか、と思った。
その表情から言わんとしたことを読み取ったのか、世洪は静かに頭を振る。
「元々は確かに、こんなのには縁はなかったのは事実。
けど、元凶はちゃんといるの」
少しさみしそうに笑う世洪。
元凶…そうだ、あたしはその元凶にも心当たりは確かにある。
それを知らなければ、あたしだって世洪が、そんな荒事めいた事に縁があるなんて思いすらしないはずだ。
彼女のお姉さん同様、運営の方で幹部候補としてユース参加した彼女には、そんなものは絶対にありえないって。
でも、確かにあたしは、さっきの「練武」に、その面影もちゃんと見えていたんだ。
君理お義姉ちゃんと同じ時代を、長湖部の中興期の動乱を共に駆け抜けただろう、その姿を。
「まさか、その人って…!!」
あたしは恐る恐るといった具合に、目の前の少女に尋ねてみた。
確信は、あった。
世洪は一瞬、躊躇ったようにも見えたが…。
「姉さんよ、あたしの」
そう、はっきりと言った。
やはり。
出てきた答えは、予定調和と言わんばかりにあたしの予想と違うことはなかった。
彼女のお姉さん…仲翔先輩といえば、皮肉屋として有名なのもさることながら、どちらかと言えば長湖三君と呼ばれた人たちに次ぐほど、後方支援や外交策での功績が大きい人だ。
でも…先輩は先代部長のために、あえて濡れ衣を被って誰の目からも触れないところから長湖部の危機を救ったひとであり…先代部長と先輩がどれほど強い絆で結ばれていたか…そんなことを知っているのは今の同期の中でもごくごく少数。
あたしも、その少数のひとりだ。
確かに、あのコンサートで見せた芸術的とも言えるその武は、一朝一夕で身につくような芸当じゃない。
きっとアレを目の当たりにした多くの部員も、そう思ってたはずだ。
そうか。
そんなことすら思い出せなかったんじゃ、敬風があたしを馬鹿にするのも…無理ないか。
そんなあたしの胸中を知ってか知らずか、世洪は淡々とそれを語り始める。
「姉さんは一般的には長湖随一の口の悪さのほうが有名だったアレもあるけどね。
良くも悪しくもお祭り人間の多い長湖初期の経理を一手に引き受けていた業績のほうが目立つから、姉さんが杖の達人だったことを知ってる人はかなり少ないと思うわ。
あのコンサートで見せたのも、正直氷山の一角に過ぎない…あたしたち姉妹ですら、姉さんが卒業して初めて知ったような重大な話もあるわ。
…それが事実であれば…学園史の記録を根底から覆すほどの大功を、姉さんが上げていたこととか、ね」
「で…でも、そんな話はさすがに聞いたこと」
「当然でしょうね。
姉さん自身がもみ消したのよ、その事実を。
あまりにも重傷者が多すぎて、そのことを認知してた人だってあまりにも少なかったから…公式的にそれをやってのけたのは、そのとき姉さんが使っていた「偽名」と、全く同じ名前を持つ人ということになってるはずよ。
流石にこの真相を知ったのは、つい最近のことではあるけどね」
あたしは、彼女がどの出来事を指しているのかを直感的に悟り…その恐るべき真相に思わず身震いする。
荒唐無稽な話に聞こえるが…世洪はお姉さん同様、わりと皮肉屋なところがある。
けど、この姉妹は弁は立つのに妙に嘘を吐くのが苦手らしいことは知っている。
にわかに信じられない話だけど…あたしにはどうしても、彼女が嘘を言っているようには思えなかった。
「先輩が…強かった、ってこと?」
あたしは恐る恐る、そう言った。
もしかしたらこれが場違いなひと言なんじゃないか、と一瞬後悔したが、世洪はそれを意に介した風もなく、ゆっくりと頭を振る。
「そんなレベルじゃないわ。
王昶先輩が時代を代表する使い手になるというなら、姉さんはまさに不世出の天才。
身内贔屓に聞こえるかもしれないけど…これは私の評じゃない。公瑾(周瑜)さんの言葉よ」
そこまで聞いた時、あたしは一つの答えに至る。
「小覇王」と称された二代目部長・孫伯符の側近は、何れも一騎当千の強者揃い。
だったら…その言葉を疑う余地など差し挟む方が誤りのような気がし始めていた。
「姉さんのあの武は、決してこの先も表向きの記録で語られるようなものじゃないと思う。
あたしが主将にならないのは、せめてあたしが姉さんの前に立てるくらいまで…そう思っているからよ」
そう言った世洪…その顔は、ちょっと寂しそうに見えた。
彼女も、やっぱりお姉さんの後姿を見ながら、色々考えたり、悩んだりしているのだろう。
未だにお姉ちゃん達の影を追い続けている、あたしのように。
「今の目標は、姉さんが編み出した「秘踏み」の技をモノにすること。
まぁ、ちゃんと習い始めてマネはしてみたはいいけど…正直アレこそ姉さん自身が誰から習うわけでもなく、自力でたどり着いた境地だからね」
「やっぱり、その技って難しかったりするの?
技術的なものとか…いろいろと」
「ううん、理論そのものは単純よ。
公緒、「一の太刀」は知ってるわよね?」
「うん…確か逆足踏み込みから、更に利き足で一気に踏み込みながら撃つのよね。
道場でも、今のところ同世代で皆伝を受けた人はいないみたいだけど」
とは言ってみたものの…実際には何人かいるんだけど、どれもこれもビッグネームばかりでカウントするのも途中で馬鹿馬鹿しくなってくるのよね。
結局こうした人たちの名前につられて入門はするけど、日常の基礎訓練に嫌気をさしてやめてく子が多い、って道場の先生が嘆いてたっけ。
「そうね。
でも「秘踏み」は更にもう一度、そこからさらに逆足で踏み込みながら一気に斬り抜けるの」
「ええ?」
あたしは言われた言葉の意味を一瞬、見失った。
ええと、つまりはこういうことか。
利き足で踏み込んで撃って、そのまま更にもう一歩踏み込んでいくと…でも。
「そんなことしたら、振りぬきの勢いがかかりすぎて自分の足まで斬っちゃうんじゃ?」
「真剣でやったら、そうかもね。
杖や木刀でも、当たれば足の骨くらいはあっさり折れるわ。
このところ私、体育結構休んでたでしょ?
骨折とまでいかなくても、途中でストップかけきれなくてよく足をねん挫したから…姉さん何にも言わないからどうか解らないけど、もしあんなの自然に開眼したなんて言ったら、我が姉ながら正真正銘のバケモノよ、マジで」
困ったように笑う世洪。
ああ、そういえば…彼女はここのところしばらく体育は見学してたっけ。
名目では「階段から転んだ」だの、「こむら返り起こして捻った」だの、随分らしくない言い訳してたなーとは思ったけど。
といっても多分、頭のいい世洪のこと、のっけの幸いと本当に猫を被ってたのかもしれない。
孫峻先輩ならいざ知らず、見境のない孫琳が彼女の実力を知っていれば本気で潰しにかかるくらいはやってたかも。
このあたりの能力は、流石に世洪が世洪たる所以だね。
けどなんだか心なしか、これまでの彼女とは何か違うような気がする。
雰囲気とか…なんとなくだけど。
「ねぇ、世洪」
しばしの沈黙を挟んで、あたしは世洪に問い掛けた。
「もし世洪さえ良ければ…あたしも朝のあれ、いっしょにやっちゃ…ダメかな…?」
恐る恐るその顔を覗き込んでみる。
何か呆気にとられたような顔をしていたが、彼女は、
「そうね。
ひとりよりも、ふたりのほうが何か掴むものがあるかもね」
そう言って微笑んだ。
…
以来、あたしは彼女と一緒に、朝に自主トレを始めるようになった。
今日は休日で、他の子達もほとんどは夢の中。
あたしたちは普段より長めにトレーニングの時間を取っていたが…やがて日も高くなり始めた頃、どちらともなく休憩を取ろうと、中庭にベンチに腰掛けた。
「随分剣も鋭くなってくるわね。
あたしがこういうのもなんだけど、やっぱりあんたスジが良いわ。
「一の太刀」の極意を掴むにもそう時間は要らなさそうね」
「それほどでもないよ」
感心したように呟く彼女に、あたしは少し照れくさくなる。
朝、毎日30分ほどのトレーニングを続けることふた月。
あたしはようやくこの生活に慣れてきて、最初は目で追う事すら出来なかった世洪の「乱調子」も、かなり見えるようになってきていた。
けど、見えるようになってきたからこそ解る。
あのコンサートの日に、仲翔先輩が垣間見せたあの技も、その秘められた力の氷山の一角でしかないということに。
あんな途方もない「怪物」を、彼女は目標としているんだ…ってことを、今更のように思い知らされる。
「でも公緒、本当にいいの?
王昶先輩の事」
世洪が不意にそんなことを訊いてきた。
王昶先輩が突如引退を表明したことを知ったのはそれから間もなくの事。
敬風なんかは「押しかけて闇討ちでもいいからちょっと叩きのめして来い」なんて言ってたけど…実際のところ再戦を申し込むという考えは、あたしにはなかった。
確かに再戦する機会があれば、あたしはもう一度戦っては見たかった。
けど、その勝負での勝ち負けが、すべてじゃない…あたしは、そう思っている。
「あたしにはあたしのやり方で、「勝つ」ことは出来ると思うから」
頭を振りながら、あたしはそう応えた。
「それも、そうだよねぇ」
彼女もそれを酌んでくれたのか、にっと微笑(わら)い返した。
「そろそろ、一度手合わせしてみようか?」
「そうだね」
そしてあたしたちは、今日もそれぞれの「目標」に向けて歩み続ける。
例えそれが途方もなく高い山だろうが。
神様にも匹敵するような、とんでもない存在であろうが。
どんなに猛々しい猛禽でも、その若鳥が最初に飛び立つときの…羽ばたく瞬間の恐怖と、それを乗り越える勇気を、あたし達は知っているんだから。
…
そんな二人の様子を眺める、二つの影。
ひとりは紫がかったロングヘアの少女。
筆書きで「海老」と白抜きに大書された紺のトレーナーに、デニムジャンパーとヴィンテージ物らしいジーンズに黒のブーツを身につけて、どこか緊張感のない表情で朱績たちを眺めている。
もうひとりはそれとは対照的に、ウェーブのかかった黒のセミロング。
ベージュのハーフコートから、厚手のチェックスカートが覗いており、お揃いのブーツを身につけている。
「やれやれ…もうこりゃあ、ちょっと突っついてどうにかできるシロモノじゃなくなっちまったなぁ」
「完全なミスね、文舒。
引退は良いけど、とんでもない厄介事残して…玄沖(王渾)が可哀相だわ」
ウェーブ髪の少女の淡々とした物言いに、文舒と呼ばれたその少女は、朱績たちを指差しながら言う。
「まぁ、いいんでねぇの?
そのくらいの「壁」があったほうが、かえって玄沖のためになるし?」
「相変わらずね」
やれやれ、といった風に、少女は頭を振る。
「それにあなたも、再戦は果たさなくて良いの?」
「愚問だな」
踵を返し、その少女が振り向きつつ言う。
「そんなものは、何時だって出来るし、何時だって受ける事も出来る。
そうだろ、伯輿?」
「そうね」
「今はただ、あいつらが何処までやってくれるのか…そして玄沖たちがそれをどうするのか。
それを第三者の位置で見届けてみるのも一興だな」
立ち去るふたり…蒼天生徒会随一の名将であった王昶と王基の言葉を聴くものは、その場には彼女たちしかいなかった。
(終)