「はぁ?」

あたしの言葉の何処がおかしかったのか、目の前の少女は心底呆れたような顔をする。
そして、たっぷり三分ほど顔を見合わせると「はぁ〜」と特大の溜息をついて。

「…どう転んでも公緒ちゃんは公緒ちゃんでしかなかったか。
夾石棟の一件聞いたときは、ちったあ成長したかと思ったんだけどなぁ。
あたしはそこまでヒマじゃねえし、辞書かなんかだと勘違いしてるんだったら本家を当たってくれ」

これ見よがしなぐらい大袈裟に肩を竦め、そして、まるで犬か何かを追い払うような「しっしっ」って感じで手を振りやがりながら、再び読んでいた本へ視線を戻す。
うん、あたしは確かにそんなに頭は良くないかも知れないけど、どんなバカでも解るぐらいに、今あたしは馬鹿にされているんだな。

「…はー!!?
何よその態度!こっちが下手に出りゃお高く止まってんじゃないわよ!!」

あたしは力の限り、そいつの目の前の机をぶっ叩いた。
そりゃまあ、とんでもない音がするだろうし、嫌でもあたし達は注目の的にはなるだろうね。
でもまあ、そんな些細なことを気にしているようなら、目の前にいる緑の跳ね髪のこの女…同期でも「デキる」存在の一人である「敬風」こと陸凱に態々モノを訊くなんてできないからね。

「あのなあ公緒ちゃんよ、あたしは今読書で忙しいんだ。
確かにここは図書館ではないが」
「やかましい!四の五の言わずこっちの質問に答えろこのスットコ野郎!
態々手土産まで用意してやってんのに、それを一方的に貪り食って」
「オメーが勝手に押しつけてきたんだろうが。
あたしはそこにあったから、茶のアテに食ってやっただけだ」

こちらの剣幕も何処吹く風、そしてこの言い草でそれ…あたしが態々乾物の専門店まで行って買ってきてやったそこそこイイ値の鮭冬羽をもしゃもしゃと頬張ってやがる。


コイツは…陸敬風は確かにあたしの友達の一人ではある。
けど、どういうわけかあたしに対しては辛辣すぎる。
いつもこうやって、あたしを下に置いて飄々と構えて。

そうだ、この態度はアイツによく似ているんだ。
あたしのことを散々に馬鹿にして…そして、何時の間にか超えるべき壁として立ちはだかった蒼天会の雄・王文舒に。



−巣立つ若鳥を謳う詩−



あたしの名は朱績、字は公緒。
かつてはこの長湖部でその人ありといわれた名将・朱治、そして朱然の妹として、その名を辱めないよう日々努力している…つもり。

だけどあたしが頑張ろうとすればするほど、かえって散々な結果になってばかり。
君理お義姉ちゃんや、義封お姉ちゃんがこれまでやってきたことがあまりに偉大すぎるって言うのもあるんだけど、みんながあたしにもそれぐらいのことができるんだろ、って前提で話をしてきてる気がして、それがなんとなく息苦しかったりもするんだよね。
しかも敵にも味方にも一癖も二癖もある人間ばかりで、どんどん気が滅入ってくる。

でも、この間の寿春攻略(あ、それは全体の結果としては失敗だったんだけど…)で、あたしはようやく「敵方の嫌なヤツ」…つまり王昶先輩に一目おいてもらえるようになったみたい?なんだけど…あたしは王昶先輩に勝ったわけじゃない。
あっちが勝手に決めて、勝手に引き下がっただけ。
当然、相手の技…杖術って言うらしいんだけど…の正体なんか掴むどころの騒ぎじゃない。

だからあたしは、次に直接対決する機会のため、その技に詳しそうな人に話を聞きに着た、というわけ。
本当だったら承淵(丁奉)とか幼節(陸抗)とか、長湖部でも武道に通じた人に聴きたかったんだけど…承淵は最近色々ありすぎてそっとしておいてあげたかったし、幼節は幼節で余りそういうものに興味がなさそうだからやめた。
だから長湖部でもかなりのトリビア王である敬風に聞くことにしたんだけど…やっぱやめときゃよかったかも。


「ったく…まあ、ワイロをそれと知らずに貪り食って、いらん借りを作ったマヌケなカミサマの話もあるからなあ。
そもそもにして公緒、あんたは自分のやってる武道の流派も知らんのか。
そんなことだから何時まで経っても「朱績ちゃん」呼ばわりされるんだ。
相手のことをどうこういう前にちったぁ自分について勉強しろ」

敬風はあたしのほうに視線を戻してくる気配がない。
しかもまたわけのわからないことをいって、こちらを煙に巻いてこようとしてる。
意味わかんないんだけど。
当然あたしは納得行かない。行くはずがない。行ってたまるかっての。

「何でよぅ!
そもそも自分の流派がどうのとか言われても意味わかんないし!!
だいたいにして、会ったこともないからってテキトーなこと」
「会ったこたないが、一応ちょいと前の「無双」ではあんたを救援するために、その王文舒の土手っ腹に一撃食わせてやってんだがな、あたし。
…知ってるよ、アレは「杖」だろ。
「杖」を扱う流派なんてそう多くはない…が、あんたは知ってなきゃいけない側のはずだ、いろんな意味でな」
「はー!?」

なんか少しだけ、真剣にこちらに話をしてくれてるのは解ったけど…でも、やっぱりコイツはこういう回りくどい言い方をしやがるのよね。
正直さっきから苛ついてたのは確かだけど、ただブチ切れて見せても向こうのペースだ。ここはなんとしてでもマウントを取らないと。

「あたし杖術なんて全ッ然知らないもんっ!
あー…そういう敬風だってホントは知らないんでしょ? うんうんわかるわか」
「知ってるも何も、神道夢想流はおまえがやってる香取神道流の流れを汲む杖術の流派だ。
いうなれば親戚のようなものだろ。
神道流やってるなら知ってて当然の知識だと思うけどな」

一瞬鬼の首を取ったように喰ってかかるも、敬風は「何を言うかこの馬鹿は」と言わん限りの表情で淡々と返してきやがった。
あたしは絶句するしかなかった。

「…知らない。
ていうか断じて知らない。
というかあたしの通っているのは剣術道場であって、そんな聞いたこともない獲物を扱う道場じゃないもん…道場のパンフとかにもそんな説明なんて書いてなかったし」
「まぁ確かに杖術の知名度そのものはそんなにはないだろうが」

やれやれ、といった感じで敬風は本に栞を挟み、徐に立ち上がる。

見れば、何時の間にか時計は五時を回っていた。
あたし達が陣取っていた学食は、寮生も利用するので九時ころまでは開いているけど…あたし達の寮では当番制で食事を作る事になっているので、そろそろ引き上げないと確かにマズい。

あたしは彼女の後について席を立った。
歩きかけたところで、不意に敬風が足を止めた。

「まぁ、確かに本音言うと、あたしもそんな詳しくは解らんよ。
だが一応、ごくごく身近な知り合いに神道夢想流の使い手がいる…四方やお前、それすら忘れてるって正直、ねえぞ」
「はい?」

あたしは思ってもみない言葉に絶句した。
鏡がないから解んないけど、きっとあたしはすごくマヌケな顔をしてる事だろう。
敬風は歩きながら、あたしの献上した鮭冬葉の残る一切れ、口に放り込んでしばしその味を確かめていた。

「それ、初耳だよ。
だって承淵が柳生と北辰、幼節も柳生でしょ。
あたしが香取神道流で」
「不慮の事故で姿を消した世議は截拳道、同じく季文は少林寺の棍だな。
棍と杖もまた勝手が違うものだが」

敬風はまるで当然のようにさらりといったけど…世議(呂拠)と季文(朱異)はこの間、部内のごたごたに巻き込まれて退部してしまった仲間。
あたしは二人のことを思うと…寂しくなるから、あまり口にしないことにもしていた。
当然ながら、ふたりがどんな武術に通じていたかとかなんてあたしもよく知ってる。

「ついでにあたしが何をやってるかは知ってるか?」
「諸嘗流でしょ、古武術の」

ばかにするなコノヤロウ。
しつこいようだがあたしは身内だったら大体誰がどんな武術に通じているか知ってるつもり。
防具があってもそれが意味を成さないといわれる諸嘗流の使い手は、少なくとも長湖部では敬風以外にはいないと思う。
だからこそ、杖術なんて知らなくても当然。身内に使ってる人間なんて聞いたことも…。

「じゃあ、世洪は?」
「え?」

あたしは小首を傾げた。

「確か世洪って…荒事の経験全くない…はずよね?
お姉さんもお姉さんで、文理には強いのは知ってるけど…え」

そこまで言いかけて、あたしの脳裏にひとつの記憶がよぎる。


ここで話題に出てきた「世洪」…会稽の虞。
彼女自身も毒舌家として有名だけど、そのお姉さん…虞仲翔先輩というと、今の「湖岸連合生徒会」の前身…「長湖部」を語る上で外すことのできない「伝説(レジェンド)」の一人だ。
「小覇王」孫策と共に湖南の校区を奔走し、その覇業を支えた人たち。
君理お姉ちゃんからも仲翔先輩のことをよく聞かされたけど、とにかく弁の立つ人で、とりわけ折衝事に欠かすことにできないスタッフの一人…というのは、あくまで表向きの姿だっていうのを、あたしはずっと話半分で聞いていた。
世洪をさらにパワーアップさせたような、その毒舌の裏で…深い愛情で、先代部長を陰ながら支えたその姿を、あたしも知っている。


知っているんだ。
知っていたはずだ。
あたしも…その「伝説」を。


敬風も、歩みを止めたあたしを待っていたのだろう…振り返り、「仕方ねえヤツだな」と言わんばかりに、にやりと笑う。

「ようやく思い出せたか公緒ちゃんよ。
アレが「蒼天会三征」が一角・王文舒の特権かなんかだと思い込んでた時点で、一番肝心なところを見逃してるっていい証拠だ。
あのコンサートの時…仲翔さんが持ってたのが、いわゆる「杖」ってやつだ」

ああ…そうだ。
あたしはあの技を、舞台の裏手から見ていたはずなのに。

「演舞」のための…一時的な付け焼き刃の技術でない、洗練された技術を。

「あたしも知ったのはつい最近のことだが…世洪の奴も、いつからかは知らんがこっそり手を出してやがった。
少なくとも、あのコンサートの時点では十分、タツジン級のワザマエの持ち主だったと言ってもいいだろうね。
恐らく今のあいつでも、十分長湖生徒会随一の武力を持っているはずだ…が、部のごたごたに巻き込まれたくないから、わざとネコ被ってるんだろうな」
「うそ…世洪が?」

あたしの意外そうな表情が面白いのか、敬風は顔のニヤニヤ度合いをさらに強める。


こういう時のコイツは…正直何処まで信用したものか。

ここで引き合いに出された虞姉妹、どっちも毒舌家にして能弁で有名ではあるんだけど、どういうわけか姉妹揃ってウソを吐くのが苦手と見えて、世洪がウソを吐いて他人をごまかそうとしたっていうのは聞いたことないし、当然あたしもあの子がウソ吐いてるシーンには出会ったことはない。
ただ、敬風は別。コイツは本当に、こっちに危険が無い限りのではあるけど、平然とウソ八百を並べ立ててきやがる。
何時だったか、騙されて毒キノコを食べさせられたような…そりゃあ死ぬようなキノコじゃなかったし、しばらくはトリップしてたみたいでいい気分だったのは認めるけど…ってそれは関係ない。つーかその後しばらくこれで馬鹿にされたし散々だったもん。

当然、あたしはまた馬鹿にされて、一杯食わされかかってるんじゃないかって身構えた。
ただ、このモードに入られたら、こっちがキレればキレるだけ調子に乗ることも、あたしは知ってる。
当たり前の反応だよこのくらい。


敬風は踵を返し。

「そうだなぁ…今はだいぶ落ち着いてきたから、久しぶりにやってるかもしれないな。
ウソだと思うなら、明日の朝五時頃に起きて寮の中庭見てみな。
余程運が悪くないなら…面白いものが見れるよ」

そう言って、敬風は再び寮の方へと歩いて行き…あたしも、その後に続いた。


****


次の日の朝。
あたしはいつもより一時間半早い目覚ましに起こされ、晩秋の冷たい空気から逃れるように布団の中に…戻ろうとしたところでようやく、目覚ましを早くセットした理由を思い出した。

半信半疑というか、あたしはまったく信じてなどいない。
確かに、仲翔先輩の技は、恐ろしさと共に美しさすらあり…「達人」と呼ぶのすら憚られる、そんな、凄まじいモノだったはずだ。
世洪は…顔立ちもだが、その性格も先輩にそっくりではあるけど…いくらなんでも、最近は特に理由をつけて体育は見学しがちだし、そもそも運動は得意そうには見えない。
それに、朝も苦手だって、世洪自身も言ってたし。

はっきりいって騙されるのは癪だったけど…まぁウソならウソで、たまには朝から勉強してもいいかなと思ってとりあえず起きることにした。

確か中庭を見てみろ、とかぬかしてたよね。
いいわよ、見てやろうじゃないの。
どうせまだ街灯がついたままの、寒々とした石畳の景色が見えるだけなんだから。

そうして、あたしはカーテンを明け払った。
寮の三階にあるあたしの部屋のその位置からなら、ちょうど中庭が見れるはずだったから。

辺りを見回す。
窓を閉めた状態では見える範囲もたかが知れている。
あたしは強烈な冷気が部屋に入るのを承知の上で窓まで明け払い、寒さを感じる前にベランダに飛び出し…そして見えたのは。

「誰もいないじゃないのさ」

その事実を確認するように、あたしは敢えてそれを言葉にした。

まぁ、あたしはまたしても敬風に一杯喰わされたわけだ。
一体何を期待してたのか。
アイツの言葉を少しでも信じようとした自分に腹が立つと同時に、一気に寒気が襲ってきてあわてて部屋の中へ戻ろうとした、その時だった。

「あれ…?」

もしそのときそれに気がつかなければ、あたしは今日も敬風にいわでもなことをいって、散々馬鹿にされたのかもしれない。

振り向きかけたとき、寮の玄関に人影が見えた。
遠目でもはっきりわかる学校指定の青いジャージ、そしてその特徴的なプラチナブロンドの髪。

「世洪?」

見間違えようがない。何処からどう見ても間違いはない。
そして…よく見れば手には棒の様なものを携えている。
その姿は確かに、あの日夾石棟で対峙した王昶先輩を…そして、あのコンサートで幼平(周泰)先輩と互角に立ち回った仲翔先輩の姿を連想させて止まない。

季文が振り回していた棍とは、明らかに長さが違うんだ。
木刀と、棍のほぼ中間ぐらいの長さ。
以前承淵が持ってたオバケ木刀よりももうちょっと長いぐらいかな。確かに、あたしの記憶にあったあの武器と一致する代物だ。

中庭に出てきた世洪は、こちらにはまだ気づいてないだろう。
ストレッチを始め、よく身体を解し、身体も温まってきたらしい彼女はジャージの上を脱ぎ、袖を腰のあたりにまき付け縛り付けた。
総ての準備を整えたらしい彼女は手に持った得物を構え…次の瞬間。

「やっ!」

凛とした、よく透る声の気合一閃、彼女の技が、放たれた。

踏み込んで突き。
横薙ぎ。
打ち下ろし。
突き上げ。

時折織り交ざる掛け声で技はどんどん変化していく。
総ての技がまるで流れる水のように、まったく無駄のない連なったひとつの動きを…ううん、もう言葉じゃ全然説明できない。

「…綺麗…」

あたしは素直に、そう想った。
例えるなら、日本刀の美しさ。
引き込まれそうな美しさを持ちながら、あの前に自分がいたら…という恐怖感で背筋に冷たいものが走る。
けれどあたしは…その見事すぎる「練武」から、何時の間にか目が離せなくなっていた。


何時までそうしてただろうか。


「お〜い、公緒、起きてる〜?」

不意に真下から軽そうな声が聞こえてきた。
その声に、あたしは現実から引き戻された。

「珍しいじゃない。
寝惚けて這い出てきたってワケでもないみたいね〜」

下を見れば、上着を脱いだままの世洪がいる。

彼女は何時もの彼女に戻っていた。
これがついさっきまであの見事な技を繰り出したのと同一人物とは信じられなかった。
あたしは自分の目に写ったものの真実を確かめるため、自分もジャージに着替えてその上からパーカーを羽織り、中庭に出ようと、自室をあとにする。


****


「…おはよ」
「うむ、おはよう」

軽く、挨拶を交わす。
でも、そのあとの言葉が続いてこない。
訊きたい事が多すぎて、一体何から話したらいいのか…そう思っていたら、彼女のほうから口火を切ってきた。

「あたしがこんな事してるなんて、やっぱり意外だった?」
「あ、えっと、その」
「あたしも隠すつもりはなかったけどね〜。
でもさ、あんまり騒がれるのって、好きじゃないから」

普段飄々とした世洪にしては珍しく、はにかんだような照れ笑い。
その様子に、なんだか悪いことをしてしまったんじゃないかという気になってくる。

「ごめん。
でも、気になったから…敬風が言ってたことが本当かどうか」
「…えー?
アイツこのこと知ってんの?
うへぇ〜巧く隠してたと思ってたんだけどな〜」

目を丸くし、大袈裟に肩を竦める世洪。
どうやらそれは予想外だったみたい。

「ったくー…あいつもしかしら今この時点でも、どっかからにやにや笑いしながら見てんのかしら。
まあいいわ、あいつなら別に。
で…あんたはまたしても敬風に一杯食わされて見ようと此処に出てきた、というわけね」

腕を組んで、「うん、わかるわかるよ〜」と、誰かさんを思わせるにやにや笑いの世洪。

でも…あんまりこちらを馬鹿にしている気配はない。
どういうわけか、敬風と逆で、世洪はあたしに対しても色々気をつかってくれる。
だから、あたしも彼女には、あまり誤魔化しやウソを言いたくはない。

あたしは頭を振る。

「それもあるけど…世洪に、訊きたい事があるの。
敬風に聞いたからなのもある。
知りたいことがあるんだ、どうしても」
「ふむ…あたしに答えられる範囲でならいいけど…後で良いかな。
流石にそろそろ皆起きだしてくるし、朝食の準備もあるからね」
「う、うん」

彼女はすれ違いざまに、あたしの肩をぽん、と叩いて、気づいたときには寮の入り口へと入っていっていた。


****


その日の昼休み。
あたしは彼女と図書館の談話室に来ていた。
確かにここなら、余計な邪魔は入らないだろう。

学食を離れる時、子賤(丁固)とか他の娘達も何事かと思ってついて来ようとしたのを、敬風が気を利かせて巧く丸め込んでくれた。
振り向きざまににかっと笑って見せたあたり、昨日の鮭冬葉の礼のつもりなのだろう。

世洪にも何か奢ろうとしたけど、今朝のことをおおっぴらに言わなければ別にいいとのたまった。
けどまぁ、後でお茶の一本も奢る事にしておくかな。

「んで、訊きたい事って何かな?」
「う、うん。
その…世洪がやっているあの…技術」
「神道夢想流杖術。
あたしもだけど、姉さんもこの技術の使い手だよ。
…キミにしてみれば、避けて通れない相手…王文舒の強さを知る上でも、この知識は必要不可欠になる…と言ったところかな」

ずばり言い当ててくれるよ、このひとときたら。
あたしが余程解りやすい人間なのか、それとも彼女や敬風の洞察力がバケモノじみてるのか。
あるいはその両方なのかもしれないが、もう呆気にとられる他にない。

けど、そんな体面なんかどうでもいい。
今のあたしには…きっと世洪にも太刀打ちできるところはないことは解りきってる。

「…うん。
だから、あたしは知りたいんだ。
あの力の根源がなんなのか…まずは、見えるところから対策を取らなきゃって。
もっと、知りたいんだ…敵である、あのひとのことを」
「なるほどねぇ」

彼女は腕組みしたまま「うんうん、わかるわかるよ〜」と頷く。
茶化されているようにも思ったけど、彼女にしてみればあまり真剣になられてもやり辛いから、そうやって場を和ませようとしているのかも知れない。

「持たば太刀、振るえば薙刀、突かば槍。
一本の杖を、変幻自在に操るのが「杖術」の基本であり極意に繋がる」
「その言葉!」

同じ事を…あの人は言ってた。
俄に声を荒げてしまったが、あたしははっと我に返って口を押さえる。
だが世洪は、仕方ない、と言った風に息を吐く。

「王文舒先輩の腕前が実際どれほどのものかは、あたし直接は知らないから何とも言えない。
けど…道場の先輩にね、彼女に手解きをした人がいてね。
半年ほどで止めたらしいけど…今も続けていれば、きっと時代を代表する使い手になってたんじゃないか、っていう人も居たそうよ」

そこまで聞いて、あたしはまさか、と思った。
その表情から言わんとしたことを読み取ったのか、世洪は静かに頭を振る。

「あたしの切欠は、もっと身近に居るわ。
公緒、キミもよく知ってる人」
「うん」

あたしは、力強く頷いた。

だって、あたしにはもう「見えて」いたんだ。
朝に見た、世洪のその姿に…その面影が、はっきりと。
君理お義姉ちゃんと同じ時代を、長湖部の中興期動乱を共に駆け抜けただろう、その姿を。

「仲翔先輩…なんだよね。
世洪の、はじまり」
「よくできました。百億万点」

そう言って、ちょっとだけおどけたように手を叩き…何処か寂しそうに、世洪は笑った。
彼女は立ち上がり、そして、ゆっくりと語り始める。

「あたしの姉さん…虞仲翔を語る上で、どうしても外すことができない話がいくつかある。
長湖部随一の毒舌家、幹部の多くが、長いこと姉さんをそう認識していたはずよね。
良くも悪しくもお祭り人間の多い長湖初期の経理を一手に引き受けていた業績のほうが目立つから、姉さんが杖の達人だったことを知ってる人はかなり少ないと思うわ。
あのコンサートで見せたのも、正直氷山の一角に過ぎない…あたしたち姉妹ですら、姉さんが卒業して初めて知ったような重大な話もある」

あたしも、それを知ってる。

目撃者は、そこに居たんだ。
とびきり、自分の身近に。

「…あたし…義封お姉ちゃんに聞いたことがある。
荊州の「武神」。
彼女に打ち勝った人は、全く別の名前の人だって、公式には記録されてる…だけど」

世洪は、そこまで言いかけたあたしの口元に…指を宛がい、自分の口元にも同じようにして、「しーっ」とウインクする。

「とびきりのオフレコよ、それは。
そんなことがおおっぴらになったら、学園の記録を根底からひっくり返すことになる。
下手をすれば…姉さんが見守ってきた「あの人」の名前を、今以上の汚名で穢すことになりかねない」

その表情は、酷く悲しそうに見えた。

「姉さんが…その時からこの未来を、予見していたかは解らない。
時々、なんかあたし達も解らないような未来を垣間見てたような…そんなところは、あるけどね。
だから、その事実を姉さん自身がもみ消して…真実を知っているのは、ごく一部。義封さんもだけど…多分、伯言(陸遜)さんとかも、知ってたんじゃないかな。
敬風がそこまで知ってるかは解らないけど…まあ、アイツは何してっか、解らないとこあるし?」

あたしも、同じようにして笑い返した。


そうだ。
そうだよ。

あたしは、知っていたんだ。
どうして今の今まで、忘れてたんだろう。
どうして、気づけなかったんだろう。
想像を絶するその「長湖部最強の武」…それを形作っていたのが、王文舒の振るうあの技と、同じモノだってことに…!


わずかな沈黙の後に、あたしは…言葉を選ぶように、問いかける。

「ねえ…世洪。
あなたの目から見て、先輩は…強かった、の?」

もしかしたらこれが場違いなひと言なんじゃないか、と一瞬後悔したが、世洪はそれを意に介した風もなく、ゆっくりと頭を振る。

「強い、か。
あたしも、又聞きの話も多いし、なんとも言えないけど…そうね。
王文舒が時代を代表する使い手になるというなら、姉さんは不世出の天才。
強いとか弱いとか、もうそんな次元じゃない…掛け値無しの「怪物」。
身内贔屓に聞こえるかもしれないけど、これは私の評じゃないのよね。あのコンサートのあと、公瑾(周瑜)さんが、そう言ったのよ」

そこまで聞いた時、あたしは一つの答えに至る。

「小覇王」と称された二代目部長・孫伯符の側近は、何れも一騎当千の強者揃い。
だったら…その言葉を疑う余地など差し挟む方が誤りのような気がし始めていた。

「姉さんのあの武は、決してこの先も表向きの記録で語られるようなものじゃないと思う。
比較するのも、あまりにも馬鹿馬鹿しくなってくるし。
でも…それでも、あたしは…同じ技を振るう以上、あのせめて足下にでもたどり着けなければ、主将なんて務まらないと思ってる」

世洪も、やっぱりお姉さんの後姿を見ながら、色々考えたり、悩んだりしているのだろう。
未だにお姉ちゃん達の影を追い続けている、あたしのように。

「さしあたってはね。
今の目標は、姉さんが編み出した「秘踏み」の技をモノにすること。
姉さんが、あの「武神」を制した技を、ね」
「その技って…難しかったりするの?
技術的なものとか…いろいろと」
「うーん…理論そのものは単純よ。
公緒は、「一の太刀」って知ってるわよね?」
「うん。
神道流の、皆伝だよね。
あたしはまだ、そこまでは成ってないけど」
「アレが解るなら、説明は楽ね。
姉さんのあの技、「一の太刀」の要領で逆足踏み込みから、更に利き足で一気に踏み込み斬り込むまでは、一緒。
そこからさらに勢いを殺すことなく、逆足で踏み込みながら一気に斬り抜ける…それが切っ先にさらなる加速を生み、回避も防御も許さない神速の一撃となる」
「え…」

あたしは言われた言葉の意味を一瞬、見失った。

ええと、つまりはこういうことか。
利き足で踏み込んで撃って、そのまま更にもう一歩踏み込んでいくと…でも。

「そんなこと…だって、門下の中でも張文遠とか…その辺りのビッグネームに釣られてきた子達が、許可なく見様見真似でやろうとして、何人も自爆して病院送りになってるんだよ、「一の太刀」って。
あの技の時点でその有様なのに」
「まあ、上辺だけしか見てない連中は、そういうことするんでしょうね。
あの勢いで木刀なんかぶつけた日には、暫くはまともに歩くこともできないんじゃないかしら。
んまあ…かくいうあたしめも、そのクチなんですけどね」

たはは、と困ったように笑って、肩を竦める世洪。

その言葉を聞いて、あたしにも腑に落ちたことが一つある。
世洪が、矢鱈と体育の授業を見学している理由。
もしかしたら、そのうちのいくつかは、本当の怪我だったんだってこと。

でもきっと、聡明な彼女のことだから、理由はそればかりではないはずだ。
のっけの幸いと本当に猫を被ってたのかもしれない。
孫峻先輩ならいざ知らず、見境のない孫琳が彼女の実力を知っていれば本気で潰しにかかるくらいはやってたはす…世洪とか、敬風もだけど…そういう「つまらない喧嘩」は絶対に買わないタイプだから。

それでも…こうして話をしてみて、あたしはひとつ解ったこともある。

「ねぇ、世洪。
もし世洪さえ良ければ…あたしも朝のあれ、いっしょにやっちゃ…ダメかな…?」

一瞬目を丸くする世洪。
だが、あたしには確信めいたものがあったんだ。

「そうね。
ひとりよりも、ふたりのほうが何か掴むものがあるかもね」

この提案が、受け入れられるということに。


****


以来、あたしは彼女と一緒に、朝に自主トレを始めるようになった。

今日は休日で、他の子達もほとんどは夢の中。
あたしたちは普段より長めにトレーニングの時間を取っていたが…やがて日も高くなり始めた頃、どちらともなく休憩を取ろうと、中庭にベンチに腰掛けた。

「やっぱさー、キミはいいよ、公緒。
元々素質あったってことなんだよね…もうそろそろ、あたしのレベルなんて追い超されそうになってる。
「一の太刀」の極意にだって、そろっと感覚的なモノ、つかめてるんじゃない?」
「それほどでもないよ」

感心したように呟く彼女に、あたしは少し照れくさくなる。

朝、毎日30分ほどのトレーニングを続けることふた月。
あたしはようやくこの生活に慣れてきて、最初は目で追う事すら出来なかった世洪の「乱調子」も見えるようになって…それと共に、自分の構えや剣の運びとか、諸々の所作についても見直すことができていた。
お互いに気づいたことを伝え合い、そして、お互いを高め合えていると言う充足感が、そこにはあった。

けど、見えるようになってきたからこそ解る。
あのコンサートの日に、仲翔先輩が垣間見せたあの技も、その秘められた力の氷山の一角でしかないということに。
あんな途方もない「怪物」を、彼女は目標としているんだ…ってことを、今更のように思い知らされる。

「でも公緒、本当にいいの?
王昶先輩の事」

世洪が不意にそんなことを訊いてきた。

王昶先輩が突如引退を表明したことを知ったのはそれから間もなくの事。
敬風なんかは「押しかけて闇討ちでもいいからちょっと叩きのめして来い」なんて言ってたけど…実際のところ再戦を申し込むという考えは、あたしにはなかった。

確かに再戦する機会があれば、あたしはもう一度戦っては見たかった。
けど、その勝負での勝ち負けが、すべてじゃない…あたしは、そう思っている。

「あたしにはあたしのやり方で、「勝つ」ことは出来ると思うから」

頭を振りながら、あたしはそう応えた。

「それも、そうだよねぇ」

彼女もそれを酌んでくれたのか、にっと笑い返した。

「体も解れてきたんじゃない?
一度手合わせしてみようよ」
「そうだね」

お互いに切っ先を構え、静かにあたし達は対峙する。

ふと、その視線に気づいて、寮の一角へ視線を送る。
そこにあったニヤニヤ笑いが、少しだけ引きつっているように見えた。
あたしはそれを見ない振りして、そして…計ったように、目の前の彼女と同時に、仕掛けた。


****


今日もそれぞれの「目標」に向けて歩み続ける。

例えそれが途方もなく高い山だろうが。
カミサマにも匹敵するような、とんでもない存在であろうが。
どんなに猛々しい猛禽でも、その若鳥が最初に飛び立つときの…羽ばたく瞬間の恐怖と、それを乗り越える勇気を。

「あたし達」は知っているんだから。


****


そんな二人の様子を眺める、また別の影がふたつ。

ひとりは紫がかったロングヘアの少女。
筆書きで「海老」と白抜きに大書された紺のトレーナーに、デニムジャンパーとヴィンテージ物らしいジーンズに黒のブーツを身につけて、どこか緊張感のない表情で朱績たちを眺めている。
もうひとりはそれとは対照的に、ウェーブのかかった黒のセミロング。
ベージュのハーフコートから、厚手のチェックスカートが覗いており、お揃いのブーツを身につけている。

「やれやれ…もうこりゃあ、ちょっと突っついてどうにかできるシロモノじゃなくなっちまったなぁ」
「完全なミスね、文舒。
引退は良いけど、とんでもない厄介事残して…玄沖が可哀相だわ」

ウェーブ髪の少女の淡々とした物言いに、文舒と呼ばれたその少女は、朱績たちを指差しながら言う。

「まぁ、いいんでねぇの?
そのくらいの「壁」があったほうが、かえって玄沖のためになるし?」
「相変わらずね」

やれやれ、といった風に、少女は頭を振る。

「それにあなたも、再戦は果たさなくて良いの?」
「愚問だな」

踵を返し、その少女が振り向きつつ言う。

「そんなものは、何時だって出来るし、何時だって受ける事も出来る。
そうだろ、伯輿?」
「そうね」
「今はただ、あいつらが何処までやってくれるのか…そして玄沖たちがそれをどうするのか。
それを第三者の位置で見届けてみるのも一興かもな。
それに」

言いかけ、彼女は頭を振り、相方を促して踵を返した。



(終)