雍州学区の要衝・天水棟。
去る年、諸葛亮率いる帰宅部連合の大軍勢が最初の「北伐」の際に攻め込み、激戦地となった場所である。

天水棟の屋上は展望台となっていて、普段は生徒達の憩いの場、有事には戦場を見渡す管制塔となる。
普段はその変人ぶりに色々誤解されがちの諸葛亮であるが、この棟のそうした機能を知り、いち早く押さえにかかったのはやはり彼女が「名戦略家」であったことをよく物語っていたといえよう。


そんな天水棟の…ある日の屋上。


「ん~」

春の陽気を浴びながら、その少女はひとつ伸びをした。
そしてそれまでそうしていたように、再び大の字になって空を眺めると、ショートカットの明るい茶色の髪が僅かに風になびく。


そこには彼女以外、誰もいない。
別に立ち入り禁止になったわけでもなく、まして彼女が何かしらの「強権」をもって不当に占拠しているわけでもない。

といっても、彼女を知る者ならそれと察して、遠慮して誰も近づけないだろう。
実際、それだけの「強権」を行使できるだけの立場に、彼女はいるのだ。


グラウンドの時計は、二時時を少し回った時間を指していた。
普段なら授業の行われている時間のはずなのだが…土曜であるこの日に午後の授業はない。

グラウンドでは運動部らしき者達がランニングをしているようであるが、彼女はそれとも無関係のようだ。


「あー、いたいた。趙儼先輩っ!」

不意に屋上の扉が開き、そこから一人の少女が顔を覗かせた。
趙儼、と呼ばれた少女は起きようともせず、声のしたほうへ体を向けると…横になったままの格好で、眠たそうな表情のまま答える。

「よぉ玄伯。
つかお前、あたしのことは(あざな)で呼んでくれっていってるだろ…あまり他所他所しい態度取ってると泣いちゃうぞ」
「あはは…すんません。
姉貴がああだと、どうしても呼びづらくて」

玄伯と呼ばれた黒髪の少女は、困ったように笑いながら屋上へと姿を現した。



-白地図を描く者-



茶髪の少女の名は趙儼、字を伯然という。

「乱世の奸雄」こと曹操の代に、当時中学三年生でありながら学園公認機関紙「蒼天通信」の製作部員として抜擢された少女である。
その後曹氏蒼天会の主力部隊となった剣道部のマネージャーを務め、やがて各校区で実働部隊の重要ポジションを任されて実績を重ねた、蒼天会でも屈指の「名調整役」として知られ…現在はこの天水棟を活動拠点とする「雍涼生徒会総括」の座にある。

先に引退を余儀なくされた諸葛亮を欠きながらも、いまだ「北伐」を諦める気配のない帰宅部連合に睨みを利かせる存在なのだ。


そして「玄伯」と呼ばれたのは陳泰。玄伯というのは彼女の字である。

これまた曹操の代から蒼天会の風紀委員長として、あるいはその経歴からは意外なことに蒼天水泳部長として水上部隊の総帥を務めた才媛・陳羣の妹として知られる。
どちらかと言えば文系寄りの姉に対し、彼女は現蒼天会ソフトボール部のエースであり、優れた主将として頭角を現しつつある、学園内のちょっとした有名人でもある。


陳泰が趙儼の横に腰掛けると、それまで寝転がっていた趙儼もようやく体を起こした。

「まぁあの長文(陳羣)先輩と長く一緒にいるとなー。
あたしも言葉遣いで何度しょっぴかれたことか」

大げさに肩を竦めて見せる趙儼を見て、陳泰も苦笑を隠せない。


実際、陳羣の厳格な綱紀取締りは蒼天会員、特に執行部のお膝元にいた者たちにとって恐怖の的でもあった。
もっと言えば、趙儼のように勢力境界線の近くにいて、実働部隊と長く関ってから中央に入ったものには尚更である。

実働部隊を任される大将クラスにはそれこそ豪放磊落を絵に描いたような、それでいて気さくな人間が多くその人間関係も割りとラフなものだったが、執行部近くでは俗に言う「清流派」、つまり名門のお嬢様連中が多いのだ。
件の陳羣などはその急先鋒と言って良く、プライベートではともかく学園内においては、とかくマナーというものに厳しい。


「あたしもアレが嫌でねー。
外地(そと)にいたときはどれほど気楽だったことか…今もそうだけど」
「はは…けどあれでも最近は随分と丸くなったんですけどねぇ、姉貴も」
「というかむしろあたしが信じられないのは、あんたのその呼び方よ。
よくあの人何も言わないよねー」

その一言に怪訝そうな表情を浮かべる趙儼。
他人の呼び方までもを逐一注意してくる陳羣が、妹からの呼び方に触れてこないということに、純粋に興味があるようであった。

「あ、それはもう、学園ではあまり近づかないようにしてましたから。
仮に出会ったら役職名(かたがき)か「お姉様」のどっちかじゃない日にはあとで大目玉ですよ。
仮にも血を分けた実の姉貴にんな呼び方するだけでもマジで虫酸が走る走る」
「なーるほど。
あたしあの人の妹じゃなくてマジで良かったわ、そんなん息詰まって死ぬ」
「あたしその「姉にいたら息詰まって死にそうな人」の妹、かれこれ十数年やってんですけどねー」

あっけらかんと言い放つ陳泰に、ご愁傷様、といわんばかりの表情で相槌を打つ趙儼。


とはいえ、プライベートにおける陳姉妹の仲が良いことは趙儼も知っている。
かの陳長文といえども、プライベートでは「何処にでも居るような普通のお姉さん」であるのは少し意外にも思えていたが…それだけ公私にきっちり線引きができる人間だということも知っており、それを自ら超えてまで何かしでかしたのも、精々ほんの一月ほど前にあった「長湖卒業生歓送コンサート」に絡む一件ぐらいのモノだろう。


そんな他愛無い会話を続けながら、趙儼はふと、あることを思い出した。

「ところで玄伯、あんた確か今、新入生の案内役してたんじゃないの?
いくらここの首領があたしだからって、職務放棄は厳罰にするよ?」

嗜めるというよりも、からかいの意図を含む先輩の言葉に、陳泰は呆れたように肩を竦めてみせた。

「もう終わりの時間ですってば。
つかそもそも説明会にちょっと顔出しただけで、以降ここでのんびり寝っ転がってるような人にんなこといわれたかないです」
「言うようになったじゃん」

自分が先に軽口を叩いたのに、軽口で返されて「いい度胸じゃない」といわんばかりの表情で陳泰の額を小突く趙儼。


勿論当人達にとってはこのくらいはスキンシップ程度のもので、他意などあろう筈がない。
陳泰が、この地で実働部隊を総監督する趙儼の元に配属されてからというもの、このふたりのやり取りは普段からこんな感じであった。

実際には、ここにはもうひとり相方がいるのだが。


「それなら伯済はどうしたのよ?
一緒だったんじゃないの?」
「あーそれなんですけどね」

その姿を見せない友人の名を挙げられて、ようやくに本題に漕ぎつけたらしい陳泰がここぞとばかりに話を切り出した。

「実は入学式の時に面白いヤツを見つけましてね。
ぜひとも先輩に逢わせてみようと思って…そいつを連れにいってるんですよ」
「面白いヤツ? どんな風に?」
「入学式のあと、たった一人で棟の間取りメモってましてね。
聞けば、初めてのところへ来たら見取り図描くの好きなんだって…」
「へーえ。
そりゃまた変わったヤツが居たもんだねぇ」

軽く返してみたものの、趙儼も陳泰の一言に興味を覚えたらしい。


課外活動、特に学園無双や他校生徒の取締りなど、実力行使のぶつかり合いに際して、意外に重要なのは地の利を得ることである。

地の利を得るためには当然ながら、その周辺の地理を把握していなければ覚束ない。
あまりに地味な作業なので、面倒臭がりには勤まらないが…それが出来るということが良い司令官の第一歩であると、趙儼は先輩に当たる張既や杜畿に教わっていた。
実際に、それまではただのヤンチャ坊主の一人でしかなかったのが、それができるようになって長湖部全軍を率いる将帥に化けた呂蒙のような好例も存在する。


「おーっす伯然さんっ、やっぱりここでしたか」

そのとき、どうやら開けっ放しだったらしい屋上の入り口に、一人の少女が顔を出した。
陳泰よりもさらに短く散切りのベリーショートにした黒髪の、背丈も年の頃も陳泰と同じくらいの少女だ。

「よぉ伯済、遅かったじゃねーの」
「悪い悪い。
手っ取り早く済まそうと思ったんだけど、新入生達に捕まっちゃってさあ」

ごめん、と手を合わせる仕草をする少女だが、悪びれた態度はないようだ。
それを見て陳泰も呆れたように言う。

「まー仕方ないよな。
同じソフトボール部の黄金バッテリーといえども、キャッチャーのあたくしめよりも、エースの郭淮さんのほうが人気あるでしょうからねー」
「またー、そういうこといいっこなしよ玄伯」

郭淮、と呼ばれたその少女が苦笑する。


彼女の名は郭淮、字を伯済。

太原地区の名門郭一族の出自で、昨年の「北伐」に際しては、名将司馬仲達に従軍して帰宅部連合の攻勢を良く抑えた名主将のひとり。
また対外的にも、蒼天ソフトボール部のエースピッチャーとしても名を馳せる、雍州校区の花形でもある。


「ところで例の娘とやらは?」
「ええ、勿論連れて来てますとも。
いいよ、出ておいで」

趙儼に促されるまま、郭淮は校舎の中へと呼びかけた。


一拍おいて、そこから恐る恐るといった感じで、一人の少女が顔を覗かせる。

幼いが美人の素養を見せる顔立ちに、栗色でややウェーブのかかったロングヘア。
同年代の女子連中としては平均よりやや高い趙儼ら三人に比べても、頭一個低い小柄な少女だった。
おどおどしているというよりも、極度に緊張している様子なのが窺える。

確かに、地区範囲の総責任者クラスの目の前へこうして新一年生を引き合いに出す、ということがそもそも大変なことである。
緊張するな、と言うほうが酷な話だが…まぁ中には物怖じしない強心臓の持ち主だって居ないわけではない。
何しろ今目の前に居る陳泰や郭淮といった輩がそのクチなのだ。

そういう意味では…趙儼の目にその少女は、それこそ何処にでもいるようなありふれた女の子に見えていた。


「ほら、そんなに怖がることないって。
まぁ動物園の熊か何かと同じだから、出会い頭に取って喰われたりしないってば」
「随分な言い草だなオイ」

少女を安心させようとした郭淮の冗談に、あからさまにイヤそうな表情を作ってみせる趙儼。

「いや塩酸水槽の中の不死身の爬虫類(クソトカゲ)じゃねその場合。
「清流会」の連中と遭遇(クロステスト)させない限りだけど、この天水棟にでも「収容」しとけばとりあえず安心だし」
「それは言いえて妙だわ、野放しにしたら大惨事なのは一緒だもんね」
「あたしゃ何処のKeterクラスオブジェクトだよ、一体全体あんた達あたしをなんだと思ってんだこら」

それをさらに混ぜっ返す陳泰と郭淮。
趙儼も最早苦笑するしかないといった感じだ。


その様子が可笑しかったのか、その少女が僅かに笑った。
この三人が醸し出す余りにもざっくばらんな空気に触れたとはいえ、その少女がすぐにその空気に馴染んだ事に趙儼は心の中で舌を巻いた。


「さて、じゃあ改めて自己紹介。
あたしは趙儼、字は伯然だ。
一応雍・涼校区の総監督っつー肩書きらしいんだが…まぁ余り気にしなくていいや」
「いやそれは気にしろ言ってるのと」
「風紀委員の冊子とかに何書いてあるのか知らんけど、あたしのことは字で呼んでくれていいや。
「さん」づけでも「先輩」でもいいけど、余計な気を遣わないでいいからさ」

陳泰のツッコみをまったく気にかけた風もない趙儼。
少女には特に気負った様子はない様に見えたが…しかし、次の瞬間、彼女は別の意味で呆気に取られてしまうことになった。

「あ…あ…その、わ、私、は」
「んん?」

見た目通りの可愛らしい声だったが、何だか嫌にどもっている。
別段緊張している風には見えないのだが…と思い、趙儼も首を捻ってしまった。

「えっと……あの、えっと…そ…そ、その」

少女は困ったように俯いてしまった。

(成程、吃音か。
 しかもこいつぁ生まれついてのものらしいな)

元々カンのいい趙儼も、気づいたようだった。


陳泰たちの心配そうな表情を見る限りでは、よもやこのふたりも、この少女のこういうのが面白いという風に捉えた訳じゃないとは趙儼にも解っていた。

最も、万が一仮にその意図があったとすれば、その空気を察した瞬間に趙儼はふたりを殴り飛ばしているだろう。
実際に、彼女らのように名家の生まれにはそういう、根性の拗くれ曲がったろくでもない人間も少なくはないのだ…勿論、ふたりがそんな性質の拗くれた人間でないことは、趙儼もよく知っている。

それと共に、趙儼は目の前の少女が吃音のために、どれほど苦労を重ねていたのかを悟った。


「あ…その、伯然さん。
実はこの子ちょっと」
「落ち着いて。
先ずは目を閉じてゆっくり深呼吸だ」

見かねた郭淮がフォローに入ろうとするが、趙儼はその言葉を遮って、泣き出しそうな表情のその少女に優しく諭すように言った。
少女も言われるがままにそれを実行する。

「慌てないで、ゆっくり喋って。
大丈夫だから、ね?」
「は、はい。
鄧艾…字は子載、です。
本籍は…荊州校区で…その…地理の勉強とか、好きなので…こちらに配属して、もらえるように…なりました」

たどたどしくではあったが、その少女…鄧艾ははっきりとした口調でそう答えた。
余計な気遣いをさせず、かといって不必要に追い詰めてしまわないよう、そんなさりげない気配りをみせる趙儼の姿勢に、成り行きを見守っていた二人もひとまず胸をなでおろしていた。





四人は遅まきの昼食を取るため、買出しに立ち寄りながら鄧艾の寮部屋へと押しかけることとなった。
道中、相変わらずのたどたどしい口調の鄧艾ではあったが、それでも部屋に着く頃には随分打ち解けた様子でもあった。


「あ、あ、その…ま、まだその、よく…片付けて、なくって…」

遠慮がちに呟く鄧艾。
まぁ当然ながら、彼女にも予め来客を招き入れる用意があっただろうことなど、三人も思ってはいないだろう。

「あー気にすんな。
あたしらが勝手に押しかけてきただけだから。むしろ悪いな」

手をひらひらとしながら陳泰。

「つか、予め誰かが来るタイミングを知って行動できるようなバケモンはシバチューだけで沢山だ。
アレこそマジモンの異常存在(アノマリー)だろどー考えても」

続く趙儼の一言に陳泰と郭淮が思わず吹き出した。
鄧艾もドアノブに手をかけたままきょとんとした表情をしている。

「ちょ…先輩、シバチューってなんスかシバチューって。
何処の妖怪黄ばみネズミですかそりゃ」
「んー?
司馬仲達だからシバチューだよ。
こっちのほうが言い易いし第一親しみやすくてよくね?」

ふたりの物言いに、あっけらかんと趙儼が言い放つ。
陳泰も郭淮も一様に、黄色いネズミみたいな着ぐるみを着て、小首をかしげる無口な先輩の姿を想像して馬鹿笑いを堪えているようだった。


ここで趙儼が引き合いに出した司馬仲達こと司馬懿は、言わずと知れた、現蒼天生徒会の副会長を務める押しも押されもせぬ実力者である。

趙儼世代では一番の出世頭であり、司隷のお膝元である河内地区の、名門司馬家のお嬢様。
少々暗い雰囲気で、寡黙かつ厳粛な性格で鳴らした彼女も、趙儼の一言の前では形無しだ。
最も、そういうことを言えるのも趙儼が早くから「蒼天通信」を司馬懿らとともに支えてきた仲間意識もあるだろうし、それ以上に地位や血筋などに無頓着な趙儼の性格もあるのだろう。


「あたし、アイツのイメージアップのためにこの呼び方流行らせたいんだけどねー」
「や、それ勘弁!
逢う度に笑っちまいますって!」

止めの一言についにふたりも笑ってしまった。
流石の鄧艾も大声で笑うのを堪えながら、くすくすと笑っていた。

「ふふ…あ、わ、私っ、中等部のとき、お会いしたこと、あるんです…仲達、さんに」
「あー、あいつは河内地区でも有名な令嬢だからなー。
荊州ならそう遠くもないし見たことくらい」
「い、いえっ…そうじゃ、なくって」

趙儼の言葉を困ったような表情で否定する彼女の姿に、未だに馬鹿笑いしていた陳泰と郭淮までが、不思議な面持ちで鄧艾へと視線を移していた。





鄧艾は、孤独な少女であった。

生まれついての吃音だったことで、自分の意思を他者に伝えることを極めて不得意としており、そのためかなり人見知りが激しく、内気な少女として成長した。
同年代のありとあらゆる仲良しグループにも所属できず、彼女は常に独りぼっちだった。


そんな彼女のひそかな楽しみが、地図を見ることだった。

地理の教本、と言うにはあまりにも稚拙な、小学校用の地図帳に紹介されている、世界各国の写真。
彼女はそれを眺めながら、そんな見知らぬ国々を旅して廻る自分の姿を想像することが唯一の楽しみだった。


そのイメージをよりリアルに再現しようと、何時しか彼女は専門的な地理書籍、風土記などを読むようになった。
さして蔵書量の多くない街の図書館の地理関連書籍を読み尽くしたのは、彼女が小学三年生の頃…その頃には、自らの足で街の隅々までを巡り歩き、自らの手で精密な街の地図を書き出すまでになっていた。

そのときはまだ、彼女の持つ「特異性」に気がついた者は誰も居なかった。
無口の変わり者、と周囲は陰口を叩いたが…彼女はまるで気にせず、自らが描いた「地図」を旅し、それをどんどん広げていくことに夢中だった。


中学校卒業を控えた頃、卒業制作としてその地図を発表しようとした彼女は、クラスメートの、

「ねぇ、それを発表するの、手伝ってあげようか?」

という…これまで友達らしい友達のいなかった彼女を惹きつけるには十分すぎる一言で、その作品を奪い取られるという事態になる。
製作班のメンバーに加えられてはいたものの、彼女は完全に「数合わせ」にされてしまっていた。


しかし。


「…これを…「作った」のは…本当に、あなたたちなの…?」


発表会の当日。
この発表会は、高等部編入後のエリートコース…すなわち生徒会執行部の候補生を品定めに来る執行部員も幾人かいた。

そのうちの一人…重い色彩の服に身を包んだ、深い紺の髪が特徴的なその少女が、刺すような眼差しで発表者たちを見つめている。
その壇上には、当然ながら、この地図を描いた本当の主などいるはずもなかった。
地図に記された詳細な情報について、その少女が問いかけても、当然作品を横取りしただけの彼女らに答えられるはずがなかった。


この見事な地図を、たった一人で完成させた彼女は…会に参加することさえ、やんわりと拒絶されていたのだから。



「…ならば…これを「本当に作ったひと」を呼び出しなさい。
…あなたたちに…用はない…!」

わずかな怒気すらも含む司馬懿の宣告に、顔面蒼白になる件の少女達は答えを返すことはできなかった。

結局、この発表は中断された形となり、会は異様な雰囲気のまま後の発表に続けられたが…その空気の大元となった司馬懿もまた、途中で席を外していた。
その行為が黙認されるほどの大物を怒らせたことが、その少女達の運命を決定づけたことは言うまでもない。





席を外した司馬懿は、ただ宛てもなくその校舎を歩いて廻る。

荊州校区中等部就学棟のひとつ、棘陽棟。
掘り出し物でもあるか、と、棟で行われた卒業制作発表会に足を運んでみたものの、アテが外れた様子でがっかりしているようでもあった。


「夢で…みたのにな…」

彼女は独りごちる。


予知夢。

信じるものは少なかったが、彼女には生まれつき、不思議な力がいくつか備わっていた。
時折であるが、漠然と、数日後に起こるイメージを夢に見ることがあるのだ。

本来、生徒会三役を務めるほどの彼女が、こんな小さな棟のイベントに顔を出すことがそもそも異例の事態であった。
それを申し出たのが当人であれば尚更だ。

彼女は単に、その「夢」の見せた未来に従っただけなのだろうが…誰もが、「実力者の気まぐれ」と、そう決めつけて居るであろう。
そんなことは彼女にとってもまた、些事に過ぎない。


そんな時、ふと、一人の少女に目が止まった。

この棟には中等部の三年生だけがいる…ということは、彼女はその会に参加できなかった立場の人間なのだろう。
そもそも、この会では発表する演目は予め選出されており、非常に優秀と判断されたものだけが発表されるのだ。
それ以外の者は、自習なり帰宅するなりで各々自由に振舞っている。


彼女がどうして、校庭の目立たないところに…懸命に筆を取っているのか。
俄かに興味を覚えたらしい司馬懿は、普段の彼女からはとても考えられないような積極さを表に出し…その少女に話しかけていた。


「何を…してるの?」
「ひゅい!!??」

その少女は飛び上がらんばかりに驚き、筆を取り落として慌ててしまう。
そして振り向いた少女は、声をかけた者の正体に気づいてさらに驚き、傍目でも気の毒に思えるくらいに動揺している。

「あああ、あの、その、わたしっ」

司馬懿は慌てふためく少女の口調が、ただの動揺からではなく、生来の吃音症に因るものと気づいた。
そして…彼女が取り落としたスケッチブックを拾い上げ、その内容に目を見開く。

「これは…!!」

その脳裏に、鮮明に走るヴィジョン。

紛れもなく…夢で見たその地図と同じもの…同じ光景が、目の前に広がっている。
そして、この少女こそが…先に見た地図の作製者であることを、司馬懿は確信した。

最早動揺しすぎて泣き出さんばかりの少女を、彼女は抱きしめて諭すように告げる。


「驚かせて…ごめんね。
落ち着いてくれてからで、いい…私と、少しお話…しよう…?」


彼女が、司馬懿の権限を持って、その見習い幹部会員として抜擢されたのは、それから間もなくの出来事であった。
言うまでもなく…その少女こそ。





「わたし…本当に、うれしかった…です。
仲達、先輩も…子上(司馬昭)さんも…私の地図を、褒めてくれました…。
みんなから、褒められるの…わたし、はじめてで…」
「マジかよ…。
仲達さんが荊州から一人、なんかすげえ奴連れてきたらしいってのは聞いては居たんだけど…まさかそれが子載だったとはなあ」

はにかんだようにそう話す鄧艾に、今更のように驚いた風を見せる陳泰。


趙儼はその話に相槌を打ちながら、それとなく部屋の中を見回す。
そこにはいくつか、描きかけの地図のようなものがばらまかれてあったが…それを見ている内に、戦慄に襲われる。

それに触れ、その内容を目で追うごとに…まるで趙儼は、自分が地図に記されたその場所に実際立っているように錯覚した。
恐らくは鄧艾の出身地であろう新野団地、樊地区、長沙棟周辺の大通り、襄陽棟や隣接する荊州大ショッピングモール…趙儼の活動範囲内として知っているそれらの場所から、直接はよく知らない司隷学園本部の中枢部に至るまで、まるで今自分が実際に歩いているかのように。


(この子…とんでもねえぞ。
 「それしか知らない」という環境が、「それに特化した」異能力を得させたのか…!!)

趙儼は息を呑む。

「あの…総括、さん…?」

遠慮がちに呼びかける鄧艾に、趙儼ははっと我に返った。

「どしたんですか伯然さん?
さっきから一人で地図ばーっかみてて」
「それ子載んのでしょ、ちらけてあるのは良くないけど勝手にみんのもどーかと」
「子載。
素人考えで全然いい…もし…そうだな、例えばあたし相手でそこのタコふたり使ってもいいし、ここで雪合戦でもするとしようか。
あんたならどうやってあたしを相手する?」

遠慮のない後輩二人の言葉を意にも介さず、その言葉を強引に遮って趙儼は唐突に問う。
思ってもみない突然の、意図の読めない質問に鄧艾は目を丸くする。

「え…」

真剣な、有無を言わさない雰囲気にわずかに怯えたような仕草を見せる鄧艾だったが、どうやら郭淮がそれを察したらしく、陳泰を小突いて促す。

「なに、遊びだよ遊び。
こっちは三対一でいいって言ってんだし。
まー伯然さん相手だったらできりゃもう何人かで徹底的にやらないと」
「おめーなに言ってんだよおい。
あたしだったらアレだ、伯済(おめぇ)を生け贄に背後からバールのようなモノで一撃っしょ。
雪玉なんかでこのバケモン止められっかよ」
「うわっ言うに事欠いてナニ言いやがるかなこの黒髪」
「…ああ、あの、えっと」

そんな無礼者二人のやりとりで少し雰囲気が和らいだからだろうか、彼女はたどたどしい手つきと口調ではあったが…自分が描いていた天水棟周辺の地図を指し示してゆっくりと、自分の考えを口にする。

「あ、あのっ、仮に…総括さん…ここからまっすぐ、く、来るとしたら…。
伯済さん…ここで逃げる振りして、もらって、その。
ここの茂みから、多分、み、見つからないように後ろ…でれるから、その、玄伯さん、行ってもらって。
でで、でも、きっとそれじゃた、足りないし…わた、私が、ここから」
「………ほぉ」

その回答に目を丸くする陳泰。
郭淮もハトが豆鉄砲を喰らったような表情で、心配そうに見やる鄧艾と趙儼を交互に見やるが…そのとき、趙儼は破顔しそのまま鄧艾へ思いっきり抱きついた。

「ぴゃっ!?」
「気に入った!
あんた、明日から来れるときでいいし、放課後んなったらあたしんとこおいで!
もっと面白いこと、いっぱい教えてやるからさ!!」
「ふぇ…ええ~…!?」

成されるがままの鄧艾のその様子に、郭淮と陳泰は顔を見合わせて頷く。

(伯然さんなら、そういうと思ってたよ。
 こいつは絶対、何かでっかいことをしでかせる)
(今なら解る気がするよ…この子がどうして天水に配置されたのか。
 この子を、あたし達の手で主将に育て上げろと…神様の思し召し、って奴だって)

その視線の先に、はにかんだように笑う鄧艾。
この「未完の地図」は、自分たちの手で完成させなくてはならない…ふたりは、そう心に決めた。



赴いた雍州の地、これまで描き続けてきた「白地図」に偉大なる名主将三人の足跡を書き加え…これまで孤独だった彼女の世界は、急激に大きく広がり始めようとしていた。
その「地図」の先に、辿るべき未来が記されていなかったのは…彼女にとって良いことだったのか悪いことだったのか、この時点では誰にもわかり得ぬ事だった。



(終)