その日の夜。
「あたしの…全部あたしの所為なんです」
呉郡寮の陸遜の部屋へ尋ねてくるなり、普段その少女には有り得ないほど悄気た表情で座り込み、黙りこくっていた丁奉が最初に発した言葉が、それだった。
その一言に、陸遜は何故彼女が急に訪ねてきたのか察しがついたようだった。
もっとも、丁奉は陸遜の妹達とも仲がいいから、急に訪ねてくるといってもそう珍しいことではない。
珍しいというなら、この時のようにもうそろそろ寝ようかという時間に突然尋ねてきたということだろうか。
「あたしが…あたしが子明先輩にあんなこと。
先輩が、あんなに酷いいわれかたしたから、あたしがむきになって…!」
「いいのよ、あなたが気に病むことじゃないわ」
頭の上に手を載せられて、恐る恐る顔を上げると、そこには苦笑する陸遜の顔があった。
「あなたのことだから、きっとそういうこともあるんじゃないかな…って思ってた。
そこがあなたの良いところでもあるし、悪いところでもあるのかもね」
「あうっ」
嗜めるようなその一言に、涙目のまま体を竦ませ俯いてしまう丁奉の姿に、陸遜も可笑しくなったのか少し笑った。
「それにね」
陸遜は、穏やかな笑みのまま視線を移した。
「私もきっと、根っからの長湖部員なのよ。
子明先輩が「ただ一度だけ」っていうその心意気に、私はきっと飲まれてしまったんだわ」
「先輩…」
「だから、これはきっと私が最初で最後に見せる、唯一かつ最高の戦いよ」
その言葉に丁奉は、陸遜自身がこの一戦に自らの意思で立ち向かおうとしていることを理解した。
そして…
(それに…もしかしたら先輩は…)
陸遜も気がついているようだった。
その手を取ったときの、呂蒙の体に何かしらの異変が起こっているであろうことを。
−武神に挑む者−
第二部 原石と明珠
少し時間は遡り。
荊州奪取の認可を得た呂蒙は続けて陳べる。
「そして願わくばもう一人…現在丹陽棟にて閑職にある虞仲翔を、アドバイザーとして同行させたいのですが」
「え?
どうして?」
一瞬、苦虫を噛み潰したような表情を見せた孫権は、怪訝な表情を浮かべた。
呂蒙はその表情から、やはり最初自分が思ったとおり、虞翻が孫権に嫌われた為に放逐されたのだということを確信した。
「彼女の性格は周知するとおり。
ですが、あの性格ゆえ力を持て余せば更なる毒気を吹くのみです。
ならば、その毒こそ我々ではなく、外に向けてやるべきでしょう」
呂蒙は丹陽棟でその姿を見る以前より、荊州攻略の切り札として虞翻の「公証人」としての活用を考えていた。
だが、中央で事務経理の中核をになう彼女を前線へ招聘するのは不可能、と半分諦めてもいた。
だからこそ、丹陽にいる彼女を見たとき、初めは自分の幸運を喜んだ呂蒙ではあったが…部内の和をを何よりも尊重するはずの孫権が、その名を聞くだけで不快な顔をすることに何か悲しさのようなものを感じていた。
彼女はわずかに悲しそうな顔で…孫権に問いかける。
「部長、「奇を容れ異を録す」を規範とするあなたが、何故そこまで彼女を嫌うのか…あたしには少々解りかねます。
確かにあの子は口が悪いし、一匹狼気質なところはある。
けど…子布(張昭)さんともある意味互角にやり合えてる部長が、なんであいつだけ毛嫌いするのか」
「う…でも、どうしてもあのひとがいると、みんな気まずくなって黙っちゃうんだよ。
だからきっと、あのひとは幹部の中枢じゃない場所のほうが、その良さを引き出せるかと思って…」
現実、虞翻は後方支援や前線の活躍が目立つ経歴もある。
現実に丹陽での風紀は厳格に守られ、治績を挙げている。
しかしその口ぶりからは、やはり結果論から来る取り繕いにしか聞こえない。
呂蒙はため息をついた。
「でしたら、ひとつ騙されたと思ってあたしに彼女の身柄も預けていただけますか?
あいつの本性、見せて差し上げますから」
孫権は困ったような顔でしばらく考え込んでいたが…
「解った」
と、何処か釈然としない表情のまま呟いた。
…
「つーわけで。
以後しばらく、あたしの軍団にアドバイザーとして参加してもらうよ。無論部長命令だ」
呂蒙はその日のうちに丹陽棟に上がりこみ、朱治の権限を盾に虞翻を呼びつけると、その命令書を突きつけた。
傍らの朱治もにやにやと他人事のようにその様子を眺めている。
「……なんで」
それを見るでもなく、俯いたままの虞翻がぽつりと呟いた。
「なんで…私なの?」
不機嫌というよりは、なにか大いに困り果てた様子だ。
常日頃からその情け容赦ない毒舌と、ぶっきらぼうな態度からは想像も出来ない姿であるが、これこそ先代部長・孫策の一部側近しか知らない彼女本来の姿である。
一度心を許してしまうと、その相手には兎に角頭が上がらなくなる。
呂蒙も朱治も、虞翻がこういう少女であることをよく知っていた。
「そりゃあ今江陵の津を固めている士仁を、懐柔出来なきゃあたしの戦略に齟齬が生じるしな。
知ってるんだよ? あんたと士仁が顔馴染みなことくらいは」
「君義(士仁)は武神・関羽に憧れて荊州入りしてるのよ…私の言葉でどうにかなるとは」
苦し紛れなその物言いに、呂蒙はこれと解るくらい悪戯っぽい笑みを浮かべて見せた。
「そう、忠義に厚いはずの彼女が、何故こんなモノをあんたに送ったと思う?」
「ちょ、ちょっとっ!」
その懐から取り出された一枚の紙切れを見た瞬間、虞翻ははっきりと狼狽の色を示した。
声をあげると同時にその紙を奪い取ろうと飛び掛る虞翻にそれを奪うに任せ、呂蒙はもう一枚の紙切れを懐から取り出した。
「まぁ見せるからには何枚かコピーしてあるんだが」
「…っ!」
怒ってるとも困ってるともつかない複雑な表情で睨みつけてくる虞翻を他所に、涼しい顔の呂蒙。
「つかどっちも必死だねぇ」
呆れたようにその様子を眺める朱治。
「あぁ…悪いがなりふりかまっちゃいられねぇ。
あたしには、もうそんなに時間が残ってないみたいだし」
「え?」
その様子に何か深刻なものを感じ取ったらしいふたりは、呂蒙の顔を覗き込んでいた。
よくよく考えれば何か違和感があった。
冷静になってみると、顔色も随分悪いように見える…いや、憔悴しきった顔をしていることに、二人は気づいた。
そして…これは医者の娘である虞翻が気づいていた異変。
「子明…もしかしてあなた…内臓のどこかを…?」
「あんたには隠し立てできないよな」
呂蒙は自嘲気味に、少し笑った。
「膵炎らしいよ。
医者の話じゃ…本来なら今のあたしは、ベッドの上に寝てなきゃいけないんだって。
あたしが長湖副部長として、現状の仕事に耐えられる時間は実質十日くらい。年末までもつかもたないかという話さ」
あまりにも穏やかな表情。
一目見ただけでは、彼女の体がそう深刻な事態になっているのかどうかすら解らない。
しかし、付き合いの長いふたりには、呂蒙が嘘をつくような少女ではないことも知っていたし、こうして自分の状況を話してくれるときには余程の事態に追い込まれているということもよく知っていた。
普段はごんなことも笑って茶化そうとする朱治も、深刻そうな面持ちでその顔を見つめる。
「部長に…このことは?」
「あんたたちにしか話してないよ。
だからあたしの体がもつうちに、この大仕事だけは成し遂げたいんだ。
あたしみたいなヤツにこの部を託してくれた公瑾や子敬の知遇に応えるために」
その真剣な眼差しを避けるかのように、窓の外へと目をやる虞翻。
その夕日の赤を、深く澄んだ濃紺の瞳に映し、そして大きく深呼吸して…。
「…君…いえ、士仁を調略するということは、本当の狙いは南郡棟の糜芳の所持する兵力。
そしてそれを利用しての江陵棟占拠…ということでいいんでしょ?」
振り向いたそこには、先ほどまで狼狽していた少女の表情はなかった。
かつて「絶対調略不可能」と言われた豫章の華キンを単身説得に向かった時の、穏やかながら自信に満ちた公証人としての彼女の顔が、そこにあった。
「やれやれ…丹陽周辺の不良どもも、仲翔のお陰でだいぶ鳴りを潜めたのにねー」
仕方ないなぁ、と言った風に、朱治がソファーに思いっきり体を預けた。
「悪いな。
でもやるからには、すぐに終らせて来る」
生気を失いつつある呂蒙の顔にも、何時もの表情が戻ってきていた。
…
「まったく…仕方のない娘ねぇ」
その書面を受け取ったその少女の第一声が、それだった。
二年前の、董卓の専横に端を発する一連の騒動により、打ち捨てられ廃墟になっていたはずの洛陽棟。
司隷特別校区…即ちこの広大な学園都市の中心であり、長らく蒼天生徒会の本拠であった場所。
最早名目と成り果てた感のある蒼天会長を擁した曹操が、その手によって再建したその場所で、諸葛瑾は先ずその威容に呑まれた。
(これが…今の蒼天会…いえ、曹孟徳の力なの…?)
彼女もかつて、司隷校区に招かれるほどの神童として、初等部の頃はこの場所で過ごしていた。
一度破壊されつくしたものが、前の面影を失ってしまうのも仕方がないことだということも解ってはいた…だが、これはそういうレベルの問題ではないような気がしていた。
新旧の趣を取り入れながらも、若き才能を感じさせる内装、外観の妙。
すれ違う生徒達から見られる、革新の機運に満ちた校風。
それは、諸葛瑾の記憶にある洛陽とは、全く別の世界だった。
(今の私たちに、これに抗う術があるのかしら)
孫権から、荊州攻防戦への援助参戦という名目の書面を預けられるとともに、それとなく洛陽の様子を探ってくるよう命じられた諸葛瑾だったが、果たしてこの有様を感じたまま伝えてしまって良いものか、迷わせるほどだった。
そんな彼女の思索を打ち破ったのは、目の前に呆れ顔をしている赤い髪の少女の次なる一言だった。
「こんなものをわざわざ送って寄越したということは、多分「関羽に手を出すな」といったところで聞かないんでしょうね」
「恐らくは、仰せの通りかと」
赤髪の少女…その蒼天生徒会の覇者・曹操その人の問いに、諸葛瑾は内心の様々な感情を億尾にも出さない涼しい顔でそう応えた。
その受け答えに何かか感じるところがあったのか、曹操の瞳はにわかに輝いた。
「…ふぅん。
そだ、ねぇ、この文章書いたのは君?」
「え?」
思ってもみない問いかけに、諸葛瑾は一瞬その問いの意味することを理解できなかった。
だが、すぐにあることに思い至る。
「いえ、長湖文芸部が副部長・皇象の手によるものです」
曹操の瞳がさらに輝く。
「「湖南八絶」のひとりだよね」
「はい」
「ね、今度こっちに遊びに来るように取りはからってくれないかな?」
一瞬呆気に取られ、諸葛瑾は苦笑を隠せなかった。
この才覚に対する貪欲さ…才能のあるものたちと少しでも交わりたいと思うその希求が、曹操という少女の本質であることは彼女にも解っていたが…それでも、彼女は苦笑せざるを得なかった。
「なんでしたら、八絶全員寄越せるよう、部長にお伝えしましょうか?」
「ううん、占いの四人は要らない。
文芸の皇象、幾何学の天才趙達、絵画の曹不興、ボードゲームの達人厳武…それと学園都市のジオラマを作り上げた葛衡って娘がいたよね?
その五人、キミが今度来るときにでも一緒に連れてこれないかな!?」
「確と、孫権部長にお伝えいたしましょう」
拱手しながら、満面の笑みを浮かべる曹操を見て諸葛瑾は思わずにいられなかった。
(この部分は、恐らく仲謀さんでは一生敵わない部分なのかもしれないわ)
人材を求め、優れたものに敬意を払う孫権だが、その一方で性格の合わない者を遠ざけようとする一面があることを、諸葛瑾は痛いほどよく知っていた。
今丹陽に追いやられた格好にある虞翻が、仮に曹操の元にいたらどうなるだろうか。
(多分この人なら、巧くその力を引き出せるのでしょうね。
郭嘉、程c、賈クといったそれぞれカラーの違う人たちを受け入れ、その力を十二分に発揮させてきたこの人であれば)
そもそも、曹操が何処でその人となりを聞いたのか、顔も知らぬ虞翻を高く評価し、会談を切望しているというウワサも聞き及んでいる。
孫権もそのことを知っており、なおのこと虞翻を遠ざけようとしていることも想像に難くない有様なのだ。
そのことを考えると、少し淋しくもあった。
…
江陵棟。
執務室の主席に座す長身で艶やかなロングヘアの美少女が、どこか気の弱そうな緑髪の少女を見据えている。
「あなたが新任の陸口棟長か」
「は、はい…陸遜、字を伯言と言います…以後、お見知りおきを」
言うまでもなく、言葉の主はこの棟の主関羽その人。
その両翼には、左に関平、王甫、廖淳、趙累ら関羽軍団の武の要が、右には馬良、潘濬ら知の要が。
(流石は武神・関雲長というべきだわ…この威圧感、並じゃない)
会見を申し込み、相手の油断を誘うために必要以上に下手に出る陸遜だったが、それを抜きにしても「関羽の存在」が大きな圧迫感として彼女にのしかかってきた。
彼女について着ていた数人の少女達は、一人を除いて真っ青な顔をして震えているが…これほどの威圧感の中ではそれも仕方ないだろう…と思っていた。
「そちらも知っての通り、我々はこれから樊棟の曹仁・満寵を討つ無双の手続きに奔走している真っ最中。
何しろ多忙なので十分なおもてなしが出来なくて恐縮だ」
「いえ、このような席を設けていただいただけでも…その、恐縮です」
だがその最中でも陸遜はその笑み…特にその切れ長の瞳に宿る何かを、見逃してはいなかった。
「もしそちらに助力の要あらば、私たち長湖部も、協力は惜しみません」
「それには及ばない。
軍備は十二分に整い、我らの力を天下に示すには十分。
あなた方長湖部は、あくまで長湖部のためのみに動かせばいい…余計な気遣いは無用」
深々と頭を下げながら、その笑みの中に、陸遜は関羽の最大の欠点がそこにあることを完璧に見抜いていた。
(この態度…私たちを下風に見ていると言うより、それだけ自分の能力に自身があると言う証拠だわ)
陸遜は尚も冷静に分析する。
(付け入るべき隙は…十分すぎる)
気弱な瞳の中に、一瞬だけ狩人の光を見せる陸遜の変化に、気づくものは誰もいなかった。
「あの呂子明の後任というと、相当に苦労も多いのだろう?」
「え、ええ…今こうしているのも、その、緊張に耐えません…!」
おどおどしているのは芝居のつもりではあったが、陸遜はそれでも関羽の持つ威圧感に圧倒されることを否めずにいた。
「ふふ…そう硬くなることはない。
私にしても、後方に位置するあなたたちと喧嘩するつもりはないから」
「え…えぇ、そうありたいものです」
精一杯の作り笑いを向け、陸遜は拱手し、退出した。
…
「あれが…関羽か」
棟を出て、彼女はひとりごちた。
「でもすごいよ伯言ちゃん。
私だったらきっと卒倒してるわ」
ブラウンのロングヘアに、大きなリボンをあしらった少女がため息とともに言う。
「そういうあなた、全然余裕のある表情してたじゃないの、公緒」
「そう?」
公緒こと、烏傷の駱統。
先ほどの会見席で、陸遜以外で唯一平然とした顔をしていた少女である。
陸遜の顔なじみであり、陸遜が特にといって自分の副官として求めた人物である。
おとなしそうな顔をしているが、その穏やかで人懐こい性格とは裏腹に合気道の達人という長湖部の俊英だ。
このおっとりした性格ゆえか、恐ろしく肝が据わっている。
「で、伯言ちゃんはどうみる?
関雲長を実際目の前にして」
「流石に学園の武神と言われるだけあるわ。
個人としての威圧感もさることながら、その手足となるべき人物にも英傑ぞろい…正攻法じゃ、正直どうにもならないわね」
まさしく、それは陸遜が正直に抱いた感想である。
「でも…切り込む隙はありそうだよね?」
「ええ。
関羽のあの尊大さ…足元を省みないあの性格は、致命傷になるわ」
陸遜は見逃していなかった。
油断なくこちらの一挙一動を見据えながらも、何処かこちらを食って掛かるような目の光を。
「子明先輩の計画では、関羽の「打ち捨てていったすべて」を私たちの武器に変える…あとは、関羽が動くのを待つだけだわ」
陸遜の瞳は、江陵棟のただ一点…先ほどまで自分たちがいた執務室の辺りを見つめていた。
関羽が江陵棟・南郡棟に一部の兵力を残して進発したという報が陸遜の元にもたらされたのは、その翌日のことであった。
…
陸口の渡し場に続々と集結する長湖部主力部隊。
その喧騒からひとり、呂蒙は対岸の江陵棟を眺めて佇んでいた。
「いよいよやね、モーちゃん」
「あぁ」
孫皎はそのまま、呂蒙の隣、艫綱を結ぶ杭の上に腰掛けた。
「昨日の大雨で、蒼天会が送り込んできた援軍部隊は壊滅。
今頃関羽はさらに図に乗って樊棟攻略に躍起になってることだろうな」
「せやけど…曹子考を護りの要とする樊棟はそう落とせるもんやない。
今朝入った知らせやと徐晃を総大将とする軍が樊に向けて進発、戦況次第で合肥の張遼・夏候惇の投入もありうる、っちゅー話や」
「…もしかしたら、関羽の本当の狙いはそこにあるのかもな」
「え?」
まじまじと見つめる孫皎に振り返ることもなく、呂蒙は相変わらず一点…江陵棟を眺め続けている。
「まさか…自分ひとりで蒼天会の主だった主将の動きを釘付けにするん…?」
「んや、始末するつもりなんだろう。
劉備の北伐の障害にならないように」
「そんな…」
あほな、と続けようとした孫皎の言葉を遮って、呂蒙はさらに続ける。
「このまま放っておけば、やりかねないな。
あの関羽であれば…」
色を失う孫皎を他所に、呂蒙はその拳を強く握り締める。
「だから、その前に関羽を叩き潰す。
あたしのすべてを賭けて」
「モーちゃん…」
その悲壮とも思える決意の宣言に、孫皎は言葉に詰まった。
もしかしたら、彼女も薄々は感づいていたのかもしれない。
呂蒙がその体の中に、もうその刻限が近づいている時限爆弾を抱えているのではないか、ということに。
(モーちゃん…なんで
うちも
孫皎の瞳には、まるで呂蒙がその命の灯火を、最後の力で燃えさからせているかのように見えた。
「うちらには、ただ勝利しか先にあらへん。
そういうことやな?」
「あぁ」
ふたりの瞳は、江陵棟の先…今まさに天下の覇権を決めんとする樊棟の決戦場を見ているかのようだった。
…
呂蒙たちが陸口の渡し場から遠くの戦場を「観ている」頃…虞翻は手筈通り、公安津の留守居を命ぜられた士仁の元を訪ねていた。
闖入者に対して何の警戒も払わないどころか、こちらを時折伺う視線も無関心そのもの。
その守備隊のかもし出す雰囲気からは、訪れるであろうに未来に絶望しているように虞翻には思えていた。
(成る程…同情したくもなるわね)
その澱んだ空気の中を進みながら、虞翻は彼女らを哀れむように一瞥する。
天下分け目ともいえるこの機会に背後の守りを任されるのは良いとしても…恐らく此処に残されたものは、「前線にいても無用の長物」というレッテルを貼られて、切り捨てられた者たちであろう。
帰宅部連合がまだ弱小勢力のことから劉備や張飛らと艱難をともにし、奸雄曹操をも虜にした義の人・関雲長。
その裏に隠された関羽のもうひとつの顔を、虞翻は垣間見たような気がした。
(聞く限り、君義の落ち度は、此処まで酷い扱いを受けなければならないほどではないだろうに。
ううん、厳粛に取りしまるとのは良いとしても)
その返り咲きの機会すら与えない。
そんな関羽の冷徹な一面を垣間見た気がして、彼女は何時しか不快感すら覚え始めていた。
いや。
彼女が関羽に抱いた嫌悪感は、既にこうなる前から、持ち合わせていたものだった。
長湖部側から持ち出した親睦の歓談を拒絶し、公式の場で孫権を貶める発言をした…そのときから。
執務室に通された虞翻は、半年振りくらいに会った旧友の表情の変化に、衝撃を受けずに居れなかった。
腕前はともかくとしても、発展途上だった同門の有望株は、少なくとも此処まで覇気のない表情はしていなかったはずだ。
快活で前向きだったその彼女の面影はすっかり消え去り…瞳には絶望と憎悪が渦を巻いているように見えた。
「…あなたの言葉…信じてもいいのね?」
「ええ。
ただし、条件があるわ」
既に前もって、文書で双方の意思疎通は図られていたのだ。
「江陵棟の糜芳、その懐柔が条件よ」
「問題はない」
その少女は、虞翻に一通の文書を手渡す。
「我ら二名、および公安津・江陵駐屯軍の末卒に到るまで、あの女に味方するものはない…!」
「そう」
虞翻は此処まで自分の思い通りに運ぶとは思いもよらず、苦笑を隠せずにいた。
(自業自得よ、関雲長。
あなたはその増上慢が故に自らを蝕み、酷たらしくその名を地にまで堕として消えるのよ…!!)
虞翻の、その青い瞳の中に渦巻く憤怒の炎が…誰にも知られることなく静かに熾る。
彼女以外に、その理由さえも知る者もなく。