それから三十分後、虞翻の連絡を受けた長湖部の精鋭部隊は、樊で戦う関羽にその動きを悟られることなく公安津への上陸を果たした。
「あんたが士仁だな」
「はい」
呂蒙との面会を果たし、降伏者の礼を取る士仁。
呂蒙はひらひらと手を振った。
「そんなに堅っ苦しいのは抜きで良いよ。
立場が立場だから暫くは肩身狭いかもしれないけど…まぁひとつよろしく頼むわ。
これからの戦列に加わって協力してもらってもいいかい?」
「無論。
武神などと呼ばれ有頂天になっているあの女に、是非とも一泡吹かせる機会を!」
見つめ返す栗色の瞳の奥には、憎悪の炎が渦巻いているかのよう…呂蒙もまた、虞翻が抱いたのと同じ印象を受けた。
傍らの虞翻に目をやる呂蒙。
「彼女は私と同流派の使い手よ。
先鋒に加えて、彼女やひいては我が流派が蒙った汚辱を晴らす機会を与えてくれれば、私としても嬉しい」
その応答に満足げに頷く呂蒙。
事情を知らぬ者であれば、その多くが虞翻のこの一言に疑念を持つ事であろう。
長湖の頭脳集団の中には確かに、荒事にも一定の適性を示す者は多い…が、その中に虞翻の名が上がることはまずないだろう。
しかし、呂蒙を筆頭とした、かつて孫策と共に群雄割拠の揚州学区をかけずり回った世代は知っている。
長湖部が孫権に受け継がれて以降、いかなる理由からか振るわれることのなくなった、彼女の真の戦闘能力を。
閑話休題。
「よし決まりだ。
此処の連中もやる気満々のようだし、先ずは関羽攻略に一役買ってもらうとするかな」
「ありがとうございます!」
初めて喜悦の表情を表し、深々と一礼し退出するその少女の姿を見送り、呂蒙は再び虞翻を見やる。
「どんなに堅い胡桃の実にも虫が食っていることがあるが…まさにその通りだな」
「そうね」
呟く虞翻には何の表情も伺えない。
彼女としても複雑な気分であっただろう。
志は違えたといえど、旧友の弱みに付け込んだ格好になったのだから。
「これで私の役目は…終りね」
「んや、あんたにはもう一役買ってもらわなきゃならん」
「え?」
立ち去ろうとした虞翻だったが、呂蒙は更なる重責を彼女に負わせるべく考えていたらしい。
ふたりがそのあと、何を話していたのか知る者はいない。
唯、以降この陣中に虞翻の名をみることはない。
その後関羽攻略を記した記事の中に唯一つ、虞翻が孫権に問われるまま占いを立て、関羽が彼女の予見したとおりの時間に囚われたことを孫権が称揚した以外に…ただ、それはあくまで表向きのことである。
それは…学園史に決して刻まれることのない「伝説」のひとつに過ぎないのだから。
-武神に挑む者-
第三部 浸透する牙
陸遜達が夷陵棟に腰を落ち着けて間もなくのこと。
「伯言ちゃ…いやいや、主将、江陵から電報来ましたよ」
「いいわよ、別に二人きりなんだし。
それよりも、思ったより早かったのね」
大仰に敬礼しなおして部屋に入ってくる駱統の姿に苦笑しながら、陸遜は受け取った電報にさっと目を通す。
幼馴染であったゆえか、陸遜は駱統にこういう茶目っ気があることを良く知っていた。
「ところで公緒、周辺の状況は?」
「とりあえず宜都、巫の各地区に散在する小勢力の制圧は完了してるわ。
此処も元々少人数しか残ってなかったからさしたる抵抗もなし。
一先ず任務完了ってとこかな」
そう、と一言呟く陸遜は、立ち上がって駱統へ告げる。
「じゃあ私も最後の仕上げにかかりましょうか。
軍団のうち、三百を率いて関羽包囲に加わるわ。
暫定的な軍編成はここに書いたとおりに、以後はあなたに一任する」
手元の書類を封筒にしまいこんで、駱統に手渡した。
「ねぇ、伯言ちゃん」
退出しようとする陸遜の背に、駱統は問いかける。
「伯言ちゃんは、これが終わったらまた、元のマネージャーさんに戻るの?」
「そういう、約束だからね」
そのまま振り向こうともせず、陸遜は「後はよろしくね」と一言残して、その場を後にした。
その場に取り残された格好になった駱統は暫くその場に突っ立っていたが…
「惜しいなぁー。
「アレ」さえなきゃ、とっくに副部長になってただろうにねえ」
と一言呟き、主のいなくなった部屋のソファーにひっくり返った。
…
江陵陥落から間もなく、その陣中には長湖の精鋭軍を引き連れてきた孫権の姿があった。
江陵にて後方守備軍に睨みを利かせていた潘濬は、江陵をあっさりと占拠されたという事実を恥じ、寮の一室に閉じこもっていたが、孫権は呂蒙の進言にしたがって彼女と直接面談し、その協力を仰ぐことに成功した。
余談ではあるが、孫権はこのとき、布団から出たがらない彼女を、布団ごと担架に乗せて連れて来させたらしいという噂もあったという。
孫権を快く思わないか、潘濬の節度を惜しんだか、あるいはその両方を持ち合わせている誰かが、そんなことを言い出したのだろう、ということだった。
それはさておき。
「ボクとしても本気で帰宅部連合と事を違えるつもりはない。
そもそも荊州は長湖部が帰宅部連合に貸与したものであって、しかも境界線を犯して備品を強奪するということ事態が言語道断のはず」
執務室で、潘濬を前にして険しい表情の孫権。
普段は明るいというか、「ぽわわん」という擬音が出てそうなくらいの笑顔を振りまき、脳天気に振る舞う孫権は、有事の際にはこうした覇気のある態度と表情でしっかりと威厳を示す。
とはいえ、このときの彼女の表情、その要因は他にもあるのだが。
対する潘濬はあくまで無言だった。
備品強奪の件についてはまったく彼女の与り知らぬ事であり、そもそもそんな事実が存在したのかどうかすら知る術がなかったからだ。
実際、関羽は于禁率いる樊棟救援軍を壊滅させると、そこで軍備不足となったため、夷陵棟から追加兵力を導入する際に湘関にある長湖部カヌー部のカヌーを無断で使用し、挙句に戦場にまで持ち出したままになっている。
危急の事態とはいえ、あまりに言語道断な話である。
仮に関羽の指示ではないとはいえ、その卒に至るまでが長湖部という存在を下風に見ていたという証左だ。
そのことを聞かされた潘濬も(あぁ、そのくらいは仕出かしているだろうな)くらいのことは考えついていた。
関羽の独断専行は今に始まったことではない。
現実に関羽は荊州学区における裁量の総てを帰宅部連合の本部から一任されており、そもそも今回の樊攻めも関羽自身の判断において実行されたものである。
そこに潘濬や馬良、趙累といった関羽軍団の頭脳集団にその実行の審議を求めた形跡もなく…あくまで彼女の裁定に従い、各々与えられた職務を全うすることだけが求められた。
関羽の裁定に非の打ち所がなかったことも確かだ。
蒼天会との戦線を開くには、蒼天会が漢中アスレチックを放棄したこのタイミングをおいて、他にない。
唯一懸念があるとすれば、関羽の"馴れ合い拒絶"に心中穏やかならぬはずの長湖部の動向のみだが、その主力はあくまで合肥に釘付けになっているはず。
彼女にとっての大きな誤算は、やはり士仁や糜芳といった不平分子が予想外に多かったこと、そして、何よりもこの「荊州学区」という場所に対する長湖部の執念だろう。
そして彼女は孫権の表情から、単に関羽の言動に対する衝動的な感情だけで動いたのではないことにも、気がついていた。
「貸主が借主の非礼に対し、相応の行動をとったということ。
そのことを伝える使者に、キミに立ってもらおうと思う」
「何故…私に?」
怪訝そうに聞き返す潘濬。
降伏組なら士仁や糜芳もいるし、使者として立つべき人物は長湖部員にも多くいるはず。
特に士仁らの調略に関わった虞仲翔など、その際たるものであるのに。
あるいは、やはり降伏者である自分への踏み絵とでも言うのだろうか。
その考えを読み取ったかどうか。
「キミはここにいる中では、一番関雲長に対して敬意を払っている。
そういう人になら、ボクの思うべきところをちゃんと彼女に伝えられると思ったからだよ」
そういって、孫権はこのとき初めて微笑んだ。
その微笑みに、潘濬は関羽同様、孫仲謀という少女の器の大きさを見誤っていたことを思い知らされた。
(…そうか…最大の敗因は、私達の認識不足だったということか。
この子は…私たちの想像以上だった…!!)
彼女はこのとき初めて、決定的な敗北感を味あわされたような、そんな気がしていた。
その使者の命を拝領して、彼女が関羽の元へ出向いたのはそれから間もなくのことだった。
…
「実にいい風じゃないか」
戦場に近いクリークの上。
その行動開始時間を水上で待つ蒋欽は、遠くその「予定地点」を眺めながら呟いた。
銀に染めた髪を無造作に束ね、腰にはジャージの上着と共に鉄パイプを括り付け、威風も堂々と立つその姿は…かつて湖南の学区を我が物顔に支配していたレディース「湖南海王」のヘッドを張っていた頃の彼女そのままだった。
「これから何か起こるにしては、なんとも拍子抜けじゃねぇか?」
「あたしにゃそう思えませんけどねぇ」
答えるは、傍らに座る、どんぐり眼で赤髪の少女…吾粲。
舳先に座っている所為以上に、元々大柄の蒋欽と小柄な吾粲の身長差は40センチ以上あるため、吾粲の姿は余計に小さく見えた。
「これから始まるのは、まさしく学園勢力図の情勢を一変させる戦いですよ?
むしろ、この静けさは不気味でなりませんよ」
「そうともいえるな」
吾粲の表情は硬い。
蒋欽にも、その理由は良く解っていた。
彼女達がこれから相手にするのは、学園最強の武神と名高い関雲長。
夏に戦い、結局打ち倒すことの叶わなかった合肥の剣姫・張遼と比べても決して劣らない…いや、今の学園内において、下馬評によれば関羽の将器は張遼を大きく上回るとさえ言われている。
(そんなバケモノじみた相手に、果たして長湖部の力は何処まで通用するのか?)
長湖幹部会でも危惧されてきたことだが、前線に立つ命知らずな長湖部の荒くれたちにも、その懸念がないわけではなかった。
いや、むしろ実際前線に立ち、数多の戦いを経てきた蒋欽らのほうが、むしろその思いを強く抱いていたに違いない。
「なぁ、孔休」
不意に名を呼ばれ、自分の頭のはるか上にある蒋欽の顔を見上げる吾粲。
「あたしはこの戦いで飛ばされるかもしれない。
飛ばされないかもしれない」
その表情は、一見普段とまったく変わらない様に見える。
しかし吾粲には…その黄昏の陽を背にしている所為だったのかどうか…何処か悲壮な決意に満ちたもののように感じられていた。
「どんな結末になろうとも…必ず関羽は叩き潰す。
そのために必要な力があたしに足りないというなら、その不足分はあんたの脳味噌で補ってくれ」
「言われるまでもないですよ」
それきり、ふたりが目を合わせることはなかった。
暮れ行く冬の夕陽を浴びながら、その眼はこれから赴く戦場…その一点だけを見据えていた。
…
遡る事二時間前。
先だって激闘を繰り広げ、自分と殺し合い寸前の立ち回りをやってのけたその少女が姿を現したとき、関羽もただ事ではないことを理解せざるを得なかった。
流れるような黒髪に、猫の鬚のようなクセ毛を突き出しているその少女の顔が、普段の明朗すぎる表情の面影のない顔で、単身陣門に現れたからだ。
「降伏の申し出に来た…と言うわけではなさそうだな、姉御」
どんよりと分厚い雲に覆われ、冷たい風が吹き抜けていく寒空の下で、ふたりは向かい合っていた。
「雲長、もう帰宅部連合に、帰る場所が荊州になくなったお…」
「何…!?」
彼女は、予想だにしないその事態に、耳を疑った。
しかし、彼女はそれが自分たちを陥れるための方便であろうということなど、欠片も思わなかった。
何故ならその少女は彼女の幼馴染であり、中学時代は剣道部で互いの武を磨きあってきたことで、その性格は良く知っている。
この学園で志を違えたとはいえ、その大元となる部分はまったく変わっていない…それがこうして単身やってきたことで、関羽も事の重大さを思い知らずに居れなかった。
「で…出鱈目な!
何の根拠があって!」
傍に侍していた妹が、激昂の余り相手へ飛びつきになるのを、すっと手で制しながら、視線でその先を促した。
少女は、懐から一枚の紙を取り出し、差し出してきた。
それを一瞥し、関羽は彼女が言ったことが真実であることを確認した。
「そんな…長湖部が裏切るなんて」
「承明は…江陵はどうなったのよ…!?」
その文書の内容に愕然とする関羽の側近達。
彼女らも、その少女の言葉が嘘偽りない真実であることを思い知らされた。
しかし関羽は、何の表情も見せずに目の前の少女と対峙したままだ。
「姉御、これを私に知らせて…いったい私にどうしろと言うんだ…?」
「それはあたしの知るところじゃないお」
少女は頭を振る。
「だけど、これを知らせずにいたら、あたしが後悔すると思っただけだお」
「そうか…済まない」
そのまま翻り、関羽は側近達に静かな口調で告げた。
「全軍、現時点を持って撤退だ」
「姉さん!?」
「そんな…!」
少女達は言葉を失った。
そして、彼女が思うことをすぐに理解した。
対峙していた少女も、何かに打たれるかのように飛び出そうとする。
「雲長!」
「来るな、姉御っ!」
振り向かずとも、関羽には解っていた。
彼女であれば、恐らくはともに戦うと言ってくれるだろうという事を。
その気持ちは嬉しかった。
だが、それゆえに彼女はこの言葉を告げなければならないと思っていた。
「姉御…いや、蒼天会平西主将徐晃。
江陵平定ののち…改めて先日の決着、つけさせてもらうぞ」
そのまま、振り返ることなく立ち去っていく関羽の姿を見送りながら。
少女…徐晃には、これが学園で最後に見る関羽の姿のように思えてならなかった。
…
付き従う少女達にも言葉はない。
気丈な妹・関平も、気さくな趙累、廖淳の輩も、終始無言だった。
無理もない。
現状は彼女達にとって、余りにも重い。
馬良は益州への連絡係として軍を離れて久しく、王甫は奪取した襄陽棟で蒼天会の追撃を抑える役目を請け負って此処には随行していない。
関羽が王甫を残したのも、先の出立の折に参謀役の趙累が「江陵には潘濬だけでなく王甫も残すべき」という献策を思い起こしていたからだ。
関羽もその言葉を是と思ったものの、長湖部等の後背の防備に疑いを持っていなかった関羽は、王甫を奪い取った重要拠点の守りに据えるつもりでその献策を敢えて退けたのだ。
だから、今回は最も信頼の置ける腹心の一人である彼女を、押さえに残してきたのだ。
彼女であれば、余程のことがなければ与えられたその地を守りきってくれるであろう…とは思っていたが。
関羽は嘆息し、自嘲する様に微笑む。
果たして、再び江陵を取り戻し、襄陽の戦線へ引き返すことが果たしてできるのか、と。
灰色の雲に覆われた冬空の行軍、ふと関羽は歩を止め、続く少女達に振り向いて呟いた。
「私の不明ゆえ、皆にもその落とし前をつけさせる様になった…赦せとは言えん」
少女達は返す言葉もなかった。
この無念の気持ち、恐らくは最も辛いのは関羽自身であろうことは、彼女達にも痛いほど解っていた。
それなのにこうして、自分たちを気遣ってくれる関羽に、彼女達のほうが申し訳ない気持ちになっていただろう。
「い、いえ!
捕られた物は取り返せば済むことです!」
「我ら一丸となれば、長湖部など恐れるに及びません!」
趙累と廖淳が、ありったけの気を振り絞り、それに応えてみせた。
「それに徐…姉御の話によれば、孫権のヤツが出張ってきてるんでしょう?
いっそ、我々の手で孫権諸共長湖部を滅ぼしてしまいましょうよ!」
関平の言葉に、それまで重く沈んでいた少女達も、歓声で応えた。
「そうだ、長湖部ごときに!」
「この不始末は、孫権の階級章で贖わせてやる!」
「我ら関羽軍団の恐ろしさ、思い知らせてやりましょう!」
強がりであることは解っていた。
だが、ここまで来た以上は最早引き下がることは許されないのだ。
だからこそ、この意気は関羽にも好ましいものに映っていたかも知れない。
孫権の親書を携えた潘濬が姿を現したのは、丁度そんな折だった。
…
鈍色の雲に赤みが射す黄昏の空の下、潘濬はその場に座していた。
「承明!」
「無事だったか!」
その姿に歓喜の声を上げる少女達。
しかし、当の潘濬は俯いたままだ。
「御免なさい」
その呟きに、責任感の強い彼女のこと、恐らくはこの不始末を関羽自らに裁かせるために現れたということだろう、少女達はそう思っていた。
趙累は駆け寄ってその手をとると、
「あんたが無事に逃げ延びてきたなら話は早い!
何、あんたなら必ず戻ってくると信じてたわ。
大丈夫、この失敗は取り返すくらいわけない」
そう言って彼女を元気付けようとした。
元々頑固なこの少女は、度々関羽と衝突することも多かったが、それでもその強い意志と優れた内政手腕を高く評価していた関羽が江陵の守将として残したものだ。
その責務を完う出来なかったとはいえ、情状酌量の余地はいくらでもあるだろうし、こうしてやってきたということは敵の内情もすべて把握した上で来ているのだろう…趙累は、そこに一縷の期待をかけた。
しかし、彼女の期待はあっさりと打ち破られた。
「私がここに現れたのは……孫仲謀の代弁者としてなのよ…!」
「なん…だって…?」
その手を振り解かれたことよりも、趙累はむしろその言葉に大きなショックを受けた。
「貴様…ッ」
これほどまでないほどの赫怒の表情を浮かべ、関平がその獲物を手に歩み出る。
「江陵を手放したのみならず…あろうことか長湖部の使い走りか!」
「待て」
飛び掛ろうとする妹を関羽が手で制する。
「姉さま!?
何故です!?」
呆気にとられたのは何も関平だけではない。
居並ぶ将士たちも、正面に立った潘濬ですらも、その関羽の行動を訝るかのようだった。
士仁、糜芳の例もあるように、関羽は軍の進退に関わるような失策を犯したものは決して許さない。
本来なら、潘濬が孫権の代理人として現れた時点でその剛拳で殴り飛ばしているだろう。
趙累が先に飛び出してきたのも、先に飛び出して関羽の感情を和らげる意図もあったのだ。
だが、関羽はその気配も見せず…その表情は厳しいものであったが、奇妙に思えるほど静かでもあった。
「話してくれ、長湖部長の口上を」
「承知しました」
関羽に促されるまま、潘濬は持参した書状を広げると、その内容を堂々とした口調で読み上げ始めた。
関雲長に告ぐ
貴女は長湖・帰宅部連合の盟において定められた約定を、己の一存のみにおいて破り、我々の管理する備品を無断で持ち出し、あろうことかその貴重な品を使い捨ての如く放置するなど言語道断。
先の傲慢なる宣言と合わせ、帰宅部連合に対する南郡諸棟の貸与を無効とし、我らの領有に戻すものとする。
但し、このまま襄陽・樊を奪取するため蒼天会との戦闘を継続するとあらば、同盟修復の意思ありとみなし、我らは後方より帰宅部連合を支援する…
関羽は無言だった。
しかしその瞳は、遠く漢中の方向を向いている。
「雲長様」
潘濬の言葉にも、関羽は動かない。
しかし彼女は、なおも言葉を続ける。
「江陵には尚、貴女の帰りを待ちわびている子達が、長湖部に人質として囚われているのです。
彼女達も、貴女がこのまま襄陽へ戻られるということであれば、彼女らを解放して随行を許すとのこと」
趙累たちも、何故彼女がこの場に送られてきたのかを漸くにして悟った。
恐らく長湖部はそういう不穏分子を宥めるため、その中心的な人物である潘濬に関羽を説得させるために差し向けてきたのだろう。
潘濬は胆も座っており、弁も立つ。
そして、何より…
「お願いです!
彼女らのために、何卒長湖部の申し出に応じていただきますように!!」
額を叩き割らんかの勢いで叩頭する潘濬に、少女達にもその苦衷を窺い知らずにいれなかった。
恐らくは潘濬も、命がけの覚悟で此処に現れたのだろう。
責任感の強い彼女であれば、此処で関羽の一身を救うことが叶うのなら、あとは全責任をとって学園を離れるつもりなのかも知れない。
直前まで怒りのあまり、目の前の少女を八つ裂きにしてやろうかというほどの気を放っていた少女達も、その姿をやるせない思いで眺めていた。
そしてそれと同時に、参謀格の趙累には、江陵を奪い取った長湖部の軍勢のシルエットが浮かび上がってきた。
いくら不安要素があったとて、あるいは長湖部側にどれほどの準備があったといえ、これほどの短時間のうちに堅牢で知られた江陵が完全に制圧されている…恐らくは、既に夷陵周辺も。
甘寧、朱治といった「仕事人」を欠く長湖の主力部隊に、呂蒙以外でこれほどの仕事をやってのける人間がいたことも驚愕すべき事実だが…さらに言えばこれは、それほど長湖部が本気であることを示唆していた。
「…姉さま」
関平の言葉にも、関羽は応えようとしない。
しばしの重苦しい沈黙を破ったのは、関羽の呟きだった。
「我が主、漢中の君劉玄徳よ」
関羽は漢中の方へ向き直ると、その空に向けて拱手する。
「関雲長、義姉上の裁可を仰がず、我が一存にて孫権に断を下すことを…お許し下さい」
その言葉に、潘濬は驚愕し…その意図を悟った。
次の瞬間、関羽はこれまで通りの覇気と威厳に満ちた表情で、全軍に号令する。
「行くぞ、目指すは長湖部長孫権の打倒、それひとつだ!」
「雲長様!」
取りすがろうとする潘濬を手で制する関羽。
振り向いた関羽は、一転してその表情を和らげる。
「承明、お前はなんとしてでも生き延びろ。
そして、江陵のことはすべてお前に託す。
どのような結果になろうと、学園生活の可能な限り最後まで江陵の子たちのために尽くせ…それが私が貴女に与えるただ一つの刑罰」
「雲長様…ッ!!」
「此処からは、私が私自身に落とし前をつける戦い。
お前には関係のないことだ」
そのまま振り向きもせず、関羽は再び行軍を開始する。
あとに続く少女達もまた、無言でそのあとに続いていく。
そこにどんな死地が待ち受けているかも知らず…いや、例え其処に破滅の結末しか見えていなかったとしても、彼女たちは関羽に付き従うことこそ本懐として、何も言わず従って行くことだろう。
潘濬もその姿を、振り向いて見ることは出来なかった。
そのかつての主の姿を見やることもなく、彼女は溢れる涙を拭う事もせず、天に向けて拱手する。
「雲長様…どうか、御武運を…!」
彼女は、ただそれを祈らずに居れなかった。