四か月前。
丁度、劉備達が漢中攻略の準備を整えていた頃のこと。


「…危ういですな」

最終的な軍議を終え、あとは漢中攻略に際して細かな調整作業を残すのみとなったその席に残り、特徴的な白衣と扇子を携えたその少女…諸葛亮が呟く。

「…なんやねん孔明。
これからいよいよ北伐に取り掛かるっちゅーのに、幸先の悪いこと口にすな」

このところ伸び始めてうっとうしくなってきた、眼鏡の上にかかる前髪を払いのけ、同じようにその場に残っていた劉備が咎める。

「あ、いや、これは失礼を。
ですが…ひとつ気になることがあるのです」
「気になる?
まぁそりゃあ、向こうさんも手薬煉引いて待ち構えてる所に堂々と突っ込んでくんやから当たり前やろ」

劉備は肩をすくめて嘆息する。


諸葛亮は普段の、どう見てもオタク全開の…ともすれば奇人と言われ忌避されても仕方のないような言動とは裏腹に、実務面においては極めてまともであるが…あまりに堅実的で、時に悲観論者(ペシミスト)ともとれるほどの考え方をする。
劉備に言わせれば「思い切りが足らなさすぎる」というところである。

実際に、今回の漢中攻めに最後まで難色を示したのは諸葛亮であった。
彼女自身も漢中攻略そのものの必要性は承知の上だが、時期尚早と踏んでいたのだ。
その要因とも言えるのが…。


「いえ…私が思うのは…荊州のことです」
「関さんのコトか」

諸葛亮の言葉に、劉備も思うところはあったようだ。

「ええ。
お聞きの通り…子方(糜芳)殿らとはあまり巧くいっていないと聞き及びます。
私としては、あの軍団の再構成をしてからでも漢中攻略…引いてはそれに続く草蘆対作戦への後顧の憂いを断っておきたかったのですが」
「確かにな」

劉備は立ち上がると、諸葛亮の立つ窓際…その隣に移る。

「こないだ公挙(費詩)にそれとなく探ってこい、ゆうたはええけど…出来るならデマやゆうて欲しかったわ」

劉備はさらにため息を吐く。


流石に付き合いが長いだけあり、劉備は張飛だけでなく、関羽にも同格以上の者に対して傍若無人な面があるという欠点を承知していた。
だからこそ、自分と比較的長く苦労を共にし、その気心を知っている麋姉妹の片方を折衝役として宛がってはいたが。


「けどな…何度も言うけど、もううちらには時間があまりないんや。
せやから…多少余裕のあるうちに、見切り発車でも出ていかねばならへん。
…子方には…それまでもちっと辛抱してくれたらええねん。
一段落済んだら、きっと相応の報償をもって応えなあかん」

劉備はそれだけ言い残すと、静かに部屋を後にした。


(それだけではない。
 総帥はご存じないだろう…雲長殿が、長湖部の姉上に述べた口上のことを)

諸葛亮は敢えてそれを口にすることを避けた。
それは、彼女にとっても、最も言及を避けたい問題の一つであったからだ。

(恐らく、長湖部も遅かれ早かれ動き出す。
 実働部隊で呂子明クラスの人間が「他に」どれほど育っているのか…そこはさして問題ではないだろう。
 後の運命は…雲長殿次第、か)

その諸葛亮の胸中を図る者はいない。



−武神に挑む者−
終節 ゆめのおわり



大地に倒れ付した少女を一瞥すると、関羽はゆっくりとした動作で孫権を見据えた。

「これで私の道を遮るものは無い。
孫仲謀…君を倒せば、ここで長湖部の命運は尽きる。
…覚悟してもらうぞ」

関羽の放つ気にあてられ、少女たちは思わず後ずさっていた。
ただ一人、孫権を庇うようにその前に立つ周泰を除いては。

「勝手なことを…!」

しかし、周泰の言葉はそこで途切れていた。
何時の間にか振るわれた鋭い横薙ぎの一撃が、次の瞬間にその身体を数メートルも吹き飛ばしていたのだ。

「幼平っ!」
「幼平さんっ!」

呂蒙と孫皎が駆け寄ろうとするが、既に関羽の第二撃が、呆然とへたり込んでいる孫権の頭上に狙いを定めている。


「終わりだ」


孫権は、総てがスローモーションに見えるその刹那の時間の中で、関羽の目を見ていた。

その瞳は、先ほどのような鬼気を感じない。
この局面には不釣り合いなほど、静かで、穏やかな瞳だった。


そして何故か…この剣は決して…届かないことを確信しているように思えたのだ。


その突拍子もない、漠然とした予感を裏付けるかのように…孫権は再度想像もつかないものを見ていた。
振り下ろされる刃と自分の間に割って入る、銀色の影。
それは常日頃から自分の傍にあって、あらゆる危難から守ってくれた存在とは別のものであったことに、彼女はすぐに気付いた。

関羽の瞳も、それがさも当然の事であることを確かめたかのように細められる。


「どうして」

その剛剣を杖で受け止め、その身を盾に庇う少女へ、孫権は問いかけた。

「なんで…なんであなたは…そうまでして」

彼女は振り返らない。


服に滲む赤い染みが、彼女の受けたダメージの大きさを何よりも如実に物語っている。
しかし彼女はしっかりと両方の足で大地に立ち、身じろぎひとつせずその剛剣を受け止めていた。

守るべき、その少女の為に。


「私にとっても、あなたが…大切な人だから。
伯符さんの妹だからじゃない。
あなたになら、私のすべてを託すことができると思ったから」

その姿は何よりも確かに、彼女の言葉が偽らざる真実であることを物語っている。

「だから…だから私は、あなたを貶めたこの女がどうしても許せないんです。
そして、あなたに嫌われることしか出来なかった自分自身も」

その声が震えていたのは、そのダメージの所為ではないだろうことにも。
孫権は漸くにして、この少女がどんな思いで過ごしてきたのかを知るとともに…そのあまりにも哀しい心に気付けなかった自分の不甲斐なさを痛感した。


「だから…私はこの総てを…私の身を引き換えにしてでも…ここでその落とし前をつけます…!」


そのとき、ただ一度だけ、少女は背後の孫権の方に振り向き…微笑んだ。

寂しそうな笑顔だった。
その名前を、呼んであげたかった。
しかし胸が詰まって、声を出そうとすれば涙が出そうになり…その感情を堪えるので、精一杯だった。


少女は再度、視線を前へ戻す。


「うあああああああああああああああああああああああああああ!!!」


凜とした怒号を放った瞬間、少女の闘気が弾けた。

杖を返し、力の均衡が崩れて体勢を乱したその手から木刀をかちあげた。
強制的に諸手を挙げさせられ、がら空きになった胴に一撃、立て続けに背、鳩尾、大腿、左腕、右肩と乱調子の攻撃が武神と呼ばれた少女の体躯を打ち据え、限界を超えていたはずのその体から容赦なく体力を奪い取ってゆく。

その一撃一撃が、この戦いで無念の最後を迎えた同胞達に捧げる鎮魂歌の如く、縦横無尽に繰り出される杖は風を斬る。


関羽は…逃げることも、守ることもせず、そのすべてを受け続けた。
まるで、そのすべてを己自身に刻み続けるかの如く。

よろめくその身体から距離を置き、銀の髪を翻す少女は再度脇構えに杖を構えた。


「我が力の総てをかけ…唸れ天狼の刃よ!
はあああああああああああああああああああああああッ!!!」


銀色の閃光が駆け抜けていく。
次の瞬間、その口元が歪むと共に…手にした木刀がその場に転げ落ちる。


「見誤った。
私の、勝てる相手では、なかった。
見事……!!」


それだけつぶやくと…その体がゆっくり、その場に崩れ落ちた。
この乱世の始まりから学園を駆け抜け、「武神」と呼ばれた少女の、最期だった。





「関羽が討たれた」

その報告は間もなく学園中を駆け巡ることとなる。
情報封鎖によって丸三日、それを知らされずじまいだった帰宅部連合を除いて。


王甫が防衛していた襄陽も、突如侵入した長湖部勢によって瞬く間に制圧された。
王甫は辛くも脱出に成功し、血路を開いて益州学区へ帰還することが出来たが…その道中において漸く、関羽が飛ばされたということを知る事となった。
あの死闘の最中、唯一逃げ切ることが出来た廖化と合流したことで。


その報告を受けた曹操にも、何の言葉も思い浮かばなかった。

長湖部から送って寄越されたのは、紛れもない関羽の階級章。
しかし関羽の行方は、戦後処理を待たずに杳として知れないとのことだった。


関羽が何処へ去ったのか…この時点で知る者は誰もいなかった。


一通りの報告を受け、曹操は訝る蒼天会幹部に「…悪いけど、ひとりにして」と言い残し、覚束ない足取りで執務室を後にしていた。
彼女は、洛陽棟の屋上…丁度荊州学区が見渡せる場所を眺めていた。

「とりあえず、当面の危機は去った…んじゃないのか?」

その声にも振り向こうとせず、曹操はただ、遠くに映る荊州学区のほうをぼんやりと眺めていた。
声の主…夏候惇はその隣に、手すりに寄りかかるような形でついた。

「まぁ…おまえは大分あいつのことを気に入ってたみたいだから」
「そんなんじゃないよ」

曹操は手すりに預けたその腕の中に、自身の顔を埋める。

「ちょっとだけ…雲長のことが羨ましいと思った」
「羨ましい?」

思ってもみなかったその一言に、夏候惇は鸚鵡返しに聞き返した。

「形はどうあれ、雲長は自分のあるべきところで学園生活を終えることが出来た…その間いったい、あたしはなにやってたんだろうな、って」

そのとき初めて振り向いて見せたその表情は、ひどく哀しげなものに見えた。


劉備や関羽が長きに渡って学園の動乱時代を、自らの足で駆けずり回ってきたように…曹操もまた、この動乱時代を先頭きって駆け抜けてきた少女である。
学園組織でその身が重きを成すようになっても尚、彼女は自らの足で戦場に赴き、常に飛ぶか飛ばされるかの危難に遭いながら、その総てを乗り越えてきた。


しかし「魏の君」という肩書きに縛られ、彼女の課外活動における行動範囲はこれまでの比でもなく狭められてしまっている。


それが彼女の行動の結果だとは言え、それが本当に彼女の望むものだったのか。
その「羨ましい」の一言が、その思いの総てを物語っているように夏候惇には思えた。


「…そろそろ、あたし達も潮時なんじゃないかな?」
「え?」

夏候惇の言葉に、今度は曹操が驚いて聞き返す番だった。

「あまり忙しいと忘れがちになるけど…あたし達もそろそろ学園に別れを告げなきゃならない時だ。
ここまできたら、もう十分やったんじゃないかな?」

寂しそうに告げる夏候惇もまた、その責任の重さから既に戦場へと赴かなくて久しい。
単に従姉妹同士という以上に、常に曹操と最も近しい位置にいた彼女にも、その思うところは初めから手に取るように解っていたのかもしれない。

「まぁしばらくは大騒ぎになるかも知れんが…事後処理の面倒なところは、あたしや子考(曹仁)、子廉(曹洪)でしばらくどうにかしてやるよ。
だからお前は、残り三ヶ月の間くらいは、好きに学園生活を送ってみたらどうだ?」
「うん」

少しだけ微笑んだ彼女の脇を、晩秋のそよ風が吹きぬけた。


こうしてまたひとり、学園史を彩った風雲児が、その歴史上から姿を消そうとしていた。
この一週間後、曹操の引退宣言でまたしても学園中は上へ下への大騒ぎとなるのだが…その影で、ひとつの悲劇がまた進行しつつあった。





揚州学区の病院の一室に、彼女は眠っていた。
頭には包帯を巻き、その身体には所々計器が取り付けられている。静かな病室の中、無機質な電子音だけが響いている。


「どうして。
どうしてこんな目に、遭わなきゃならないの…子明さん…!!」

孫権は呂蒙の手をとると、力なくそう呟いた。
俯いたその瞳からは、とめどなく涙が流れ続けていた。



長湖部内での論功行賞は既に済み、作戦の総指揮をとった呂蒙はもちろん、生き残った者達にはそれこそ莫大な恩賞が与えられ、今回飛ばされたもの達についても十分すぎるほどの見舞金が出されていた。
そして、丹陽に半ば放逐状態だった虞翻もまた、此度の江陵陥落の立役者としての功績が認められ、再び幹部会の会計総括として中央に戻されることとなった。

そして陸遜はというと…流石に功績の大きさから何の扱いも出来ないということはできず、名目として鎮西主将の称号を与えられ、そのまま陸口に留まっていた。
ただしそこにどのような思惑が働いていたのか…彼女はしばらくの間、これまでどおりいちマネージャーとして過ごすこととなる。



そして、呂蒙。

「そういうわけで、問題もひと段落つきましたので…勝手ながら少しの間療養の時間を頂きたいのです」

呂蒙はこの日初めて、自分の体調のことを孫権に打ち明けていた。


呂蒙は戦後処理の直後、宛がわれた自室で倒れているのが発見された。
既に限界寸前まで酷使していた身体が、大仕事を成し遂げた安堵感からかその力を一気に失ってしまったようでもあった。

その後数日間病院のベッドで過ごし、この日正式に暇乞いをするために許可を得て病院を出てきていたのだ。


「後任人事は、こちらに総てあるとおりです」

提出されたその表文の中には潘璋、朱然ら現長湖部の武の要といえるものたちの名はあったが…陸遜の名はなかった。
呂蒙は病院にいた間、これまでの部員たちの行動を鑑み、かつ孫権や陸遜当人との約束を守り、その人事案を完成させたのだ。

「うん…でもまた、帰ってこれるんだよね…?」

孫権は勤めて普段通りの口調で、そう問いかけた。

元気そうに見えたが、呂蒙の顔からもその病状の深刻さが伺えた。
孫権にももしかしたら、それが叶わぬ希望とは解っていたのかも知れないが…それでも、そう言わずにいれなかった。

それを解っていたからこそ…また、自分にもそう言い聞かせるように、呂蒙も応えた。

「…ええ。
ですから、まだ階級章はお返ししません」
「うん…じゃあ、しっかり休んできてね」

そこには涙はなかった。





建業棟を退出し、無言のまま隣り合って歩く呂蒙と孫皎。

「…悪かったな、黙っていて」

先に沈黙を破ったのは呂蒙だった。

「ええんや。今ちゃんと教えてくれたんやから」

頭を振る孫皎。


彼女にも、この戦いに賭けた呂蒙の思いを…自分を心配することで気を遣わせまいとしたその気持ちを解っていた。
だから彼女は、自分を「友達」と言ってくれた呂蒙の為に、その疑問を口に出さずひたすらそのサポートに徹していた。


「ゆっくり休んで、また元気に帰ってきてくれれば、それでええねん」
「ああ」

寂しそうに笑う孫皎の気持ちを紛らわせるかのように、呂蒙も笑って見せた。


悲劇は、そのとき起こった。


突如黒い影が何かを振りかざし、その視界に現れた。

「叔朗!」

その叫びよりも早く、鈍い音がして、孫皎の身体が横にふっとばされた。

「奸賊、覚悟ッ!」

殺気を感じ、呂蒙がその場を飛びのくと、それまで彼女がいた場所に何かが通り抜けて地面に突き刺さった。
それが鉄パイプであるということを呂蒙が理解するより前に、四方から立て続けに第二撃、第三撃が襲ってくる。

「ちっ…正当な学園無双で敗れた腹癒せの闇討ちが、てめぇらの流儀なのかよ!」
「黙れッ!留守居を狙ったこそ泥の分際で!」

呂蒙は紙一重でかわしながら、何とか倒れ付した孫皎を回収しての逃げ道を模索する。
しかし、無常にも彼女の体調が、それを強烈な激痛として阻んだ。


直後、凄まじい衝撃が彼女を襲った。



この下手人たちは、たまたま近くを通りかかった水泳部員達によって悉く取り押さえられたものの、そのときの惨状は筆舌に尽くしがたく、被害者たる呂蒙が一命を取りとめていたことが奇跡に近い状況であった。
全身を滅多に打ち据えられ、特に頭への一撃はほとんど致命傷といっても差し支えなかったという。

元々呂蒙は水泳部を中心に様々な運動系クラブを掛け持ちしていたことで、小柄ながら体つきがしっかりしており、その鍛え抜かれた体があったからこそ一命を取りとめることが出来た、とのことだった。


孫皎は比較的軽傷で済んだものの、こちらは目の前で親友たる呂蒙を失ったことでショックを受けて心神喪失状態となり、課外活動を続けることが困難と判断されてドクターストップがかけられてしまった。





今回の謀主でありながら、幸いにも危難を逃れた陸遜は。


陸口で「呂蒙闇討ちに遭う」の報を聞きつけた陸遜も、流石にショックを隠しきれずにいた。
彼女はとるものもとりあえず病院へと駆けつけ、目覚めぬ呂蒙と、その手をとって嘆き悲しむ孫権の姿を、ただ呆然と眺めることしか出来ずにいた。


(これが…こんなことが、このひとの末路でなくてはならなかったと言うの…?)

自身の身体に埋まった時限爆弾の刻限を知り、その時間内に大望を成し遂げるために最大限の人事を尽くしたその姿を、陸遜もよく知っていた。


「この一戦だけ」と、悲壮な覚悟で自分に懇願してきた呂蒙の姿を、陸遜は思い出していた。
それが、昨年の秋口にあった事件のあるシーンと、重なって見えた。

南郡攻略に進発する周瑜を見送った、そのときと。


いずれも、ふたりと言葉を交わした、最後の瞬間だったからだ。


(どうして…どうしてふたりとも、こんな目に遭わなきゃならないの…?)

彼女の目からも涙が溢れ、流れ落ちた。
周瑜と呂蒙…このふたりのやろうとしたことの何処が、理不尽ともいえる「天罰」に触れなければならなかったのかと思い、彼女は天を呪わずにいれなかった。





そしてその場に姿を現さなかったものの…虞翻もまた、呂蒙の末路を聞き及び、一人涙した。

彼女は荊州学区から丹陽に戻ったその日、全身至る所怪我の手当をされており…訝る朱治には「交渉の帰り道で不覚にも敵軍に見つかり、逃げ道で崖に落ちて死んだふりをしたときの怪我だ」と誤魔化したが、朱治はそれをベタな嘘だと見抜きつつも、それ以上詮索しようとはしなかった。
彼女を恐れ、陰口を叩く他の生徒の中には「そのまま死んでしまえば良かったのに」と陰口を叩かれはしたが…真実を明かしたところで、それを信じる者はほとんど居ないであろう。


彼女の涙は、そんな心ない恨み言に傷ついたからではない。
そのような「負け犬の遠吠え」など聞き飽きていたし、今更歯牙にもかけるつもりはない。

その涙は…孫策が刺客に襲われたあの日も、そして今回も…彼女はその場に居合わせず、それが取り返せぬ時間と場所で結末のみを知る形となってしまった為のものなのだ。


(私は…また大切な人を…守ることが出来なかった)

どうしようもない運命のなせる業であることも、彼女はその聡い頭脳で理解はしていた。
しかし、その感情は…その場に居合わせることすら出来なかった自分自身をただ責め続けていた。





黄昏に染まる冬の空を眺めながら、彼女はその場に立ち尽くしていた。


自分に残された学園生活はあとわずか。
そのギリギリのタイミングで、ようやく光明が射してきた学園統一への道。
義姉妹が三年の長きを経て、ようやく磐石なものにしたその道は、思いもよらぬところから切り崩された。

長湖部の背信。
留守居の不手際。

(否、責められるべきは、私自身だ。
 私自身の弱さが、招いたこと)

彼女は頭を振る。
それが憎悪すべき事由であるなら、その答えは己のうちにあったのだ。


(玄徳さん。
 益徳。
 みんな…済まなかった)

その激戦の傷が癒えぬ、心身共に傷ついたその姿のまま学園を去るその姿を、見た者は誰も居なかった。
長湖部に起こったその悲劇を、知ることもなく。




呂蒙への闇討ちがあって数日後、呂蒙を失ったことによる人事再編が長湖幹部内で施行された。
しかしながら、呂蒙を失った穴を埋めるには到底及ばない状態であり…長湖部は暫しの間、その中枢を担うべき将帥のない状態となった。

そしてそれゆえ、数ヵ月後に、その存亡に関わる大事件へと巻き込まれてゆくこととなる。


(終)