それから一週間の時が過ぎた。
久しく使われることのなかった建業棟の軽音楽部室に、再び少女たちの賑わいが戻るとともに…軽快なメロディが響くようになった。
最初は渋々参加していた奏者の少女たちも、回数を重ねるごとに練習にも熱を帯びてきた。
なんだかんだと文句をぬかしていた来期の幹部候補生たちも、先輩たちのサポートを受けながら少しずつ様になってきているようだった。
特に、最初は文句ばかり言っていた陸凱に至っては、独自に同じ楽器を弾ける者の所に押しかけて自主的に練習を重ねるなど、積極的にコンサートへ向けた準備を始めるようになり…非参加の者達もそのサポートにそれぞれ動き出している。
「やるからには最高のものを」という思いは、皆一緒なのだ。
そんな思いを胸に、長湖部のこの一大イベントへ向けた準備は着々と進められた。
…
…
「あー、やめやめっ!」
演奏をぶった切って、楽譜を見ながら座っていた朱然が叫んだ。
「何よ義封、どっか変だった?」
やれやれ、という感じで楽器を下ろす少女を代表するように、ドラムのスティックを玩びながら陸遜が、うんざりしたような表情で応える。
朱然は、その苛々が最高潮に達したといわんばかりの顔で憤然と返す。
「ヘンもへったくれもあるかい。
やっぱり楽器が埃被ってただけあって全っ然音が悪ぃ。
スケジュール自体は思ったより順調だけど、この楽器をどうにかしないと本番台無しだよ」
「確かになぁ…特にこのサックスは頂けねぇ、限界だわこれ」
朱桓もそれに続く。
彼女の言葉ももっともで、そもそも金管楽器はほとんど消耗品のようなものだ。
何年も放って置かれてしまったサックスの使用に、実はもっとも難色を示したのは担当の彼女である。
それでも資金面的に新品を用意する余裕はないということもあり、これまでの数日は手入れを繰り返しながら騙し騙し使用していたが…使用者の彼女がそういうならば、最早これ以上の使用は不可能ということだろう。
溜息を吐く朱然。
「まったくだな。
けどサックスはいざとなればあんたの手持ちがあるだろ、それ使ってくれや。
楽器がこんなんなら今日はこれ以上の練習も無理だな、解散だ解散」
「そうさせてもらうわ。
でも、ほかの楽器は代わりどうにかなんの?」
そういうと、ピアノの椅子にちょこんと陣取っている顧雍に目をやるふたり。
「何度も言わせるけどさ、元歎さぁ、マジで追加費用はどうにかなんない?」
何のこと?といった感じで小首をかしげる顧雍に、朱然はうんざりしたような表情のまま問いかける。
ウェーブのかかったロングの黒髪をふるふると振って、なにやら呟く顧雍。
「ただでさえ設営その他諸々にお金がかかってるから、これ以上となると自腹を切ってもらうしかない、って」
「ああもう!
正直ここまでどうにもならねえとは想定外だ、楽器だけは心配ねえと思ってたのにっ」
全琮が通訳すると、朱然は行き場のない怒りを表すように頭を振る。
「まぁ、最悪ギターは弦を張り替えるくらいならできるから、それで耐えてもらうしかないわね」
「そのくらいの余力ならある、って元歎もいってるよ」
陸遜と、ぼそぼそとなにやら呟く顧雍の言葉を通訳する全琮。
「まぁ、今はそれで通すしかないってことね。
そもそもエレキだのアンプだのドラムだの、蒼天会や帰宅部連合の機材までも借用してる状態なんだから、文句言っちゃいられないわよ」
「まったくだ。
あのひとが動いてくれなきゃ、そもそもここまで機材そろえることも出来なかったろうしな。
それでもわりとぎりぎりだけど」
肩を竦める陸遜に、ため息ひとつついて相槌を打つ歩隲。
…
同盟関係にある帰宅部連合はまだしも、課外活動の上で敵対関係にあるはずの蒼天会からも機材を借り受けることが出来たのは、表面上は敢沢ら外交部隊の功績ということになっている。
しかし、その実はある卒業生が直接風紀委員を通して拝み倒した結果であったらしい。
その風紀委員との卒業生のコネがなければ、恐らくは耳も貸してもらえなかったであろう。
…
「あとはまぁ…休穆(朱桓)じゃないけど、個人で所有している人が居たら呼びかけて供出してもらうほかないんじゃないかな?」
「ぐぬぬ」
別案を出して宥める張承の言葉に、うなり声を上げる朱然。
「しゃあねぇなぁ…じゃあ呼びかけて徴収してみるか。
仲嗣(張承)、悪いけど何人かその仕事にまわしてくんない?
借り受け楽器のテストとかも含めて、頭数足りなきゃ来期の幹部候補生共にやらせりゃいい。
どうせ承淵達以外はヒマ持て余してんだろ」
「解った、叔嗣とかあの馬鹿共、何もないのをいいことに遊び呆けてるって話も聞いてたからちょうどいいわ」
張承は一言残して、憤然とその場を歩き去って行った。
居合わせた他の面々も、あきれ半分の溜息でその後ろ姿を見送り、そして片付けを始めた。
-長湖式歓送迎会-
そのに「その歌を彼女に」
翌日。
「ちっくしょ~!
なんであたしたちがこんな目にぃ~っ!」
「くぉらそこのアホロバ腰が入ってねーぞ!
楽器ぶっ壊したらどーする気だー!」
よろよろと重そうに、エレキギター用のアンプを持たされた諸葛恪に、朱然の仮借ない檄が飛ぶ。
そのほかにも数人の少女達が、大小様々な物品をあるいは段ボールや専用のケースに入れたものを運び、棟から棟へと行進している光景。
その一角で、少しその隊列から離れたところにキーボードをふたりがかりで運んでいるのは顧譚と張休。
「はぁはぁ…というか、これだったら貧乏籤引かされた方が数倍マシだったわ」
「う~…今更そんなこと言ったって~」
「ちょ…ちょっと休憩しよう叔嗣。
私、もう、腕が」
「ど、同感」
よろめきながらふたりが木陰に差し掛かり、足を止めようとしたその瞬間だった。
「そこー! 足とめんじゃねー!
さっさとそれを建業に運ばんかーい!」
「「ひゃあ!?」」
足元で、ぱぁん、と鋭い音が響き、気を抜きかけてたふたりは飛び上がらんばかりに驚く。
振り向けば、そこには地面に竹刀をつきたて、まるで夜叉のごとき形相の張承の姿がある。
「ね、姉さ~ん…ちょっと休ませて」
「甘えんなー! 長湖幹部会の仕事の辛さに比べりゃこんなん屁でもないわぁー!」
妹の言葉を一蹴し、再度アスファルトに竹刀の先を叩きつける張承。
そこで疲労からか、それとも一般生徒の行き交う通路のど真ん中、晒し者同然の状態で肉体労働に従事させられていることへの不満からか、とうとう顧譚が怒りのあまり大声を上げた。
「つかこんなの不公平!
何で子賎(丁固)とか恭武(孟宗)とかはあんなに軽いの運ばせてんですか!」
カスタネットやマラカスといった、比較的軽めの楽器の入った段ボール箱を運んでいるふたりの同輩を指さし、抗議する。
だが、張承は眉根を中央に寄せたまま返す。
「あー?
あの子達はいいのよ、そんなに体力あるほうじゃないし」
「あたしらだってそんなに体力自信ないですよっ!」
「ほぉーう?」
張承の目がさらに細まり、表情も連動してさらに険しくなる。
後方に居る同輩に向けて声を張り上げる張承。
「おーい文奥よぅ、お前こいつら何処で拿捕したっていってたっけー?」
その先には、栗色の髪をセミロングにした、そこそこ長身の少女が居た。
顧譚、張休、諸葛恪とともに、次期部長候補である孫登の側近を務める陳表、字を文奥である。
彼女はその三人組のひとつ年長、張承らと同じ二年生で、昨年卒業した陳武の従妹であり、普段は温厚で大人しそうな外見に似合わず、その実はかつての陳武を髣髴とさせる生粋の武闘派である。
「おー、揚州繁華街のゲーセンだぁ。
しかも制服で堂々とダンスゲームに興じてやがったぞー!」
「ちょ…文奥さんっ!」
その証言に顔色を変えるふたり。
そう、くじに外れ「面倒くさいイベント」に関らず済んだと思い込んだ彼女たちは、こともあろうにその後数回あった新入幹部候補の召集命令を無視した挙句、学校帰りそのままの格好で遊びに出かけていたのである。
妹達のこの行動に、姉の張昭ばりに激怒した張承(と顧雍)は、すぐさま追撃隊を組織。
顧雍の占いによって三人の居場所を突き止め、その行動パターンを知り尽くした陳表の作戦によりあっさり御用と相成ったわけである。
「というわけで叔嗣は当然、あんたとあのバカロバに関しても、元歎と子瑜先輩からごってり油絞ってもらうように頼まれているから。
くだらねー態度を取った代償、その身できっちり支払ってもらうから覚悟おしッ!」
「そんなぁ~」
「あたしは止めたんだよおねーちゃーん」
すがる様な妹の一言など最早聞く耳持たない、といった感じで三度竹刀を叩きつける張承。
実際張休は件の二人に半ば引きずられる形で強引に同行させられていたのは事実であるのだが、止められずに巻き添えを食ったままで「何もしなかった」という意味で同罪なのは変わりない。
「じゃかあしいっ、そんなその場凌ぎの方便がこのあたしに通用すると思うかっ!
子布(張昭)姉さんに黙っておいてやるだけでもありがたく思えっ、解ったらとっとと運ぶ!」
「ふぇ~ん」
この形相を前に、もうどんな言い逃れも通用しないと悟ったらしいふたりも、観念してふらつきながらもその荷物を運んでいった。
その目の先では、またアンプを落としかけて朱然に怒鳴られている諸葛恪の姿が見えた。
「なんつーか、哀れね」
「奴らの場合はインガオホーっつーんだろうけどな。
おーひさまもわらってらー、ってなー」
「ああそこは砕けた月じゃないのね」
練習の打ち合わせに向かう道中の虞汜と陸凱は、怒鳴られる三人を気の毒そうに見やりながらもその口元がわずかに吊り上っていた。
…
…
コンサートも残り十日ほどになったある日、裏方担当の少女たちが最終調整に向けての会議を行っていた。
その場には、コンサートに向けて猛練習を繰り返す少女たちの慰労に出かけている孫権と孫登の姿はない。
そしてそこに集まった少女たちの表情はどれを見回しても疲労の色が濃いように見えた。
だがそれは、恐らく激務から来る身体的疲労からではなさそうな様子である。
…
「あたしとしてはねぇ、正直敬文にボーカルやらせるのは如何なもんかと思うのよね」
朱然は幹部会の裏方担当を前に、唐突にこう切り出した。
少女たちは顔を見合わせる。
「ごめん、ちょっと話が見えてこない」
困惑顔の潘濬。
「敬文なら歌唱力は文句ないでしょ」
「だけ、ならな。
マイクを握ったら離さないのさえなきゃ、だけどな」
張承の言葉に付け加える吾粲。
どの面々も、なにやらうんざりしきった感じだ。
そもそもにして朱然が薛綜の名を出した瞬間、一人を除いてどの顔も「またか」といわんばかりの表情だったことからもそれが伺えた。
「確かにあいつからマイクを引き剥がすのは至難の業だけどさ。
まぁうちら総がかりなら二曲目の時点でどうにかなるんでね?」
歩隲も今更、といわんばかりの顔で続ける。
だが、その中でひとりだけ首を捻っている少女がいた。
「え? 何かあるの?」
なおもきょとんとした顔の潘濬。
彼女は基本的には裏方といっても、設営よりも広報中心で動いていたこともあり、あまり出演者のこと云々には深く関っていない。
まして彼女は幹部会の中でも比較的新顔であり、最近は幹部会にも違和感なく溶け込んでいるとはいえ古くからの事情には疎かった。
生来真面目な性格であまり遊びにも行きたがらないから、なおさらである。事情を良く知らないのも無理はなかった。
「あぁ、そういえば承明(潘濬)はあまりカラオケ行かないから知らなかったか。
あいつ、確かに歌は巧いけどマイク絶対に離さない…っても、半分以上あたし達に原因あるんだけどさ」
「正直あの時めちゃくちゃやったから、どうやって元戻したもんかわっかんないんだよ。
歌といえば過剰反応するし、歌い始めればトリップして収拾つかなくなるし、しかも正気に戻ればそのこと全く覚えてないしで。
だから基本的には、あいつは専用部屋作って放り込んでおくのが定例だ。
音楽の授業の時は普通なのにな」
「そうなの?
とてもそうには見えないけど…というかそもそもボーカルに名乗りを上げることが意外だったわ」
苦い表情の吾粲と歩隲の証言に、潘濬は半信半疑の表情だ。
というか、苦学生で倹約家の歩隲がカラオケに行くことも彼女にとっては意外なことだったのかもしれないが。
「じゃなきゃそんな目立つ役、あいつが二つ返事で受けるはずないだろ。
何のために学祭でさ、野外カラオケ会場にあいつを近づけなかったと思ってるんだよ」
うんざりした表情で大げさに溜息を吐く吾粲。
張承や厳畯、朱拠も渋い顔をしたまま頷く。
「もうな、合同練習マジ大変だったよ…あのバカ最初のとき、よりにもよって唄おうとしていた仲翔先輩のマイク分捕りやがったんだ」
「仲翔さんの顔から完全に表情消えてたからな。
あの場に会長がいなけりゃ流血沙汰不可避だぞ、冗談抜きで」
大きな溜息を吐く朱然に、苦々しげな表情で頷く敢沢。
このふたりが奏者の練習環境を整える係を務めていたが、日が経つにつれふたりの表情は険しさをましている風に見えていた。
朱然のひと言も普段なら「大げさだなぁ」のひと言で片付けられるところかもしれないが、温厚な敢沢さえもここ数日、話題が練習の話になると渋い顔で口を噤んでしまうくらいだから誰も否定できない。
「ばっか言いやがれ。
そもそもアレを会場に入れたのは一体誰だったと思ってるんだよ、仲翔さんが気の毒なのにもほどがあるわい」
「あーうん、まあ、否定できねーなーそれ」
そうして二人は大きくため息をつく。
周囲の少女たちも口には出さなかったものの、皆一様に「ご愁傷様」といった感じの表情であった。
…
最初に合同練習が行われたのはこの日から三日前、それまではそれとなく薛綜が練習に来るのをあえて彼女たちは押し止めていた。
実際薛綜の歌唱力があれば合わせて練習をする必要もなく、何よりもマイクのある環境で音楽が鳴り出したら薛綜がどんな行動にでるか位は全員承知の上だったからだ。
そうさせてしまったのは自分たちなのだ。
三年前の赤壁大勝を記念して祝賀会が開かれた際、新年会の席でああだこうだと他人の歌うのまで細かく指摘してくる周瑜に灸を据える意味もかねて魯粛と、現在の幹部会中核を成す朱然らの主導でなんとか周瑜の鼻っ柱を叩き折る、当初はそれだけの目的だった。
元々美声の持ち主であった薛綜に、本で読んだだけの知識のまま「周瑜がマイクを持ったら問答無用で奪い取り、完璧に歌い上げる」という催眠暗示をかけたものが、何処をどう間違ったのか現在の彼女を作り上げてしまった。
そう、その対象は「周瑜に限定されなかった」のである。
現在はそうした技術に長ける顧雍(最初の暗示をかける時に絡んでは居なかった)が「カラオケや演奏会に限定する」という暗示を上書きすることで、それでもなんとか被害を最小限にとどめていたが…顧雍も「どんな暗示が最初にかけられたのか正体が掴めないと、解除しようがない」と匙を投げてしまっていた。
しかし、そんなことと露知らぬ孫権の「たまには全員通しでやったほうがいい」という言葉には彼女たちも逆らえず、孫権が連れてきてしまったのが間違いの始まり。
その日は卒業生からだったが、付け焼刃の人間が居るとは思えない演奏が流れて孫権が感心していた次の瞬間、軽くトリップ状態になっていた薛綜が、こともあろうか虞翻を押しのけてステージに立つという暴挙に出たのだ。
この時は孫権の手前虞翻も何も言えず、薛綜もマイクを離さなかったために結局練習にはならなかった。
あとで孫権は薛綜を伴って虞翻の元に謝罪に行ったのだが、彼女も複雑な表情で頷いたのみで、恐らくはわだかまりなど解けていないことは容易に想像できた…というのが、同行した歩隲の言葉であった。
何しろ、薛綜自身がそれを覚えておらず、本人も当惑しきっていたのが解っているからだ。
…
「承淵たちの練習もな…あいつのせいであまりはかどってないんだ」
うんざりした顔で、それでも更なる事実を伝えようと、朱然は苦々しい表情のまま言葉を続ける。
というか会議は既に薛綜の行状から来る裏方の愚痴発表会の様相を呈しつつあった。
もしこの場に孫権が居ればそんなことは恐らくなかったかも知れないが…状況そのものはかなり深刻であった事が窺い知れる。
「あいつら、そもそも初めて楽器に触れたみたいな子も多いだろ?
だからあいつらの面倒見る意味も兼ねて、基本的に幹部会の練習とセットなんだけどさ…あんだけ念入りにいかないよう誘導してやってもどっかから湧いてきやがるし。
幼節(陸抗)は大人しい性格だからマイク奪われても何も言わないけど、昨日なんてとうとう敬風(陸凱)がキレてえらいことになったしな」
「あーマジで大変だったな。
大体にしてそれ、あんなことを言ったお前にも責任あるだろー義封さんよー」
机に突っ伏して顔だけ上げる朱然と、力なく椅子の背にのけぞりながらの吾粲。
「あーもうマジでそれなー。
被害者責めちまうったぁあたしも大分疲れてたんだなぁー、ヤンナルネまったく」
そうして顔も机に突っ伏してしまう朱然。
その出来事は、彼女にとってもかなり堪えたらしい。
…
孫権はこの日、薛綜を連れて来てしまっていたこともあって、居合わせたふたりも結局何もいえない状態だった。
そろそろこのあたりの事情にも理解を深めていた孫登は、それとなく諌めたらしいのだが、孫権は「大丈夫だから」の一点張りで聴かなかったらしい。
孫権にどんな根拠があったのかは知らないが、少なくともこの日も彼女の思惑通りには行かずに終わってしまった。
二曲目までは何とか耐えていたくさい薛綜だったが、ついに三曲目で暴発。
孫権や陸遜らがが止める暇も有らばこそで、突き飛ばされた陸抗も朱桓が居なかったら、恐らくは壇上から落ちて怪我をしていたかもしれないという事態に陥ったのだ。
当然ながら陸凱が完全にキレて、どうやって持ち上げたのかキーボードを薛綜めがけて投げつけようとしたのである。
それなりに膂力のある丁奉と朱績がその両サイドにたまたま陣取っていたから良かったものの…そうでなければ、薛綜は当然としてそれを必死で止めようとする孫権や呂岱、陸遜も大怪我をしていたところだろう。
そのあとがさらに大変で、朱然が「アレを投げられて借りた機材ぶっ壊したらどーすんだ!」と言ってしまったのが間違いの元だった。
陸凱は泣きながらその場を走り去り、メンバーのほとんどが彼女を追いかけて出て行ってしまったのだ。
普段はあまり先輩に逆らわない丁奉ですら、止めようとした朱然の腕を強引に振り解いた挙句「言っていい言葉と状況ってものがあるでしょう!」と強烈な捨て台詞を残していく始末。
当然ながらこの日も練習どころの騒ぎではなく、朱然と孫権は陸遜や孫登に宥められた彼女たちの前で土下座する羽目になったわけである。
直接の責任は二人になかったとはいえ、一両日は普段仲がいいはずの朱績の態度もかなりとげとげしいものであったらしい。
そんなこともあり朱然はここ最近特に参っている様子であった。
…
「それに、もうひとつでかい問題がある。
実は、この卒業コンサートの話を先代(孫策)にしたら…どんな手を使ってでも公瑾さん連れてくる、だって」
「マジ?」
少女たちの注目を受けた朱然、一拍おいて話し始めた。
「で、でも公瑾先輩は絶対安静の身じゃ」
「バカ言うなって。
あの人と子敬さんと、あと興覇さん…あの三人が何かしでかすつもりでいるなら、確定事項だよ」
少女たちは再度、顔を見合わせる。
「拙いわね。
敬文はともかく、あの人はまだ大分あの件に関してはご機嫌斜めだし」
眉根を寄せる厳畯。
彼女が言及しているのも、件の戦勝会の事であることは間違いない。
なおこのときは後に陸遜と魯粛が周瑜のカラオケ興行に夜なべで付き合わされたことで一応丸く収まったが…とはいえ以後周瑜はこの事件に関して、あるいはこれに関った連中についてもかなり感情的なしこりを残しているようであった。
そんなことを、比較的新顔のためにこのあたりの事情を説明された潘濬も、難しい顔をして考え込んでしまった。
「だからあたし、何処かで敬文を舞台から引き摺り下ろして、代わりに伯言の見せ場を作りたいんだ。
何気に公瑾先輩は伯言にべったりだったから…あいつが歌う気を見せてくれれば本当は一番良かったんだ。
確かにあいつがドラムやりたがるのわかるよ。
あいつ、公瑾さんから手取り足取りドラムの叩き方習って、思い入れもあるの知らねえわけじゃねえしさ」
それは確かに、と頷く少女たち。
「だからうちらの最初の曲歌わせたら、どんな手を使ってでも敬文を舞台から引き摺り下ろす。
以降のドラムはあたしが担当して、何が何でも伯言に歌ってもらう。
あいつだって歌えないわけじゃない…それに、知ってんだ。
あいつが歌うの聞いてる時の公瑾さん、本当に優しい顔してるってことをさ…!」
わずかな沈黙が、その場を支配する。
「そりゃあ、あたしら裏方最大の大仕事になるわね」
何時になく厳しい表情の朱然に、真剣な面持ちで張承が呟いた。
「多分この「戦い」は、あたしたちがこれまで経験したどんな戦いよりも厄介で、困難なものかも知れない。
でも、折角の企画を、あいつのせいで…んや、かつてあたし達がやらかしたことのせいで、全部台無しにされるなんて、断じてあってはならない。
あたし達の落とし前をつける意味でも」
そう強く言い切った朱然にも、恐らくは相当な決意を持ってこのイベントを完遂させようとする気迫のようなものがあった。
「だな。
これについちゃ一蓮托生だ、逃げる理由はどこにもねえ」
「ここまで組み上げてきたものを、台無しにするわけにはいかないものね」
それは、この場に集う少女たちにとっても、同じことだった。
…
…
その日の夜。
「だから頼む、あんたたちの時間をあたしに預けてくれ」
朱然は自分の部屋に、陸氏の三人娘と丁奉、顧雍の五人を集めると、事情を説明して深々と頭を下げた。
同じ部屋に暮らしている朱績も居合わせたというより、その当事者としてこの場にいさせられているようだったが…顧雍以外の少女たちは困惑気味に顔を見合わせた。
気さくに笑う朱然の姿しか知らない彼女たちにとっては、このように真剣な表情の朱然を見たことがなかったからだ。
合同練習の一件があって以来、特に陸凱と丁奉の風当たりは冷たくもあったが…それでも、ふたりは彼女の心中が痛いほど察することが出来た。
「伯姉や公瑾さんの名前出されたら、あたしには引き下がる理由がありませんよ」
口火を切ったのは、陸凱だった。
普段は面倒くさがって、面倒ごとに巻き込まれそうになるとちゃっかり元を取ろうとする抜け目ない性格の陸凱であるが、ことが自分の大切な人に関わる事であると、彼女はどんな苦労も厭わない。それに行き違いはあったものの、聡い彼女は心中、このまま朱然に対する感情のしこりを残しておきたくはないとも思っていたのだ。
自分からそういうの気恥ずかしいような気がしていた彼女にとって、朱然がこうして助け舟を出してくれたことに内心かなり感謝しているようだった。此処で真っ先に口火を切って見せたのが、その証左である。
「確かに敬文先輩のやってることが頭に来たからってのもありますけど…でも、あたしも伯姉に、公瑾さんを送らせてあげたい」
「あたしだって公瑾先輩には随分世話になりましたから、ふたりのためとあれば是非ともやらせてください」
陸凱の一言に丁奉も続けて言った。
陸抗、陸胤もそれに異論はないようだ。
「そうだねー、いくら被害者とはいえ、アレだけ義封さんに冷たく当たったんだから、そのくらいやらないと」
ねー、とかいって、おどけた様子を見せる陸抗と陸胤に、うるさいよ、と小さく呟いてそっぽを向いてしまう陸凱。
自分の本心をあっさり見透かされてしまったようで、気恥ずかしいのか無理に拗ねて見せているようだ。
「みんながやるんだったら、あたしも断る理由がないよ。
季文(朱異)や世議(呂拠)も、頼めば裏方に協力してくれると思うし…お姉ちゃんさえ良ければ、あたし頼んでみるよ」
朱績も言う。
(…以上が、私たちの意志。
何の問題も…ないでしょ?
敬文のことも、私に任せて。
ようやく、決着をつける手段を見いだしたの…コンサートまでには、間に合わないけども…彼女は、私が治す)
顧雍も、心なしかいつもよりもはっきりとした声で…そして彼女にしては長く呟いて穏かに微笑んだ。
「恩に着る、みんな…!
じゃあ、よろしく頼む」
朱然は少女たちの手をおし抱きながら、どこか目頭が熱くなる様な感覚を覚えていた。
…
…
時間は飛ぶように過ぎてゆき、ついに卒業式を明日に控えたその日。
一日は休息、ということで練習は最終調整だけに済ませ、少女たちは既に帰路についていた。
中には自己練習やイメージトレーニングにかこつけて、終業式の早上がりをいいことに、予行演習と銘打ってカラオケにいってしまった者もいる。
誰もいない建業のステージの上、翌日は少女たちが演奏する舞台に、ひとりの少女が立っていた。
「こら、もう練習は終わりって言ったでしょ。
何やってんのよ仲翔」
「子瑜」
壇上にいた虞翻が振り向いた先には、諸葛瑾の姿があった。
「用務員さんがもう此処を閉めたがっていたわよ。
高価な機材も運び込んでいるから、安全のためにって」
「うん」
聞いているのかいないのか、生返事ひとつ、再び俯いてしまう虞翻。
その姿に、諸葛瑾も何かを覚ったようだ。
「まだ未練があるなら、私のように特別顧問として居残ってみる?」
「え?」
「あなたなら、もうちょっと残ってみるって言えば仲謀さんが…ううん、他の子だってきっと喜ぶわ」
唐突な言葉に一瞬、戸惑った虞翻だったが、すぐに諸葛瑾が何を言おうとしていたのかを理解した。
自分が今思っていることではなかったが、彼女にはこうして自分を気遣ってくれる者がいることが嬉しく思えていた。
彼女はゆっくり頭を振る。
「違うよ、そんなんじゃない。
私…恐いんだ」
「恐い?」
「うん…明日、ちゃんと此処へ出てきて、歌えるのかどうか」
ふたりはほんの半年ほど前、学園祭の時に交州学区でミニライブを行った経験がある。
そのときもふたりの予想以上の観客が居たのだが…流石に舞台が大きくなれば、その数も桁違いなものになる。
当然ながら、かかるプレッシャーもそのときの比ではない。
交州学区での成功があってか、虞翻には当時抱いていたような卑屈さ…「自分が出てくることによって場が壊れてしまうではないか」という強迫観念はなくなっていたが。
「あの日みたいに、巧く伝えられるかどうか。
私は誰に向けて、この想いを伝えたらいいのか解らなくなりそうで…そうなってしまったら、自分を見失いながら声を出すだけの、今の敬文と変わらなくなってしまう。
あの子だって、きっと苦しんでるだろうに」
その声は震えている。
背を向けていたその表情はわからないが、泣きそうな表情をしているだろうことは容易に想像できた。
恐らくは、まだほとんどの部員は、こんな風に不安で震える彼女の姿を想像すらできないだろう。
「大丈夫、あの時の気持ち、よく思い出して。
あなたが思いを託していきたい子たちに、何を伝えてあげたいのか…あなたなら、できるはずなんだから」
「うん。
ありがとう、子瑜」
壇上に上りその傍らに立つと、諸葛瑾は不安に震える友の肩を引き寄せた。