揚州校区を縦横無尽に走り、学区に通う長湖部員を中心とした生徒達が駆るボートやカヌーが行き交うクリークの一角。
時間的にはまだ陽が落ちきっておらず、未だカヌー部などが練習に出ているだろう夏とは異なり、夜の帳が降りたこの時間既にこの水路を通行するものはなかったはずだが…そこに一隻のボートが現れた。

その進路の先には、遠く喧噪の聞こえるは揚州学区最大のイベントホール「秣陵大ホール」。
言うまでもなく、今日行われるコンサートの舞台である。

「あちゃ~…ちっと遅れちまったかなぁ」

その舳先で苦笑するのは魯粛。

「まぁ仕方なくね?
俺らがおおっぴらに出歩いてるのが見つかったら、それこそひと悶着起きるだろうし」
「それもそうだけどさ」

傍らで腕組みしながら堂々と起つ甘寧の、どこか脳天気な一言に、異を挟むかのように彼女は返す。
その様子からも、彼女は彼女なりに色々考えるところがあるコトはうかがえる。

大体にして、今回イベント準備の元締めである朱然らと、乱入組である孫策たちとの連絡係を買っていたのは魯粛そのひとである。
逆を言えば孫策、甘寧というアクの強いふたりを同時に制動できるのは、孫堅ら長湖部創始に関った世代を除けば精々魯粛くらいしか存在しない。
周瑜が孫策を、呂蒙が甘寧をそれぞれ掣肘できても両方となると無理が出るからだ。このふたりにある程度好き勝手させつつ、その動きをそれとなく制動できるのは、ある意味では「この両名以上のクセ者」である魯粛ぐらいのものであろう。

それはさておき、彼女らがボートに乗り換えている理由はただひとつ。
単に、魯家私有のフェリーだと目立つ以前に、大きくてクリークに侵入できないからである。
魯粛の計算ではきっちりコンサート開始と共に会場入り出来る予定だったのだが、ボートの登場人員ぎりぎりの重さでモーターの推進力が稼げず、その分の遅れが出ているようだった。

魯粛は舳先に座り込んだまま、やや大仰にも見える仕草で頭を抱える。

「くっそー…人数増えるんだったらやっぱ二台用意してもらえば良かったかなぁー」
「何を今更。
第一台数増えればその分目立つし、そもそもこれだって誰も居ないところから勝手に拝借してるんだし」
「な…!」

孫策の思いがけない一言に、流石の魯粛も絶句した。

実はだが、魯粛は揚州学区入りした後の移動手段については基本、孫策に一任していた。
周瑜を病院から連れ出す計画は当初からあったもので、その様々な「調整役」を自分が受け持ったのは事実。
彼女の最大の役割は、逃亡手段の確保…すなわちある意味では治外法権のエリアになる予州地区の魯家私有地まで逃げ果せるまでの「足」の確保、そしてそれ以降の様々な「折衝」である。

そのすべてがうまくいったという前提であっても、その周瑜を連れて行く以上、歩行もままならない周瑜を伴っての陸路は困難と判断されたものの、魯家のコネをもってしてもボートの調達が難しい状況であった。
長期休業中、校区を走るクリークの移動に欠かせないボートも所定の場所にしまわれてしまい、それ故に保管中のボートの利用については厳しい制限がつく…事故を防ぐため使用者の名称、使用日時が事前に学園のありとあらゆる場所に告知されることだ。

すなわち、事前に自分たちの行動が学園全体へおおっぴらに喧伝される。
それは「サプライズゲストとして登場する」というプランそのものが、盛大に破綻することを意味する。

孫策はこのことを聞いたうえで「あたしに任せておけば無問題だっての!」とあまりに自信満々で言うので、任せたのである。
仮にも彼女は長湖部の中興の祖…もしかしたらそういう都合を融通してくれるツテでもあるのかと、魯粛はそう思っていたが。

(やられた…このアホ伯符がそこまで考えて行動するわけないって…!)

魯粛は再度頭を抱え込んだ。
孫策のやることである、大方このボートを事前に盗み出し、目立たない場所に隠しておいたのであろう。
彼女の自信たっぷりな態度は、誰にも解らない様に盗み出す自信があったから…ということを、魯粛は今更ながら思い知らされた。

「ま、こういうのがむしろ、あたしららしくていいんじゃねぇか?」

そう言って勝ち誇った顔でにっと笑う孫策を見ると、魯粛も(まあいいか)と(仕方ないやっちゃな~)という感情がない交ぜになった表情で一息吐いた。

「めちゃくちゃやるわねー、相変わらずあんた達」

呆れたように、悪戯っぽい笑顔の曹操が魯粛の肩をぽんぽんと叩きながら感想を漏らす。

「何ぬかすかこの先輩サマは…あんただって似たようなこといっくらでもやってんだろが」
「もっちろん。
ま、あたしやる時はもーっと徹底的にやるけどねっ」

呆れ顔の魯粛の嫌味に、曹操が得意げに胸を張る。
最早何を言っても意味がないことは明白で、さしもの魯粛も考えることをやめた。

これから起こるだろう夢のような、予測できない時間に期待する面々を乗せたボートは、夜闇に紛れクリークを進む。
和気藹々とした船上の片隅、そこにひとりだけ寂しそうな雰囲気を出している少女が居たことに、魯粛も気づいていた。



-長湖式歓送迎会-
そのご「開演!」



(♪BGM 「三毛猫ロック」/亜熱帯マジーSKA爆弾♪)

「皆ぁ、お待たせぇ!
春休み直前の最終行事、始めるよ~!」

午後六時。
ステージから、式典開始を告げる孫権の元気の良い声が上がる。

それとともに、暗闇から大音声で軽快なメロディーが流れてくる。
ピアノ、ベース、ドラムから始まり、そこにギターの旋律が重なり、スポットライトに当てられ、白ブラウスと胸元の黄色のリボン以外はベストからスカート、靴に至るまで緋一色の衣装に身を包んだ孫権が壇上に現れ…彼女がステージの中央に現れるとともに、ステージの照明がその奏者達を映し出すと、会場はたちまち歓声で包まれた。

粛々と、という言葉とは正反対の騒々しいオープニングミュージックを奏でるは、在校生を代表する五人組。

練習に練習を重ねたギターをかき鳴らす呂岱は、大きな兎耳のヘアバンドを着け、普段は木訥とした印象すら与えるその印象とはかけ離れたピンク一色のかわいらしい衣装で、あざといぐらいにそのかわいさをアピールする。スクリーンにその姿が大写しになると、普段彼女の姿を見慣れているはずの交州学区の生徒達から驚き半分の歓声が上がる。
続いてスポットライトと共に左側袖から、見事な見事なトランペット演奏を披露する朱桓は、猫耳つきの緑のナイトキャップを被り、道士服のようにも見える赤のツーピース。スカートの上に腰あたりから、2本の猫の尻尾が弧を描くように固定されている。

一風変わった猫と兎、二人が背中合わせで演奏する位置から少し離れ、少女剣士の姿を取るベースの全琮、そしてピアノを弾く青ドレスの人形遣い・顧雍の姿が露わになる度、歓声と大きな拍手がホールを包む。

一拍置いて、目立たない位置でドラムを叩く陸遜の姿が現れると、一層の驚きを含んだ声とひときわ大きな拍手が上がる。
この奇想天外な服装の取り合わせに呆気に取られながらも…その演奏の見事さに、すぐに観客席は盛り上がりをみせてきた。



続いて姿を見せた現部長・孫権がMCとして、メンバーを紹介しながら卒業生を呼び込むと、先ず呂蒙が華麗なバック転で壇上に姿を現し、緑を基調とする中華風道着のロングスカートを翻して着地を決めると、会場から拍手と歓声が沸いた。
呂蒙が荊州学区接収の直後、闇討ちに遭ったのは周知の事実であり、それが一年以上の時を経て完全復活したことをアピールする派手なパフォーマンスを決めて見せたことは、長湖部員にとって最も喜ばしいことであったといってよかっただろう。

続いて会場内にスポットが当たり、それぞれ凌統、徐盛が姿を見せる。
孫権が囃し立てるに合わせ、衣装に合ったネタ振りに反射的に反応してしまう二人に、盛大な笑い声と拍手がわき起こる。
一方で、何気にこのふたりは部内でも在校生人気が高く、登場した二人の姿に興奮して慌てて携帯のカメラをかざすものがあれば、黄色い声援を飛ばす下級生たちも居る。それでも興奮したギャラリーが壇上へ乱入してもみくちゃにされたりしないのは、最前列でその人波を支えるべく奮闘し続ける裏方の少女達のおかげであろうか。

そこへ董襲の押す書斎椅子に座って諸葛瑾も姿を現す。
壇上で董襲は椅子を出てきた舞台袖につき返し、諸葛瑾は一礼するとこちらもやはり歓声で迎えられた。なんだかんだといって、諸葛瑾に世話になったものは長湖部にも多いらしい。

続いてステージが競りあがり、三人の連日の「協議」により決定したそれぞれの決めポーズを、完璧に決めた状態で登場する潘璋、呂範、賀斉の三人。
拘り派の三人、その見せ方も完璧であり、それぞれのキャライメージに沿ったマイクパフォーマンスが会場のボルテージをさらに高め続けていた。

そして曲中盤のショータイムのリズムにタイミングを計ったかのように、先ずは派手な音を立ててぶち破られる壇上の一角。
観客がどよめいた一瞬のうちに、舞台上から降ってきた黒い影と、その一角から飛び出してきた影が交錯し、その破片…大道具に設置されていたベニヤ板であるが…を木っ端微塵に粉砕すると、観客席からわっ、と歓声が上がった。

そしてそれをやってのけたふたりの少女…虞翻と周泰がスポットに照らされると、一部から黄色い声援が、また驚きの歓声も上がった。

上々の立ち上がりに、舞台袖で見守る朱然達もまずは胸を撫で下ろした。
そして…彼女らは神妙な顔で、頷き合う。
その後に起こることが決定づけられた、その「処理」を万難を排してやり遂げる決意を秘める表情で…。





同じ頃、大ホールの裏手。
表側は会場に入りきれなかった観客達が野外モニターに群がっているものの、長湖から引かれたクリークが伸びてくるこの位置は、人影もなく静かなものであった。
その闇に包まれた船着き場に、闖入者一行を乗せたボートは静かに着岸した。

周囲のスピーカーからは会場内のにぎやかな声と、そこで行われる孫権や他の少女達のトークの様子が響いてくる。
夜の帳が落ちた建物の影、ただでさえ視界の悪い裏道を会場目指して少女達が走っていく。周瑜を背負う孫策を殿に。

「子敬さん、それに皆さんお待ちしてました」
「てか本当に揃いも揃って…しかしえらい時間かかりましたね」

会場の裏口に彼女達がたどり着くと、事前に連絡を受けていた歩隲、潘濬の二人が一行を出迎えた。

「こっそり来いって話だったからな。
てかマジで仲謀はあたしら来るの聞いてないのか?」

孫策の問いにふたりは答える。

「いえ、部長と伯言は先代と子敬先輩、興覇先輩が後からきて乱入することは知ってますけど、それ以外が来ることまで知りません」
「知ってるのあたしたちだけッスわ。
まぁ、伯言はそちらのお二方が来ることは知ってますけど」

歩隲が言う「お二方」の片割れである、黒髪の少女が恐縮した感じで会釈した。

「申し訳ありません…私の興味本位で、皆様にご迷惑をおかけしたみたいで」
「あ!
い、いえまさかこんなところに御出でいただけるなんてこちらこそ」

余計な気を使わせてしまったことを平謝りする歩隲。
その脇で曹操は「そうだぞ~、恐縮しろよ~」とか悪戯っぽく言った。
心得たものなのか、歩隲はあえてそれを無視して続ける。

「まぁ兎に角、皆様方の出番はずっと先ですから、それまでは特別室でお楽しみいただければ。
まぁ興覇さんはすぐに控え室に入ってもらわないとならないんですけど」
「それはいいけど…あたしらはともかく、突発的に増えた分はどうなるのさ?」

魯粛は劉協達を指していう。
二人は顔を見合わせ、頷いて潘濬が告げる。

「そもそも皆さん方の席は特別席ですからね。
一般席と別ですから座席くらいはいくらでも」
「流石は承明だ、あんたがいてくれるだけでもイベントがどんだけやりやすくなることか」

魯粛が感心したように言うと、彼女は困ったように「あんまり想定外のことばかり起こされても困るんですけどねえ」と苦笑いを隠せない。

「とにかく、さっさと席に案内してくれや。
とりあえず伯言たちが何やんのか、ゆっくり見さしてもらいたいしな」
「はいはい…では皆さん、こちらへ」

孫策の軽口に、歩隲は裏口を開いて一行を招き入れる。

役者は、これで揃ったのだ。
あとはなるようになる…いままで、そうであったように。
それを疑う者は、この場に一人としていないのだ。





壇上で孫権を交え、思い出話に花を咲かせる卒業生たち。
潘璋や呂範が軽口を飛ばし、それを諸葛瑾が軽くツッコミを入れる度、あるいは一歩はなれた位置で大人しくしていた周泰や虞翻が話題の中心に引っ張り出され、しどろもどろに応対する度に笑い声や黄色い声援が飛んだり、会場は和やかな雰囲気で盛り上がっていく。

歩隲の案内で観客席の最後部、ほとんど別室といってもいいその特等席(実は管制室であるのだが)から、そんな光景を眺める孫策達。
控え室へ案内されていった甘寧以外の面々に、それぞれ椅子があてがわれた。

「いやぁ…やっぱりうちらの代って、つくづくみょんな奴ばっかり集まったもんだねぇ」
「その元凶のオメェがそれをいうのかよ」

けたけた笑う孫策に、軽口を返す魯粛。

「あ~、おかし。
なになに、あんたたちって毎回こんな楽しいことやってたの? いいな~」
「お褒めに預かり光栄至極…けど、毎回は流石にやってないっス」

大爆笑しながら、魯粛に絡む曹操。
その脇で、終止笑顔で拍手したり、少女たちの声援に合わせて声援を送ったりとこの状況を満喫しているらしい劉協。

やがて舞台上から卒業生たちが最前列にあてがわれている席に退いていくと、再び幹部会バンドメンバーが紹介される。

「も~…仲謀ちゃんも伯言も…みんなしてなんて格好なのよ」

そんな彼女達の姿を直視できず、もう恥ずかしいやら何やらで、俯いて苦笑するしかない周瑜。

どうやら彼女もこの状況に抗うのを辞めて、純粋に楽しんでいるらしかった。
孫策も魯粛も、先ほど垣間見た陰のある表情を感じ取れず(やはり気のせいだったんだろうか?)と思わせるかのようだった。





「さー、みんなお待ちかね!
我ら長湖部が誇る幹部会バンド、先ずは彼女の歌声で盛り上げてもらうよっ!」

孫権の高らかな宣言を終え、コンサート開始を告げる最初の曲が演奏され始めた。

その少女が、スポットライトに照らされながら舞台袖から姿を現す。
目深に被った桃つきの帽子を勢いよく後方へ放り、そして、トレードマークともいえる大きなリボンを結った亜麻色髪の少女がマイクを握りしめている。

「うっ!」

その顔を見た瞬間、周瑜の表情が引き攣り、魯粛の表情も固まった。
歌いだしたその少女こそ、言うまでもなく、今回幹部会バンドのボーカルを買って出た薛綜そのひとである。
一拍置いて、引き攣った表情のまま魯粛がつぶやく。

「おいおい…あいつが歌うのかよ…これはちょっと拙いんじゃ」
「あ?
どういうこった?」

事情をよく知らない孫策が魯粛に聞き返すのも自然な流れといえた。

「話さなかったっけ、赤壁の戦勝会の話?」

渋い表情のままの魯粛に、小首を傾げながら孫策は返す。

「詳しいことまでは知らないよ、一応又聞きだし。
つまりアイツ? 公瑾の代わりに…っての?」
「まーそうなんだけど」

恐らく孫策も、そのとき周瑜が不機嫌だった理由くらいは、当人もしくは孫権や陸遜なんかから聞いていたのかも知れない。
だが突っ込んだ話までは聞いていないか、あえて聴かずに居ただろうくらいは魯粛も思い当たった。

魯粛はかつて、赤壁島決戦の戦勝会の時にあった出来事と、その後の薛綜について孫策に説明する。

「トリップ、ねぇ」
「けど歌は巧いし、なんか問題はあるの?」

曹操の問いに、魯粛は苦虫を噛み潰した表情で吐き捨てるように言った。

「あいつ、マイク絶対に離さねぇんスよ。
しかも当人無自覚なんです。
はっきり言って公瑾より数千倍タチ悪ぃ」
「それも総て催眠術の所為ってか?
んな無茶苦茶な話が」
「もしかして」

意外なところから声が差し挟まれ、孫策、魯粛、曹操の三人がその主…劉協を注視する。

「聞いたことがあるんです。
催眠術をかけられると、何かの拍子で良からぬものにとり憑かれるという話が。
…そもそも人間の精神というものは、眠っている時が最も無防備。
故に、悪意を持った霊の類が何の抵抗もなく侵すことができるのだと」
「まっさかー、迷信でしょそんなの」
「それだけではありません。
歌は、歌う者の心を何よりも雄弁に物語る」

曹操の言葉を強く遮り…どこか神妙な表情のまま劉協は続ける。

「なんとなく感じるんです。
あれは「彼女本来の歌」ではない…何処か、禍々しさすら感じます。
そう…何年も前に聞いた張角さんの歌…あのような、浮世離れした神々しさとは真逆の…!」
「まさか…そんな」

否定するように呟く孫策だったが、彼女も長湖部長だったときにそういう恐怖体験をしたことがあった。
当人は信じまいとしていたようだが、かえってそのためにトラウマとなっている出来事である。

「でも、うちの身内にはモノホンの魔女が居るしなぁ」
「あたしは断じて認めねー!」

孫策をからかう意図があるのか本気なのか解らない魯粛の言葉に、思いっきり頭を振る孫策。

余談だが、孫策の「恐怖体験」と、魯粛のいう「魔女」は…孫策は与り知らぬ事であるが…実は密接な関わりがある。
そもそもその「魔女」が孫策引退の遠因となり、それがどういう訳か孫策の復興させた「長湖部」を大きく成長させる縁の下の力持ちとなっているというのも、皮肉といえば皮肉な話である。

「その真偽はともかく…ヘタするとこのコンサート、あいつ一人で台無しになるぞ。
成り行き次第では、早々に殴りこんで無理やり流したほうがいいかも…あいつら、一体どうする気だ…!?」

魯粛がいつになく真剣な表情でそう締めくくった。





予定とは無関係に二曲めの歌唱に入る薛綜。
想定していなかったわけではなく、バンドの面々もこれまでの練習の成果を出し切り、ライブとしては申し分ない出来になっていた。

「畜生っ…やっぱりか!」

舞台裏からその様子を伺い、苦渋の表情を隠せない朱然。

見れば他の少女…特に虞翻も同じような面持ちだ。
彼女の場合、合同練習の件もあるのだが…それを差し引いても虞翻には、ここで感じるある種の違和感…いや、不快感といっても良いものを拭い去ることは出来なかった。

この演奏の、違和感。
事実、このときの薛綜は、既に自分自身を見失っていた。
観客席からでは恐らく解らないだろうが、比較的近い位置に居る彼女達には、歌う少女の瞳に焦点があっていないのがはっきりと解った。

本心を言うと、朱然も他の少女も…恐らくは虞翻も、この大舞台で、彼女が本来の自分を見失わないことに淡い期待を抱いていた。
彼女らが知る、本来の薛敬文という少女は、そんな身勝手で自己中な人物ではなかったはずなのだから。

(今のあいつは…正直見るに耐えねぇ…ッ!)

無意識のうちに、朱然は奥歯をぎりっ、とかみ締めた。
彼女は思う。
もうそこには、自分の知るあの引っ込み思案ではにかみ屋の…それで居て優しい歌を歌っていた、出会った頃の彼女は居なくなってしまったのではないか、と。

何故こんなことになってしまったのか。
初めは、ただ余興として、少し先輩を困らせようと思って始めた「いたずら」でしかなかったはずなのに。
その結末が、このざまであるのか。

「義封」

不意に名を呼ばれ、はっとして傍らの孫権をみる。
その表情も、酷く悲しげだった。

「敬文を、必ず止めてあげて…!」
「御意」

運命の時は、刻一刻と近づいていた。





まさに嵐の如き大混乱だった。

二曲目が終わるや否や、ステージを映し出していた照明はすべて落とされ、それを合図としてまず朱桓と全琮がそれぞれ、もう一曲歌いだそうとしていた薛琮の口と手の動きを組み付いて封じる。
そして敢沢、歩隲ら裏方組、挙句に控えていた周泰までもが駆け出し、もつれる三人を抱え込むように、そのまま舞台袖へと押し込んでいく。

「むー!」
「こらこのバカ、暴れるんじゃねぇ!」
「つかあたいらのことは気にするな、なんとしてでも舞台袖に!
早くっ!」

会場のざわめきにかき消されるほどの小声であったが、少女たちの声は必死そのもの。

普段大人しい薛綜であったが、このときばかりは半分トリップ状態にあったためかとにかく暴れ続ける。
いったい、この小柄な少女の何処にこれほどの力があったのか…と、周囲の少女たちを呆れさせるほどの抵抗振りを示した。

足を捕らえようとした厳畯や張承も脛を蹴られ、胴へ組み付く全琮や敢沢も肘でしたたかに頭をど突かれる。
そして口をふさいでいた朱桓も腕を噛まれる有様だ。

「痛っ!
ちぃ、面倒な…こうなったら」

口をふさぐ役目を担っていた朱桓は、一瞬のうちに腕のポジションを変え、左腕で薛綜の顎を、左手で自分の右手の肘を、右手で薛綜の頭を押さえつける。

「むぐ!?」
「このまま堕ちろっ、このばかっ!」

そのまま遠慮なく腕の中に強烈な圧力をかけた。チョークスリーパーで締め落とすつもりなのである。
技が極まってもなお苦しがって暴れていた薛綜だが、流石に力の強い朱桓が完璧に極めたチョークを解くことは出来なかった。
やがて大人しくなった彼女が失神したことを確認すると、朱桓はようやくその技から彼女を開放した。

「ふ~、コノヤロウ…梃子摺らせやがって」

思わずその場にへたれこんでしまう朱桓。
その決着のつく頃には、吾粲が気を利かせて降ろした幕の中に、照明がともっていた。

朱桓の腕の中で目を回している薛綜。
周囲には、蹴りや肘撃ちを食らったのか、腕や頬を真っ赤に腫らしている少女たちの姿があった。
しかし、流石といおうか、周泰のみは無傷だった…というか、彼女の場合どれが古傷でどれが生傷なのかわかりにくいのはあるだろうが。

「いや~、流石は休穆。
見事なお手並み、駄狐相手でも一撃だな」
「一瞬どうなるかと思ったけど、これでひとまずは一件落着だなぁ」

今回の功労者に賛辞を浴びせる少女たち。

「冗談じゃねえ、せっかくの衣装が台無しだ。
エキストラステージもといアンコールはないよなあたし達?」

上着を派手に破かれ、ブラウスのボタンも数個吹っ飛ばされた状態の朱桓はその場に大の字になる。
彼女を労いながら、失神した少女を取り囲み、満座に意見を求める朱然。

「で、こいつどうするよ?」
「一先ずは安心だが…何かの拍子で目を覚まされては厄介だ。
可哀相だが、手足を縛り付けた上で、楽屋に鍵をかけてイベント終了まで置いておいた方が無難だろう」

しばし押し黙っていた周泰がそういうと、わずかに上体を起こしながら朱桓も難しい顔で呟いた。

「だな。
正直殺すつもりでやったが、生きてる以上油断ならんしな」
「いやいや本気で殺っちまったら拙いでしょ」

厳畯のツッコミに、冗談だよ、と返す朱桓。

だが、彼女が本気で薛綜を締め落としにかかったことは間違いない。

技をかけていた彼女の二の腕、半袖ブラウスから露出しているそこはうっ血して真っ赤になっていることからもそれが窺える。
逆を言えば、並みの少女であれば、朱桓の本気で締められたら確実に頚椎を折られているかもしれない。
文系少女で運動関連がさっぱりなこの少女が、そうでもしなければ落とせなかったということ自体が異常だったのだ。

「まぁ、幼平さんのいうとおりだろな。
目ぇ覚ます前に楽屋へ引っ込めようぜ」
「了解っ」

吾粲が薛綜の腕を、全琮が薛綜の足をもってそそくさと舞台裏へ引っ込んでいくのを見て、座り込んでいた少女たちや、楽器について成り行きを見守っていたらしい少女たちも、ぞろぞろと楽屋へ引っ込んでいく。

「ちょっと…いったいどういうことなの、これ?」

その光景を呆然と眺めながら、この中で薛綜以外に唯一事情を知らされていなかった陸遜が、ぽかんとした表情で呟く。

「悪いな、事情は説明する。
それと、大事な話もあるんだ」
「え?」

肩を叩かれて振り向いた先には、朱然の顔があった。





急に緞帳が落ち、暗闇に包まれる会場。
わぁ、と声が上がり、暗闇の中で観客達はにわかにざわめきだした。
当然といえば当然の出来事なわけだが。

「相変わらず無茶なことしやがるなぁ」

特別席、こちらも真っ暗であったが、その中で呆れたように魯粛が呟く。

「え、え、一体何?
何が起こった?」
「わ、私も何がなんだか」

劉協は大分混乱しているようだが、曹操はこの思いがけぬハプニングになにやら興奮を隠せない様子。
暗闇で顔は解らないが、恐らく満面に期待の笑みを貼り付けて目を輝かせているだろうことは、その声のトーンからも容易に想像はつく。

「本当、無茶よね。
もう少し他に手段はないのかしら」

呆れたような口調の周瑜もため息をつく。

「まぁこれが長湖部流、ってトコでしょ。
いやー、味方だったら学園生活もーっとたのしかったろうに」
「あのなあ」

曹操の楽しそうな声に、さしもの魯粛もため息をつくしかなかった。





やがてステージにスポットライトが当てられ、そこに孫権の姿が現れる。

「あー…皆ごめんねー…ちょっと手違いがあって、ゆっくりおろすはずの緞帳が一気に落ちちゃったみたい」

ざわめく観客。

「でも、担当の子達を責めないであげてね。
皆一生懸命になる余り、緊張して手が滑っちゃったと思うんだ。
今調べてもらったけど、舞台のほうでは特に問題がないことが解ったから、ここから再開するよっ」

その言葉と共に、ゆっくりとせり上がっていく緞帳。
そこには既に次のセットに差し替えられ、準備の整っている状態だった。

薄暗い舞台の中に、その様子が窺える。
まるで街角の一角、裏路地のレンガ塀をイメージしたセットに、再び観客席がざわめく。
今のハプニング(?)から気を取り直して、これから何が始まるのだろう、という期待を現すかのようだった。

「さぁお待ちかね!
長湖部の壮麗を司ってきた潘文珪、賀公苗、呂子衡がトリオでお送りする、学園生活最強最後のエンターテイメント!篤と御覧あれ!」

高らかに宣言する孫権から、再び暗闇の中へ消え、軽快なBGMが大音響で流され始めた。

「あのトリオで何かやるのか…ってか、この曲」
「あれ、これってアレ?
「Do Me」じゃないの?」

曹操がいう。

「何スかそれ?」
「知らんのか伯符、ヒゲダンスBGMのタイトルだよ」

呆れたように魯粛が呟く。

「ふーん…まぁどうでもいいや。それよりも始まるみたいだぜー」
「自分で訊いといてなんて態度だコイツは」
「何時ものことよ。
気を揉むだけ損だわ」

呆れる魯粛としれっとした態度の周瑜を他所に、嬉々とした孫策の指差す舞台に、過剰すぎるほどの豪奢な数々の道具と共に三人が姿を現した。