あの後、凌統は部屋の中で、今日あったことをずっと思い返していた。
姉の仇。不倶戴天の敵。打ち倒すべき相手。
今日、自暴自棄になっていた自分を止めてくれた甘寧は、それまで自分が抱いていたどんな甘寧のイメージにも当てはまらないものだった。
(あいつは…あたしのことを純粋に心配してくれていた)
一番遠いところに居たと思っていた存在が、実は一番近いところに居たことを知って、正直、凌統は戸惑っていた。
包帯の巻かれた両拳を見つめると、甘寧と孫権の言葉が、頭の中で繰り返される。
-お前にもしものことがあって、俺に突っかかってこれなくなったら…やっぱり寂しいんだ-
-興覇さんの気持ちも、少し考えてあげて-
何時もなら、顔を思い浮かべるたびに不快感を覚えるというのに。
(あいつの力なら、何時でもあたし一人潰すくらいわけないのに…あいつが、あんなふうに考えてたなんて…なのに、あたしは…!)
握りしめた拳の痛みか、それとも別の理由か…閉じたその瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちてくる。
初めて相対した舞台は、去年の年明けにあった長湖部体験入部。
その大舞台で、「銀幡」の演舞に踊りこんだ自分が、衆人環視の前で敵対宣言したのが初め。
それ以来、凌統は甘寧を敵視し、逆もまた然りだった…はずだった。
姉はその戦いについて何も触れることなく、そして何も言い残さず、この学園を去って行った。
水泳部のユースとして将来を嘱望されたその夢を絶ったのは、紛れもなく甘寧で…その仇を討たねばならぬのに、同じ陣営にいるが故に手を出せぬもどかしさ。
幾度となく喧嘩を売り、そのたびに相手もこちらを潰そうとしてきた。
それが変わらぬ日常のひとつだった。
何時から、甘寧の中でそれが違ってきたんだろう。
自分は、変わることがなかったというのに。
姉の無念を晴らそうとその一念だけで。
(違う…あたしは、最初から知ってたはずだ。
姉さんは…操姉さんは、あいつを恨んでなんかいなかった…いなかったのに!!)
凌統は、そんな自分の愚かしさに、ただ涙を流すのだった。
-銀幡流儀-
そのに 「少女の意地」
翌日。
「こぉの恥知らずの外道どもがぁぁ!
あたし達の怒り、思い知れぇぇ!」
先鋒軍の先頭に、普段はバットを持つ手で竹刀をぶん回しながら、長湖部の軍勢に突っ込んでいくのは満寵。
何時ものぽやんとした温和そのものの表情は何処にもなく、こめかみに青筋すら浮かばせ、憤怒を露に次々と長湖部員を薙ぎ払っていく。
「旗なんて飾りに過ぎねぇけどなぁぁ!
ヤツらの奪ったのはあたし達の魂だぁぁ!」
「このあたしがついていながら!
このザマは何事だぁぁ!」
その左翼から曹仁、右翼から夏候惇も怒号とともに突撃をかける。
蒼天会旗を奪われたことは、やはりというか、蒼天会の主将たちにも大きな衝撃を与えていた。
もっとも彼女達の怒りは、「会旗を奪われた」と言うことではなく、むしろ「会旗の近くにいた曹操を危険に晒してしまった」ことによるものである。
更に言えば、曹操に危害らしい危害を与えず、自分達を小馬鹿にするかのような、そんな行為に対する怒りでもあった。
甘寧の目論見通り、ある意味で先日の「少人数夜襲」は最大限の効果を上げたと言っていいだろう。
「あ~むっかつく~!
大体ブレーカー周りを無防備にさらしすぎだっつーの!
いっちばん警戒すべき場所でしょうがなんでそんなの気づかんかなどいつもコイツも」
蒼天会本陣・合肥棟の屋上で戦況を眺める曹操も、悔しそうに地団駄を踏んだ。
後ろに侍した劉曄がぼんやりした表情で呟く。
「…今回の件が帰宅部連合へ知られれば、彼女達も何処かの局面で使ってくるかもしれません」
「解ってるわよそんなことっ。
ねぇ子揚、何か対策とかできない?」
「前々から申し上げていると思いますが…やはり本来の電源とは別に存在する、各棟の予備電源の復旧作業を早めるべきでしょう」
「そ~ね~…」
曹操はふと、怪訝そうな表情で劉曄のほうを振り向いた。
「…ちょっと待て…何時言った、そんなコト?
てかそんなのあったの?」
「…………ごめんなさい、知ってると思ってました」
ぼんやりした顔のまま、劉曄は悪びれることなくさらっと言った。
実は蒼天学園の各学区には、棟ごとに緊急時の予備電源が存在するのだが…黄巾党蜂起のドサクサで学園全体にある八割以上の棟で予備電源が壊され、二年以上経った現在もそのままである。メイン電源の安全性が良過ぎる為にほとんど支障は出ず、それゆえに直されもせず放っておかれたのだ。
そのことを曹操も初めて知ることになり、彼女は傍らの劉曄に食って掛かる。
「そんなの初めて聞いたよ…つーか何で誰もそんなこと言わなかったのよぅ?」
「さぁ」
同じ表情のまま小首を傾げる劉曄に、曹操も呆れ顔になる。
「まぁいいや、知ったからにはどうにかしなきゃなんないわね。
次の生徒会会議で優先事項として審議にかけないと…とりあえず勢力境界線にある合肥や襄陽、長安あたりのを速攻で直しておきたいわね~」
なにやら懐からメモ帳を取り出し、メモをとりだした曹操の姿を見ながら、劉曄は相も変わらずぼんやりと突っ立っていた。
…
曹操と劉曄がなにやらやり取りしていた、同じ頃。
「ちゃんと探したの!?」
「すいませんッ!
あたし達がちょっと目を離した隙に…」
狼狽した表情で濡須棟執務室から飛び出した孫権。
その後ろ、数人の少女達が後を追って出てくる。
「公績さん、絶対安静の大怪我なんだよ!?
それに、武器だって壊れちゃったんでしょ!?」
「え、ええ…確かに凌統先輩愛用の「波涛」は前の戦闘で壊れましたが…」
「…じ、実は凌操先輩の「怒涛」を持ち出したみたいで…」
「嘘ッ!?」
少女の言葉に、孫権は狼狽の表情を強める。
「波涛」とは、凌統の愛用していた両節棍(ヌンチャク)の名前で、先に凌統が楽進と戦った際、最後の一撃を繰り出した時に破壊されたモノだ。
「怒涛」は凌統の姉・凌操が愛用していたもので、「波涛」はそれをモチーフにしてあつらえたものだが…それよりも重く、取りまわしが難しいため、凌統は未だにそれを使いこなせずにいた。
それほどまでに、姉の技量は今の凌統をはるかに凌駕するものであり…それゆえこれまでに参加した戦闘で一度も「怒涛」を使ったことがなかったのだ。
「無茶だよ…普段だって使わなかったものなのに…!」
「部長!」
正面から駆けて来たのは甘寧と、数人の「銀幡」の少女達だった。
「興覇さん! 公績さんが…!」
「解ってる、承淵のヤツが一度止めたらしいんだが…今あいつに後を追わせてる。
俺もヤツを連れ戻しに出るが…」
どうやら甘寧も甘寧で、丁奉らに凌統の様子を見張らせていた様である。
待機命令の出ている甘寧のことなので、恐らくここへは出撃許可を取りにきたというところであろう。
「御願い! 早く、早く連れ戻して!」
「承知ッ!」
言うが早いか、甘寧は窓を開け放つと、そこから一気に一階へと飛び降りた。
…
「はぁ…はぁ…」
戦場の一角、小さな林の中に、彼女はいた。
万全でない体調のため、既に息は完全に上がり、力なく樹にもたれながらもようやく立っているという有様だ。
ほんの数人の硬貨章クラスを相手取った程度で、年季の入った大振りの両節棍をしっかりと掴んだ手の包帯は、紅い染みをつけている。
「やっぱり…まだあたしには早かった…かな?」
肩で息をしながら、自嘲気味に呟く。
顔は蒼白で、体中の包帯や湿布の存在が痛々しい。
この満身創痍の状態のまま、凌統はこっそりと寮部屋を抜け出し、合肥と濡須の間にある戦場へと舞い戻ってきていた。
壊れたエモノの代わりに持ち出してきた「怒涛」の重さと長さは、傷ついた彼女の身体に予想以上の負担を強いていた。
数人を薙ぎ払うだけで、かえって自分の体力を大きく奪われていったのだ。
「公績先輩っ!」
林の中に人影が飛び込んできて、凌統は弱った身体を叱咤して身構える。
それが丁奉であることに気づくと、凌統は再び背後の木にもたれかかった。
「承淵か…」
「先輩、御願いですから戻ってくださいっ!
皆さん、先輩のこと心配してるんですよ!
部長だって…それに…興覇先輩だって!」
凌統の服に取りすがって、丁奉はなおも叫ぶ。
「先輩…先輩は御存知ないかもしれませんけど…興覇先輩、ずっと公績先輩のこと心配していて…今回、あえて出撃を辞退して待機しているのだって、公績先輩が戦えないって事を知ってたから…公績先輩と一緒に戦えないのが嫌だ、って言って…」
「解ってる…解ってるんだ、そんなコトは」
「…え」
丁奉はきょとんとした表情で、凌統を見た。
「つまらないことに固執して…あの人を…興覇のことを解ろうともしなかったのは、あたしのほうだったんだ。
あたしは姉さんを…ううん、興覇を越えたい…!
だから、この程度の怪我で寝てるワケにいかないんだ…!!」
よろめきながら、凌統は再び立ち上がった。
その表情からは、鬼気さえ漂い始めていた。
「…あたしの命に代えても…張遼を飛ばしてみせる!」
「いい心がけだ」
ふたりが振り向くと、そこにはひとりの少女が立っていた。
口元にはわずかに笑みがあるが、その瞳はあくまで冷たい。
冷たいながらも、その瞳の奥には確かに憤怒の炎が燃え盛っているように思えた。
その正体に気づいた瞬間、丁奉の表情が恐怖に凍る。
(張遼さん! そんな…こんなところで…!)
ふたりはまるで金縛りにあったかのように、微動だにせずその少女-張遼を見つめていた。
合肥の鬼姫。
かつて「学園の鬼姫」と呼ばれ恐れられた呂布配下の猛将として、そして現在は曹操麾下屈指の猛将として、長湖部最大の脅威であり続ける存在。
その呼び名は伊達ではなく、戦場において対峙した者にはその気に当てられただけで失禁・失神して戦闘不能になるものが居るほどである。
主将である凌統、そしてユースでありながらも準主将とも言える扱いを受ける丁奉、流石にそのようなことはないが…その凄まじい気に、立っているのもやっとというのが本音である。
「ここで討つのは惜しい気がするが、文謙を倒すほどの力量を持った貴様をただで帰すつもりはない。
手負いといえど、加減は無いぞ!」
突きつけた竹刀を八相に構えると、張遼の周囲の木々が、僅かに揺れて音を立てた。
まるで、その鬼気から逃れるかのように。
「…願ってもない相手だ」
「先輩!?」
震える足を、よろめく身体になんとか気合を入れなおして、凌統は構えをとった。
「承淵…あんたは逃げろ。
張遼の狙いもあたしだ。あんたには関係ない」
そんな凌統に触発されたのか、丁奉も持っていた木刀を正眼に構える。
恐怖のためか顔は強張っているが、それでも何とか、腹を括って踏ん張ってみせた…そんな感じだ。
「先輩を、置いてはいけません…それが、あたしの役目ですから」
「バカっ! そんなことはどうだって…」
「それに、ふたりがかりでも…あたしも、挑戦してみたい」
「承淵…あんた」
「いい根性だ…張文遠、参る!」
一瞬笑みを浮かべた張遼の形相は、次の瞬間、鬼のそれに変わった。
…
「くそっ…あいつら、いったい何処まで行きやがったんだよ…!」
甘寧は数名の「銀幡」メンバーとともに戦場を駆けていた。
その表情には焦りの色も見える。
「多分ですけど、あいつ蒼天会の本陣にでも向かってるかもしれませんよ?
あいつがリーダーに対抗意識を燃やしてること考えれば」
「ちっ…他の奴等ならいざ知らず、公績なら十分有り得る!
だが、承淵のヤツが何処で食いついたかさえ解れば…」
そして、数分前まで凌統たちがいたあたりに辿り着く。
そこには凄まじい戦闘の跡があった。
細い木は悉く折れ、太い木の幹にも何かで抉り取られたような痕が生々しく残っている。
折れた木の様子から、さほど時間が経っていない事も読み取れたが…一体何がどのような武器を持って暴れればこのような事態を引き起こすのか、説明できる者はこの場にはいないだろう。
「な、何これ…!」
「いったい…ここで何が」
荒くれ者で鳴らしたレディース上がりである彼女らも、その惨状に言葉を失った。
その時、木々の折れる音が聞こえる。
その中にはかすかに…。
「居た! あいつ等だ!」
「って、ちょっと待って、まさか戦ってるの…」
その相手を類推し、少女達の顔から笑みが消えた。
「は…ははは…マジか、オイ」
甘寧も流石に苦笑するしかない。
手負いの凌統と、素質はあってもまだまだ発展途上の丁奉の二人が、どのくらいの時間かは知らないが、あの張遼を相手に戦っているらしいことなど、考えもつかないことだった。
「…どうします?
向こうもひとりだと思うんですが」
「どうしますもこうしますもねぇだろ…俺が張遼を食い止めるから、おまえ等は公績と承淵を抱えて逃げろ、いいな?」
少女達は一度、互いの顔を見合わせて、頷いた。
傍らの少女から愛用の大木刀「覇海」を受け取り、一振りする甘寧。
「いくぞおまえ等! 目的履き違えるなよ!」
「応ッ!」
甘寧が林の奥へと飛び込むとともに、少女達も次々と藪の中へ突っ込んでいった。
…
何度目だろうか。
張遼の鋭い一撃が、一瞬前まで自分の頭があったあたりを掠め、大木の幹に痕をつける。
エモノが竹刀であるにもかかわらず、「学園最強剣士」の名をほしいままにする張遼が繰り出す一撃は、まるで鋼鉄の棒で殴りつけたような衝撃を生むものらしい…否、そんなどころではない。
その一撃は、巨大かつ凶暴な恐竜の、加減を知らぬ尾撃の一撃を連想させた。
あるいは、想像上の巨獣が繰り出す豪腕の一撃か。
いかに形容するにせよ、それが人間業とは思えない…「思いたくない」と思わせるほどの一撃なのだ。
ふたりは、その恐怖の一撃をカンと偶然だけでかわしていた。
林という地の利が無ければ、恐らく一番最初に放ってきた一撃だけでふたりは飛ばされていたかもしれない。
凌統も丁奉も、相手の力量と自分達の力量の差を読み違えていた愚を悟り、何時しか逃げることに専念していた。
走っているうち、不意に目の前が開けた。
合肥棟の裏山、その反対側であるのだが、凌統たちにはそんなコトは解るはずも無い。
しかし、自分達が絶体絶命の窮地に追い込まれたことは理解できた。
「…鬼ごっこは終わりだ。ここなら、遮るものは何も無いぞ」
振り返った先に姿をあらわした張遼は、まったく息を切らしている様子は無い。
満身創痍の凌統は言わずもがな、その凌統を庇いつつ逃げてきた丁奉も完全に息が上がっている。
「貴様等の健闘に免じて、痛いと思う前に意識を飛ばしてやる。
下手に動かぬ事を勧めるぞ…死なれでもしたら、面倒だ」
踏み込みとともに剣閃が飛んでくるのが見えた。
ふたりは無意識のうちに、互いを庇いあうようにして目を閉じた。