まるで雷鳴のような音がした。


しかし、痛みのようなものは何処にもない。
目を開けたふたりが見たのは、鮮やかな一対の羽飾り。


「…間一髪、だな」
「興覇先輩!」

甘寧は振り向いてふたりの無事な姿を確認し、口元を緩めた。
次の瞬間、猛獣のような咆哮とともに、力任せに張遼の身体を後方へ突き飛ばした。

「…ぐ…!」

不意を突かれた張遼は大きく間合いを離されたが、それでも難なく踏ん張ってみせていた。

間髪いれず、茂みの中から飛び出してきた「銀幡」の少女達が、凌統と丁奉のふたりを護るように集まってきた。
体制を崩す凌統を一人の長身の少女が抱え、そして、丁奉の手を別の少女が引く。

「よし、そのまま行けッ!」
「おのれッ…!」

甘寧の合図とともに少女達が凌統と丁奉を抱えて逃げ出すのと、体制を立て直した張遼が再び踏み込んできたのはほぼ同時だった。
甘寧はその前に立ち塞がるように滑り込むと、再び覇海を縦に構えてその剣を受け止めた。

「そうはいかねぇぜ大将、ここからは俺様が相手だ」
「ふ…そう言えば貴様にも、蒼天会旗奪取の屈辱の件で、叩きのめす理由があったな…甘寧!」
「報恩と報復、それが俺の…俺達「銀幡」のモットーだ。
てめぇがかましてくれた上等の礼、気にいったか?」
「ほざいてくれる…」

お互いの歯ぎしりの如く、打ち付けた木刀同士の切っ先が軋んで音を立てる。


膂力は互角。
張遼は「続飯付け」と呼ばれる馬庭念流の秘術を持って、数トントラックの衝突にも匹敵するような圧力を甘寧へかけるが…甘寧は、単純な膂力だけではなくその天性のカン、そして恵まれた資質だけをもってその洗練された「技」に真っ向から対抗してのけていた。


張遼は内心舌を巻いた。

忌々しくはあったが、先日の鮮やかなる少人数の奇襲を成功させた甘寧の手腕に、ある種の感銘を受けたこともまた事実なのだ。
単なる度胸試し、無謀な蛮行とも思えるあの奇襲が、実は綿密な計画と集団心理の間隙を突く駆け引きの上に成り立っているだろうコトも…そして、それを指揮していた者の強力なリーダーシップと実行力、それに応えられる猛者達により実現がかなったことも。


そして、その実行犯は実戦闘においても…「洗練された技術」と呼べるものを持たず、ただその「生まれ持った天性」のみで己の前に立ちふさがっている。


(恐ろしい…女だ!
 こいつを…こいつだけは潰さねばならん…ここできっちりと!!)

張遼は怒りではなく、純粋に目の前のその存在に対する恐怖から、それを討つべき標的と定めた。


そして少女同士の立ち合いとは思えない鍔迫り合いは、張遼が不意に力を緩めて後方へ飛びのいたことで均衡が崩れた。

勢い余ってバランスを失った甘寧。
その隙を逃すことなく、張遼は踏み込みと同時に袈裟懸けの一撃を繰り出してきた。


茂みの中でその様子を見た丁奉が堪らずに叫んだ。

「先輩!」
「ちっ…甘ぇんだよ!」

驚異的なバランス感覚で踏み止まった甘寧は辛うじてその一撃を払い返した。
しかし張遼は怯むことなく、その刹那の間に剣を柳生天に構え直す。

甘寧の背筋に一瞬、悪寒が走った。


先に放った「仏捨刀」はオトリ。
本命は、この構えから繰り出される「逆風の太刀」。


「これで、終わりだッ!」

火の点くような速度と勢いで、逆風に切り上げられた竹刀の一撃が、甘寧のがら空きになった左脇腹へと吸い込まれていった。





かしゃん、と音をたてて、グラスが床で砕けた。


「わ!
仲謀様っ、大丈夫ですか!?」
「あ…う、ううん」

谷利が慌てて箒と塵取りを持ってきて、破片を手際よく片付ける。

「ダメですよぼーっとして…仲謀様、どうかなさったんですか?
顔色、良くないです」

孫権のただならぬ様子に気づいた谷利が、心配そうに主の顔を覗き込む。

「あ、えと…大丈夫だよ…ごめんね阿利」
「…そうです、大丈夫ですよ…興覇さんだったら、きっと巧くやってくださいますよ」

あわてて取り繕ってみせる孫権の心中を悟ったのか、谷利はそう言って元気付けようとする。

「うん…」

しかし、孫権の胸騒ぎは収まる気配を見せようとしない。
窓の外を眺める孫権の表情は、今にも泣き出しそうなくらい、不安に満ちていた。



-銀幡流儀-
そのさん 「果てしない青空に誓う」



ふたりは技の極まった体勢のままで、ピクリとも動かない。
少女達も茂みの中で立ち止まり、その光景に釘付けにされている。


「…捕まえたぜ」
「な…!」

見れば、甘寧は技を極められた状態で、脇腹と肘で竹刀を受け止めている。
甘寧は技の極まる一瞬、僅かに前へ踏み込んで、鍔元を受けたことでダメージを減殺したのだ。


なんたる恐るべき天性か。
張遼は、この一撃で甘寧を戦闘不能まで持ち込めなかったことを悔やみ、そして戦慄する。


その一瞬の感情の機微が、張遼に取って致命的な隙を生んだ。


「今度は、こっちの番だ…喰らえッ!」

甘寧は張遼が見せた隙を逃さず、その肩口を掴んで思いっきり頭突きを食らわせた。

「ぐあ…!」

直接、脳へダイレクトに伝わった強烈な衝撃に、さしもの張遼も大きく体制を崩した。
まるで天地をひっくり返されたような衝撃に、脳震盪を起こした彼女の膝が地に付く。

「よし、今のうちにずらかるぞ!」
「くっ…待てッ!」
「待てと言われて待つバカはいねぇよ! あばよ、張遼!」

甘寧が茂みに飛び込み、少女達とともに逃げ去るのを、張遼はただ眺めていることしか出来なかった。


体の自由が利かない十分の間、張遼に取って幸いだったのはそこに敵となる者が侵入しなかったことにつきよう。
歴史に「もしも」は禁則であるが…それでももしこのとき、「銀幡」の面々が逃げを打たず、動けぬ張遼に殺到していたとすれば、確実に学園史を変えるほどの事態も起こりえただろう。





それから数刻、凌統と丁奉の救出に成功した甘寧ら「銀幡」軍団は、引き上げにかかっていた周泰の軍団と合流し、誰一人欠けることなく濡須棟へ帰還してきた。
その際、甘寧は帰路に立ちふさがった蒼天会の一軍を散々なまでに討ち散らし、その将と思しき少女を負傷させるという活躍を見せた。

その討ち漏らした少女が何者だったかなどと言うことは、甘寧以下誰も知ることはなかった。
ただこの日の一戦で、蒼天会でも夙に名の知られた良将・李典が帰還中の長湖部軍と遭遇し、それとの戦闘によって受けた怪我が元で引退を余儀なくされたという記録が残っている。
この二つの記録に整合性があるのか否か、はっきりはしていない…何しろ、その記録もいわゆる風説の類であり、その根拠として信用できる史料がないのだから。


「公績さんッ!」

抱えられていた凌統の姿を認めると、棟の昇降口で待っていたらしい孫権が泣き顔で駆け寄り、その傷ついた身体を抱き寄せた。

「ばかばかっ! なんでこんな無茶なことしたんだよっ!
どれだけ、どれだけ心配したと思ってるんだよっ…!」
「…すいません、部長」

その様子を見ていた甘寧が呟いた。

「部長…差し出がましいことかも知れねぇけど、公績の気持ちも酌んでやってください。
コイツはコイツなりに、必死に考えた末の事だと思いますから」

そして、しゃがみこんで凌統の肩を叩く。

「無茶をやらかすのは結構だが、せめて怪我してるときくらいは大人しくしてな。
お前が万全なら、張遼のタコに負ける要素なんて何処にもねぇんだからな?」
「…うん。
た…助けてくれて、ありがと…先輩」

恥ずかしそうに俯いて、呟くように言う凌統に、甘寧は苦笑した。

「ああ…でも先輩は止せ、そんなの承淵だけでたくさんだ」
「…わかったよ、興覇」

そうやって笑いあう二人には、もうこれまでのようなわだかまりはすっかり消え去っていた。


反目するだけだった二人が、お互いぎりぎりの視線の中でお互いを認め合った今…凌統にとって甘寧は「姉の仇」ではなくなった。
同じ長湖部の旗の下に集った、血よりも濃い絆で結ばれた「仲間」となったのだ。

それと同時に…絶対に超えるべき目標として、凌統の中に甘寧の姿が刻まれた瞬間であった。


だが、異変が起きたのはそのときだった。


「っと、これで…俺様の……仕事、は」

立ち上がろうとした甘寧の体が、突如力を失ったようによろめく。
動かない世界の中で、まるでスローモーションを見ているかのように、その体が大地に倒れた。

「興覇さんッ!?」
「先輩!?」

一瞬置いて、孫権と丁奉の悲鳴が上がる。
慌てて身体を抱き起こす少女達。

「ちょっと、リーダー! しっかりしてくださいっ!」
「先輩っ! 先輩っ!」
「ちぃっ、救急車だッ…誰か救急車呼んで来いッ!」

その騒ぎに、帰還してきた呂蒙、潘璋、徐盛も慌てて駆け寄ってきた。


「そんな……!」

その光景を眺めていた凌統は、呆然と呟いた。
まるで…今築き上げられた大切なモノが、砂上の楼閣が如く崩れ落ちるような感覚を味わいながら。





それから一週間の時が過ぎた。


合肥・濡須の攻防戦は、秋口からの風邪の流行のせいもあり、合肥棟と濡須棟の中間点を長湖部・蒼天生徒会双方の勢力境界線とすることで和議が成立し、束の間の平和が訪れた。
凌統の怪我も、彼女の強い自己治癒力のせいもあってかほぼ平癒し、日常生活には殆ど支障がなくなっていた。


しかし、甘寧の容態は予想以上に深刻で、未だに揚州学区の総合病院の集中治療室にいる。
意識を取り戻してはまた昏睡するという、余談の許さぬ状態が続いているとのことだった。

総大将不在という事もあり、丁奉を含めた「銀幡」軍団は臨時に潘璋預かりになった。
濡須棟の屋上で、孫権と凌統は互いに顔を合わせることなく、戦場となった大地を見下ろしていた。


「…肋骨を2本、折ってたんだって。
内臓も少し傷つけてるって…全治六ヶ月って、お医者様は言ってた」
「そうですか」

凌統には、その原因はわかっていた。


凌統は、甘寧が張遼の逆風の太刀を受けたシーンを思い返していた。
やはり、いくら技の威力を減殺したとはいえ、受けた場所が悪かったのだ。


(もし、あれを受けたのがあたしなら…今頃は土の下か)

それでも、やはり甘寧だったからこそ、こうして生き延びることが出来たのだろう。


裏返せば、張遼もそれだけ「甘寧の武」を驚異と感じ、全力をもって相対した証左だと言えた。
おそらくは、姉・凌操と対峙したときの甘寧と同じように。

そこに、恨みや憎悪の介在する余地などあるのだろうか?
お互い譲れぬ感情を、その立場をもって全力でぶつかった結果なのだとしたら…恨み言ひとつ漏らさず、静かに学園を去った姉の気持ちが、凌統にもようやく理解できた気がしていた。


「あたしは…あいつが、興覇がいなければ、今此処に居られなかったんですね」
「え?」

自嘲気味に呟く凌統に、初めて孫権は振り返った。

「もしかしたら、あたしがそれと気づいていないだけで…もっと何回も、興覇に助けられていたような、そんな気がします」
「…うん」
「あたしがもっと素直に彼女のことを理解することができていれば、こんな気持ちになる事だって」
「公績さん…」
「…まだ、決着だって…つけてないのに…!!」

凌統の目から涙が溢れ、俯いたその頬を流れ落ちる。

「縁起でもない事言わないでくださいッ!」

その時、屋上のドアを勢いよく跳ね飛ばし、丁奉がそこから踊り出た。

「興覇先輩はあんな程度でまいるほどヤワな人じゃないです!
そんな言い方、先輩に失礼ですよっ!」

そう言って、ぷーっと膨れてみせる。
呆気にとられた孫権と凌統だったが、そんな丁奉の様子がおかしかったのか、つい噴き出してしまった。

「う、うん、そうだよ。
承淵の言う通りだよ」
「…そうだな…こんな程度でどうにかなるようなヤツじゃないよな、興覇は」
「そうですよ」

ふたりが笑顔に戻ったことを確認し、丁奉も少し笑った。


ひとしきり笑い合った後、丁奉は二人に告げた。

「そうそう、今日ようやく…先輩と面会ができるようになったんです」
「本当!?」
「ええ…そんな長い時間は無理だったんですけど…それで公績先輩に、届け物を預かってきたんです」

そうして差し出されたのは、一通の手紙だった。
凌統がそれを開くと、そこには、

-じきにこんなトコ抜け出て来てやるから、そうしたらお前との勝負、受けてやるから覚悟しとけ!-

そう簡潔に、怪我のためかがくがくと揺れていたが、勢いのある字で書かれている。
らしいな、と、凌統は笑う。

「有難いこった。
今からちゃんと技を磨いて、今度こそあっと言わせてみせるさ…今に見てろ、興覇!」

どこか吹っ切れたように、凌統は手紙を握り締め、何処までも蒼く広がる空を見上げる。
その先で、苦笑する甘寧の顔が見えたように、彼女には思えていた。


余談になるが、公式記録では、この戦いののちにあった荊州攻略戦の参加主将の中に、甘寧の名を見ることはない。
甘寧の武を誰よりも評価し、彼女を活かしてきた呂蒙が指揮していたハズのこの戦いにおいて、その名が見られないのは不思議である。

そのため、合肥・濡須攻防戦において華々しい戦績を挙げた甘寧は、その理由も定かならぬまま突如引退したとも囁かれたが…ある記録によれば、長湖部存続の危機とも言われた夷陵回廊戦の前哨戦にて、病に冒された身で出陣し、激戦の中で散ったとも伝えられている…。


(終わり)