「…そう…。
興覇のヤツ、最後の最後までカッコつけて…もうっ…!!」

すっかり落ち込んで、何時もの調子がない丁奉を慰めるかのように、凌統はそんな軽口を叩いた。
その眼にも、かすかに涙が滲んでいる。


濡れ鼠のまま、陸口にある長湖軍の本営に丁奉がたどり着いたのはすっかり日が落ちてからだった。
甘寧と沙摩柯の一騎打ちの決着から既に五時間以上が経過し、何とか敗走する本隊をまとめながら、凌統や韓当たちは此処まで退却して来ていた。

凍りつくような河の流れの中で半ば意識を失いかけていたところを、ライフセーバーの卵である凌統が見つけてくれなければ、丁奉の身もただでは済まなかっただろう。


意識を失いながらも、丁奉は甘寧の階級章と、覇海をずっと離さなかった。

それから丸一日眠りつづけた彼女は、目を覚まして凌統の姿を認めるや否や、大声をあげて泣き出した。
何度も何度も、甘寧の名を呼びながら。

その様子から、凌統も甘寧の身に何が起きたかを悟った。
かつては恨み骨髄の相手ではあったが、わだかまりを解いた今は、大切な仲間であり、尊敬できる先輩だ。それを思い、彼女も泣いた。


そして今、ようやく丁奉も落ち着きを取り戻したところだった。
揚州学区のはずれにある学生寮の丁奉の部屋には、凌統の連絡を受けた周泰と潘璋もやってきていた。

「さっき揚州学区の病院から連絡があったんだ、峠を越えたってさ。
帰宅部の奴等もその辺のことは、ちゃんとわきまえててくれたんだな」
「まぁ、あんたが無事だったのは、不幸中の幸いだったよ。
興覇だけじゃなくて、あんたまで飛ばされてたらどうしようかって思ったけど」

普段は寡黙な周泰や、口の悪い潘璋も、そう言って励まそうとする。

しかし、そのことが責任感の強い丁奉にとっては、かえって耐えられないことだったに違いない。
潘璋が甘寧の名を言ったあたりで、丁奉の眼には再び涙が溢れる。

「でも…でもっ…あたしは先輩を護ることが出来なかった…っ!!」
「……承淵」

居合わせた諸将に、返す言葉もない。

甘寧を護る事が出来なかったと言うなら、中軍を無防備に晒した左翼の周泰、先鋒軍の潘璋、そしてその危機を救うことを出来なかった後詰めの凌統にも共通した無念の感情である。
だが、危地から上手く逃げおおせたとはいえ、最後の最後で結果的に甘寧を見捨てる形になった丁奉の心痛とは比べるべくもない。

赤壁後の南軍攻略戦以後、ずっと副将として付き従い、妹分として可愛がられた彼女を知る諸将にも、その気持ちは痛いほど伝わってきていた。


「そうね、確かにあなたは、副将としての役目を完遂できなかった」

沈黙を切り裂いたのは、部屋に入ってきた韓当だった。

総大将・甘寧リタイアの報を受け、最高学年生として臨時に軍の総指揮に当たっていた彼女も、丁奉回復の報告を受け駆けつけてきたのだ。
彼女自身も乱戦の中無数の傷を受け、手足や額に巻いた包帯にはわずかに血が滲んでいる。

「私の副将はね、私を護るため身代わりになって張苞に飛ばされたわ。
もうすぐ卒業する私をかばって、これからも長湖部の一員として働かなきゃいけないあの娘が」

そう言って丁奉を見つめる韓当の表情は、一見普段と変わらない様に見えた。
しかし、その瞳はどこまでも深い哀惜を湛えている。

「あの娘は確かに副将の役目を果たしたわ…でも、あたら若い才能を潰してしまった私の気持ちはどうなるのよ…あの娘を目の前で飛ばされてしまった、私の気持ちは!」
「…先輩」

長湖部設立から部を支えつづけてきた、その少女の双眸からは何時しかとめどなく涙が零れていた。
流れる涙を拭おうともせず、韓当はなおも続ける。

「あなたも興覇も幸せ者よ。
あなたは彼女の意思を、継ぐことが出来た。
何時までもめそめそしてるヒマがあるなら、これから何をなすべきか、それを考えなさい…彼女のことを思うなら、尚更…!」
「…………はい」

何時しか、居合わせた全員の目から、涙が流れ落ちていた。
だが、最初に泣き出した少女の表情に明るさが戻ったのを見ると、韓当も満足そうに頷いた。


その一方で、彼女の心の片隅で、これからの展望への不安は依然渦巻いていた。

(でも…興覇やあたし達総出でも支えきれなかったあの勢いを止めるなんて…せめて、せめて公瑾や子明…あるいは、それに匹敵する将帥がいてくれれば…!)

敗戦に沈む少女の涙は晴れても、長湖部にかかる暗雲は、未だ晴れ間を見せる事はなかった。



「風を継ぐ者」
-第二章 誰が為の涙-



(や~れやれ…まさか、興覇さんまでやられちゃうなんてねぇ。
 いくら半病人とはいえ、あのひと指揮能力だって今の長湖部ならトップクラスじゃん。どーすんだよマジでこれ)

この日…甘寧脱落の報を受け、さらに沈み込んだ長湖部本営の会議室を一番最初に出てきたのは、ボリュームのある色素の薄い髪を、無造作に二つ括りにした少女だった。


どこか人を食ったような細いタレ眼が特徴的なその少女の名は敢沢、字を徳潤という。

苦学生であったが、記憶力に優れた明晰な頭脳と、かつて赤壁島戦役において曹操に黄蓋の偽降を信じ込ませたといわれるほどの能弁を認められ、長湖部の重鎮に登りつめた一人である。
実家が寺であったことから仏教関係の事跡に特に詳しく、のちに揚州学区の外れにある古寺を改修した際、一言一句過たずに書き上げられた経典を奉納したことで知られることとなる…それは、さておき。


敢沢の明晰な頭脳は、先ほどの会議のあらましを正確にリピードしていた。

喧喧囂囂と意見のまとまらない幹部達。
中には、先に協力関係を結んだ蒼天会に援助を求めるべき、などという意見を吐くものもいる。
その記憶の中の幹部連中に、敢沢は「やれやれ」と言わんばかりに溜め息を吐いた。

(どいつもこいつも、わかってねぇよなぁ…表面上は友好関係にあるたぁはいえ、曹丕のやることなんざ信用できねぇだろ。
 そんなことを申し入れれば、どんな無理難題を吹っかけてくることか。
 っても、このまま何もせずにいて、義公さん達まで崩される事になれば…くそっ!)

「…さん、徳潤さんっ!」

考えながら歩く敢沢は、はっとして自分を呼ぶ少女に振り向いた。

光のあたり具合では緑がかって見える髪をショートボブに切り揃えた、利発そうな少女だ。
制服の着こなしからも、その真面目な性格が読み取れる。

「あ…なんだ、伯言か」
「なんだ、とは酷いです。
考え事しながら歩いていると、階段から落ちますよ?
ただでさえ、徳潤さんは熱中すると周りが見えなくなるんだから」

大げさなくらいぷーっとむくれてみせるその少女-陸遜をなだめるように、敢沢は笑った。
「伯言」は陸遜の字である。

「悪ぃ悪ぃ…オマケに待ち合わせの時間もオーバーしちまったしな」
「…仕方ないです…こんな状況ですからね」
「こんな時に転院だなんて、公瑾さんも複雑だろうなぁ。
課外活動から退いたうえ、病院暮らしも長ぇのに、ずっと部長のこと、気にかけていたからなぁ」

敢沢は大げさに溜息を吐く。


公瑾こと、元長湖部副部長・周瑜は、かつて長湖部二代目部長・孫策の親友として、孫策のリタイア後も現部長・孫権を補佐し、圧倒的不利といわれた蒼天会の攻勢を赤壁島で撃退してのけた知将だ。
才色兼備の人物だったが、激情家としての一面があり、それゆえに南郡攻略戦で回復不能に近い大怪我を負い、今なお病院暮らしを余儀なくされている。

その周瑜は此度、現在入院中の揚州学区の病院から、より設備の整った司隷特別校区の大病院へと転院することになった。
彼女の才能を惜しんだ学校側の配慮により、個人授業などで卒業単位を稼げるように配慮し、それを受けた周瑜の両親の勧めに従ったものである。


しかし、それは同じ学園に居ながらにして、場合によっては永劫の別れになる可能性があることも示している。
司隷特別校区は、現在曹丕が支配する「蒼天生徒会」の本拠地…課外活動に参加できないリタイア組はともかく、現長湖部員がおいそれと踏み込める場所ではなかった。


そのことを鑑みて、陸遜の発案と呼びかけにより、周瑜の歓送パーティを開催することになった。
もっとも、時期が時期だけに、幹部のほとんどは不参加で、参加者は後輩だらけになってしまったが。


不意に、敢沢の眼差しが真剣な光を帯びる。

「情けない話さ…これから部をどうこうしていくってヤツが雁首そろえて、なんの役にも立てねぇときてやがる。
あたしにそんな力があれば、こんな気持ちになることもないのに」

この現状に際して、何も出来ないことに対する悔しさが、言葉に満ちていた。
握り締めた拳が、まるで泣いているかのように、震えていた。

「…それは私だって、同じです。
伯符先輩や公瑾先輩、そして部長やみんなの思い出が詰まった場所ですから…失いたくない気持ちは一緒ですよ」

陸遜の笑顔は、ひどく悲しげな笑顔だ。
本当は泣きたいのだろうが、その感情を無理に押し込んでいるような、そんな悲しい笑顔だった。

「何も出来ないでいる自分が、悔しいです…赤壁島で蒼天会を打ち破った公瑾先輩のように、なれない自分が」

不意にその笑顔が、悲痛なものに変わった。
これから行うことを考えて、その気持ちを解きほぐそうとしたのか、敢沢はあえて茶化すように言った。

「まぁ、なんつーか…あんたも健気だねぇ。
あれだけあしらわれてても、その公瑾さんのこととなると真っ先に気を使ってさ。
今回の件の為に、ヒマな連中をかき集めたり、プレゼントとか用意したり、病院に便宜を図ってもらうよう動いたのはあんたらしいじゃん」
「え…え~と…」
「こんなときだからこそ、余計な心配をかけさせまいとするあんたの心がけは立派だよ。
どーして公瑾さんは、そういうところを解ってくれないのかねぇ」

陸遜はちょっと困った表情で、俯いてしまった。


周瑜の陸遜に対する風当たりは厳しい、というのが長湖部構成員、特に幹部クラスの人間にとってはほぼ常識といって良かった。

周瑜が対応にてこずっていた山越高校の荒くれを手なづけて、協定を結んで後背の憂いを絶ち、しかもそのときに作った対応マニュアルは賀斉や鍾離牧といった後任者に「これじゃああたし達が新しい方策をわざわざ考える必要ないわよね~」と絶賛される出来だった。
この完ぺきな仕事振りに、周瑜が嫉妬している…というのが、表向きの評判だった。


だが実際は、赤壁直前に行われた強化合宿の朝に起きた出来事が原因となって、周瑜が陸遜を一方的に嫌っているのだが…この事は、長湖部の幹部級の者たちで、そこに居合わせた者と孫権しか知らない。
敢沢も、その数少ない一人である。


「まぁ、そんなこと言ってても仕方ないか。
早く行かないと、それを理由にまたどやされるかもしれないな…行こっ、伯言っ」
「あ…待ってくださいよ~」

困ったように黙り込んだ陸遜の様子に「余計なこと言ったかな?」と思った敢沢は、陸遜の肩を軽く叩くと、視界に映りこんだ病院の建物に向かって駆け出し、陸遜も慌ててそれに続いた。





「どうして、あんなに伯言に冷たくあたるんです、公瑾さん?」

群がっていた後輩達と陸遜を帰したあと、敢沢は周瑜とふたりきりになった個室の病室でこう切り出した。
普段は飄々とした敢沢が、柄にもなく真顔で問い掛けてくるのを見て、周瑜は苦笑した。

「何を言い出すかと思えば…まさか徳潤、そんなことを聴く為に残ったの?」
「…真面目な話ですよ。
今回の歓送会の黒幕が誰かぐらい、本当はあなたにも解ってたんでしょう?」
「言ってる意味が解らないわ」
「子敬ねぇさんが学園不在、子明さんは未だに意識不明の重体。
そんな状況で、他にこういうことに気がつきそうなのが伯言以外に居ると思います?」

物静かだが、責めるような強い語調だった。


この、ささやかな歓送パーティの際もやはり周瑜は、陸遜とまともに取り合おうとさえしなかった。
他の若手部員の手前、あからさまに無視するようなことはしなかったが、一瞥した程度ですぐに別の後輩達の相手をする。

それを何時しか一歩離れて見ていた敢沢には、なんともやりきれない気分になった。


周瑜の表情を見る限り、このイベントを迷惑がっている風はなかった。
「仲…いえ、部長も、こんな気を遣わなくたって…」と声を詰まらせていたのは、芝居には思えなかったし、心からの一言に思えたからこそ、敢沢は横から、これは陸遜の仕業だ、とわざと茶化した風に言ってみせた。
だが、それを受けても周瑜は「部長が来れないから、代わりに来てくれたんでしょ? 無理しなくてもいいのにねぇ」なんて言い出す始末だ。

一見、陸遜に対する労いにも聞こえなくないが、これでは立役者の陸遜も浮かばれない。
敢沢は、それが哀れでならない。


そんな周瑜の態度を気にした風もなく、輪から外れて言葉をかけかねている後輩を促して歩き、満座に気を遣う陸遜の姿を見れば、ひとしおだ。
別れゆく陸遜にも、一言も声をかけない周瑜の態度を見かねたからこそ、敢沢は周瑜にその理由をとことんまで問い詰めるつもりでいた。


真剣な敢沢の視線に、周瑜は「やれやれ」といわんばかりに息を吐く。

「随分、あの娘のこと、高く買ってるのね」
「対三越高に対する折衝術の手腕、そして先の荊州攻略における手際の良さ。
気付かないほうがどうかしてますよ」
「買いかぶりすぎだわ…大体、荊州攻略は子明の手柄よ」
「そりゃあそうでしょう、表向きには、荊州攻略の総指揮を取ったのは子明さんですからね。
伯言には表に出てこれなかった何らかの理由があると…思ってるんですがね」

その言葉に一瞬、ほんの一瞬だが、周瑜の表情が変わったのを敢沢は見逃さなかった。
さらに、畳み掛けるように言葉を紡ぐ。

「あいつの才能は、埋もらせておくには勿体無い…それに、この危急のときです。
あたしは、明日あいつを…伯言を、対帰宅部連合の総大将に推挙します」
「駄目、駄目よそんなことッ!」

周瑜の顔はこのときはっきり、狼狽の表情を見せた。
そして、何時もの彼女から考えられないくらい、動揺した叫び声を上げた。

「何故です?」
「危険すぎるわ…あの娘程度じゃ、とてもそんなこと」

そんな周瑜を他所に、敢沢は冷酷なまでに、淡々と告げた。

「ま、既に一線を退いたあなたがどう思おうが勝手だと思いますが…先に子敬ねぇさんが引退したとき、あなたが横から口出しして、伯言を長湖副部長の就任の邪魔した、って専らのウワサでしたのでね…釘をささせてもらいたいんですよ、あたしとしては」
「駄目よッ!
どんな手を使ってでも…そんなことさせない…ッ!」

周瑜はその整った顔に満面の怒気を浮かべ、ベッドからよろよろと立ち上がり…なんとベッド脇の棚の上にあった果物ナイフを掴むと、敢沢に突きつけたではないか。

「あなたを殺してでも…止めさせる!」
「な……!」

だが、長い入院生活に萎えた足は、すぐにバランスを崩して前のめりに倒れてしまう。

周瑜の鬼気迫る姿に気圧されていた敢沢は、その瞬間正気を取り戻してその体を支えた。
だが、その勢いで尻餅をつかされ、そのまま、周瑜を抱きとめる格好になる。

手から離れた果物ナイフは、その拍子に床へ落ちたが…この一連の、異常にも思える事態に動揺したまま、敢沢は問う。

「何故…何でそこまでして…何があなたをそうさせるんですか…公瑾さんッ!」

抱き止めた周瑜は、俯いたまま応えない。

「…どうしてなんですか…そんなに、伯言が目立つのが、気に食わないと言うんですか…?」
「……わかった風な……こと言わないで…!」

消え入りそうな声で、周瑜は呟いた。
その肩が、かすかに震えている。

「あなたに…あなたに、私とあの娘の何がわかるって言うのよ…ッ!」
「わ…解りますとも!
少なくとも、あの合宿から、あなたがそれとなく伯言を避けている位は…いえ、あなたがあの娘のことを嫌っているくらいは!」
「馬鹿言わないでッ!」

周瑜の凛とした、そしてトーンの高い怒声が、夕日の差し込む病室に響いた。

眦を引き裂き、涙で真っ赤に腫れ上がった瞳で、キッと敢沢を睨みつける周瑜。
その迫力は、かつて赤壁直前に黄蓋とやらかした芝居の喧嘩のときに見せた表情に似て、それにはない鬼気迫るものがあった。

だが、次の瞬間、その双眸から涙が溢れてくる。
そして、睨みつけた少女の胸元に顔を埋め、そこから嗚咽の声が聞こえてきた。

「公瑾…さん」
「馬鹿なこと…言わないでよ…私はあの娘のこと、嫌いじゃない…嫌いなんかじゃない……ッ!」

それこそ、それまでずっと彼女が抱きつづけていた、本音なのだと敢沢は悟った。
それと同時に、自分はそれを知らず、彼女の心の、決して他人が土足で踏み込んではいけないところに、自分が踏み込んでしまっただろう事にも、気がついた。


でも、だからこそ聞きたかった。
聞かずにはいられなかった。わざと陸遜を避ける、その理由を。
陸遜に後事を託すことを拒ませた、その心の内を。


「だったら」
「徳潤、もうそのくらいにしてあげて」

不意に別の声が聞こえ、此処には自分と周瑜しか居ないと思い込んでいた敢沢はぎょっとしてそちらを振り向いた。
そこには孫権の姿がある。

「部長…どうして、ここに?」

前線に駐屯している周泰ならいざ知らず、いつもちょこまかと後ろについてきている谷利の姿もなく、彼女は一人でそこにいた。

「…ボクも公瑾さんに、ちゃんと挨拶しときたかったから。
子布さんや阿利を撒くのは大変だったけど」

必死に感情を抑えようとしているみたいだったが、眼と声は嘘をつけない。
その声は、今にも泣きだしそうなくらい、震えていた。

「みんなには内緒だったんだよ」

そう言って席につくと、孫権は懐から一枚の写真を取り出した。
それを手にとった敢沢は怪訝な表情をして孫権に問い掛けた。

「これは?」
「ボク達が毎年、赤壁島でキャンプしてるの、知ってるよね?
それが今年のだよ。
今年は、公瑾さんが入院中だったから、出発前に此処で撮ったんだけど」

その写真には、やや後ろで斜に構えた孫堅と、ベッドの傍らの椅子に座る孫権と、それぞれの両サイドに、ベッドから体を起こした笑顔の周瑜を孫策ともう一人、見覚えのある狐色の髪の少女が肩を組むように、ちょっとバランスを崩した真ん中の人物を抱き寄せている。
はにかみ笑顔のその人物は。

「これは……どうして、伯言が…それにこの娘、承淵じゃないか?
何でこのふたりが」

そう、孫姉妹が身内だけで毎年の如く敢行している赤壁島キャンプに、孫策と義姉妹の関係である周瑜はともかく、陸遜や丁奉が参加しているのは意外なことであった。

ただ孫権と仲がいいだけの理由なら、ここに谷利と周泰が居てもおかしくないが、敢沢はちょうどその時期に、ふたりと揚州校区近くの繁華街でよく会っていたのだ。谷利が「キャンプにまた連れてってもらえなかった」と、会うたびに愚痴っていたのを敢沢はよく覚えていた。

「…去年はね、一緒に過ごしてたのよ、ふたりと。
だから、仲謀ちゃんが誘ったのよ」

俯いて肩を震わせていた周瑜が、少し落ち着いたと見えてかすかに、顔を上げる。
その顔は涙でぐしゃぐしゃになり、病院暮らしでやつれても失われる事のなかった美少女の面影を、完全に失わせている。

「あの一件が子敬たちの悪戯だったってことは、合宿の後に直接、子敬から聞いたわ…そうでなかったら、少なくとも夏の間だけは、絶対あの娘と口なんか利いてやるもんか、って思ってた…我ながら、大人気ないとは、思ったけどね」

涙を拭って、周瑜はまるで、その日のことを思い返すかのように視線を中空へ投げた。
目には相変わらず涙が溢れ、一言紡ぐたびに、とめどなく流れてくる。

「その次の日、だったかな。
文台姉様から「今年もキャンプするぞ」って連絡があって。
知っての通り、あの年は休み明けに蒼天生徒会との決戦があったでしょ?
だから、最初は何とか取りやめてもらおうかと思ってた…まぁ、結局、押し切られちゃったけどね」
「文台お姉ちゃん、結構強引だからね」
「ふふ…そうね。
次の日、だったかな。
たまたま自主トレの遠泳にやってきていた承淵と出会って…そしたら、伯言ったら、途中でボートをひっくり返してね、溺れてたみたいなのよ。
承淵が見つけてくれなかったら、あの娘本当に長湖の藻屑になるトコだったわね」
「そうだったね…たしかあゆみちゃんが、じゃれて伯言のボートをひっくり返したんだってね」

涙は留まることを知らなかったが、周瑜は微かに微笑んだ。孫権も相槌を打つ。


あゆみちゃん、というのは、一昨年のキャンプのときに赤壁島で孫権が孵した首長竜のことだ。
長湖部幹部は皆その存在を知っており、誰が言い出したか、今では「長湖さん」の方が通りがいい。
敢沢も見た…もとい、「会った」ことがある。


「あの娘ね、ずうっと私に謝りたくて、追っかけてきたって言うの。
真剣な顔してさ、泣きながらそう言うから…子敬に事の顛末を聞いてなくても、きっと許してたと思う。
そのときはいつもどおり過酷で、でもこれまででいちばん、賑やかで楽しいキャンプだった」

敢沢はこのときになってようやく、去年の夏明けに陸遜が恐ろしくやつれていたことの本当の理由を知った。

それまでは、ずっと周瑜との一件で大げさに悩みつづけてたんだろう、としか思っていなかったのだ。
そのあとに紹介された丁奉がけろっとしていたのも一因ではあったが。

「そうだったよね…伯言と承淵が仲良くなったのも、あのキャンプがきっかけだったかも。
それに」
「私だってそう。
でも、仲良くなって、あの娘の才能を知って、でもそれ以上にあの娘の優しいところを一杯知ったわ…だから」

そこで、聞き入っていた敢沢の方へ向き直った。悲痛な眼だった。


「私がリタイアするときに、あの娘に長湖の副部長になれ、なんて言えなかった。
確かにあの娘の才能なら、申し分はない…だけど、あの真面目で優しい伯言に、そんな重荷を背負わせたくなかったのよっ!」


日はすっかり落ち、何時しか、病室の電灯に明かりが灯っていた。

時計は、六時半を少しまわっていたので、本来ならとっくに面会時間は過ぎていたはずだ。
恐らくは、孫権が入ってくる時に職員に頼み込んだか何かしたのかもしれない。

そこには少女三人を中心に、沈黙があるだけだった。
いったい最後の言葉から、どのくらいの時間が経っていたのだろう。


その沈黙を突き破るように、敢沢は心なしか重くなったような、自分の口をようやく開いた。


「そうだったんですか」

まるで独り言のように、そう言うのが精一杯だった。
彼女の聡明さは、総てを聞かずとも、その真相を完全に解き明かしていた。


周瑜は陸遜のことを大切に思っていたからこそ…その才能を知りながら、自分の後継者として申し分ないと思っていたからこそ、自分と同じ道を歩ませたくなかったのだ。
おそらくは自分と魯粛の跡目についた呂蒙の末路を聞き及び、その想いを一層強くしていたのだろう。
写真に写る、この笑顔を失わせたくないと思って。

孫権は当然として、おそらくは丁奉も、このときに言い含められていたのだろう。
普段丁奉が陸遜のことを「仲のいい先輩」程度にしか言っていないのが、その証拠だ。
誰もがその実力を知る周瑜が皆の前で大げさに陸遜を避けて、その才能を大仰に過小評価しておけば、そんな辛い道へ引き込ませずに済む。
陸遜もそんな周瑜の優しさを知って、敢えて昼行灯を演じていたのかもしれないということも。


「だからこそ、荊州攻略の後、かえって伯言は沈んでいたんですね。
あなたを悲しませたことを、気に病んでいたから…あなたの想いに反して、自分の名を高めてしまったと思ったから」

だからこそ、しつこいくらいにへりくだって、それを呂蒙の功績として称えていたのだろう。
敢沢の言葉を肯定するかのように頷くと、周瑜はおもむろに口を開いた。

「私が本当に恐れていたのは、今のあなたや子敬みたいに、あの娘の才能を認める誰かが、あの娘を課外活動の表舞台に引きずり出すことだった。
仲謀ちゃんから、子敬が伯言を後継者にしたがってるって聞いたとき、私は総てを打ち明け、説得したわ」

その時、敢沢の脳裏に引っかかっていたひとつの疑問が、その答えを明らかにしていた。


すなわち、呂蒙が陸遜の才能に気づいていたということ。
魯粛と親しい呂蒙なら、何かの拍子に魯粛が陸遜のことを話題にしていたとしていてもおかしくはない。
もっとも、呂蒙が周瑜と何の話し合いを持たずにいた点はいまだ、謎のままだ。まさか、周瑜が呂蒙の失脚を予期していたとも思えないが…。


そんな敢沢の思索は、周瑜の独白が再開されることで打ち切られた。

「でも子敬は、私のそんな我侭な気持ちも最初から知ってたみたい。
だから、あの娘が自分も伯言の名を出さない、って言ってくれたとき、ほっとしたわ。
これで、あの娘はずっと、平凡な何処にでも居る女の子として、学園生活を送れると思ったから」

何も起こらないままなら陸遜は、以降もうだつのあがらない長湖部のいちマネージャーとして平凡に学園生活を送り、卒業していったのかもしれない。
それが、周瑜や孫権の願いでもあったのだろう。

「だから…徳潤…御願いだから…あの娘に、そんな過酷な道を歩ませないで…!」

その言葉の最後は、嗚咽に霞む。

縋り付くように懇願する周瑜の姿に、敢沢は胸が締め付けられるようになった。


できるなら、彼女の懇願を受け入れ、自分も知らん顔をしていたいと、そう思った。
これが普段の平穏な長湖部における、次期副部長を決めるとか言う話であれば、敢沢は一も二もなくそれを受け入れたことだろう。

でも、今は違う。
多くの先人達の血と汗と涙で築きあげ、以降も陸遜がその一員として過ごしていくだろう長湖部存続の危機だ。
その窮地を救える者もまた、彼女しか居ないのならば。


彼女が、それを望んでいることを、知っているから。


敢沢は、周瑜の体をそっと立て直すと、その目を見つめ、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「でも…それでも、今の長湖部には伯言の力が必要なんだと思います。
あいつだって」
「…その先は、私から言わせて…徳潤さん」

声のする方向には、何時の間にか陸遜の姿があった。

「伯言…どうして」
「私も…失いたくないんです。
部長や先輩達、それに今居るみんなの力で築き上げてきた長湖部を…その能力(ちから)が私にあるなら…私は、傍観者で居たくないないんです…!」

陸遜の瞳からも、涙が溢れている。
しかし、彼女はその目を逸らす事もせず、真っ直ぐ周瑜の顔を見つめて…告げた。


「だから…私は戦います。
どんな結末が待ち受けていようと…もう逃げたくないんです」





その翌日のこと。

会議はいまだ紛糾の様相を呈していた。
先に停戦和議の為に赴いた程秉も、士仁が関興によってぶちのめされる様を記録したビデオを上映しながらの、劉備のドスが利いた「宣言」を聞かされたショックで寝込んでしまう始末だった。
このことに恐怖した、もう一人の離反組である糜芳もまもなく自らの意思で階級章を返上して行方を眩ましてしまうのだが…それは、さておき。

いわゆる「文官系幹部」の中でも、肝っ玉の据わった程秉がそんな有様になってしまうぐらいなので、いかにそれが凄惨な有様だったかをよく物語っていた。
和議が叶わないと言う事は、劉備の態度を鑑みれば帰順を申し入れても無駄だということと同義といっていい。


「まぁ、これで子布大先輩お得意の「降伏ー!」は使えないよね~」
「聞こえてるわよ子山ッ! それどういう意味よ!」
「あ!
い、いえ、これはただのジョークでして…」
「言って良い事と悪い事と、状況ってモンがあるでしょうが!
だいったいねぇ……」

聞こえないくらいの小声で言った皮肉を聞き取られ、怒る張昭に慌てて弁明する歩隲を尻目に、それこそ誰にも聞こえないくらいか細い声で「言葉通りです」と顧雍が呟く。それを地獄耳で聞きつけた張昭は、今度は顧雍にも怒声を飛ばす。

まくし立てるうちに感情をヒートアップさせ、怒り心頭に達した張昭が歩隲と顧雍に飛び掛ろうとするに至って、流石に傍観していられなくなった諸葛瑾や陸績、吾粲等は張昭をなだめに入った。
それを傍目で、「やれやれ」と言わんばかりの顔で頬杖をつきながら虞翻が眺めていた。


その喧騒の外、孫権の後ろに侍立しながらその様子を困ったような苦笑いを浮かべて見ていたた谷利は、ふと、主・孫権に目をやった。


そんな喧騒さえ聞こえないかのように、孫権は俯いたままだった。
いまだ救出の目処が立ってない孫桓のこと、先にリタイアした甘寧のことなどが、彼女の心に重くのしかかって、不安で押しつぶされそうになっているのであろうか…孫権の悲痛に歪んだ表情と、何処か中空の一点を見つめて動かない瞳から、谷利はそんなことを考えていた。
そこには、孫権第一の側近であると自負して憚らない彼女も知りえない感情があることなど、気付く筈もなく。


そのとき、不意に会議室のドアが開いた。
少女達の脳裏に、先日甘寧が入ってきたときの光景がオーバーラップする…が、そこに立っていたのは、本日大幅に遅刻してやってきた敢沢だった。

「なんでぇ諸君、あたしの顔になんかついてるかい?」
「なんだじゃないわよ!
あんた幹部会ほっぽり出して一体どこほっつき歩いてたのよ!?」

咎める張昭の口調は、先程からのテンションそのままに、その怒りを今度は敢沢に向けてきた。
いつのまにか怒りの矛先が変わったことに胸をなでおろす歩隲と顧雍を他所に、その剣幕を気にした風もなく、彼女は飄々とした体を崩すことなく後ろ手に扉を閉め、部屋の中心に歩み出る。

「ヒデェなぁ子布さん。
あたしゃ一応、吉報ってヤツをお届けにきたのさ。
ちょっとくらい大目に見てくれよなぁ」
「吉報ですって!?」
「あぁ。今もなお病床の身にありながら、部の行く末を案じて止まない公瑾大明神の有難いご神託だ」

公瑾、の名を聞いたとたん、満座の面々がお互いの顔を見合わせ、にわかに座はざわめく。
俯いていた孫権がいつのまにか顔を上げ、ふたりの視線が交差する。


この日、敢沢が再び病院に足を運んでいたことを孫権は知っていた。
そこで何かあっただろう事は、想像がついた。


敢沢は小さく頷くと、息を整えておもむろに口を開いた。

「確かに公瑾さんや子明さんとか、先日リタイアした興覇さんとか、こういう危難に頼りになる人達はどんどんいなくなっちまった。
でも、そうして失ったものの大きさが解るくせに、残ったあたしらの中にとびっきりの大物が隠れていることに気づきもしない…仕方ねぇ事だがな」
「馬鹿な事言わないで徳潤…まさか自分が、それに当たるとでも言うの!?」
「それこそ馬鹿言うな、ですよ。
あたしがそんなんだったら、既に興覇さんの代わりに出て、解決してますって」
「じゃああんたは」

食って掛かる張昭を制し、孫権が割ってはいる。


「…言って、徳潤。
キミの言う通り、その娘の力を用いるべき時が…来たのかもしれない」


幹部達は、その孫権の台詞に、一瞬怪訝なところを感じた。
だが、真剣そのものの孫権の表情に並々ならぬ決意が現れているのを見て、先ほどの敢沢の発言に応えた揶揄程度のもの、と考えていた。

居並ぶ幹部達の注目も集まる。
敢沢は一度目を閉じ、一拍置いてから、口を開いた。


「それは他でもない…いま子明さんの後釜として、臨時に陸口棟の指揮をとってる陸伯言ですよ」