一体どれほどの者か…と期待していた幹部達にとって、それはあまりに意外すぎる人物の名前だったに違いない。
満座、呆気にとられて開いた口が塞がらない様子であったが、皆一様に「何を言ってるんだ、コイツは」と言う表情をしている。
ただ一人、孫権を除いては。
「なんですって!?」
「ちょっと徳潤、あんた正気なの!?」
「………………!!」
満座の沈黙が発する圧力をなんとか押しのけた張昭、歩隲、顧雍が同時に非難の声をあげる。
もっとも、顧雍の声は相変わらず、聞き取れないほどだったが。
「元歎ですら、何か悪いものでも食べたの、って言いたそうよ…徳潤、いくらなんでも悪い冗談は止めたほうがいいわ」
そんな諸葛瑾の一言に、顧雍は少しむくれた表情に変わる。
実は顧雍は「熱でもあるの?」と言っていたのだ。
その表情は、正確に聞き取ってくれ、という非難の意味合いであるらしいが…そんなことは些事に過ぎないので誰も気にしている者は居ない。
「冗談? 子瑜さんまでんなこと言うとは心外だな。
冗談や酔狂でこんなこと言うかい?」
それを受けて、虞翻も続ける。
「そう聞こえたからよ。
もし仮に、伯言にそれだけの才能があったとして…あの娘が公瑾に相手にもされてなかったことを知ってる子は多いわ。
彼女と仲が良かった承淵ならまだしも、とてもじゃないけどあそこにいる連中を統率できるとは思えない。
舐められて戦う前に軍団が四分五裂が関の山だわ」
周囲の人間は恐らく気付いていないようだったが、皮肉屋の彼女がこういう言い回しをしてくることは非常に珍しい。
比較的彼女と懇意だった敢沢には、恐らくは虞翻も陸遜の能力の高さを知っているのではないか…もっといえば、その真相を知っているのではと思えていた。丁奉の名を引き合いに出してきたことからもそれは明らかだ。
とはいえ、今それに言及することの必要性はさほど高いと言い難いだろう。
そこに触れることなく、敢沢は困ったように笑いながら続ける。
「まぁ…あの一件については、子敬ねぇさんや興覇さんに原因があるんですけどね…それはいいや、今さして重要なこっちゃねえし。
その子明さんは、荊州奪取の頃からふたつ年下の伯言へ妙に親しげに話してるの見た奴が何人も居るって聞きましてね。
陸口棟長に仕立てたのは計略のせいもあっただろうが、計略とはいえ本当にどうでもいいヤツを自分の代わりにするなんて、あの子明さんがするとも思えない」
「でも、あの娘はこんな血なまぐさいことに向かない優しい娘よ!
餓狼の群れに兎をけしかけるなんて正気じゃない!」
議論の俎上に上がった陸遜にとっては、従姉妹同士にあたる陸績までもがそんなことを言い出す。
恐らく、血縁の有無を別としてすら仲が良いはずの彼女がそれを知らないほど、周瑜の根回しは徹底されていたということなのだろう。
それを受けて胡綜、厳畯、さらに件の陸遜と同学年で比較的親しい間柄にある吾粲といった幹部達も口々に「危険だ」だとか「自殺行為はするべきでない」と声を挙げる。
その様子を見ながら頬を掻き、苛立つような仕草をしていた敢沢は、おもむろに息を吸い込み「やかましい!」と一喝した。
その瞬間、幹部達の口の動きは一斉に止まった。
今まさに何か言おうとしていた張昭すら、それに面食らって口を噤んだほどだったので、よほどの剣幕であったことが伺えるだろう。
「危険は承知!
どうせ負ければ長湖部は終わりだ!
失敗したら階級章と言わず、あたしの命もくれてやる! 満座の中で腹でも首でも、リクエストどおりにかっさばいてやるよ!」
眼をかっと見開き、物騒な宣言をしてのける敢沢の気迫に満座は呑まれた。
いつも飄々とした敢沢しか知らない幹部達は、半ば呆気にとられているようにも見えた。
何しろ、普段表情の読み取り難い顧雍でさえ、それと解るくらいに目を見開いて、きょとんとした表情をしていたほどだ。
「徳潤の言う通りだよ。
どのみち、このままじゃ長湖部がなくなっちゃうだけ」
そのやり取りを真剣な目で黙って見ていた孫権は、意を決したように言葉を紡ぐ。
その顔は、真剣を通り越して既に悲痛な表情だった…だが、その真意を知るのは、この場に当人と敢沢しか居ない…はずだ。
孫権の顔が、不意に厳しい表情に変わる。
「ボクは、伯言に賭ける。
阿利、伯言を呼んで来て…すぐにッ!」
「は、はいっ、ただ今!」
主の放つ聞きなれないトーンの声に吃驚した谷利は、矢の如く会議室を飛び出していった。
もっとも、指示通りに陸遜を伴って連れて来るまで、三回ほど帰ってきては、張昭に怒鳴られていたが。
「風を継ぐ者」
-第三部 風を待った日-
「現時点を以って…陸遜、キミ…いえ、あなたを長湖部実働部隊の総司令官に任命します」
「…長湖部存亡の時、辞すべき理由はありません。
大役、謹んでお受けいたします」
陸遜は長湖部旗を背負う孫権と向かい合い、深く一礼した。
前任者の魯粛、呂蒙の時の例に倣い、長湖部創始者たる孫堅が陣頭で用いた大将旗を孫権は…何処か釈然としない表情で、それでも整然と並ぶ幹部達の、列の間に立つ陸遜へと手渡す。
あのあと、周瑜は一言も発しなかった。
陸遜達が出て行くときも、うつろな表情のまま中空に視線を泳がせたままで…その姿は、まるで無言のまま非難を浴びせているかのように見えた。
だが、自分の心を偽りたくはなかった。その思いだけが、彼女をここに立たせていた。
「畏れながら、部長」
それを恭しく両手で受け取り、一礼した陸遜はそう切り出した。
「私は未だ名声無き弱輩の身…恐らくは、前線の諸将はただ私が出向いたところで容易に諾する事は無いでしょう。
そして、鬼才・諸葛亮や趙雲、李厳、魏延らの名将を欠くとはいえ、相手は強敵です。
更なる大将の増援と、信頼できる副将を頂きたいと思います」
その言葉に、鷹揚に頷く孫権。
そこにいるのは、普段は能天気に振舞う、ムードメーカーとしての孫権ではない。
威厳に満ちた長湖部長としての彼女だ。
「承知します。
副将には駱統と、既に前線に居る丁奉を命じ、部長権限において宋謙、徐盛、鮮于丹らに出陣命令を通達し、駱統以外の諸将には陸口棟にて合流の手筈としましょう。
駱統、いいですね?」
「は、はいっ、畏まりました!」
孫権に呼びつけられ、幹部列の最後尾にいた、亜麻色のロングヘアーに青のリボンをあしらった、大人しめの少女が進み出て、緊張した面持ちで深々と一礼する。
その少女…駱統は字を公緒といい、陸遜とは同い年の親友であったが、お互いにその才能を認め尊敬し合う関係にある。
早くから文理にその頭角を顕し、一年生ながら既に幹部会の末席を与えられている俊才だった。若手の中では、丁奉や朱桓の武に対して文の逸材として期待されている存在だ。
温和な性格は先輩受けも良く、見た目に反して芯が強く弁も立ち、しかも合気道の達人でもある。
腕っ節の強い荒くれを制するにはもってこいの人物だ。
「では以上にて、総司令官任命の式を終了とします…伯言、公緒、直ぐに出立して」
ふたりは再度一礼すると、居並ぶ幹部部員達の間を退出していった。
…
その様子を見送りながら、なおも釈然としない表情の幹部部員達。
「本当に…大丈夫なのかしら…?」
心配そうに呟く胡綜。
「確かに伯言の業績は、対山越高のキャリアを見る限りでは問題はないと思うけど」
虞翻の言葉に、張昭も頷く。
「最大のネックは、今まであの子が大々的な対蒼天会・帰宅部連合作戦への参加経験がないこと…いいえ、そんなのはあの子の才覚の前では些細なことだわ。
あの子は…伯言は公瑾の思いを裏切っても、戦い抜けるのかしら…?」
「えっ…!?」
その言葉に、孫権と敢沢の顔色が変わる。
「子布さん…もしかしてあのふたりのこと」
「…ええ、知っているわ。
他の連中ならいざ知らず、OBの私だからこそ知りえる事実もあるのよ」
その不可思議なやり取りに、その他の幹部部員達も顔を見合わせた。
…
(そうね…あの子達の想いは知っている。
その上で彼女は、伯符(孫策)さんや公瑾が愛したこの部のために、敢えて公瑾の想いを裏切ろうとしている)
その中をそっと退出しながら、虞翻は一人窓の外を眺めていた。
先に荊州攻略作戦において、ともに参加した彼女は、実際に陸遜の指揮能力、戦術構築能力、その他諸々を目の当たりにしていたので、彼女自身も陸遜の能力を高く評価していた。
だが、それ以前にも、ある理由からこの件を知っていた彼女は、もう何の心配も抱いていないようだった。
(彼女の決断は、必ずこの部を救ってくれる。
決心さえつけられない、弱い私には出来ないことを、彼女ならきっと…)
澄み渡った晩冬の空を眺めながら、そう思いを馳せる彼女の瞳は、酷く悲しそうに見えた。
…
ところ変わって、陸口棟。
「何ですって?
それ本当なの?」
「ええ…今通達が来ました。
もうすぐ、到着するそうです」
陸遜、前線総司令の任に就く……その命令を受け、諸将は困惑の色を隠せない。
ただ一人、丁奉を除いては。
「部長も人が悪い…こんな時に新手の冗談を試さなくてもいいものを」
「あんなマネージャー程度にこんな大役、勤まるわけないじゃん。
部長も何考えてるんだか」
仏頂面をさらに難しい顔に変える周泰、そして不満一杯の表情で毒吐く潘璋。
陸遜に先立って棟の幹部室に来ていた宋謙や徐盛にとっても「とてもあの娘なんかじゃ…」というのが本音である。
長湖部に参画する数少ない文化部のひとつである軽音部のマネージャーで、賀斉の所属するビーチバレー部のマネージャーを兼任する陸遜は、経理の才能などは「そこそこできる」程度の認識はされていた。
陸遜(と陸績)の「本の虫」ぶりはある意味では語り草になっているほどであるが、それ故か生粋の文学少女で荒事の類いに向いているとはとても思えず、なおかつ数年前の合宿では魯粛・甘寧のイタズラに大混乱したりとか、呂蒙達のしでかした「闇鍋」の処理を押しつけられるなど鈍臭さのほうが印象に残っている。
性格的にも損をしやすいタイプであり、その点でもとてもこの局面に総大将として用いるに足りる才能があるとは思われていなかった。
だが、丁奉だけは違う。
去年赤壁島キャンプに紛れ込み、陸遜と仲良くなったことでその才覚をよく知っている彼女は、この局面をひっくり返せるだけの能力が、陸遜に備わっていることを信じて疑わない。
そのキャンプの後、周瑜にきつく言われていた彼女は、いつかうっかりそのことを話してしまった呂蒙と甘寧以外にそのことを話していない。
「冗談じゃない…あの娘に止められるようなら、あたし達が既にやってるよ!」
「まぁまぁ…みんな、そこまでにしましょ。
今までの印象はそうかもしれないけど、もしかした本当に何かあるのかもしれない…ここは、彼女の戦略方針を聞いてから判断しても、遅くは無いわ」
息巻く凌統をなだめ、最高学年として表面上取り繕ってみせる韓当にしてみても、不満の色は隠せない。
諸将も彼女の顔を立て、渋々納得してみせたという顔つきだ。
そのことから見ても、此処での実質のまとめ役は韓当であることに間違いなく、韓当が陸遜の展望に不満を示せば、暴発は必至だろう。
しかし、丁奉はそれすらも、陸遜なら多分変えてしまえると確信していた。
恐らく、慎重な性格の陸遜なら、初めはいろいろ言われるかもしれない。
その分、この戦いが終焉したときには、陸遜へ寄せる信頼や尊敬は揺ぎ無い物となるだろう。
(伯言先輩なら、きっと大丈夫。
でも…本当にこれで良かったんですか…部長…?)
その一方で、丁奉はどこか、酷く寂しいモノを感じていた。
もう二度と戻らない、彼女達が願ったひとつの小さな幸せは、今ここに終わってしまったのだから。
…
「…という訳で、菲才ながら私、陸遜が此度の大役を任されることになりました。
宜しく、御願いします」
諸将を幹部室に集め、命令文書を読み上げた陸遜は、手短にそう挨拶した。
丁奉、駱統以外の諸将の顔はなおも不満そのもの、韓当は「お手並み拝見」といった感じで、表面上は涼しい顔をしている。
「それでは、これからの戦略方針についてですが…公緒、近隣の地図を」
「はいっ、只今」
控えていた駱統が、あわただしくも手際良い動きで鞄から地図を取り出し、黒板に貼り付ける。
そして陸遜の指示に従って、地図にマグネットの部隊マークを配置した。
赤のマグネットは帰宅部連合、青のマグネットは長湖部の布陣を表しているようだ。
「現在、琥亭を最終防衛ラインとして、既に韓当先輩が完璧な布陣を終えてくださいました。
現状、この布陣において特に付け加えるべき点はございません。
宋謙先輩、徐盛先輩は、それぞれ左翼、右翼の中核に配し、鮮于丹さんは遊撃軍として、本陣に置きます」
それを聞くと、一部の者は明らかに小馬鹿にしたようにクスクスと笑った。
「コイツ、やっぱりわかってないなぁ」といった感じのあからさまな嘲笑である。
陸遜は寸毫も怯んだ様子なく、毅然と言い放つ。
「えと、お静かに。
意見がある方はお伺いします」
「では、僭越ながら一言、具申させて頂く」
座の中から、周泰が進み出た。
「先に出陣し、やむなく夷陵棟にて篭城を余儀なくされている叔武嬢と義封のことだ。
知っての通り、叔武嬢は部長の従姉妹であり、また義封もあなた同様、部長とは同期の友人という間柄であり…その動向を気にしておられる。
彼女らの危難を一刻も早く救い、部長を安堵させることが重要と思われるが」
普段無口な周泰が、こうも饒舌になるのは珍しいことである。
諸将も思わず、聞き入ってしまっていた。
しかし陸遜は、気にした風も無く、彼女が言い終わるのを待ってから、おもむろに己の見解を述べる。
「確かに、それも重要です。
しかしながら夷陵は堅牢な地であり、そこには軍備の蓄えなども十分との報告を頂いています。
その上で、恐らくは若手随一の指揮能力をお持ちである孫桓さんと、実戦経験豊富な朱然さんがサポートについているのであれば、落ちる事はほぼ無いでしょう。
むしろ、そこを包囲している帰宅部連合の精鋭を釘付けに出来ている意味では、現状のままにしておくのがベストです」
人物評価に誇張せず、その上で現状を踏まえた、これまた見事な答弁であった。
この一言を吐いたのが周瑜や呂蒙であれば、諸将はみな感服して、大人しくその指示に従っただろう。
しかしながら、これまで歯牙にもかけていなかったいちマネージャー風情の意見、として諸将は見ている。
ましてや、彼女等は先の敗戦の恥を雪ぐため、血気にはやる風をみせているだけに尚更であった。
「よって、現状で特に大きな変化が無い限り、我々も特に動いてみせることもありません。
各員、指示があるまで防御を固めて待機といたします。
軍議は、以上とします」
「馬鹿なことを!」
解散の指示を出そうとした刹那、諸将から一斉に不満の声があがった。
誰も皆、満面に怒気を浮かべ、もし後ろに立てかけてある大将旗が無ければ今にも飛び掛ってきそうな勢いである。
突然のこの勢いにおろおろする駱統を他所に、卓に着いたままの陸遜は、何の表情も無くそれを眺めていた。
怒気を露に不満をぶちまける諸将を制し、今まで事態を静観していた韓当が進み出た。
「伯言…あえて、こう呼ばせてもらうわ」
その韓当の言葉に、いきり立っていた諸将はかえって呆気に取られた格好になった。
本来なら総司令ともなれば、「都督」の尊称で呼ばなくてはならない。
いくら相手が下級生といえども例外ではないはずで、まして韓当であればそのあたりの礼儀をきちんと弁えているはずだった。
それがあえて字を呼び捨てるという行為に及んでいるあたり、彼女もかなり腹に据えかねているのだろう…諸将はそう思った。
「ここに居るのは、皆一様に長湖部の命運を賭け、一身を顧みない覚悟でやってきている娘たちよ。
ましてや私や幼平、文珪なんかは、緒戦の恥を雪ぐため、玉砕も辞さない覚悟で居る。
特に計略も無く、待機せよなんて言われて、収まりがつくと思う?」
温和そうな顔に、眉根を寄せた厳しい表情で言い放つ韓当。
その様子はまるで、内心から湧き上がる尽きない怒りを、何とかギリギリのところで抑えているようにさえ見えた。
それほど凄まじい、鬼気の様なものを彼女は放っていたのだ。
恐らく、並の者ならそれを目にした瞬間に、肝を潰していることだろう。
しかし陸遜は、それにまったく怯んだ様子を見せていない。
顔色ひとつ変えず、毅然とした態度を崩さずに真っ直ぐ向き合っていた。
(なんという…並みのマネージャーとばかり思っていたが、相当に根性が座っているな…)
(あたしだってあんな義公先輩の目の前なんか立ちたかないよ…やせ我慢でああしていられるようなシロモノじゃないもの…)
周泰や潘璋など、最初陸遜を小馬鹿にして憚らなかった連中も、流石にこれには舌を巻いた。
やがて、陸遜は己の考えを吟味し終えたのか、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「お気持ちは解りますが先輩、良くお考えになってください。
ここで私達が無策のまま玉砕覚悟で決戦を挑み、僥倖にも勝利を得ればそれで良いかもしれませんし、そのほうが簡単でしょう。
しかし、敗北は破滅に直結します。
こちらで我々が持ちこたえ、その間に相手の破綻を見出し、そこを突く事が出来れば一戦にして、より確実に勝利を得ることが出来ます」
「しかし、その間に劉備たちが兵を引けば?」
「ありえないことだとは思いますが、そうなればこれ以上ない幸運です。
その上で和議に持ち込めれば、これまでの関係を修復できると言わずとも、少なくともこれからの協力関係を模索できるはず。
長湖部にとっても、帰宅部連合にとっても、ここで矛を収められるのであれば他に何を言うことがあるのでしょう?」
その一言に、場はどよめく。
先のやり取りで陸遜のことを見直しかけていた諸将からも、「やはり駄目だコイツ」といわんばかりの嘲笑があがる。
陸遜の表情は相変わらずだったが、傍に立っていた駱統と、意見の為に正面に立っていた韓当はその変化に気付いた。
何かメモを取ろうとしていたのか、持っていたボールペンが…いやその根元、陸遜の両拳が震えていた。
次の瞬間、ボールペンは派手な音を立てて真っ二つに折れ、陸遜の形相は夜叉の如く豹変した。
「お黙りなさいッ!」
卓を叩いて立ち上がり、そう叫んで凄まじい形相で睨み付ける少女の迫力の前に、呆気に取られた諸将は思わずそちらを振り向いた。
普段の彼女を知るものであれば、尚更にそのギャップで固まっている。
キャンプ以来、陸遜と親しくしている丁奉も、親友である駱統も、陸遜のそんな表情を見るのは初めてのことだった。
「私は一書生の身ながら、此度大命を拝して部長に代わって貴女方に令を下す立場にあります!
これ以上の「異論」に対しては、何者であろうと、この大将旗の元に処断し軍律を明らかとします!」
凛とした良く通る声と、毅然とした態度には「虎の威を借る狐」なんて形容は出て来そうにない。
その迫力に不覚にも怯んだ諸将は、未だ釈然としない表情をしながら、静かに退出していった。
ただ、陸遜当人と駱統、そして韓当の三名を除いて。
…
机に叩きつけていた右の掌からは、既に血が滲んできていた。
慌てた駱統が薬箱を取りに部屋を飛び出したところで、ようやく韓当が口を開いた。
「あなたにも、あんな表情が出来たのね」
「……まだ何か、御用ですか?」
昂ぶった感情がいまだに収まらないのか、陸遜の表情は険しい。
陸遜の警戒はまだ解けない…そう感じた韓当は、不意に表情を緩めた。
「正直、納得がいかないのは確かよ。
あなたが去年の夏合宿の一件以来、公瑾に嫌われていたのを知らないわけじゃない。
でも、この局面においてあえてあなたの名前が出てきたこと…子布さんや仲翔みたいな目利きが何もいわなかったことを考えれば、それだけ期待できるものがあると思ったわ」
今度は陸遜のほうが困惑する番だった。
彼女がその意図を測りかねていると、韓当は微笑んでその手をとった。
「それにね…公覆も徳謀も、去年の赤壁の時にあえて公瑾に歯向かってみせて大略を成し遂げたことを思い出したのよ。
最後の最後になって、やっと私にもそのお鉢が回ってきた、と受け取るべきなのかしらね」
「えっ…?」
韓当は自分のポケットからハンカチを取り出し、彼女の右手にそれを巻いた。
戸惑う陸遜だったが、彼女の真意を察して、ようやく表情を緩めた。
目の端には僅かに涙も滲んでいたが、それは掌の痛みからではない。
「…ごめんなさい、です。
私なんかが今更のこのこ出てきたばかりに」
「そんなこと、言うものじゃないわ。
これでも、人を見る目はあるつもり…あなたなら、きっと何かとんでもないことをしでかしてくれそうな気がしてるのよ。
で、私は…何をすればいい?」
目の端を拭い、向き直って陸遜は静かな口調で言葉を紡ぐ。
「このままで構いません。
地の利は明らかにこちらにあり、これ以上の力押しが難しくなってくることぐらいは玄徳総帥も解っているはず。
適度にこちらに隙があるように見せかける上でも、私に対して諸将が不満を抱きつづけ、先輩を中心にしてまとまりを持っている状態は好都合と言えましょう。それ故に、必ず総帥はこちらの不和が決定的になるその瞬間を待とうとするはずです。
時間は必要ですが、それは私にとっても同じ事」
「…勝算は、あるのね?」
小さく頷く。
その目には、己のプランに対する絶対的な自信と、確信があった。
「かつて関雲長が使おうとした発煙筒と、「風」を使います。
この時期、必ず吹いてくる、春を呼ぶ嵐を。
赤壁の「奇跡」が何によってもたらされたか…そしてその時期がいつの出来事だったか。
ほんの一年前の出来事とはいえ、誰も気づかないというのも不思議な話ですが」
陸遜の告げた一言に、韓当は納得のいった表情で頷く。
「そういう事…解ったわ。
なら私は、あなたの思惑通りに動いてみる。
このことはもちろん、口外無用よね?」
「はい…ご迷惑をお掛けします」
「いいのよ。
連中のあの態度を見れば、取り合えず結果を見せないことには納得はしてくれないでしょう。
そのときが来たら、あたしが奴らを黙らせて指示に従わせるから…なーに、あたしに睨まれて逆らうほど根性のあるヤツなんて、この部にはいないわ。
あなたぐらいのものよ、それこそ」
これには陸遜も流石に苦笑を隠せない。
「そうですね…私もさっきは、心臓が凍りつくかと思いました。
すっごく怖かったです」
「うふふ…それでもあなたはきちんと耐えて見せたのは流石だわ。
だけど、本当に「来る」の?
あんな大風なんて、それこそ数年に一度あるかどうかレベルだわ」
韓当は、当然の疑問をぶつけた。
微妙なずれはあるが、この時期にもお決まりの自然現象が起こる。
それが長湖部にとって、確実な「春を呼ぶもの」になるだろう。
しかし、自然というものは気まぐれである。
昨年のような「神風」が、果たして今年も吹くのだろうか。
人間の小賢しい頭でコントロールできるようなものでないことは、ウォータースポーツに勤しむ彼女等にとってはわかりきったことであるが…。
「雲の流れ、長湖の波の動きを見る限り、間違いないと思います。
流石にこればかりは、孔明さんといえども手出しできないと思いますから…期日は、来月の頭」
「一週間か…永いわねぇ」
冬と春の微妙な境目にあるこの時期の、まだ多分に寒々とした色を湛える茜空を眺めながら、韓当はそう呟いた。
…
「陸遜? 誰や、ソイツは」
その総大将の名を聞き、帰宅部連合総帥・劉備は首をかしげた。
長湖部の総大将が代わった、と言う報告は、夷陵に程近い馬鞍山に仮設テントを張る帰宅部連合の本陣にも届いていた。
この局面において、わざわざ総大将に抜擢するほどなのだから、それなりに出来た人物だとは思うのだが…幕中の帰宅部連合幹部達も、誰一人として知らないようだった。
「まぁ、だぁれも名前知らへんようなヤツなら、どうせ大したモンやないんやろ」
「そんなことありません!
孫権さんは、思い切った人選をしてきたようです」
本陣の大きなテントの幕を開けて飛び込んできたのは、荊州学区南部の実力者達の調略に動いていた馬良であった。
「お、季常やんか。
いつ戻ったん?」
「たった今です。
長湖の司令官が代わったと聞いて、慌てて戻ってきたんですが」
「へぇ…あんたが慌てるくらいなら、相当なモンなんやろな。
でも、まったくそんな名前、聞いたことあらへんけどなあ」
緊張感の今ひとつない劉備に、深刻な表情で馬良は頭を振る。
「確かに陸遜さんは、今までは長湖部のいちマネージャーでしかありませんでした。
どういう経緯からかは存じませんが、周瑜さんからは随分と嫌われていたようです。
そのために、これまで裏方であったことが多く、表舞台に出てくる機会に恵まれずになかったようですが」
「ふ~ん…あ、そや思い出した。
もしかして、ウチが長湖部に遊び行ったとき、そんな名前のヤツが公瑾はんの傍をウロチョロしとったかも知れへん」
劉備ははっと思い出したように、手を打った。
周瑜の謀略で長湖部に招待されたときに見た、周瑜に睨まれて退散していた気の弱そうな少女の顔が、彼女の脳裏に浮かんだ。
「確か…こんな感じの子やなかったかな?」
置いてあった紙の裏に、彼女が三年間の同人生活で培った画力は、そこに正確な陸遜の似顔絵を描いていく。
それを見た馬良は、何時もながらの劉備の腕に感服し、頷いた。
「ええ、その娘です。
私が江陵で面会した人相と一致します」
「そないなヤツなら、尚更大したこっちゃないんやないか?」
馬良は頭を振る。
「いいえ、早くから山越高校との折衝術においてその頭角を現しており、実は長湖幹部でも彼女に一目置く人は多いです。
毒舌家である仲翔さんや、口喧しさのほうで有名な子布さんも、陸伯言の事に話が及べば急に言葉を選ぶようになると、そうも聞きました。
そして何より、呂蒙さんは彼女の才覚を見抜いており…実は荊州学区攻略の戦略は呂蒙さんの立案というより、陸遜さんの知嚢から出たものといっても、決して過言ではないのです。
私にとっても、不覚でした」
「なんやて…!」
いままで軽く聞き流していた劉備だったが、それを聞いたとたんに、わずかに眦を吊り上げた。
「せや何か…その陸伯言こそが、関さん追い落とした真犯人とちゃうねんか!?」
「そう考えても、宜しいかも知れません」
「何で早よそれを言わんのや!
せやったら、即座に出てヒネリ潰したるモンを!!」
息巻く劉備を諌めるように、馬良は真剣な表情で諌めた。
「それは早計です。
彼女の才能は、決して周瑜さん、呂蒙さんに劣りません…いえむしろ、この二人以上の強敵です。
軽々しく扱うには危険極まりない、どう過小評価しても当代随一の将器の持ち主と思われます。
本気で彼女を叩き潰すおつもりなら、我が連合の総力を挙げても足るか…!」
「ふん!
いくら能力がおっても所詮マネージャー上がり、荒くれ揃いの他の連中に舐められて、統率出来てへんちゃうんか!?
そんなヤツ恐れるに足らんわい!!」
興奮して机を殴り、一喝する劉備の姿に、もはや馬良にも止めるべき言葉が出てこない。
劉備は今までの経験からしっかり相手の陣に間諜を放っており、敵陣の様子をうかがわせていたようだが、今回はそれが見事に裏目に出ているようだった。
…
その翌日、劉備の号令の元、先陣は長湖部の先陣近くまで移動した。
しかし、相手の陣があまりにも静か過ぎ、挑発にも乗ってこない。
流石の劉備も、相手の異常な静けさに不気味なモノを感じたらしい。
完璧に展開された堅牢な防衛ラインを前に完全に攻めあぐね、結局は何も出来ずに負わす日々が続いた。
「ち…そっちがそのつもりなら、こっちも持久戦や。
思いっきり威圧してくれて、ビビッて出てきたところを粉砕してやろやないか…!」
劉備は内心の苛立ちを抑えながら、吐き捨てるようにそう言うと、さらに先陣を長湖部勢の陳地に近づけて見せた。
しかし、長湖部の陣はそれにも反応を見せず、まったく動きを見せない。
いや、正確には周泰、潘璋などといった血の気の多い連中が、時折陸遜のもとへ駆け込んで、ひと悶着起こしているという報告が入ってきている。
それにすっかり安心したのか、劉備は諸将の言葉を容れ、まだ春の遠いことを示す冷たい風を避ける場所へ陣を動かすことを許可してしまった。
大々的に陣が動いたことで、この気に乗じて散々に打ちのめすべき、とさらに息巻く長湖諸将。
しかし陸遜はなおも是とせず、試験的に鮮于丹に陣をつくように命じ、それが散々に破られて帰還してくると。
「お解かりいただけたでしょう?
まだ相手を討つべき機が満ちていないのです。
今後も指示あるまで、軽々しい行動は慎んでください」
そう、宣言した。
…
「くそっ! マネージャー上がり風情が!」
血の気の多い潘璋が、憚ることなく不満を口にした。
凌統も口に出さずともも似たような雰囲気だ。
しかし、その成り行きを見守っていた周泰は、二人には思いも寄らぬ言葉を口にする。
「だが…私はもしかしたら、ヤツの言い分のほうが正しいような気がする」
「幼平!?
あんた一体何言ってんの!?」
普段どおりの仏頂面で、怒っているのかどうかすら良く解らない周泰の意外な一言に、二人は呆気に取られてしまった。
「鮮于丹の肩を持つのもあるが…行ったのが誰であれ、きっと結果は同じだっただろう。
もし全軍でアレをかませば、きっと全軍同じ目に遭った事は想像に難くない…相手は劉備、我らが想像する以上のシロモノだ。
陸伯言はおそらく、何かを待っているんだ。
どうも私には、そう思えてならん…聞けば、あの子は子明がわざわざ引きずり出して荊州奪取戦に同行させたとも聞く…私たちが知り得ない何かを、持っているような気がするんだ」
周泰の言葉に、けっと苦々しげに悪態をつく潘璋。
「馬鹿言いやがれ!
劉玄徳といえば有名な戦下手だ、今はたまたま軍勢の多寡で調子くれてるだけ…あたし達が本気を出せば」
「どうにかならなかったから今の状態があるんでしょうが」
「んだとコラっ!」
背後からのにべもない一言にとうとう堪忍袋の尾を切って、潘璋が振り向くと、そこには鬼気迫る表情の韓当がいた。
その鬼気に呑まれ、直前まで沸騰状態だった潘璋の顔から、一転して一気に血の気が引く。
「って…ぎ、義公さん」
「私も悔しいけど幼平の言い分に一理あると思うわ。
私にも、あの伯言が考えていることが解る気がするのよ」
「え?」
怪訝そうな表情の三将に、意味ありげな笑みを向ける韓当。
「解らない? もうすぐ春が来るのよ。
季節は違えど、かつて公瑾(周瑜)が蒼天会の大軍勢を長湖に沈めた時のシチュエーションに、今はそっくりだわ」
三将はまだ、その意図していることがわからないように顔を見合わせる。
それまで沈黙を守っていた凌統は、困惑の表情のまま、問い返す。
「どういうことですか…?」
「さぁ? その時がくれば解るんじゃないの?
違ったら解んないけど」
その言葉を軽くあしらいながら、ひらひらと手を振ってその場を立ち去る韓当は、心の中でため息をついた。
(やれやれ…思った以上にこの役目も大変だわ)
そして窓越しに長湖の方へ目をやる。
(伯言の言うとおり、今日は無風…見立て通りなら、明日の昼過ぎから夕方にかけてでかい一発が来るわね。
あの子の知識量は並みじゃない。
しかも、それを書物知識に終わらせていない。
体験に知識を結びつけその才覚を開花させた子明もすごいけど、伯言はおそらくそれ以上…あれほどの「怪物」が、何故いままでその名を知られることなく眠っていたというの…!?)
その将器に、改めて感嘆する韓当。
(長かったけど、ようやく動くべき時が来たわ。
これで、あの子の…夏恂の仇が討てる…!)
彼女は、緒戦で無残な最期を遂げた後輩のことを思い出し、少し泣いた。
…
「あの、すいません。
本部から都督当てに、届け物をお持ちしたんですが…どうしても、直接お会いしてお渡ししろと部長に命じられまして」
陸口棟に一人の少女が現れたとき、門衛を仰せつかった少女達も、状況が状況だけに流石に敵の間諜ではないかと疑った。
当然の如く押し問答となり…というか、あまりに強い口調だったが為、何度かやり取りを繰り返すたびに、少女は見る間に泣き顔になってしまった。
「ちょっとちょっと、何の騒ぎよ?」
「あ、韓当主将。
実はコイツが…」
騒ぎを聞きつけた韓当は、突き出された泣き顔の少女を見て、思わず絶句した。
帽子を目深に被り、その中に髪の毛を無理やり押し込んでいたが…。
「…え? まさかあなた…いいわ、用事があるなら割符か何かを持ってるでしょ。
まずはそれを見せなきゃ駄目よ」
「うぅ…はい…」
少女が差し出した割符を確認すると、
「ん。
じゃあ私がこの娘の面倒を見るわ…おいで」
一礼する少女達に敬礼で返すと、韓当は少女を伴って人影も疎らな棟内へ戻っていった。
周囲に人影がないことを確認すると、韓当は呆れ顔でその少女を嗜めた。
「…どうしてこんな馬鹿なことをしてるんですか、部長」
「うう…だって、いろいろ大変そうだから、ボクも伯言を励ましてあげたくて…」
「まったくもう…」
変装して来たつもりなのだろうが、やはり付き合いの長い韓当にしてみれば子供だましもいいところであった。
一目見て、彼女はその少女が孫権であることを見破っていた。
「で、でも伯言に届け物があるのは本当だよ?
本当は公瑾さんから、直接渡してくれって頼まれたんだ」
そう言って懐から取り出したのは、一通の手紙だった。
周瑜からのもの、と聞いて、韓当は冗談めかした笑みを浮かべ、からかうように言った。
「へぇ…まさか「今からでも遅くないから辞任して引っ込め」とか書いてあるのかしらね」
その一言に孫権は頬をぷーっと膨らませて反論するが…それがいけなかった。
「そんなことないよ!
公瑾さんは伯言とずっと仲良しだったんだから…あ!」
「え!?
それ、どういう事なんですか?」
「えっと、そのね、これは…」
口の堅い孫権だったが、さっきの一件でやはり相当に動揺していたようだった。
しまった、と思ったときはもう遅い。
「詳しく…聞かせていただきましょうか」
韓当は真剣な目で、壁際に追い詰めた涙目の孫権を見据えた。
…
面会した陸遜も流石に唖然としてしまったが、手渡された手紙の差出人を聞き、はっとした。
「あ…!
あ、その、すいません。ええと」
「気にしないで。
人払いは済んでいるし、私も今、部長から聞いたから…あなたと公瑾のこと、それと、あなたが着任する前の日に起こったことも」
陸遜は孫権に目をやる。
孫権は、泣きそうな表情で、申し訳なさそうに上目遣いで見つめていた。
「ごめんなさい…でも」
「…いいんです。
遅かれ早かれ、みんなに話すつもりでいたことですから」
苦笑すると、陸遜は手紙を広げた。
この間は、何も言わずにいて、ごめんね。
正直、私はまだ、あなたがこんな危険なことに関わって欲しくないと思います。
けれど、あなたは自分の意志で、戦うことを選んだ以上、もう私に止めるべき言葉も出てきません。
決して、投げやりな気持ちからじゃありません。
私の大好きなあなたを、後悔させたくないから、あなたの意思を尊重してあげたい、それだけです。
直接会って話す勇気は、今の私にはないから、手紙にして送ります。
頑張ってね。応援してるよ。
普段の周瑜に似合わず、簡潔で、飾り気のない文面だった。
細く、丁寧な字が、次々に落ちてきた雫で滲んだ。
「先輩…っ」
そのぬくもりを求めるように、手紙を抱きしめて泣く陸遜を、孫権はそっと、抱き寄せた。
韓当は、二人の邪魔にならないよう、そっと棟の執務室を後にした。
(公瑾が封印していた最後の楔が、今抜き取られた。
もう、伯言を縛るモノは何もない。
終わらせるわけにはいかないわ…受け継がれたこの想いを。それがこの私の、長湖部に対する餞とする!!)
そして、漠然とした己の予感を確信に変え、揺るぎない意思を闘志へと変える。
…
あまりにも敵を顧みない采配、動きのない長湖部陣営、流れる雲の向きと速さ。
調略の中間報告に帰還したものの、なんとも言えぬ不安を抱いた馬良は、たまらず劉備に進言した。
「今の陣立てにしてしまっては、敵に何かしらの計があった場合反応が鈍くなるのでは?」
「敵も寒いんは一緒や。
せやったらこっちはそれをなるべく避け、鋭気を養おってコトや」
「それも一理ありますが…なにか嫌な予感がしてなりません。
今、孔明さんが漢中アスレチックに出張ってきているそうなので、現状に対する意見を聞いておこうと思うのですが」
劉備はふっと、溜め息をついた。
「心配性やな、季常は。
まぁええわ、孔明が近くにおるなら、近況を教えてやっといてもええかもな」
「ありがとうございます」
一例をして退出した馬良は、地図に敵味方の陣立てを書き込み、なにやら一筆したためるとそれ一式を封筒に詰め、呼びつけた少女にそれを手渡した。
「一刻も早く、孔明に届けて。なんだか嫌な予感がする」
「はい」
そのやり取りは、まさに陸遜が作戦の決行を予言した、その当日の出来事であった。