翌日早朝。
陸口棟の屋上に立つ陸遜は、冬の朝日を時折隠しながら流れ始めた雲を見やる。
まだ風はないが、雲の流れは速い。
陸遜は、力強く頷いた。
「公緒、皆を呼んで。
かねてからの計画を実行にうつす時が来たわ」
傍らの駱統に振り向いたその表情は、自信に満ちながらも、微塵の油断もない。
長湖部の命運を背負って立つ、総大将としての威厳が、そこにあった。
「風を継ぐ者」
-第四部 戦場を駆ける疾風-
「ウェルカムようこそ帰宅部パーク♪
今日もどったんばったんおっおっさわぎぃ~♪」
なんだかミョーな替え歌を上機嫌に歌いながら、漢中アスレチックの管理人棟の一室にソイツはいた。
目鼻の整った顔、軽くウェーブのかかったセミロングの髪、そして白衣をまとった上からでもわかる、高校生離れしたプロポーション。
黙ってさえいればほとんどの人間が「美人」と呼ぶだろうその人は、しかして蒼天学園「最凶」の名をほしいままにする奇人、帰宅部連合ナンバー2の鬼才・諸葛亮、字を孔明である。
「うーむ正直アプリがgdgdになった作品群のアニメという先入観に騙されていたかな。
実際この諸葛孔明一生の不覚、ケジメ案件もいいとこだな。
もう「すっごーい!」としか言えんなあ、今年はこれで行けっていう天恵か」
彼女の趣味でその部屋に取り付けられた、部屋の殺風景さから見るとどう考えても不似合いな、豪華なダブルベッドに寝転びながら、その脇に山と積まれたアニメ雑誌、ゲーム雑誌の類を貪るように読んでいた。
恐らくは、次のイベントで描く同人誌のネタを、そこから探しているのだろう。
既存の人気作品にこだわらず、常に新しいところから読者のニーズに応える作品を生み出す…これが、彼女や劉備のポリシーでもある…と、考えているのは恐らく当人だけではなかろうか。
そんな彼女の一時をぶち壊しにしたのは、前線からやってきた一通の封筒だった。
「ふむふむ、これはまいすてでぃ・季常からのラブレターというわけだな。
我輩との関係であれば、メールのひとつでも事足りるというのに」
やれやれ、と肩を竦めて、少女から封筒を受け取り、手紙に目を通す。
手紙にいわく。
長湖部の総大将は陸伯言が抜擢された。
長湖諸将は弱輩の彼女を侮っており、我が総帥以下殆どの者がまるで無警戒の状態だ。
恐らくは、これこそが彼女の狙いだと思われる。
乞う、総帥は君の忠告にならば耳を貸すかもしれない。
あわせて、敵味方の現状の陣図も送る。
そのとき、諸葛亮の顔が一変する。
封筒から乱暴に地図を引っ張り出し、広げ…その顔が、これとわかるくらいに青ざめた。
「……何よ、これ…っ。
マズい、これはマズすぎる!
一体何処のどいつよ、こんな陣立て献策した大馬鹿は!」
「え?
えっとこれは、総帥自らのご立案で」
その言葉を聞いていたのかいないのか、諸葛亮は窓から劉備たちのいるあたりを眺めた。
雲の流れが速い。
その向きを見れば、長湖部の陣から劉備たちのいる陣に向けて流れている。
その顔は何時になく真面目で、悲嘆の色が伺える。
「これでは…あぁ、我等の大望も、此処までなのかもしれない」
「え…あの、孔明さん…どうしてそんなコトを仰るんですか?
司令官が替わってからというもの、これまでとは打って変わって長湖部サイドは一週間も貝のように閉じこもったままで…一度それでもこっちに仕掛けてきたときも散々に蹴散らしてやったんですよ。
こちらの威容に呑まれて出てこれないだけの与しやすい相手ではないかと」
「何を馬鹿なこと!
挙句に一週間「も」時間をただでくれてやったとか、アッタマおかしいんじゃないの!?」
この剣幕に困惑する、伝令の少女。
そして先程の諸葛亮の絶叫を耳にしたのか、彼女にくっついて漢中に来ていた楊儀が口をはさむ。
「あたしそんな、大騒ぎするような娘には思えませんけどねぇ。
荊州の一件だって、実際ほぼ呂蒙の手柄では?」
諸葛亮は、何処か危機感の足りないその側近を一瞥し、馬良の手紙に視線を戻して応える。
「理由は知らないけど、そう見せかけているだけよ。
私が長湖部に遊びに行ってたとき、あの娘に直に会って、その人となりはよく知ってるわ。
確かに彼女は一見、周瑜に詰られるばかりのつまんない娘に見える…けど、あの娘が山越折衝で開花させた能力は本物、早期から前線に関わってたら勢力図が激変するレベルのとんでもない核地雷よ。
このまま不発弾のままでいてくれた方がどれだけ良かったことか」
そして、再び彼女は窓の外を見やる。
まだ風はないが…それでも、雲の流れは異様に早いことが窺える。
「総帥はあまりにも一点に深入りしすぎてしまった。
故に、戦線はジャンプするサーバルちゃんのしなやかな体並みにピンと伸びきり、最前線と最後尾の連携も困難な状態にあるんじゃないかしら。
それを知った上で、あえて陣中の不和をぎりぎりのラインまで保って総帥の深読みを誘って時間を稼ぎ…これから来るだろう「それ」を「利用」して一気に片を付ける魂胆なんでしょう。
もう手遅れだわ」
そこまで言われて、楊儀も気付いた。
「まさか…今年の春一番」
「それに雲長さんが緊急連絡用に残した大量の発煙筒…風上から攻めてくるなら、攻め手に影響は軽微。
今年も多分去年並みか、下手すりゃそれ以上の強烈な奴が来る。
二年連続で長湖から暴風が吹くの、過去にも何例かある。
陸伯言の持つ膨大な知識を鑑みれば、そのことは当然折り込み済みのはず…!」
諸葛亮は歯がみする。
かつて関羽が荊州学区に君臨していた頃、彼女は陸口に詰めていた呂蒙の侵攻を警戒し、狼煙による連絡網を完備していた。
その設備がそっくり、長湖部に接収されていることは、想像に難くない。
それに発煙筒の使い道は、連絡のためだけではない。
数が集まれば、立派な目くらましになる。
長湖部は風上から風下に攻めれば煙の影響を受けにくいので、有利になるのだ。
そこまで言われ、連絡係を仰せつかった少女は、ようやく事の重大さに気付いた。
「そんな!
じゃあもし、私が戻ったときに本陣が崩れていたら」
「重要なことだからもう一度言うけど、今から戻っても無駄。
あなたはすぐに江州棟の子龍のトコへいって、玄徳様を迎えに行くように指示して」
「で、でも、相手がそこまで追って来たら」
「大丈夫。
多分、それ以上は踏み込んでこれない…それどころか、上手くいけば頭痛の種がひとつ消える」
「え? どうして?」
「そのときが来れば解る。
この諸葛亮、タダで勝利を相手にくれてやるほど甘くないッ!!!」
妙に確信に満ちた顔で、諸葛亮は笑みを浮かべると、まるでどこぞの柱の男のような無意味にスタイリッシュなポーズを決めてみせる。
その顔には、いつのまにか普段の表情が戻り…そしていかにも絵に描いたような、悪代官の笑みを浮かべていた。
釈然としない少女だったが、不意にまた真面目な顔に戻った諸葛亮に命令書を託され、少女は自転車に飛び乗ると江州棟を目指した。
日は大きく西に傾き始めていた。
ふと、劉備の陣の方向を見ると、うっすらと黒煙があがっているのが見える。
事態の異常さを再確認した少女は、自転車をこぐスピードをあげていた。
皮肉なことに、吹き始めた強烈な春一番が、江州へ進路を取る彼女の手助けをしているかのようだった。
…
(少女歌唱中 「ぼくのフレンズ」/みゆはん)
この日も、揚州学区附属病院の最上階にある周瑜の病室から、彼女の透き通るような歌声が響いていた。
特別に、弾くのは昼間だけという許可を得て持ち込んでいたアコースティックギターの静かな音色が、その歌声をよく引き立てている。
ベッドの傍らには、見舞いに来ていた孫権と谷利のふたりが、それに聞き入っていた。
-どれだけ敵を作ろうとも
ボクがキミの味方でいるから
つまりはどうかこれからも…-
その歌は、その歌詞は、自分が今の陸遜に対する思いを代弁するかのように。
不意に病室の窓が、かたかたと音を立て始めた。
「あ…風」
窓の外を見つめる周瑜の傍らに佇んだ孫権が呟く。
室内では解り辛かったが、時々舞い上がる枯葉と、窓を揺らす音が、だんだんと勢いを増す風の強さを示していた。
「伯言が言ってた。
強い風が吹く日が、私たちの動くべき時だって」
「そう」
彼女達には解っていた。
彼女が待っていたのが、この風であるということを。
(伯言…あなたはやっぱり、私たちが思っていた以上にすごい子だわ。
もう、止めたりしない)
思いながら、彼女は祈るように両の手を合わせた。
(だから…頑張って)
吹き始めた風が止まぬように。
孫権と谷利も、それに倣って静かに目を閉じ、手を合わせた。
…
「伯言ちゃ…じゃなかった、都督。
各部隊、配置完了しました。いつでも出撃できます」
「ご苦労様、公緒」
陸口棟の屋上に立って、吹き始めた春一番に身を任せる陸遜の元に駱統がその報告にやってきたのは、彼女が指示した予定出撃時間の五分前のことだった。
轟々と唸りを上げて吹きすさぶその烈風は、彼女たち長湖部にとって、文字通りの追い風と言えた。
陸遜の眺める先を、強風は西へと流れていく。
彼女の意思と想いをのせて。
(部長…公瑾先輩…みんな。
どうか、見守っていてください。
私たちが愛したこの長湖部を、それを支えてきた数多の想いを、私が次代へ繋ぐから!!)
陸遜の瞳は、真っ直ぐに前を見据えている。
時計の秒針は少しずつ頂点に近づき、そして、長針と重なる。
駱統の合図に、陸遜は手にもったハンドマイクを構え…大きく深呼吸すると、スイッチを入れた。
「作戦開始ですっ!
全発煙筒、着火!」
その合図とともに、陸口棟の開け放たれた窓から、一斉に黒煙が噴出した。
その煙は風を染め、生み出された黒い烈風は瞬く間に視界を黒く塗りつぶしていく。
「全軍出撃ッ!!!」
その瞬間、喚声とともに長湖部の精鋭たちは、待ちに待った戦場へと雪崩れ込んでいった。
…
孫桓と朱然が立てこもる夷陵棟にも、それはやって来た。
「何なに、いったい何だってのコレ!?」
「解りません…つい先ほどから、長湖の方角から流れてきたようですが」
大量の煙が突風とともに流れてきた、との報告を受け、夷陵棟の幹部室に居た朱然は慌てて様子を見に出てきた。
煙の向こうに居た帰宅部連合の軍の姿も見えないが、恐らくは彼女等も、突然の事態に混乱しているようである。
「朱然主将、陸口の作戦本部から入電です!
我等計略ヲ仕掛ケリ、孫桓・朱然二将ハ周囲ノ敵部隊ヲ、背後ノ隊ト挟撃、殲滅セヨとのこと!」
「何ですって!?」
通信担当の少女の報告に朱然は訝って聞き返したが、それを示すかのように煙の中で怒号が挙がり始めた。
まさか…と思ったとき、何時の間にか出てきていた孫桓が口を開いた。
その手には彼女が愛用する竹刀が握られている。
「全軍、出ます!
義封さん、コレ絶対伯言さんの仕業ですよ!」
「えぇ!?」
「ほら、総大将が伯言さんに代わったって言ったじゃないですか。
あの先輩なら、コレくらいのことは仕出かせる…今日この大風が吹くことを、絶対に知って動いていたはずです!」
孫桓は孫権から聞かされ、陸遜の大器ぶりを良く知っている数少ない一人であった。
そして朱然もまた、キャンプ参加者以外では唯一、陸遜の件について知っている事情通である。
「そっか…あいつ」
朱然は何処か寂しそうな、うれしそうな複雑な表情でつぶやく。
先の荊州学区攻略で、陸遜が動いていたらしいということを彼女が知ったのは、戦後処理の最中だった。
これまで陸遜が表舞台に出てこれなかった理由を、彼女だけは同世代で唯一、孫権から直接聞いている。
呂蒙の熱意に負け、ただ一度だけその恐るべき将器を解放する為の参戦だったと、のちに朱然は知ることとなった。
陸遜が周瑜や孫権の想いを、ある意味裏切ってまで都督として参戦したと聞いたとき、朱然にとっても当惑の事態だったことは確かだ。
あれだけ周瑜を慕い続ける彼女が、そこまでして長湖部を守るために立ち上がったということを、彼女はこのとき初めて、確信に変えた。
確かに孫桓が言うとおり、陸遜であればこのくらいは計算に入れて動いていることだろうということは、朱然も思っていた。
だからこそ、自分たちが孤立していることを知っても、放ったらかしをされたことを朱然は恨んでいなかった。
むしろ孫桓その他が不満を述べたら、どうしようかと気をもんでいた彼女であったが…孫桓が陸遜を信じて耐えてくれたことで、彼女はそれが杞憂であったことを知って胸をなでおろしていた。
(公瑾さんがこの才覚を恐れて、あれを世に出さなかった…と言われたとしても納得いく。
あんたはその想いを背負って、戦うってんだな。戦い抜く覚悟なんだよな。
なら…あたしにできることはひとつしかねえよな!!)
朱然は心の中で、感嘆のため息をついた。
「待ちに待ったチャンスです。
この混乱を、逃す手はありませんよ!」
「ええ…よぅし、行くわよみんな!
今までの礼、たっぷりしてやりなっ!」
朱然と孫桓は頷き合うと、棟の入り口に召集した部員に号令をかける。
その瞬間、少女達は怒号とともに煙の中へと雪崩れ込んでいった。
…
周泰の隊は琥亭の劉備軍本陣から、やや河に近い場所にあるポイントへと疾走していた。
かつて周泰も、先に引退した蒋欽の妹分として、レディースの突撃隊長を務めていたことがあった事は良く知られている。
今でこそ部長・孫権に大人しく付き従っているが、かつては孫策に歯向かって、タイマンを挑んだ挙句に完膚なきまでにボコられたことがあった。
それ以来、彼女は長湖部の一員となった。
孫権のボディーガードを仰せつかったときも、初めは「このあたしにガキのお守りをさせるなんて…」と文句ばかり言っていたが、孫権の優しさを身近で知るにつれ、何時しか彼女に対して絶対の忠誠を誓うようになっていた。
(興覇も、自分の居場所を護るために全力を尽くした。
そして…伯言もまた、公瑾や皆の思いを背負って立ち上がって…私たちに最高の舞台を与えてくれたんだ。
私も…私も全力をもって仲謀様の信頼への答えを形に残したい…!)
そう心で呟く彼女の目は、かつてレディース「湘南海王」で突撃隊長を務めていた頃の、荒んだ面影は無くなっていた。
そこにあったのは、自分を慕ってくれた四つ年下の少女に対する、敬意を持って眼前の闘いに臨む闘士としての誇り。
出陣の直前、彼女や諸将は、丁奉から陸遜にまつわるすべてを明かされるに至る。
当惑する者も少なからずいた中で、少なくとも周泰は、己の中に漠然と生まれたその憶測を、確信に変えていた。
すべてを悟った彼女は、同じく何かを感じ取った凌統や他の主将達の想いに共鳴するかのように…これまで彼女に取った非礼を払拭すべく、与えられた舞台で最大限に全力を振るうことで換えようとその結束を新たにした。
この、己の非を素直に反省し、結束を強くしていけるのは長湖部員最大の美点と言える。
疾走する彼女の視界に、煙の中で必至に軍をまとめるべく、采配を振るう少女の姿が見えてきた。
その人相は、緒戦でちらと見かけた、その記憶と一致する。
追いついてきた部下達に無言で指示を飛ばし、包囲にかかる。
沙摩柯が異変に気付いたとき、煙の中から周泰は静かに歩み出た。反射的に、沙摩柯は構えを取った。
「見つけたぞ」
「あなたは…確か、長湖部長親衛隊長の」
「周泰、皆は幼平と呼ぶ。
まぁ、親衛隊長というよりは…いち護衛といったところだな」
言いながら、周泰はゆっくり、構えを取った。
それを見た沙摩柯は、全身の毛が逆立つような感覚を覚える。
最初は言葉に出来なかったその感覚の正体は…畏怖。
いや、「畏敬」だった。
(この女性、まさか私と同門なのか!?
しかも…私より、数段上の技量の持ち主)
沙摩柯は息を呑む。
周泰がその古武道をどんな経緯で習得したのか、それについて知る者は居ない。
姉貴分の蒋欽と出会った中1の頃には既に相当な技量をもっていたらしく、蒋欽も一目置いていたようである。
おそらく彼女がレディースの世界に身を投じたのも、初めは「広い世界で自分の力を試してみたい」という純粋な一念からだったのかもしれない。
「未来ある同門の士を討つには忍びないが…我が戦友・甘興覇の無念を慰めるため…我が主君・孫仲謀への忠義の証として…貴様を討つ!」
言葉の終わりと同時に、周泰を包んでいた空気が爆ぜた。
沙摩柯が周泰の姿を認めたときには、自分が吹き飛ばされている感覚しかなかった。
一拍遅れて、自分が胸元に神速の肘鉄を喰らった事を理解した。
(そんなっ…反応すら、出来ないなんて)
構えを取っていた事で、辛うじて体制を立て直し、彼女は踏み止まることが出来た。
しかし、それは自身への死刑執行を僅かに先延ばしにしたに過ぎないことを悟るのに、そう時間はかからなかった。
さらに踏み込んでくる周泰の姿に素早く反応し、カウンターを決めたと思った拳の先には、陽炎のように消えうせる残像があっただけだった。
「見事な反応速度だ……だが、悪く思うな」
「……ッ!?」
何時の間に回りこんだのか。
振り向く間もあったかどうか、周泰の掌底は、沙摩柯の右脇腹へ背中側から深くねじ込まれ…
(凄い…今の私には……到底………!!)
その意識を吹き飛ばされる直前まで、彼女は無念よりも、更なる強敵と相対した喜びに身を浸していた。
…
逃げる劉備の後詰めを買って出た傅彤の隊を、散々に討ち散らした丁奉は、既に討ち果たしたはずであろう人物がそこに立っていたのを見て、驚愕した。
倒れ付しているのは、かつて甘寧とともに、揚州学区周辺でもっとも畏怖された一騎当千の猛者たち…「銀幡」特隊。
その中心に立っていたのは、猛将傅彤その人。
本家の空手部からその思想の違いから袂を分かち、さらに劉備の人柄に惚れこんで道を共にした、帰宅部連合でも屈指の烈女。
「どうしたのよ?
まさかこれで、打ち止めじゃ…ないでしょうね?」
そう強がる傅彤の身は、所々服は破けてはだけ、息は上がっている。
流石に捌き切れなかったと見えて、顔も腕も足も、見るも無残に痣だらけになっていた。
それでも、彼女は立っていた。
階級章が健在だとかそういう意味でなく、それが虚勢でないことは、彼女の表情からも明らかだ。
とうに身体は限界に来ているはずなのに、その闘志は衰えることを知らないかのよう…その姿に、丁奉は思わず見惚れてしまっていた。
そこには、大病の身で、長湖部の危機に立ち向かおうとした甘寧の姿が、重なったような気がしていたからだ。
「どうしたのお嬢ちゃん…かかってこないの?」
「あなたは……」
聞かずには居れなかった。
あの時、あの最後のときに、甘寧にも訊こうとして、結局訊くことの出来なかった問い。
目の前の少女なら、その答えを知っているような気がしていた。
「あなたはどうして、此処までして…戦おうとするんですか?
そんなにまで…なってまで」
思ってもいなかった一言に、傅彤は一瞬、呆気に取られてしまった。
だが、相手の表情が真剣だったのを見て、「ふむ」と表情を整えて、言った。
「決まっている。
あたしは…あたし達は、劉玄徳という人に、心底惚れ込んでるからだよ」
潘璋は、目の前に立つ少女と自分が相対するのは、まだ早い…そう止めた。
部隊の主将である潘璋の命令は遵守しなくてはならないという責任感が、彼女を押しとどめていた。
しかし、傅彤の言葉に、丁奉の中の何かが揺り動かされた。
「自分の居場所を与えてくれた人に…受け入れてくれたその心意気に報いたい。
例え、避けられぬ絶望の未来しか待っていなかったとしても。
あたしは、あたしはただ全力で、この拳を揮うまでだっ!!」
心臓が、早鐘のように鳴り響く。
まるで、その言葉に合わせて、揺さぶられるかのように。
闘志を剥き出しにしたまま、傅彤は口の端を歪めて問いかける。
「あんたにも、そういうものがあるんだろ?
顔に書いてあるよ。
そうじゃねえってんなら、とっと後ろの強そうな姉ちゃん達に替わってもらえ…!」
その一言は、ついに「責任感」という呪縛から丁奉の闘争心を解き放った。
背中に背負っていた、彼女の背から考えれば不釣合いなくらいの大きな木刀…覇海を一振りすると、それを八相に構える。
腕に括られた鈴が、透き通るような音色を奏でる。
おそらくは自分よりずっと年少…おそらくは中等部ユースと思しきその少女が、解き放たれた闘志と共に立ちはだかる姿に、傅彤は目を細める。
「解りました…僭越ながら、お相手いたしますっ!」
「いい度胸だ!
名乗りな、覚えといてやるよ!」
「長湖西方軍総司令・陸遜が副将、丁奉、字を承淵…行きますっ!」
言葉とともに、少女は矢のように突っ込んでいった。
…
「お、公績じゃん」
「え…文珪なの?」
傅彤・王甫の部隊を壊滅させ、丁奉に近辺の制圧を任せて前線に出てきた潘璋は、琥亭から追われ、馬鞍山へと遁走した劉備を追う凌統とばったり出くわした。
「心臓に悪いわね…この煙の中では、目の前に誰か居れば敵と思われても文句言えないわよ?」
「ごめんごめん。いやまさか、こんなところで出くわすなんて思わなかったからさぁ」
「というかあんた、自分の所はどうしたのよ? それに承淵は?」
「一応、カタついたからね。
あとはあの娘に任せて一足お先に遊軍状態を満喫中よ♪」
「まったく…」
あっけらかんと笑顔をみせる潘璋に、凌統も思わず苦笑した。
だが、すぐに真面目な表情になった。
「でも文珪…相手は帰宅部連合でもそれなりに知られた猛将よ?
あの娘一人じゃマズくないの?」
実は凌統は平時、姉・凌操がそうであったように水泳部員として活動している。
甘寧との関係以前に、凌統にとっても丁奉は後輩にあたるのだ。心配でないといえば、大いに嘘になる。
「う~ん、承淵にはタイマンは早い、って言ってきたけど…あの娘興覇(甘寧)と一緒で、相手が手強いほど燃えるタイプだからなぁ」
わざとらしく「困ったわ~」と言わんばかりの仕草をしてみせる潘璋だが、
「まぁ、多分大丈夫じゃないかね。
今のあの娘なら、多少手負いになって、手強くなった傅彤ぐらいが相手としてちょうどいいかもね」
「そんな!
もしあの娘が飛ばされたらどう責任とるつもりよ!」
走っていた凌統は不意に潘璋の襟首を捕まえた。
その光景に驚いた後続の少女達が立ち止まる。
凌統は満面の怒気を顕し、目の前の少女を睨みつけた。
潘璋の表情は、先程とうって変わって、真剣な表情になった。
「あたしは、あの娘のことを信じる。
部長が見出し、興覇が鍛え、合肥と濡須で張遼の戦い振りを目の当たりにして…そして、関羽との絶望的な戦いを、生き残ってきたあの娘の力を」
「文珪…?」
「あの子の成長速度、ぶっちゃけ早すぎてあたしの手には負えないよ。
本音言えば、嫉妬してるぐらいでさ。
でもあいつのこと、あたしだって好きなんだ…なんか先輩らしいこともしてあげたいけど、あたしがあの娘にしてあげられることは、もうこのくらいしか残ってない。
あの娘が、今まで経験した総てをぶつけて、その力を存分に発揮できるステージを用意してあげることしかないんだよ」
潘璋の真剣な眼差しに、凌統も彼女の言葉に真実を見た。
潘璋は潘璋で、甘寧から託された丁奉の力を測り、その力を活かしてやる機会をうかがっていたのかも知れない。
凌統が掴みかかった手を離すと、潘璋は再び、普段の悪戯っぽい笑顔になって、
「私がいたら、頼りにして全力発揮しないかもしれないしね。
あの子なら、大丈夫だよ。
絶対…大丈夫だよ!」
「…そうだよ、ね…ごめん」
「気にすんなって。
さ、無駄話はここまで…劉備を捕るよ!」
「ええ!」
ふたりは頷きあうと、その隊員とともに再び黒煙の中へ疾走していった。
…
「あうっ!」
その正拳の一撃に、狐色の髪の小柄な少女の体が大きく後方へ弾かれた。
帰宅部連合が誇る「五虎」に及ばずとも、そして、既にその体が限界を迎えていても、傅彤の戦闘能力の高さは折り紙つきである。
小柄で身軽な丁奉には敏捷性こそ劣るものの、膂力と耐久力、そして技量においても、完全に上位の存在である。
加えて、丁奉は受け継いだばかりの「覇海」を使いこなせていない。いくらリーチの差があっても、実力の差ははっきりしていた。
その様子に、彼女達の一騎打ちを固唾を飲んで見守っていた少女の一人が駆け寄ろうとする。
甘寧子飼いの頃から世話になっていた、銀幡特隊のまとめ役…「阿撞」こと馬忠だ。
「承淵!
やはり一人じゃ」
「っ…来ないで阿撞さんっ!!」
覚束ない足取りでよろよろと立ち上がる丁奉は、駆け寄る少女を制した。
「手を出さないで。
あたしは…あたしはまだ戦えるッ!」
傅彤は息をつくと、感嘆した様子で呟く。
「たいした根性だね…今の帰宅部の若手にも、あんたほど肝の据わったヤツはそうそう居ないよ。
でもっ!」
そして、さらに踏み込んでくる。
そして受けたダメージの大きさで反応が鈍った少女めがけ、左右の連撃が飛んできた。
辛うじてそれを受けるが、立て続けに飛んできた右の中段蹴りが丁奉の体を再び後方へ吹き飛ばす。
「……………っ!」
「これが力の差、だよ。
あたしももうそろっと限界だが…とはいえあんたを道連れにしていけるんだったら、満足だ…!」
「承淵!
くそっ、おまえ等、ヤツを囲み…」
そこまで言った所で、馬忠は自分の腕をつかまれ、反射的にそちらを振り向いた。
そこには、まるで夜叉のような形相の丁奉。
かつて甘寧とともに数多の修羅場を潜って来た馬忠さえも、その眼光に思わずたじろいだ。
「御願いだから…手を、出さないで…!」
「承淵…でも、お前っ」
それには応えず、馬忠の体を後ろへ押しのけると、丁奉は三度構えなおした。
その霞がかってきた脳裏に、これまで関わった、尊敬する者達の顔が、大切な思い出が走馬燈の如く流れる。
赤壁島で初めて自分を受け入れてくれた孫姉妹。
過酷なキャンプを共に、笑いながら過ごした陸遜や周瑜。
最初は恐ろしく見えたが、日を経るごとに自分を受け入れ、様々な矜恃を行動で示してきた甘寧の姿も。
そのすべてが、彼女の潜在能力を引き出し、後押しする。
「あたしは…此処で終わるわけには…いかないんだッ!」
瞬間、吹き飛ばて来た木の葉が、丁奉の脇で粉々にはじけ飛んだ。
(え!?)
剣の達人のみが放つといわれる、裂帛の気合。
それを恐らくは自分より四つも五つも年下の少女が放って見せたことに、傅彤だけでなく「銀幡」の少女達もたじろいだ。
特に「銀幡」特隊の者たちには、ついこないだ合肥で対峙した「鬼姫」の姿が、この未来ある後輩に重なった錯覚すら覚える。
その隙を見逃さず、覇海を正眼に構えた状態で丁奉が突っ込んできた。
踏み込みと同時に、鋭い袈裟懸けの一撃が傅彤に迫る。
それを紙一重で躱すも、淀みなく瞬時に切り返してきた切っ先が更に傅彤へ襲いかかり、体勢を立て直す隙を与えない。
「仏捨刀だって!?
小癪なッ!!」
剣の素人とも思えた少女が、一刀流系剣術の極意ともいえる一撃を放ったことに驚愕する傅彤だったが、辛うじてその剣閃を、全力の裏拳で弾き返す。
だが、打ち返された反動で大きく距離を取ったその少女は、踏みとどまるやいなや間をおかず今度は大木刀を別の型に構え直した。
そのコンマ1秒にも満たない所作に…背後には必殺の一撃を繰り出そうとする獅子のイメージが重なる。
(柳生天…!?
まさか、これは…)
一瞬後、その刃は地面すれすれから、まるで大地を切り裂き発火するかのような勢いで斬り上がる…!!
「いっけええええええええええええええええぇぇー!」
踏み込みとともに、がら空きになった逆胴へ、逆風よりもやや左切上寄りの剣閃が吸い込まれていき…丁奉が駆け抜けていくとともに傅彤の体が大きく宙を舞った。
…
用意された発煙筒も使い果たし、風も心なしか、和らいでいた。
その煙が晴れ始めた頃、荊州学区の端にある馬鞍山の山頂に、韓当は一人、立っていた。
ほんの数刻前、彼女は潘璋、凌統と合流し、逃げてきた劉備達が落ち着いたところを狙い済まし、一斉攻撃を加えた。
だが、あわやと言うところで劉備の側近の誰かが機転を利かせ、持っていた伝令用の発光弾を一度に炸裂させて目くらましとし、逃げ遂せてしまったのだ。
それだけではない。
そこにいた一人の名もなき少女が、自分や潘璋、凌統といった猛者を相手に、一歩も引かないどころかむしろ圧倒的な武を示して劉備の撤退を手助けしたのだ。
(まさか、五虎を欠いた帰宅部連合に、あれほどのバケモノがいたなんてね)
その少女の名は、彼女が名乗りを上げなかったため、信頼できる資料には残っていない。
ただ、別方面では劉備が鬼神の如く暴れまわっていたと言う噂もあったため、それも混乱とあわせて劉備の仕業だったのではないか、とも噂された。
韓当はこの地の完全制圧の任を請け負い、二人に追撃を任せ、ここに残っていた。
自分の隊士どころか、倒したと思われる帰宅部連合の生徒たちの姿もないのは、先刻、自分が部下に命じてけが人の介抱と、病院への搬送作業をさせたからに他ならない。
時折、本隊からの伝令が飛んできて、彼女に戦況を伝えていた。
「大戦果だねぇ」
何時の間にか宋謙がそこにやってきていた。
そして、にっと笑うと皮肉っぽく言った。
「なぁに?
こんなところに一人で高みの見物たぁ、いい身分ね」
「もう既に文珪と公績が先行して、叔武さんや義封と合流して残党部隊に喰らいついてるわ。
私が行ってもやる事なんて殆どないからね…それに、もう目一杯暴れさせてもらったし」
そして韓当は、おもむろに背後の宋謙に向き直る。
「あなたこそ言えた義理、ないんじゃないの?」
「ご明察」
宋謙はそう言うと、恐らくは劉備の本陣から拾ってきたのか、パイプ椅子をふたつ組み立てると、それに腰掛ける。
もうひとつを韓当に差し出すと、韓当もそれに腰掛けた。
ふたりでつい先刻まで敵の総大将がいたあたりに、並んで腰掛けている格好だ。
まだ煙の晴れない視界の先では、未だに止むことなく怒号とときの声が聞こえる。
それを眺めながら、宋謙が口火を切った。
「あたしが琥亭の本陣を制圧して、そこから正面の敵陣に切り込もうとしたんだけどね…まさか幼平がもう潰してるなんて想像もしてなかったわよ。
ちっとくらい、苦戦してても良かったのにねぇ」
「じゃあ、会ったは会った、ってところかしら」
「と言うか、一騎打ちの真っ最中でした。
秒で終わったけどね。
あの娘、あんなに強いなんて思ってもみなかったけど」
「彼女も部長の専属ガードで前線に出てくる機会がなかったから、たまには昔みたいに暴れたかったんでしょ」
それもそうね、と相鎚を打ち、宋謙はふっと視線をそらし、呟いた。
「あたし達はこれを最後で引退だよ…ここまでよく生き残ってきたわよねぇ」
韓当は無言で頷いた。
本当に、よく生き残ったと思う。
自分達は無事に、この年齢になるまで課外活動を全うし、そして引退していくのだ。
まだ卒業でもないのに、志半ばでリタイアを余儀なくされた夏恂はもとより…周瑜や呂蒙、それに孫策や甘寧なんかのことを思うと、これもひとつの幸せなのだと思う。
「伯言がこれだけやってくれる娘だってわかった以上、後に心配事もなさそうよね~。
あたしもあの娘のこと散々馬鹿にしちゃったからなぁ…みんなでできるだけの大戦果を上げてごめんなさいってするつもりではいるっても、後が怖いなぁ」
「ふふ、それがあの娘の狙いでもあったからね。
きっと、戻ったらかえって御礼言われるかもよ?」
「まぁ、性格はいい子だと…ん、狙いだって?」
宋謙は韓当の何気ない一言に違和感を感じた。
「義公あんた、もしかして初めから知ってて…」
「さぁ、どうかしら?」
なおも絡んで来る宋謙に、韓当はころころと笑いながらそれを軽くあしらい、ふと思った。
(願わくば、これからの長湖部を担うもの達が、私達のように課外活動を全うするように)
確かに、後顧の憂いもない…だが、それだけに、韓当はそう願わずにいられなかった。
…
陸遜と駱統がそこにたどり着いたとき、そこに立っていたのは「銀幡」特隊を中心とする僅かな長湖部員達。
そして、その中心にいたのは。
「承淵!」
「承淵ちゃん!」
ふたりの呼びかけに、丁奉は応えない。
片膝をつき、覇海で辛うじて体を支えていた。
体操着は土に汚れ、所々破けている。
肩で小さく息をしていた彼女は、ふたりの方へ視線を送ると、小さく微笑んだ。
しかし、何処か泣き笑いのような表情で…そして、すぐに視線を元に戻す。
陸遜と駱統が駆け寄ると、その傍らには、倒れ付した一人の少女。
その左上腕部の階級章はまだ健在で、その腕章から、帰宅部連合の人物…それも、大物であることは確かだ。
そのブレザーの左脇腹部分はボロボロに裂け、素肌に生々しい痣が見える。
その様子は、丁奉とこの人物が巻き起こした戦闘の凄まじさを何よりもよく物語っていた。
ふたりは、その雰囲気におされ何の言葉も吐き出せずにいた。
「…承淵ちゃん、このヒトは」
ようやくそれだけ言うことの出来た駱統に、丁奉は小さな声で呟く。
「帰宅部連合…征討主将の一人…傅彤さんだよ」
「あなたが…倒したの?」
その問いに丁奉は、相変わらず泣き笑いの表情のまま、ちょっと困ったような顔になった。
「うん…でも、文珪さんの命令、破っちゃったよ。
何て報告したら、いいのかな…?」
陸遜が「銀幡」特隊に目配せすると、そこから馬忠が歩みだして耳打ちした。
彼女から事情を聞いた陸遜は、丁奉の傍らにしゃがみこんで、その肩を抱き寄せた。
「あなたが言われたのは「ソイツの相手はまだ早い」であって、「戦うな」ではないのでしょう?
なら、ありのままを報告すればいいわ」
「そうだよ承淵ちゃん!
それに、相手は大物だよ?
大殊勲章モノだよ!!」
「そっか…」
駱統も相槌を打つ。
大げさに、そして我が事の様に喜んでみせた。
しかし丁奉は、なお表情を曇らせたままだった。
「でも、あたしはこの人に「勝った」のかな?
あたしは、最後に手を出したに過ぎないのに」
その一言に、ふたりは丁奉の心中を理解した。
「それは…そんなの、これは合戦なんだから、最後に立っていた方が」
「承淵」
駱統が言いかけた言葉を遮って、陸遜が静かに、かつ強い口調で言った。
「あなたの気持ちは、万全の彼女と戦うことができれば、晴れるの?」
「え…?」
「あなたが全力もって傅彤主将との、一対一の戦いを演じたからこそ、彼女達は手を出さず、最後まで見守ってくれたんじゃないかしら?」
はっとして、丁奉は周りに立っている少女達の顔を見回した。
皆、丁奉よりも年上の少女達であるが、その目は命令違反を犯した生意気な後輩に対する非難の眼差しではなく。
「そうだよ、これはあんた…いや、副隊長の手柄なんだよ」
「あたし達じゃ出来ないことを、副隊長がやってのけたんだぜ?」
「主将だってわかってくれるさ、心配すんなって」
「本当に凄かったよ。あたし、思わず見とれちゃったよ」
少女達は、自分より2つ3つ下の少女に対して、口々に賞賛の言葉を述べる。
馬忠もきょとんとした表情の丁奉の肩に手を回して、立たせながら言った。
「ほら承淵、何時までしょげてんだよ?
興覇さんに笑われるぜ?」
「…みんな…ありがとう」
不意に流れ落ちた涙が、やっと笑顔に戻ったその頬を濡らした。
誰からともなく、拍手が巻き起こる。
駱統は傅彤の傍らにしゃがむと、一言「御免なさいね」と呟き、その階級章を丁寧に腕から外すと、意識がないはずの傅彤の顔が、一瞬、苦笑したように見えた。
駱統はそれを丁奉の手に握らせて微笑みかけると、丁奉も涙を拭って、にぱっと笑った。
「ま、ふっきれたならそれでいいわ。
歩ける、承淵?」
「ええ、何とか。それより…」
「解ってる、すぐに医療班が駆けつけるわ。
私達は、夷陵棟に入りましょう」
何時の間にか、立ち込めていた煙は晴れ、風も和らいでいた。
春の訪れにはまだ早かったが、黄昏の空は、すこし暖かく感じられるようだった。
延べ数週間及ぶ激闘は、長湖部の勝利という結果で幕を下ろした。
その畔に、再び平穏が訪れようとしていた。