夷陵回廊の激戦から二週間ほど経ったその日、周瑜の病室には、かなり多くの来客があった。


海外留学の為に引退を余儀なくされた魯粛が、留学から帰参してこっそり周瑜の見舞いに行こうとしたのを、察知して待ち伏せていた敢沢と顧雍、歩隲の三人につかまったのだ。
さらにその連絡を受け、虞翻や陸績、諸葛瑾まで押しかけてきていた。
春休み中だけあって、全員私服だ。もっとも苦学生の敢沢と歩隲だけは上にジャージを羽織った制服姿ではあったが。


そして魯粛に夷陵回廊の一件を話すうち、話題は陸遜の話になった。
その会話が弾んできた頃、周瑜が自分と陸遜の関係について明かそうとした段になって、陸績が「本当は陸遜と周瑜の仲が良かったことを知っている」ということを話した事で、場の雰囲気は一変した。

当然、周瑜も魯粛も面食らってしまった。
自分達しか知らない話を、陸績に相槌を打つように、虞翻や歩隲までも喋りだした(正確には顧雍も会話に便乗しているのだが、声が細いので会話の頭数に入っていないらしい。念のため)。

つい先日周瑜から直に聞いた敢沢は呆気に取られ、諸葛瑾もバツが悪そうに目を逸らした。
結局、集まった皆が知っていた事を聞かされ、周瑜はやや、ご機嫌斜めの状態であった。



「風を継ぐ者」
-終章 それぞれの未来(あした)へ-



「結局、最初から知ってたのは、どのくらい居るのかしらね?」

周瑜の咎めるような質問に、まず歩隲が口火を切った。

「あたしは最初からは知りませんでしたよ?
子明さんが伯言と一緒に陸口から帰ってきた頃に元歎に教えてもらったんだもん。
てか元歎、あんたはどうやって知ったのさ?」
「………」
「半年前に占いで知った、だって?
あんたオカルトの類、自主封印してたはずでしょ?」
「………………」
「部長の許可は得たから問題ない、って?
まぁ、あたし達に害がなければいいけど」

そのやり取りを見ていた陸績が続ける。

「私…伯言の日記を偶然見ちゃったんです…だから、初めから知ってました」
「あまり他人の日記を見るのは…従姉妹同士でも感心はしないわね、公紀」
「そういう仲翔先輩はどうなんですか?」

虞翻の嗜めるような一言に、負けじと陸績もやり返す。
虞翻は思わぬ反撃にたじろいだ。

「え!?
…えっと、私は…子敬と子瑜が話してるのを立ち聞きして…子敬の留学直前だったかな」
「立ち聞きも日記見るのも、同罪だと思いますけどね~?」
「偶然よ、偶然!
やましいことなんてしてないから絶対!」

焦って口篭もる虞翻に、皮肉めいたにやけ顔ですかさず噛み付く歩隲。
それを見て、ちょっとむくれた顔で、周瑜は傍らの魯粛を睨みつけた。

「いやぁ…子瑜くらいになら、話しておいたほうが良いかと思ってね。
子瑜も、伯言の才能は高く評価していたみたいだし…まさか仲翔にまで聞かれるとは思ってなかったけどさ」

その言葉に、頭を振る諸葛瑾。

「そうでもないわ。
子敬が話してくれたからこそ、確信したの」
「…………………………」
「嘘吐き、最初から気づいていたクセに、と元歎先生が仰ってますよ、子瑜先輩?」

顧雍が何か言ったのを受けて、今度は噛み付く相手を諸葛瑾に定めたのか、したり顔の歩隲。

「いちいち言わなくても聞こえてるって…それも占いの結果なの、元歎?」

諸葛瑾の問いに、顧雍はこくりと頷いた。

「あなたには隠し事は出来ないわねー」

と、半ば呆れたように言うと、顧雍は得意気にVサインを出した。

「ついでに言えば、孔休とか子範とか、あいつらも伯言とは仲良いはずだから、多分知ってると思うよ。
公緒を問い詰めたら、そんなこと言ってたしな」
「あぁ…あのとき公緒が泣きながら逃げてったのはあんたの仕業だったのか」

歩隲のさらなる証言に、諸葛瑾が呆れたように感想を漏らした。

「人聞き悪い言い方はよしてください先輩。
それだったら、同席した曼才と敬文も同罪ですから」
「ってもあんたが率先してたことには変わらないんでしょ?」
「だって子布大先輩のご命令とあらばやらざるを得ないでしょ~?
あとは威則とかにはあたしが話したかな」

得意気に胸を張る歩隲。

「…てことは…あたしだけ仲間外れだったのかよ」

そのとき、会話から一歩引いていた敢沢が難しい顔をして呟いた。


これまでの話を総合すれば、幹部会でこの件を知らなかったのは敢沢だけだったことになる。
つまりあの会議の席でエキサイトした挙句、大げさな宣言をしてのけたことで、とんだ道化を演じる羽目になったわけだ。


そのことを思い返し、彼女は情けなさのあまり頭を抱え込んでしまった。

「うわ~、何だかあたしバカみたいじゃないかよぉ…」
「いやぁ…もし伯言が失敗したら、本当に切腹してくれるかと…むぐっ」

歩隲が茶化して言いかけた言葉を、後ろから虞翻がその口ごと封じ込めた。

「そういうものでもないわ。
徳潤があれだけの覚悟を見せてくれたからこそ、私たちもその意見に従うことにしたようなものだし。
それに、徳潤なら気づいてそうだと思ったし…黙っていたことは謝るわ」
「そう言ってくれるのは仲翔さんだけだ~それに引き換え子山ときたら~」
「ちょっと待てコラ徳潤、あたしだけ悪者にすんな!」

大げさな仕草で虞翻にひしと抱きつく敢沢に、口の封印が解けたにもかかわらず抗議の膝を叩き込む歩隲。
そんな光景を見ながら、困ったような笑顔で周瑜が呟いた。

「まったく、この子達は…」
「皆、あんたに気ぃ遣ってくれてんだよ。
それだけさ」
「そんな事は解ってるわよっ」

そう言ってぷいっと病室の入り口側へそっぽを向いた周瑜は、そこに陸遜が何時の間にか立っていた事に気がついた。


「…伯言」

その呟きに、少女達は一斉にそちらを注目した。
そこに立っていた陸遜は、何だか非常に済まなさそうな、そして今にも泣き出しそうな表情をしていた。


沈黙がその場を支配した。
何だか酷く気まずい気がして、誰も何も言い出せずにいた。


「あ…あの…私っ、その…」

その沈黙を破ろうとするかのように、必死に何かを言おうとする陸遜だったが、叶わずまた、口を噤んでしまった。

それでも何か喋ろうとしていたが、上手く言葉に出来ないようだった。
目の端には、見る見るうちに涙が溜まっていく。

そんな陸遜の姿に、表情を緩めた周瑜は、穏やかな声で呼びかけた。

「おいで、伯言。
離れて突っ立ってる必要は、もうないんだから」
「公瑾先輩…っ!」

言われるが早いか、駆け寄ってきた陸遜が周瑜に抱きついた。


そして、泣いた。
まるで今まで溜め込んできた感情を、残らず吐き出すかのように。

そんな陸遜を優しくあやすように、周瑜はその頭をそっと撫でていた。


「ごめんね…あなたにはいろいろ、辛い思いをさせて」
「そんな…そんなことっ…なのに私っ」
「いいのよ、あなたがやってくれなければ、きっと今こうしていられなかったわ…」

そう言って、自分にすがり付いて泣きじゃくる少女の体を、そっと包むように抱いた。
その目には、溢れんばかりに涙を溜めていた。
そして、少しずつ頬を伝っていく。

「ありがとう伯言…長湖部を…私たちの想いの詰まった場所を、護ってくれて…!」
「はい…はいっ…!!」

その様子を見ていた少女達も、もらい泣きしていた。

その中でも虞翻は、柄にもなく陸績と抱きあってわんわんと大泣きしていた。
何時もはすかした表情で、直截な物言いで周囲を困惑させている彼女しか知らない者にとっては、あまりにも意外な光景であったに違いない。

「うふふっ…仲翔先輩でも、そんな泣き方、出来るんですねっ」
「ばかぁっ、私だって泣くときは泣くわよぅ!
文句あるかぁ!」

陸績の茶化した言葉に、泣きながら抗議する虞翻を中心に、皆泣きながら笑っていた。
余談であるが、この一件ともうひとつの事件をきっかけに、彼女には「泣きの仲翔」というあだ名がつけられることとなる。


その様子を病室の外からこっそり眺めていた孫権と駱統の目にも、うっすらと涙が浮かんでいた。





同じ頃、その一階下の病室では、呂蒙と甘寧がこんな話題を交わしていた。

「目ェ醒めましたか、子明さん?」
「随分な言い草ね、興覇。
アンタこそ、体のほうはもういいの?」
「ええ、もうバッチリっスよ。
まぁ階級章もなくなっちまったし、もう今までどおりってワケにはいかなくなっちまいましたけどね」
「じゃあ来年は一緒に頑張ろ、興覇?
免除された分の成績単位、気張って回収しなきゃね」
「うぇ~…マジ勘弁っスよ~」

その死刑宣告にも等しい言葉に、甘寧はがっくりと肩を落とした。


そこでは、呂蒙と甘寧が隣り合ったベッドで寝ていた。

回廊の前哨戦に当たる、琥亭広場での戦いからは既に半月近く経っている。
甘寧の体調は万全ではなかったが、それでも、呂蒙が傍に居たおかげで今までどおり好き勝手に振舞えなくなり、その分安静にしたおかげで怪我のダメージもかなり癒えて来ていた。
そのおかげで、この前日には数ヶ月ぶりの外食を許され、週末には退院し、一日おきの通院生活に切り替えることとなった。

怪我を原因とする発熱も収まり、昨日までつけていたという点滴も既に腕から外されていた。


呂蒙はというと、この時点からほんの一週間ほど前、目を覚ましたのだった。

打ち所が悪かったせいで目覚めは絶望視されていたが…偶然にも、彼女が目を覚ましたのは陸遜が作戦行動を開始し、夷陵棟への入城を果たした、その瞬間だったらしいことを、後に知ることになる。
さらには自分を闇討ちした連中が、悉く退学処分になった上、少年院に入れられたという話も聞いた。
その処断を行った学園側の話では「いかなる理由であれ、ルール違反である上、故意による殺人未遂という事件を起こした生徒を野放しにしては置けない」ということであったそうな。

とにかく、目を覚ました彼女は、四日ほど前からから甘寧の居る一般病棟へと移されたのだ。
見舞った丁奉から、目を覚ました甘寧が脱走を企てているという話を聞き、それならばと…担当の医者に事情を話し「あたしが隣で目を光らせておけば、あの馬鹿大人しくしてるんでお願いします」と頼んだ結果、甘寧の脱走対策に頭を悩ませていた病院関係者は、呂蒙を甘寧の病室に移すことを渋々承諾したのである。
実際大きな効果があったわけだが。


「それはそうと、よーやく医者が外出許可出してくれたんで、久方ぶりにラーメン喰いましたよ~。
いやぁ、あれは美味かった」
「ま、大食漢かつ美食家のアンタに病院食は拷問かもね」
「いや、あれはあれで、また悪くはないんですがね…昨日の夕飯のカレイの煮付けはなかなかだったし」

腕組みし、偉そうに頷く甘寧。


余談だが、甘寧の美食家ぶりは有名である。
かつて味付けを間違えた後輩を半殺しの目に合わせた武勇伝(?)を持つ彼女の入院に際し、病院関係者もかなり食事には気を使っていたらしい。
呂蒙も、別室の周瑜も、そんな思わぬ恩恵に与っていた。


「ああ、あれは確かに美味しかったわね」

そうやって笑う呂蒙の姿を、甘寧はそれとなく見ていた。


その姿はかつて、ともに修羅場を駆け抜けた頃のそれではない。
三ヶ月以上の睡眠を強いられた彼女の体は痩せこけ、腕も足も、ほっそりとしていた。
自分なら全力を出さなくても、簡単に折れてしまいそうな気がして、甘寧はやるせない気分になった。


「そう言えばさ」

その視線に気にした風もなく、呂蒙が言った。

「昨日あんたが外出してたとき、入れ違いに部長が来たんだ。
何でも伯言が、関羽の仇討ちに来ていた帰宅部連合を叩きのめしたって話で」
「あ、それなら聞いたっスよ。
一昨日公績と承淵が来て、俺が居なくなったあとの顛末を教えてくれたんスけど」

そこまで話すと、甘寧はバツが悪そうに視線をそらした。

「まぁ俺、承淵のヤツには随分みっともないとこ見せちまったんですがね…」
「そんなこと、ないと思うよ」
「え?」
「あの娘はアンタの名に恥じないよう、頑張ったみたいよ?
これも部長から聞いたんだけどね、その承淵が、帰宅部連合屈指の猛女で知られる傅彤を一騎討ちで討ち取ったって話、その様子じゃ聞いてないみたいね?」
「へ?…マジっスか? あの承淵が?
そいつわりと大物だって聞いた気が」

甘寧にとっては初耳である。

一緒についてきていた凌統もそんなこと一言も言わなかったが、それは恐らくそのことを知らなかったからであろう。
凌統の性格なら、開口一番にそれを告げてくる。ならば、丁奉が故意にそれを言わなかったということである。

だが、長い間妹分として可愛がっていた丁奉のことである。甘寧はすぐに、その理由を悟った。

「アンタと戦ったヤツは幼平が飛ばしたそうだからね…承淵はアンタのカタキを取れなかったからきっと遠慮したのよ。
それでも、十分すぎる働きだわ。
あの文珪でさえ、承淵のおかげで昇進した、って喜んでたそうよ」
「へっ…んなこと気にしないで、言ってくれりゃいいのによ」
「解ってるくせに…だからその功績で、あの娘来年度から伯言の元で実働部隊の主将を任されることになったそうよ。
中等部生では破格の抜擢になるわね」
「そうですか…だったら退院したら、アイツに俺様からも祝いの言葉をくれてやらねぇとな」
「そうね。
あの娘アンタのこと尊敬してるから、きっと喜ぶわ」

自分が目をかけた妹分の活躍を改めて知った甘寧は、まるで自分が誉められたかのように、照れ臭そうな表情をして笑っていた。





当の丁奉はというと、このとき、潘璋に呼びつけを喰らっていた。
揚州学区の展望台にある小奇麗なカフェテラスの窓際の席に、ふたりは向かい合って座って居た。


ヴィンテージのジーンズにチェック柄のシャツ、普段はポニーテールにしている青みがかった髪をそのままに流している潘璋に対し、タートルネックの上にデニムシャツを羽織り、黒のキュロットスカートを着け、普段通りアップ気味のポニーテールと余りでお下げを作った髪形に纏めている丁奉と、各々の出で立ちがその性格と年齢を如実に表していた。

このとき、ケチで後輩にはあまり人当たりの良くないことで夙に知られる潘璋が、珍しくケーキを振舞ってくれていた。
当人は「あたしもいっぺん食べてみたかったんだけどね~、一人はちょっとね」とか言って、わざわざ丁奉を寮まで迎えにきたほどだ。


唐突なこの誘いに、丁奉はその真意を測りかねていたが…すぐに、彼女はある考えに思い至った。

(きっと…あのときの命令違反をしたこと…言われるのかな)

潘璋の性格を考えれば、十分考えられる話だった。
ねちっこく小言を言われた挙句、結局飲食代も支払わされるんじゃないだろうか…そう思って、財布を取りだそうとすると、

「だから、あたしの奢りだってば。
それとも、あたしの奢りが気に食わない?」

なんて言われたので、余計訳がわからなくなった。
結局彼女は為すが侭にこの状態で、何を話せばいいのかその糸口もつかめぬまま、所在無く座るしかなかった。

見かねた潘璋が、頬張っていたケーキの欠片を飲み込むと、困ったような顔をして言った。

「う~ん…もしかして承淵、ダイエット中だったとか?
水泳部員だと余計な肉ついちゃうとアレだろうし…それともケーキとか嫌い?」
「へ!?
い、いえ別にそういうわけじゃ」
「だったら遠慮しないでよ~。
あたしだって、後輩にこうしてモノ奢るの、初めてだからさ」

その一言に、余計にその真意を疑って、考えてしまう。
何だか困ったような表情の丁奉の気持ちを察したのか、潘璋から本題を振って来た。

「聞いたよ。
結局傅トウを飛ばしたのは、承淵なんだってね」

丁奉は(きたか)と、一瞬戦慄を覚え、やがて観念したようにぽつぽつと答えた。

「は…はい。
あの…でも、あたしは文珪先輩の言いつけに背きました。
他の人たちはみんなあたしの手柄だって言ってくれたけど、それでも副将として、主将の命令に」
「……馬鹿だね、あんたは」

ふっ、と笑うと、潘璋はその言い分を遮る。

「しつこいようだけど、あんたには「タイマンかますには早い」って言いこそすれ、「戦うな」なんて一言も言ってないわ。
これはね、あたしが承淵を馬鹿にしてたことに対する、ささやかな罪滅ぼしだよ」

そういって穏やかに微笑む潘璋を見て、自分が彼女の真意についてあれこれ邪推したことを後悔した。

それにもしかしたら、あの局面で自分を残したのは、手柄を立てさせてくれるためではなかったのだろうか。
そんな気が、していた。

「…それで納得いってくれないなら、副将のあんたが手柄を立ててくれたおかげで、あたしも新棟の棟長を任されることになったんだ。
その祝いでも良いわ。
付き合ってくれそうなの、キミしか居なさそうだしね」
「でしたら」

一呼吸おいて、丁奉はそう切り出した。

「でしたら、ありがたく頂かせてもらいますよ。
先輩の栄達をお祝いして」
「お互いに、よ。
あんたも来年度からは、一軍を預かる主将様なんだからね」

お互い笑顔で、追加で頼んだジュースのグラスを突き合わせた。
無論それも潘璋の奢りであったことは、言うまでもない。





それからさらに一週間後、新年度の始まりまであと数日というある日のこと。


「それじゃ仲謀、あたしはもう行くよ。
体には、気をつけるんだよ」
「うん…お父さんやお母さん達にも、よろしくね」
「また夏に来るから、その時は頼むわ」

今年卒業し進学する孫堅は、大学に近い実家へ戻ることになった。
荷物はあらかた実家に送り返されており、孫堅のバッグの中には洗顔用具や下着など、僅かな身の回りのものが入っているに過ぎない状態だ。


孫策はというと、彼女も課外活動に伴う補習のため、司隷特別校区の別棟…通称「桃源郷」に移ることになった。
そこは、課外活動リタイア組でも特に成績の悪い者や、レベルの高い大学への受験を目指す者が集められる場所である。
孫策は何気にそのどちらにも当てはまらないが、親友・周瑜も司隷の病院に移るので、彼女のそばにいたい一心で「桃源郷」行きを希望し、孫堅に先立って既に部屋を出ていたのだ。


学園都市の外へ繋がる駅のホームで、列車に乗り込んだ姉に別れを告げて戻ってきたその部屋は、随分寂しいものに感じられた。
三人で住むには決して広い部屋ではなかったが、こうして一人になると、何だかずっと広く思えた。


「これからは、ボク一人なんだよね」

誰に向けるでもなく、そう呟いた。
かつては姉妹三人で代わる代わる使っていた机の上には、彼女が知る限り、一番賑やかだった時のキャンプの写真。


赤壁島決戦直前のキャンプ…これまでの四人に加え、新たに二人が加わったときの写真には、絶える事ない笑顔が溢れていた。
そこに映るうち半数に当たる三人は、もう長湖部には居ないのである。

知らず知らずのうちに、孫権の目から涙が溢れてきた。


「解っていても…やっぱり寂しいよ…お姉ちゃん、みんな」

その時である。
ドアをノックする音が聞こえて、はっとして孫権は涙を拭った。

あわててドアを開けると、そこには、栗色のロングヘアーを三つ編みにした幼い顔立ちの少女がいた。

「仲謀姉様、お久しぶりです」
「え…子高ちゃん?
子高ちゃんだよね、どうしてここに?」

少女の名は孫登、字を子高という。

孫権姉妹の従姉妹の一人で、幼い頃から実の姉妹同然に過ごしてきた間柄の少女である。
生まれつき病弱であったが、本人たっての希望もあって今年から蒼天学園の高等部に入学したということを、孫権は思い出していた。

「えと…一応、お部屋は取ってもらったんですけど…出来るなら、仲謀姉様と一緒に居てあげてって、文台姉様と伯符姉様に言われて…私も、それなら寂しくないかな、って思って…」

きょとんとした表情の孫権を見て、孫登はちょっと困った顔をして言う。

「…もしかして…ご迷惑、でしたか…?」
「う…ううん、そんなことないよ!
ボクと一緒でいいなら、大歓迎だよ!」
「…良かった」

ばたばたと両手を振って、オーバーに喜びを表現してみせる孫権の姿を見て、孫登もにこ、と笑った。


程なくして、その従姉妹の荷物も運び込まれてきた。
新しいパートナーを得、孫権のプライベートな生活にも新しい季節の足音が響いてきていた。





その翌日。周瑜も揚州校区の病院を離れ、司隷校区の病院に移る日が来た。

「どうしても見送りたい」という多くの長湖部員たちを宥め(もっとも、その前に大々的な歓送会は開いたのだが…このとき甘寧や魯粛らが病室で大暴走して、その翌日に孫権と陸遜が謝りに行った事は言うまでもない)、当日は僅かな見送りを招いたのみだった。
そこには現在司隷校区別棟に居て、周瑜の来るのを現地で待つ孫策と魯粛、そして先に帰郷した孫堅の姿はない。
そこに来ていたのは孫権と陸遜、丁奉、そして駱統と孫登の五名だけだった。


「それじゃ…みんな、世話になったわね」

迎えの車を前にして、周瑜は一言、そう告げた。

丈の長い白のワンピースに、黒のケープをまとったその姿は、彼女本来の美少女ぶりと相まって、まるで何処かのお姫様を連想させた。
その髪を結い上げた紅いバンダナが、それを引き立てている。

「いえいえ、こちらこそ」
「って、何で公緒が開口一番に応えるかな」

自分のロングスカートを摘み上げ、メイドさんの様に挨拶する駱統の姿に苦笑して答えた周瑜にも、その理由は解っていた。
所在無く困った顔をしている孫登以外は、今にも泣き出しそうな顔をして、俯いている。

「まったく…この間から、みんなして泣き癖がついちゃったって言うのかしらね?」

そう言って、ゆっくりと三人に歩み寄る。


絶対安静の生活が長く、病床に寝ていることのほうが多かった割には、しっかりとした足取りだった。
もっとも、ある程度体の自由が利くようになってからは、病院中を散歩して歩くのが日課になっていたようで、そのことに支障はないようである。


「別にもう会えなくなる訳じゃないんだから。
今年の夏ごろには、退院できるかもってお医者様も仰ってたし…その頃になったら、揚州学区に戻って来るわ」

そう言って、並んでいた三人を抱き寄せた。

「足を引っ張るかもしれないけど…今年は、絶対赤壁島に行くから…伯符や、文台姉様と一緒に」
「本当…?」
「最後になるかもしれないからね…気合入れて、この体を動かせるようにしてくるわ」

ようやく、三人に笑顔が戻ったことを確認して、頷くと、

「子高ちゃん、仲謀ちゃんのこと、頼むわよ。
この娘、寂しがりなところあるから…伯言と承淵、公緒もね」
「はい、公瑾姉様…」
「及ばずながら、頑張ります」
「任せといて下さい、先輩」
「ご心配には及びませんよ」
「う~…公瑾さんにみんなも、ボクを子ども扱いして~」

そう言って口々に、彼女達は孫権の肩を叩いたり、頭を撫でたりしている。
相変わらず涙を溜めたまま、孫権はむくれてそっぽを向いた。

それを見て、みんな笑った。


車に乗り込もうとして、周瑜は何か思い出したように、

「あ、そうだ。伯言、ちょっと後ろ向いてて」
「え…?
あ、はい」

訳も解らず、言われた通りに陸遜は後ろを向いた。

何か一度、衣擦れのような音を聞いた次の瞬間、何かで髪を結い上げられた。
それに触れ、さらに向き直った周瑜の髪が下ろされているのを見て、自分の髪に何が結いつけられたのかを知った。


二代目部長・孫策が愛用し、親友の周瑜に受け渡された紅いバンダナが、そこにあった。


「年季モノで悪いけど…一応、私からの餞別よ」
「公瑾先輩…」

そして再び、周瑜は陸遜を抱きしめた。

「後はよろしくね。
大変なことだらけだと思うけど…あなたならきっと、大丈夫。
頑張りなさいよ、伯言」
「はい!」

抱き合ったふたりを照らす春の太陽は、何処までも穏やかで、暖かだった。





「うう…ええ話やな~」
「そうですね~師匠~」

此処は漢中アスレチック管理棟地下にある諸葛亮の秘密基地では、モニターに映るライブ映像を眺めながら、諸葛亮と馬謖が抱きあって泣いていた。


何処かで周瑜の転院を聞きつけた諸葛亮は、密かに鳥形の出歯亀マシーンを作って、此処でその様子を覗き見していたわけである。
もちろん、暇潰しのためだ。


「こんなイイ画が取れるなんて…大枚叩いてこの出歯亀メカ「トリー」を作った甲斐があったぁ~」
「本当ですぅ~…後で会計の蒋琬さんたちに何か言われるかもしれないけどぉ~、知ったこっちゃないですぅ~」
「ヤな事思い出させんなよ、せっかく浸ってるのにさ…ん?」

一変してジト目で馬謖を睨む諸葛亮がふと、モニターを見ると、いきなりアップの顔が登場する。

「くぉらアホ孔明、つまんねーことしてんじゃねぇ!」
「きゃっ!」

馬謖がその光景に短い悲鳴をあげる。
その顔の主は、情報ではその場にいないはずの魯粛であった。

「ぬおぉぉ!
まい同志子敬! 何故これがバレた!?」

無論一方的に向こうの声がくるだけで、こちらの声は聞こえない。
それを知ってか知らずか、魯粛は口元にニヒルな笑みを浮かべた。

「こんなの残しておいたら、後々何に使われるか解ったもんじゃねぇな。
回収した盗聴器や小型カメラ共々、コイツもぶっ壊しておく、か!」

その瞬間、モニターの画像が切れた。
最後に、地面がアップしていく画像を残して。

「んのおぉぉぉぉ! 我輩の苦心の作品がぁぁ!
横領した予算の結晶がぁぁぁ!」

その絶叫が、漢中アスレチックに木霊した。


そんな、新学期を控えた春先の一日は、何処までも平和に過ぎていった。



(おわり)