交州学区、蒼梧寮。
今でこそ長湖部の勢力範囲となっている僻地、交州学区に籍を置く生徒たちの多くが生活の場とする場所である。


かつては士姉妹を初めとして、長湖部の勢力拡大を良しとしないものたちが互いに覇権を競い合ったこの地だが、呂岱、歩隲の活躍によりその問題勢力は一掃された。
後世、交州統治といえば歩隲と呂岱(あるいは、稀にだが陸胤)の名が挙がるのは、それだけ彼女らがこの地の統治に心血を注いだ結果であったと言って良い。


加えてこの地は長らく、長湖部の中央で何らかの不始末を犯した者達の左遷先、というイメージも持たれていた。
しかし、一般的な記録では「左遷されてきた」者達の中にも、別の目的があってあえてこの地へ来ることを望んだ少女が居たことは、ほとんど知られていない。


それもそのはず。
それはあくまで、後世の学園史研究家の間で「もしかしたら…」程度に言われる説のひとつに過ぎない。
その実情を知るのが、その当人を含む、ほんの数人の少女だけしか居なかったのだから。



長湖部中興の祖・「小覇王」孫策の側近の一人として知られる虞翻、字を仲翔。
会稽棟にその名を知られた名士・王朗の副官であったが、この地を席巻した孫策の眼鏡に適い、長湖部の経理事務を一手に引き受けたほどの人物である。

彼女はその能弁を直裁の言葉に変え、孫権時代の長湖幹部会では浮いた存在だった。
絶対調略不可能、とまで言われた折衝を成功させ、荊州奪取の際もその弁を持って関羽の退路を断つという活躍をしたことでも知られるが…彼女生来の歯に衣着せぬものの言い方と、正しいと思うことを憚りなく主張するその性格が災いして孫権の怒りを買い、幾度も幹部会を追われた経歴を持つ。
ついには孫権の個人パーティーの席で失態を犯し、追いやられた交州学区の地で、一般生徒に近い立場で学園生活を終えたとされる。

しかし、彼女が交州の地に送られた頃は、丁度帰宅部連合との一大決戦があって、その事後処理で政情不安定だった時期である。
いくら虞翻の性格が災いしたとはいえ、人使いに長けた孫権が一時の怒りに任せて彼女ほどの逸材を左遷してしまったことは、後世学園史研究者の疑問の種となった。
公孫淵の背信で精神的に参った孫権が態々彼女の名を引き合いに出し「もし仲翔さんがこの場で目を光らせてくれていれば、きっとこんなことにはならなかった」というコメントを残し…翌年度には新一年生となった虞汜を筆頭とした彼女の妹たちをユースとして迎え入れ、その末妹に至るまでが斜陽の長湖部から晋生徒会の過渡期に多大な業績を上げ、会稽虞氏の名を高めるのに一役買っていた。


嫌悪の対象であった虞翻の名を、自らの失態の際に信頼できる助言者として引き合いに出した件、そして、その妹たちのその後を鑑みても、孫権と虞翻の関係については多くの謎を残すこととなった。

「史実」の多くはその「事実」を記しても、どのような「想い」が介在していたかを語らない。
その多くは結局、「二宮の変」に代表される孫権の狭量さを表す一事例、として片付られたのも、当然の成り行きであっただろう。


しかし僅かながら、そこに何か別の意味を見出した者達も、確かに存在していた。
長湖部を影ながら見守っていた不器用な才媛と、長湖部の長き安寧を保った名君…その両者に存在した、確かな絆の物語を知る者が。


この物語は、その真実の姿の物語。



-一匹狼が見た景色-
第一章 追憶



蒼梧寮の前庭。
休みの日で昨日からその住人たちは学園都市の中心街に出払ってしまい、すっかり人気のないその場所に、ただひとりだけ、彼女はいた。
この地に住む人種としては珍しい、柔らかそうなプラチナブロンドの髪。スタイルも背丈も、歳相応と言ったところ。

その出で立ちは学園指定の体操服、夏用の半袖とブルマという姿。
まだ残暑が残る初秋の時期であり、早朝とはいえ十分に気温は高くこれでも十分過ごしやすいものの、流石に外出する時の服装とは言い難い。
手には竹刀よりやや長い程度の、木製の棒が握られていることからも、外出目的で出てきたわけではないことをうかがわせる。


一見、武術の棍のように見えるが、それとはやや様相を異にする事など、武の知識がないものにはわかりにくいことであろう。
棍よりもだいぶ短いそれを構える姿は、様になっている、というどころの話ではない。
その構えは堂に入っており、全身から達人特有の気迫が感じられる。


「はっ!」

気合とともに、踏み込みから一閃。
そして立て続けに、連続で払い、打ち下ろし、打ち上げと技を繰り出していく。


ただ闇雲に振り回しているのではない。
彼女の動きは、型通りの演舞から、次第に乱調子の動きへ変化するが、その動きにはまるで無駄が感じられなかった。
もし彼女の目の前に人体模型でも置いてあれば、そのすべての一撃がその急所すべてを打ち据え、薙ぎ払い、衝きとおしていることだろう。


そして彼女は渾身の横薙ぎを放つと、そのままの勢いのまま最初と同じように構え直す。
息は全く乱れておらず、そのたたずまいは波紋一つない水面の如く静か。

しばし黙想していた彼女は、再び目を見開くと共に、先と同じ華麗な演武を繰り出す。


彼女はこうした演舞を、何回かに分けて、一時間近く行っていた。
やがてうっすらと額に汗が輝き、夜闇を完全に払った太陽が残暑の熱気を放ち始める頃、彼女は一息ついて、構えを解こうとした…まさにそのときだった。


僅かに風を切る音が聞こえた瞬間、彼女は反射的に振り回した棍で何かを叩き落し、それを地面に押さえつけてから視認した。
その間コンマ何秒という世界である。

その目に飛び込んでいたのは、己の持つ棒と地面のアスファルトの間できれいにつぶされていた空き缶…と思われるものだった。


「お見事です」

拍手とその声が聞こえてきた方向には、ひとりの少女の姿があった。


棒を構えていた少女と、背丈は同じくらい。
色素の薄い髪の、あどけなさを残した温和そのものといった表情が特徴的な少女…彼女こそ、この交州学区現総代・呂岱、字を定公である。


棒を地面に突き立てたまま、少女は苦笑した。

「毎度毎度不意打ちを食らわせてくるなんて…あまりいい傾向とは言えないわよ、定公」
「そんな事言わないでくださいよ、ほんの挨拶程度じゃないですか」
「それはまた随分なご挨拶ね。
仮にも年上の人間にいきなり空き缶を投げつけるのが挨拶とは畏れ入るわ」
「それはあんまりじゃないですか~。
「隙があったら何時でも仕掛けて来い」って仰ったのは仲翔先輩のほうですよ」
「そうだったかしらね」

口を尖らせる呂岱に苦笑しつつ、少女は缶のなれの果てを、見事な棍捌きでかち上げ、近くにあったくず入れに放り込んだ。


棒…否「杖」を構える銀髪碧眼の少女は虞翻。
今年三年生となる、元長湖幹部の一員を努めた、歯牙ない長湖の平部員。
それが、現在の彼女だ。


一息ついて、寮玄関の花壇に腰掛ける虞翻。
身につけたチノパンが汚れることも厭わず、呂岱はその近くに腰掛けた。

「しかし勿体無い事ですね。
それほどの腕をお持ちなら、部隊の主将としても申し分ないでしょうに」
「どうも荒事には向いてないみたいでね。
本来は護身術兼息抜きとして始めたものだったんだけど」

溜息を吐く虞翻。


彼女が振るうのは「杖術」。
とある剣術流派の一派によって大成されたもので、「持たば剣、突かば槍、振るえば長刀」と例えられる変幻自在の戦闘技術だ。
どう贔屓目に見ても、これまで文理に多大な功績を挙げてきた者が、趣味半分で習熟できるレベルの技術でないことは、素人目に窺えるほどだった。


「知ってますよ。
前部長が孤立したとき、先輩が傘一本で血路を切り開いたって話」
「大げさな…まぁ確かに、相手の獲物を奪った最初のときだけ使ったんだけどね」

苦笑しながら彼女はそう言った。

「え、本当なんですか?」
「一発でダメになったわ。
流石に相手が木刀だとコンビニ傘じゃね、相手が一人だった事も幸運だったかもね」
「へ~え」

感嘆の溜息を吐く呂岱。

なんともウソっぽく聞こえる話だが、呂岱は虞翻が、弁が立つくせに冗談を言うのが苦手なことを良く知っていた。
ましてやあの見事な演舞を日常的に見ていると、ウソには聞こえないだろう。だからこそ、素直に感心した。





会稽寮から程近い山中。

虞翻は道なき道、草の生い茂った獣道を遮二無二突っ込んでいく。
彼女の制服は所々土で汚れ、手には一本の木刀を持っている。


普段も寡黙で気難しそうにしている顔を一層険しくし、彼女は何か…いや、誰かを探していた。


「部長っ、何処ですか!
伯符部長!」
「おう、仲翔じゃねぇか」

不意に彼女の左手の草陰から、ひとりの少女が姿を現した。
明るい色の髪を散切りにし、真っ赤なバンダナを巻いている、少年のような風体の少女だ。


その少女こそ、虞翻が探していた長湖部の部長・孫策である。


「大声出さなくたって聞こえてるって。
てか、何をそんな慌ててんのさ?」

あまりに能天気なその応えに、虞翻は一瞬眩暈すら覚えた。

無理もない、このとき彼女らは、活動再開して間もない長湖部の利権を守るため、学園都市で不祥事を起こす隣町の山越高校の不良たちの取締りと摘発の真っ最中なのだ。
孫策はそのおおらかで細かいことを気にしない性格、何事も自ら先頭に立って一番に突っ込んでいかなければ気に済まない積極性から、独断専行も数多い。彼女があまりにも短い課外活動の歴史に幕を引くきっかけになったのも、その独断専行故のことで…当時からその危険性を危惧していた彼女にしてみれば、いつ何処で人知れず飛んでいるかわかったものでなく、気が気ではない。

「…何を、じゃないですよまったく…!
部長の腕が立つのは良く存じてますが、こんな時にこんなところでひとりで居るなんて正気の沙汰じゃありませんよっ!
おまけに親衛隊まで全部散らしてしまって! あなたの身にもしものことがあったら…っ!」

大声でまくし立てる虞翻。
何時の間にかはぐれてしまった孫策が心配で追って来たが、激昂のあまり、そのまま泣きわめきそうな勢いだ。

「解った解った、それ以上言うなって。
それにあんたが来てくれただけでも十分だよ」

孫策がそういってなだめると、虞翻は一瞬目をぱちくりさせた。

「そ…そんなことっ……と、とにかく此処も危険です。
私が先導しますから、皆と合流しましょう」

そして気恥ずかしくなったのか、そっぽを向いてしまった。
声の調子も少し上ずっていて、孫策も思わず苦笑した。

そのとき、ふと孫策は気づいた。

「そういや仲翔、その木刀どうしたんだ?」
「え?
…あ、これは…その、此処へくる途中でひとり捕縛したのですが…彼が持っていたモノを拝借して…」
「え、まさか素手でか!?」
「あ、い、いえ。
実は私、杖術の道場に通っておりまして…ビニール傘で応対したんです。
結局、傘は壊れちゃったんですけど…」
「へぇ…」

先導する虞翻が丈の長い草を掻き分け、その後に続きながら孫策は感心したようにそう呟いた。

「ああ、じゃあその手のタコはそのせいだったんだな」
「え?」

孫策が納得したようにそう言ったのに驚き、虞翻は思わず足をとめてしまった。
そして虞翻が振り向いた瞬間、歩みを止めていなかった孫策と見事に額を衝突させ、獣道の中にひっくり返ってしまう。
ふたりの背丈が丁度、同じくらいなのが災いした。

「痛ぁっ…急に振り返んなよ…!」
「うぐ…ごめんなさい…」

そして、お互い額を真っ赤にし、涙目になってるのが可笑しくて、同時に噴出してしまった。
一息ついて、虞翻は上目遣いに孫策を見る。

「…気づいて、いらしたんですね」
「ああ。
初めて会ったとき、会計担当って言うわりに随分身のこなしに隙がなかったしな。
それに、可愛らしい顔してるくせに、握手したらえらくごっつい手だと思った」

孫策の一言に、虞翻は顔を真っ赤にして、俯いてしまった。

こんな時にというのもあったが、こんな真顔で「可愛い」なんて言われた事、自分の体に女の子らしからぬ表現をされてしまった事、そのどちらも恥ずかしかったからだ。
流石に悪いこと言ったかと、孫策も気づいたようだ。

「ま、別にそんなこと気にすることないって。
徳謀(程普)さんとか義公(韓当)さんだって、あの顔で結構ガタイいいし。
それに比べりゃあんたはルックスもいいし、スタイルだって十分…」
「も、もういいかげんにしてくださいよっ…行きましょう」

うつむいたまま立ち上がり、虞翻は足早に再度前進し始めた。

「あはは…解ったもう言わないよ。
てか置いてくなって、あたしのこと探しに来てくれたんだろ~?」
「知りませんっ」

そのあとを、さして慌てた様子もなく孫策が続いていった。





ほんの僅かな間、虞翻は当時のことを思い返していた。
ふと我に帰った彼女は、傍らの呂岱に問い掛けた。

「ああ、そういえばあの頃、あなたはまだ中等部に入ったばかりだったのよね?」
「ええ。運良くというか悪くと言うか…中等部志願枠に入ってすぐですよ。
次の日にいきなり、部長がリタイアですからね。
お陰でまた一般生徒に逆戻りで…」
「それもすごい話ね」
「部長も、一日しか参加していなかったあたしのこと、すっかり忘れてたみたいだったし」

呂岱はそう言って苦笑する。

「どうかな…仲謀部長のことだから、わざと知らないふりをして、君のことを試したのかもね」
「そうですかね?」
「あの娘はよく気のつくいい娘だよ…あ、今や平部員の私がそんな言い方をしたら、いけないか」

虞翻はそう言って、少し寂しそうに微笑んだ。

しかし、呂岱はそれを咎め立てる気にはならなかった。
彼女は十分理解していたのだ…目の前の少女が、その風説とは裏腹に、孫権とは深い信頼関係で結ばれていると言うことを。


そして、その身を案じてやまないからこそ、虞翻が今の立場を受け入れていることを。


実は呂岱も、元々虞翻と気の合う方ではなかった。

そもそも虞翻はその難儀な性格ゆえか、本音で語り合えるような友人というものが少ない。
それまでは先にこの交州に左遷され、間もなく課外活動から引退した陸績、劉備の元で蜀攻略に参加した「鳳雛」ことホウ統…あるいは、いまやほとんど連絡も取らなくなった王朗くらいが、彼女にとって「友人」といえる存在だった。

虞翻は多くの有能な少女たちにアプローチをかけ、その少女が大成するよう世話を焼いたことも少なくはない。
しかし、そうした少女たちもまた、彼女を尊敬することはあっても、親しく付き合うまでには至らなかった。あるいは虞翻自身が己の性格と、鼻つまみ者である自分との関わりが足枷にならぬよう、わざとつき離していたせいもあっただろう。


故に呂岱も始めは、あまり彼女に関わらないようにしていた。

これまで幹部会にいたのが流刑されてきた格好になったということは、それだけ孫権の強い怒りを買っているということ。
下手に親しくすれば、勘気を被った挙句にいらぬ嫌疑をかけられかねない…というのもあったが、幹部会その他における彼女のウワサもいろいろ耳にしていたからだ。交州に来てからは大人しくしているとはいえ、話をする度に嫌味小言を言われ続けるというのは余り気分の良い物ではない。

また、中途半端に彼女に世話になった下級生が少なからずいるという話も耳にしており、一時の感情で感情任せに処断を行おうものなら…総代の彼女であれば、その権限は十分にあるのだが…そうした下級生達の反駁を受けるリスクもあるし、自分の狭量さをアピールする結果にもつながりかねない。


それを換えたきっかけきっかけは、夏休みが過ぎて間もなくの頃の話だった。


「突然で、なんですけどね」
「ん?」

暫くの沈黙の後、呂岱はそういって切り出した。

「あたしも始め、やっぱり仲翔先輩のこと、とっつきにくい人だって。
正直、あまり関わりたくないと、思ってました」
「随分はっきり言うじゃないの」

わずかに眉根を顰める虞翻に、呂岱は苦笑しながら続ける。

「すいません。
でも、これだけはどうしても言っておきたくて。
あたし、最近よく思うんです…もし先輩が裏から色々と手引きしてくれなければ、今此処にこうして居れなかったんじゃないか、って」

その思いつめたような表情に、虞翻は呂岱が何を言わんとしているかに気がついたようだった。

「…考えすぎよ。
交州平定はあなたや子山の成し遂げた功績…私には何の関わりもないわ」
「その子山先輩名義で来てた手紙だって…よくよく考えればあの先輩、マメに手紙を書くような人じゃないでしょう。
仲翔先輩、本当はあなた、部長のために敢えて罪を」

そこまで喋りかけたところで、その口に指を当てられた。
不意を突かれて呂岱は思わず口を噤む。

「それ以上は言わないで、定公。
あくまで、私の我侭でやったことだから」

言いながら、虞翻は頭を振る。

その口調は何時になく穏かな、それでいて何処か寂しげだった。