「…あんた…自分が何言ってるのか解ってるのッ!?」
年度末の祝宴。
絶対阻止不可能、とまで言われた帰宅部連合の大攻勢を見事に撃破し、返す刀で蒼天会の背信による国難すら見事に打ち破って見せた新たなる“都督”陸伯言の栄誉を讃え、その戦闘に関った全ての主将・軍団員を労うその目出度き宴の雰囲気をぶち壊しにしたのは…。
「…お望みとあらば、何度でも。
この長湖部の危機とやらに、ロクに何の方策も立てず、一書生のビギナーズラックに頼る他なかったこの体たらく。
長湖部の偉大なる先達に対して、申し訳ないとは思わないのですか!」
多少浮かれ気味でもあった「長湖の御意見番」張昭を相手取り、その銀髪の少女の大音声が会場内に響き渡る。
その言葉に色を失ったのは、ひとりやふたりではなかった。
「それが良くも抜け抜けと、あたかも己等の選択すべてが正しかったというかのような厚顔無恥!
成る程、如何なる大樹も立派なのは見た目のみ…内は虫に食われ腐るしかないというのかと、嘆かずにおれません!
それはあなたとて同じでしょう、張昭先輩!」
「…仲翔…あんたッ…!」
張昭と、仲翔と呼ばれたその銀髪の少女の強い感情のこもった視線が、正面からぶつかり合う。
きっかけは、些細な口論であったのだろう。
この少女も張昭も、それがヒートアップし過ぎてこのようなことになることも、決して珍しいことではない。
だが…この少女の言葉の内容が、あまりにも間の悪いモノだったことは否めない。
「これ以上この場に留まるのは御免蒙ります。
そんな連中と同一視されては、正直敵いませんので」
「だったら…さっさと出て行ってよ!」
成り行きを見守っていた衆目が、その声の主…長湖部長孫権へと注がれる。
肩を震わせ、金髪碧眼の幼い顔立ちに赫怒の表情を露わにし、孫権は再度言い放った。
「今まで…お姉ちゃんの代からの幹部だからって大目に見てきたけど…今日という今日は許さない…!
あなたを即時、長湖幹部会の任から解き…階級章剥奪の上、交州に移ってもらうから!」
銀髪の少女は、彼女を一瞥し、
「ご自由に」
そのまま踵を返すと、凍りついたような満座を横切り、会場を後にした。
その銀髪の少女…会稽の虞翻が、風紀違反の名目で正式に幹部会解任及び交州校区への強制移籍を申し渡されたのは、その翌日のことであった。
-一匹狼が見た景色-
第二章 少女の檻
「本気、なんだね…仲翔さん」
「ええ。
是非ともその大任、私にお任せいただきたい」
その前の日のこと。
人払いの済んだ…常に孫権の元に同席している周泰や谷利の姿すらないその部屋で、虞翻と孫権は二人きりで居た。
「既に子布さんの了解も頂いています。
あとは、部長の指示次第」
「でも…それじゃあ仲翔さんは…!!」
戦慄くような表情で、取りすがるような孫権の言葉を制し、彼女はなおも続ける。
「覚悟の上です。
それに、変に肩書きがないほうが隠密行動の上では便利ですし…表面上、私と部長の関係が巧くいっていない現状、疑いを持つ者は誰もいないはずです。
既成事実を作ったうえであれば…私が交州に流された所で、誰も異を唱えることはしないでしょう」
「だって…そんなのって!!
ねぇ、やっぱり考え直してよっ…ボクにはそんな残酷なこと、できないよ…!
伯符お姉ちゃんの時から、仲翔さんたちがずっとずっと裏方を支えてくれたからこそ、今の長湖部があるって…皆だってちゃんと解っているから…だから…そんな事言わないでよっ…」
ついに我慢の限界を超え…泣きそうな表情で、虞翻に取りすがる孫権。
帰宅部連合との全面戦争、そしてその隙を突いた蒼天会の急襲。
そのふたつの危機を乗り切ったとはいえ、それがために長湖部勢力下の政情は非常に不安定なものだった。
それまで鳴りを潜めていた反乱分子、あるいは山越高校の不良たちの暗躍が再燃し、それに同調する形で交州学区でも不穏な空気が渦巻いていた。
それでも、士一族の棟梁格である士燮がいるうちはまだ良かった。
彼女が大学生活の合間を縫って、その妹や親戚の少女たちの不満をなだめていたおかげで、爆発寸前の士一族はまだ抑えられていたのだ。
しかし、彼女が協力してくれる期限も残り僅か。
この局面で交州勢力が暴発すれば、三度長湖部崩壊の危機だ。
この危機に虞翻は、先だって交州入りし、後に士一族勢力の根絶をも視野に入れた交州平定の人的な橋頭堡を作る策を提言した。
しかもそのために、自ら平部員として赴くことも併せて、である…。
これには孫権もかなりの難色を示した。
表面上、孫権は何処か、苦手とする張昭によく似た虞翻を快くは思っていなかった。
張昭同様、姉・孫策の信頼していた少女たちであり、実際長湖部に必要な人材だからと割り切って付き合っていた。
それでも、互いに我の強いところがある二人、直接的な衝突はなくとも、軋轢は非常に多かった。
孫権ばかりでなく、比較的新顔の幹部会連中とも折り合いが悪い事も災いした。
それ故に、虞翻は幾度も幹部会から厄介払いをされ、その都度配属先でそれなりの治績を上げては幹部会に戻る…ということの繰り返しだった。
そんな二人の関係に変化が生じたのは、荊州攻略戦の末期である。
南郡有力者の調略を一通り成し遂げた虞翻は、呂蒙の指令により、正体を隠しての「対関羽最終兵器」としての使命を申し渡された。
孫策や太史慈といった、長湖中興期の怪物じみた武の持ち主にも匹敵するだろう、彼女がずっと秘してきたその戦闘能力をもって、である。
潘璋軍団預かりの形になった彼女は、戦況を静観していたが…やがて、その暴威が孫権に及ぶ段になり、その武のすべてを明らかにすることとなる。
また…これまで彼女が、孫権に抱いてきた想いも。
「小覇王の夢」に置き去りにされた彼女は、その真摯な言葉を直裁な毒舌に換え、皆の嫌われ者としての立場を得ていたことを、孫権は知った。
彼女はそのことにより、孫権へ向けられるだろう不満の数々を己一人に向けさせることで、結果的に長湖部内の人的融和を図っていた。
その結束が、長湖部の未来を…「孫権の描く未来予想図」を確固たるものにすることと信じて。
それを知った今だからこそ…孫権は虞翻が己の一身も省みず、自分のために尽くしてくれる覚悟を聞かされたことで、明らかに当惑していたのだ。
「私は…長湖部の危機を、既に二度も見て見ぬふりをしてしまいました」
虞翻は孫権を抱き寄せると、静かにそう言った。
「赤壁島の時と、今年の夷陵回廊と…私は、あなたと長湖部に尽くすという、伯符さんとの約束を二度も破ったのです。
私は、公瑾や伯言のような勇気のある人間じゃない…でも、今度も見て見ぬふりをしてしまえば、私には伯符さんに合わせる顔がないから」
「仲翔、さん」
「だから、征かせてください」
寂しげな笑みだったが、その瞳には悲壮ともいえる決意があった。
「解ったよ」
孫権は止めても無駄だということを悟り、その意思を尊重した。
否…これまで彼女が抱いていたあまりにも悲しい想いを気づいてあげられなかったことが…その「捨て身」とも言える提案を止める言葉を失わせてしまっていた。
その瞳から大粒の涙が溢れ、抱き寄せてくれた少女の胸に、その顔を預けた。
…
その結末は、冒頭の通り。
彼女は孫権や張昭との打ち合わせ通り、パーティが盛り上がりを見せたところで暴言を吐き散らすという暴挙に出て見せた。
たまたま持たされたドリンクに混入されていたアルコールが効きすぎた上での失態、と一部の者はそれでも取り成したが…孫権は彼女を許さず、即時幹部会の任を解き、交州往きを命じた。
このとき、彼女と親しかったはずの敢沢すら彼女を庇おうとはしなかった。
敢沢はこの事件について多くを語ろうとしなかったが…恐らくは、この事件が彼女たちの仲にヒビを入れたのだろうと噂された。
その真実は、表向きには明るみに出ることはない…。
…
「本当に…これで良かったんですか、仲翔さん」
「ええ。
…ごめんね、あなたや伯言にも不快な気持ちにさせてしまって」
パーティの数日後、荷をまとめる虞翻の元を敢沢が訪ねてきていた。
敢沢は頭を振る。
「構いませんよ。
それにアイツには、折をみてあたしから事情を話すつもりだし」
「そんな必要はないよ。
むしろ、みんなには私のことなんて忘れてもらったほうが良いかもしれない。
学年も学年、今度の「放逐」をもってして、もう二度と私が幹部会に戻ることは…ないわ」
「そんな…!」
言葉を失い、悲痛な表情のまま口をつぐむ敢沢。
実のところ、虞翻は予めこのことを敢沢にも打ち明けていた。
比較的親しい彼女であれば、自分が狂言を始め、なおかつ張昭が制止できないと解ればなんとしてでも自分が止めに出てくるだろう。
夷陵回廊で陸遜を推挙したときのようなその気迫を持って座を制止すれば、せっかくその気になっていた孫権が心変わりするかも知れない…そう思った上で。
当然ながら、敢沢も思いとどまるよう口を極めて説得した。
しかし敢沢も、一度決めたら梃子でも動かないという虞翻の性格を良く知っていたし、むしろ敢沢自身も夷陵回廊の時何も出来なかった無念があったため、虞翻の気持ちは痛いほど解ってしまったのだ。
そうなると、止めるべき言葉も出て来るはずもなく。
「それに皆、僻地だというけど…高望みの受験をする場合、むしろ中心街から離れた静かなところのほうが受験勉強には良いかも知れないしね。
これでも私、一応医者を目指してるから、ね」
珍しく、冗談めかした台詞が、その口から飛び出した。
敢沢の瞳には、その寂しげな笑みが、柄にもない冗談が…その仕草の総てが、痛々しいものに映った。
…
さして多くもない身の回りのものを、一通りまとめ終わると、彼女は待たせてある配送屋にその荷物を託し、部屋を後にした。
「…徳潤、部長のこと…よろしく頼むよ」
「ええ…仲翔さんも、お気をつけて」
それきり虞翻は振り返ることなく、住み慣れた会稽の寮を後にしようとした…その時だった。
目の前に、ふたりの少女が駆けて来るのが見えた。
「…部長…それに子瑜まで」
「仲翔さんっ!」
飛びついてきた孫権の勢いに思わずよろけそうになったが、彼女は何とか踏みとどまってその体を抱きとめた。
その腕の中で泣きじゃくる孫権をなだめながら、ようやく追いついてきたクセ毛の少女-諸葛瑾を見やった。
「これは…どういう事、なんだろうね?」
「聞きたいのは私のほうよ…私はどうしてもあなたの交州左遷に納得がいかなかった。
子布先輩や徳潤まで何も言わないし、それを部長に問いただそうとしただけよ」
諸葛瑾の表情は何時になく険しい。
「ねぇ、どういうことよ!
一体どうしてこんなことに…!」
なおも強い語気で問いかけてくる諸葛瑾。
元々は、さほど自分と仲がいい存在ではない。
孫策が魯粛を味方に引き入れて間もなく、魯粛の友人であった彼女もその紹介で面会し…温和だが確かな経理手腕と実務能力を買われて長湖部入りしたことは知っている。
その程度の関係だ。
自分が相談役として孫策の側近の一人であったのに対し、諸葛瑾が裏方を一手に引き受けていたこともあり、接点が薄かったのもある。それ故か彼女は孫権とは親しく、時には自分の姉以上に信頼していた。
彼女は孫策の不運ののち、幹部会の中心としてその和を保つことに心血を注いでいた。
自分とは真逆の道を選んだのだ。
そして…曲がりなくもそれを成したことに関しては、虞翻も一目置いていたことは確かである。
自分とはこれからも、そしてこれまでも、取るべき道を同じくする者ではないと思っていた。
考えが甘かったのだ。
否、あまりにも自分が無頓着すぎたのだ。
彼女の視界には…自分もまた、同じ長湖部の一員として…「切り捨てられるべきではない仲間」として写っていたその事実から、目を背けていたことを。
「ごめん…これは、私の我侭なんだ。
私も、自分の身を切り捨ててでもこの娘の…長湖部の力になりたい」
虞翻はそれだけ言うのが、精一杯だった。
その一言と、後ろにいた敢沢の表情から、諸葛瑾も何かを悟ったようだった。
「やっぱり…狂言だったのね」
「ええ。どうせ私がどうなろうと気にする人なんてそう多くないと思ったけど…念には念を入れて」
「…馬鹿よ、あなたは」
俯いたその瞳から、大粒の涙が地面へと吸い込まれていく。
「あなたは他人だけじゃなくて、自分自身も傷つけなきゃ気が済まないなんて…本当の馬鹿だわ…!!」
「否定はしないわ…それが、私だから」
口ではそう言ったが…虞翻はその心の中で、ただ純粋に自分のことを心配してくれていた者がいた事を嬉しく思うと共に…己の預かり知らぬところで、そんな存在を傷つけてしまったことに慙愧の念を禁じえなかった。
ただひたすら、心の中で謝り続けることしか出来なかった。
…
…
呂岱に請われるまま、あの日にあった真相をすべて話し終える頃には、中庭に見える時計は既に八時を指そうとしている。
朝食を取るには丁度いい時間になってしまったことに気がついたふたりは、どちらから言うとでもなくその場を立ち上がる。
「…仲翔先輩。
後悔は…してませんか?」
立ち去り際に問いかけられたその言葉に、虞翻は肯定でも否定でもなく、ただ寂しそうな表情のまま俯いた。
「まだ…気持ちの整理はついていないところもあるわ。
けどね、漠然と思うことはあるのよ。
もし今の私に後悔の念があるとしたら…それもきっと、今までの清算なのかも知れないって」
「清算…ですか?」
ええ、と虞翻は頷く。
「伯符さんが正式に階級章を返上したあの日から、私はもっともらしい理由を盾にして、逃げていただけなのかも知れないって。
私の心はあの時空っぽになって、そして、悲しくて何日も泣いたわ。
真っ白な地図に書き込まれたその夢が、一瞬にして消えてなくなってしまったことが悲しかったのよ。
…長湖部は仲謀さんの手に引き継がれ、伯符さんが評した以上に発展させ…幾度も危機を迎えながらそれを乗り越え、安寧を保ってきた。
けど…それは私の持っていた最初の「夢」と…あの仲間達と共有した未来予想図とは違うものだわ」
「自分でも気づいていたわ。
いつの間にか、それが私にとっても「新しい夢」になっていたことを。
それは勿論、嫌な気持ちではなかった。彼女が新しく描き始めたその未来予想図を埋めていくことに、新たな存在意義を見いだせたとき…私は、怖くなった。
この素敵な「夢」が、また突然の不幸な事故で一瞬のうちに消え去って…私が、またそれに置き去りにされそうな、そんな気がしたの」
「だから」
「だから…あなたは、今の立場を選んだんですか…?
傍観者で居続けられれば…悲しまないで済むって」
「そういうことよ。
けど…今の長湖部の子達は…そんな私のわがままを許してくれるような、物わかりのいい子ばかりじゃなかったって事なんでしょうね。
無理矢理にでも私を「鎖」に繋ごうとして…本当、迷惑だわ…!!」
その声が震えていることに、呂岱は気づき…そして、今までのやりとりから、その最後の一言が本心からのものでないことに気づいていた。