「本当に…そうでしょうか」
しばし沈黙を挟み、虞翻の感情が落ち着いたところを見計らって呂岱は、振り向かないままの彼女の背に告げる。
「本当に、あなたが迷惑だと思うのなら…あなたはもう、長湖部に…いいえ、この学園にいなかったと思うんです」
「何故」
そう思うのか…と続くだろう言葉を遮り、呂岱はそれを告げる。
「私…先輩が部長へ宛てた手紙、見てしまったんです」
「え?」
「部長が長湖部を生徒会執行部組織として独立したとき、仲翔さんが部長に宛てた手紙を、です」
その正体に気がついた虞翻は、目の端を強引にぬぐうと振り返り、思わず大声をあげてしまった。
「ちょっとちょっと…あの手紙見たの?
ていうか人様の手紙盗み見るのはあまりいい趣味じゃないわよっ」
気恥ずかしさと驚きがない交ぜになった表情で詰め寄ってくるその姿に、呂岱も苦笑を隠せない。
「あ、やっぱり恥ずかしいモンなんですか?
確かにちょっと、ラブレターっぽかったですしね」
「あんたねー!」
顔を真っ赤にして、照れたような怒ったような口調で呂岱を責める虞翻。
以前の彼女ならそれこそ人の肺腑をえぐるようなキツい一言が飛んで来るところだろうが…彼女の言葉が以前よりずっと丸くなったのも、余計な肩書きがなくなったせいだけでないのかも知れないと、呂岱は思った。
「あはは…すいませんってば。
でも、確かにあの手紙を読んで私も…今までずっと、仲翔先輩のこと誤解してたんだって思いました。
でも、それだけじゃなくて」
全然本気ではないが、しつこく小突いてくる虞翻を宥め、呂岱は続けた。
「あのあと、私はふと気がついて、今まで子山先輩名義で届いていた手紙を引っ張り出したんです。
あの手紙を見なければ、今まで子山先輩からだと思い込んでいた手紙の、本当の送り主も知らずにいたかもしれません。
そのひとが抱いていた…本当の想いも、ずっと知らないままだったって」
そこまで告げられた時点で、虞翻もまた…同じように寂しそうな笑顔を向ける。
「そっか…私かなり練習したんだけどな、子山の筆跡」
「なんとなくですけど…字の運びとか違和感は感じてました。
倹約家の子山先輩が、あんなマメに手紙を書く人だとは思ってませんでしたから、意外だなってくらいしか、その頃は思ってなかったんです」
虞翻はそれを聞いて、ため息を吐く。
あまり親しくもしていないから、そんなちょっとしたことも忘れてしまっていた。そのことが少し寂しかった。
諸葛瑾のことにしてもそうだ。
彼女なら、どんな点からでも、どんな僅かな長所であろうと、見逃さずに褒めてくれる様な心の優しい少女だということを忘れていたのだから。
「私は…私が思っている以上に、周りに対して無関心に過ごしてきたのかしら」
そう呟いた彼女の表情は、涙こそないものの、泣いているように呂岱には思えた。
-一匹狼が見た景色-
第三部 「群れを見守る者」
夏休みを控えたある日。
交州学区がようやく正式に長湖部の領有となって間もなく、蒼天会との間で行われた「学園無双」での劇的な勝利をもってして、長湖部長孫権は揚・荊・交の三校区の総括生徒会長として…これまでは形式的に蒼天会の所属であった立場から、「長湖湖岸学区連合生徒会」として正式に対等な立場となることを宣言した。
既に独立生徒会となっている帰宅部連合生徒会と、既存の蒼天生徒会に対する三つ目の独立勢力となったのである。
幹部会はその祝賀に沸き、その熱気もまださめやらぬ頃の話だ。
「これって…どういう事?」
「さぁ…私はただ、部長にこれを届けてくれって頼まれただけなんですが」
交祉棟の執務室で、呂岱はそれを受け取ると、その意味をはかりかねて首を傾げる。
なんでもない、一通の手紙。
問題は、その宛名が部長・孫権宛だった事、そして、差出人の名前が。
「あの虞翻先輩ってところが、どうも引っかかるのよねぇ」
「ですよね」
使いの少女と呂岱は、お互いに顔を見合わせる。
虞翻が常々孫権の意向に反した言動を取り、ついには年度始め、帰宅部や蒼天会との悶着がひと段落ついたところで、孫権の怒りを買って交州流しにあったことを知らない長湖部員はいない。
ただ、御人好しの権化ともいえる諸葛瑾ひとりが、最後の最後まで彼女のことを取り成した以外、誰も彼女を庇ってくれるものがいなかったという話も。
「とりあえずそのまま渡しに行くのも怖かったんで…此方にお持ちしたんですけど」
「好判断だわ。
今、長湖生徒会が立ち上がって間もなく、祝賀ムードに染まる一方でこれからの対応とかいろいろ忙しい時期ですもの…こんな時に部長の機嫌を損ねられても困るしね。
解ったわ、コレは私が預かっておく。
もし行方を聞かれたら、もう出したとか何とか行って誤魔化しておいて」
「解りました」
手紙を持ち込んだ少女は、その手紙を呂岱に宛がうと、一礼して執務室を退出した。
その顔が、来た時の困りきった表情から、あからさまな安堵の表情に変わったのを見ると、呂岱も苦笑するしかなかった。
…
「ったく…こんな僻地に居ても、周りの顔色変えさせ続けるなんてたいした先輩だわ」
その手紙をひらひらと弄ぶ呂岱。
とはいえ、今度はその手紙を宛がわれた呂岱が困る番だった。
受け取ったはいいが、相手が相手だけに一体どんな内容なのかを考えるだけでも悪寒が走る。
孫権は相変わらず張昭と、年齢と立場の垣根を越えたバトルを展開する毎日。
そもそも学園を卒業して三年にもなるというのに、未だに首を突っ込んで来るばかりでなく…自分が副部長に相応しいと思っていたのがそうでなかったからへそを曲げているなどという話すら聞く。
別に虞翻が張昭と仲が良いとかいう話も聞かないが、このふたりの言うこと成すことは何処か似ていから、どうせ碌なことは書いてなさそうだと、呂岱は思った。
(でもそう言えば、私はっきりと虞翻先輩が部長に何か言ってたの、見たことないのよね)
そうである。
有名な話とはいえ、あくまでウワサはウワサ。
長湖幹部会のことなんて、それ以外の人間には噂話でしか聞こえてこないのが常だ。
虞翻の毒舌ぶりだって、ウワサでしか聞いたことがない。
確かに呂岱の印象でも、ややとっつきにくそうな雰囲気はあったが、これまでの数ヶ月間で直接何か言われたわけでもない。それどころか、口を利いたことすらなかったのだ。
特にその用事もなければ当たり前で、相手にしてもそういう用事を態々作ってくるわけではない。
そのうちに、虞翻という存在が、用もないのに首を突っ込んでくる張昭(これもあくまでウワサからの思い込みに過ぎないが…)とは別の種類の人間だということに、薄々気がついていた。
(なんかそう思ったら、ちょっと見てみたい気が)
実際、呂岱はこの時点で虞翻という先輩に、少なからず興味を抱いていた。
人様の手紙の内容を覗き見るのはマナー違反のような気もするし、ちょっとは心も痛んだりするが…留まる所を知らない好奇心がそれを押し切った。
(これもこの地の風紀を守る総代としての責任…災いの芽を摘み取るためだからね)
そんな建前をつけ、とうとう呂岱はその手紙の封を切ってしまった。
それを読んでしまったことで、深い感銘と、深い慙愧の念を同時に抱く事になるとは知る由もなく。
…
「そんな…そんなことって」
彼女は普段は整えていた本棚の中身をひっくり返し、その中心で呆然と呟いた。
その目の前には、数え切れぬほどの手紙をばら撒いて。
その宛名から、どれも同一人物によって書かれたものだと推測される。
そして、件の手紙とは字の細さは全然違うが、その筆跡は同じことに気づいた。
今まで、その宛名を鵜呑みにしていた彼女は、それがまったく違う人物の手によるものであったことを知り、愕然とした。
それと共に、その手紙の真の差出人に対して、自分が今までとってきた態度を思い返し、自分の不明が情けなく思えてきた。
その人物は、己を殺し、あとからやってきた自分がやりやすいように、実に細やかな心配りをしていてくれたというのに…それを知ることさえしない自分がたまらなく恥ずかしかった。
(こんなに…こんなにも、誰かのために尽せる人だったなんて)
知らず、涙が溢れてきた。
(こんなにも…部長のことを、好きでいてくれているなんて)
いてもたってもいられなくなった呂岱は、執務室を…交州学区を飛び出していた。
その手に、件の手紙を握り締めて。
…
それから小一時間後、呂岱は建業棟にいた。
目の前には、長湖生徒会長の座に就任したばかりの孫権。
その手には、虞翻が彼女に宛てた件の手紙がある。
「そっか…気づかれちゃったんだね」
その手紙をいとおしそうに眺める孫権の姿に、呂岱は衝動的に地に手をつけ、その額をリノリュームの床に押し付けた。
「申し訳ありませんっ…!」
「…え?」
「私は…私は衆目の邪推を間に受け、先輩の真情も知ろうともせず、あまつさえ総代の地位を盾にそれを踏みにじりました…!
そして、今まで先輩が影ながら助けてくださっていたことも知らず、己の功績ばかりを鼻にかけて!!」
その表情はわからないが、激昂したその声には嗚咽が混ざっていた。
「私のような人間が総代など、おこがましい話…なにとぞ!
私の如き菲才ではなく、是非とも仲翔先輩に」
「駄目だよ」
穏かだが、はっきりとした否定の響きを持つその声に、呂岱は思わず顔をあげた。
孫権の視線は、その手の中にある手紙からまったく動く気配がない。
「仲翔さんは、きっとそんなの喜ばないよ。
ボクだって何度も仲翔さんをこっちに帰してあげたかった…でもね、自分はもう十分働いたから、どうかこのまま卒業まで居させて欲しい…って。
もう自分の出番は終わったから、これからの長湖部を担う子達の席次を、私なんかに与えないでくれって」
言葉と共に、孫権の碧眼からも涙が伝わり、落ちてゆく。
呂岱は、その涙に孫権の真意を見た。
「ボクはそれ以上何もいえなかった。
ボクだって、あの人のことずっと誤解してたから…理解しようとしなかったから。
だから、最後くらいは、あのひとの望みをかなえてあげたいんだ」
「…はい…!!」
呂岱はただ、頭を下げることしか出来なかった。
…
「そっか…あれはちゃんと、部長の下に届いていたのね」
「…本当に」
座ったまま大きく伸びをする虞翻に、俯いたまま呂岱が問い掛けた。
「先輩は本当にこのままで良いんですか…?
あなたなら、私なんかよりずっと総代として相応しい才覚を持っている…その気になれば、始めから総代としてこの地に赴き、平定する事だって出来たはず」
「性に合わないのよ、そういうの」
跳ねるように立ち上がり、もうひとつ伸びをしながら言う。
「私やっぱり、こういう裏方仕事のほうが向いてるのよ。
表だって堂々と…っていうのも解らなくはないけど、どうもね。
…それに、私には決定的に人望ってモノが欠けているからね。総代なんて、器じゃないもの」
「本当に…そうでしょうか」
言葉ではそう言ってみたが…その理由を巧く言葉にできない呂岱。
彼女は…あの一件から間もなく、なんとかして虞翻本人とのアプローチを持とうと試みた。
その機会は意外と早く訪れ、翌々日の早朝に何気なく蒼梧寮を訪ねたとき、今日のように「演武」を行う彼女の姿を見いだした。
その技の素晴らしさに見取れる呂岱に、虞翻のほうからアプローチを取ってくれた。
彼女はばつの悪そうにしていたが、「誰に迷惑をかけることもないし、気になるのであれば自分が総代として許可を出す」と、呂岱は半分しどろもどろになりながらそう告げ…それ以来、夏明けには毎日、虞翻の元を訪れるようになった。
冗談めかして彼女が「自分に隙があったらいつでも仕掛けてこい」といったのも、つい三日前ぐらいのことだが…その頃には、もう何年も「頼りになる先輩」としてつきあっていたような感覚すら覚えていた。
今の自分は確かに、目の前の「偉大なる先達」に敬意と好意を持っている。
彼女に目をかけてもらった少なからぬ後輩達も、そう思っているはずだ。
しかし…その一方で彼女が幹部会での鼻つまみ者であることは、噂というにはあまりにも現実的に、肯定されてしまう理由があるのは事実だ。
交州に追いやられた経緯が狂言に過ぎないと言え、諌止しようとしてくれたのがごく限られた者でしかなかったという現実。
今の彼女が置かれたその状況そのものが、彼女の言葉を「覆しようのない事実」と主張しているのだから。
そうだ。
個人的好意でしかないのだ。
親しくつきあうようになって…その真実を知ったその日に初めて、その真の姿を知ることができた。
噂に語られるような嫌われ者ではない、人間的魅力にあふれたその人物像を。
それでも。
「私は…私はそうは思わない…!
今からでも決して遅くはない…幹部会に戻らなくたって、今のあなたの本心を伝えれば、きっと」
「その必要なんてないわ」
呂岱は思わぬ声に言葉を遮られ、驚愕の表情で後ろへ振り向く。
その言葉を発した人物が、二人の元へ近づいてくる。
忘れようもない顔だった。
今や長湖部において欠かすことのできない武略の要・陸伯言その人であるのだから。
「伯言…さん。
いったい、どうして」
「気にしなくていいわ。
私もどうしても、確かめなきゃいけないことがあったから。
…どうしても、仲翔先輩に聞かなきゃいけないことが…!」
強い語調でそう言い切る陸遜の言葉にも、虞翻は背を向けたまま答えない。
その両者の姿を交互に見やり、成り行きを見守る呂岱。
両者の間に、形容しがたい重圧感が渦を巻いているようにすら思えた。
やがてその沈黙を破り。
「今更…何を。
あの言葉は率直な感想よ。
それが受け入れられなかったからこそ、私はここにいる」
「私も馬鹿にされたものですね。
あなたの言葉は、本当に心底相手を蔑むときと、あなた自身があえてそういう発言をするときとで、まるで聞こえ方が違うんです。
…それが見抜けないほどの子供だと、言われた記憶はありません」
「だったら…改めてこの場でそう言えばいいのかしら…?」
とげのある虞翻の言葉だが、呂岱は強い違和感を感じていた。
そして、自分でも妙に思うぐらい、そのことを確信していた。
「本当に…そう言えるんですか…「燁夏さん」」
その名を告げられたとき…虞翻は明らかに動揺した。
それは…今年の夏祭りの時。
自分と悟られずに、諸葛亮から渡された「変身薬」で姿を変え…道中で陸遜達と行動を共にすることになり、咄嗟に名乗った偽名だった。
声のみは自分生来のままで、一度は実の妹まで騙したその正体を、知られているはずはなかったのに。
彼女が二の句を継ぐ前に、陸遜は畳みかけるように言葉を続ける。
「あなたは確かにあの日、仮初めの姿で私たちの前に現れた。
けどなんとなく、雰囲気で解ったんです。
そして、あなたが末の妹さんに告げた言葉が、私の目の前にいたのがあなただってことを確信させた!」
険しい表情で言い切るが…歩み寄るうち、その頬に涙が伝い落ちる。
そして、背を向けたままの彼女を抱きしめて告げる。
「…だから…もういいじゃないですか。
もう、そんな悲しい嘘を吐くのはやめてください…!
あなたは、狼のような人だから…「長湖部」という群れの中で…誰よりも自分を弁えて…!!」
「どう…して」
彼女は抵抗することはなかった。
「どうして…みんな…。
みんながこんなだったら、わたし…ひとりになんてなれないじゃない…!
どうして…!!」
震える肩が、声が、その表情を何よりも雄弁に物語っていた。
「そんな必要、ないじゃないですか…先輩。
私も…私「たち」も…あなたのことが好きなんですよ。
それでいいじゃないですか…!」
穏やかに微笑むその頬にも、一筋の涙。
…
「なんとなくだけど、あたしも気づいてたは気づいてたんですからね?」
その三人の様子を遠目で伺いながら…泣き笑いのような表情で振り返るは朱然。
同じような表情で孫権は「うんうん」と頷く。
「ねーちゃん(朱治)だって言ってたんですよね。
悪ぶって毒を吐こうとしても、最終的に自分の毒に中っちゃうような面白い奴だ、って。
…今の先輩見てると、あたし達の知らないところでずっと、頑張ってきたんだなって。
あんな人たちが今の「長湖部」を作ってきたんだって」
「そういうことよ。
彼女や子布さんは、言うなれば父親役。
けど…あの子だって本当は、きっとそんなに強くはないだろうから。
一匹狼になれるような性格は、本来してないはずだから」
諸葛瑾と孫権は頷き合う。
「そうだよね。
狼は狼でも、群れを守る古株の狼さん、だもんね」
「あの人がロボなら、ブランカはやっぱ仲謀ちゃんなんかな」
「あーそういう例えもできなくはないわね。
確かにアレは、スノードリフトというよりロボの方が近いわ」
顔を見合わせ、笑う三人。
「行こっか。
たまの休みだもん、定公も誘って、みんなで遊びに」
「異議なしっ」
駆け出す三人の姿に、さらに驚く三人。
泣き笑いのような少女の笑い声と、愉快そうな少女の笑い声が…残暑の残るその青空へと溶けていく。
…
その日の夜。
六人で散々に遊び倒した別れ際、彼女は孫権から手渡された一通の案内状を、飽きることなく眺めていた。
約一ヶ月後に控えた長湖部体験入部、その案内状だった。
しかし虞翻はその裏側…本来何もない面を眺めている。
其処には、孫権が書いたと思われるもうひとつの「案内状」があった。
曰く、
『そのあと、みんなで打ち上げをやります。
先に引退した人もみんな呼んで楽しくやりたいから、絶対に来てね』
と。
「…打ち上げ、か」
そろそろ、学園生活も終わりに近い。
一匹狼で居るのにもいささか飽きていた彼女は、このまま、誰とも打ち解けずに学園を去ることが寂しいと思うようになっていた。
「推薦入試の結果ももう出てるし…楽しみね」
呟いて、彼女は目を細めた。
もう既に、その心は一ヵ月後に飛んでしまっているようだった。
その飲み会で何が起こるかなんてことは、今の彼女には知る由もなかっただろうが。
(終わり)