ぽつ、ぽつと曇天から雨粒が零れ始めるその場所で、二人の少女が向かい合っている。
他に取り巻くものはおらず、しかし、互いの手にはそれぞれ、規格外に長大な木刀と、同じ長さの棒を手にしていた。
見る者が見れば、その棒が使い慣れた棍であることを…そして、向かい合う二人の正体をすぐに察したはずだ。
だが、両者の間に渦巻く異様な雰囲気は…例え取り巻く者があろうと、何人たりともその間に立ち入ることを許さなかっただろう。
「どうして」
雨脚が次第に強まっていく中で、両者も少しずつその景色へ染まっていくかのような長い沈黙を挟み、狐色髪の少女が、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「どうしてなんだよっ、どうしてこんなことしようと…世議っ!
どう考えてもあんたのやろうとしていることは、長湖生徒会に対する反逆行為になっちゃうだけだ…!!」
目の前に立つかつての友を、何の感慨もない冷たい瞳で見据える、紅髪で長身の少女。
それと対峙する狐色髪の少女の表情は、困惑しきっていて…今にも泣き出しそうにも見えた。
「反逆…裏切り、か」
紅髪の少女は、その重い口を開く。
紡がれた言葉は、何処までも静かに…そして冷たかった。
「裏切りというなら、あの連中に唆されて…奴らの片棒を担がされた時点で、あたしはもう既に「長湖部」を裏切ってしまっていたんだ。
今更の話だよ、そんなことは。
もううんざりなんだよ…あたしたちがその思いを捧げようとしたその場所を、あたしたちの手で壊す羽目になって。
孫綝…そうだあのクズが、その残りカスを食い散らかして…もう見るに堪えない」
狐髪の少女は、その言葉に息を呑む。
「なあ、承淵。
もう…終わらせてやるべきなんじゃないのか?
せめて、あのクズ野郎だけでもブッ飛ばして…後腐れなくぐちゃぐちゃにしてやった方が…!」
止まぬ雨が、悲痛な表情で歪む彼女の頬を、伝い落ちる。
それはまるで涙のようで…震える声は、怒りか、悲しみ故か。
「違うっ!」
狐色髪の少女が頭を降る。
「まだ…まだやり直すことだってできる!
幼節も、敬風も、公緒も…みんなみんな、そのために必死に頑張ってるんだよ!?
まだまだこれから、ううん、むしろあたしたちの手で新しい「長湖部」を作り直すことだって!!」
「寝惚けるな!」
その大喝に、狐色紙の少女は口を噤まされた。
「あたしは、もううんざりだ…!
信じたかったのに…信じていたかったのに!
もう長湖生徒会に何を信じていいのか…何処に理想を求めればいいってんだ!!」
「世議っ…!!」
紅髪の少女が、背に差していた棍を取り、目の前の少女に突きつけた。
鬼気迫る表情と共に。
「だから、あたしが間違っているってなら…あんたがあたしを止めろ、承淵。
クズ共にあたしが粛清される前に、せめてあんたの手であたしを潰せ…出来なければ、この場であんたも道連れに飛ばすまでだ!!」
その悲愴な宣言と共に、少女は棍を構えた。
…
決着は一瞬だった。
紅髪の少女の乱調子が、小柄な体を容赦なく打ち据えてくる。
狐色髪の少女は、紙一重でその乱撃をかわしながら、それでも尚、彼女を止めるべくその言葉を模索した。
だが、紅髪の少女の決心が変えられないと悟り…大上段の構えから振り下ろされる大木刀の一閃が、少女の棍を一撃で粉砕した。
そして、残りの部分で捨て身の攻撃を仕掛ける紅髪の少女と、狐色髪の少女が放った太刀が交錯した。
淀みのない太刀筋は、一瞬で紅髪の少女の鎖骨を砕き、その意識を彼方へ飛ばした。
だが、捨て身に放った棍の一撃は、幼さを残した少女の顔を確かに捉えていた。
少女が昏倒するのにあわせて、その顔から血の飛沫が飛ぶ。
「どうして」
少女の顔から、紅の雫が滴り落ちて…秋雨に濡れる大地に溶けた。
その場に力なく、膝をつく少女の悲壮な呟きに応える者はなく。
-長湖に沈む夕陽-
第一部「孫皓排斥計画」
一 「紅い鈴」
「夢、か」
まだ薄暗い部屋の中、目を覚ました少女はその痕を確かめるかのように、顔に触れた。
彼女の左目の下には、未だ消えることのない傷跡が残っていた。
彼女の名は丁奉、字を承淵という。
「長湖畔校区連合生徒会」の実働部隊を束ね、その中核を成す「長湖水泳部」の部長を務める長湖生徒会きっての猛将にして名将。
そのキャリアは彼女が中等部に入ってから、高等部の三年生となった今年で実に六年目を迎えるという稀有な存在でもある。
彼女の参入経緯も、現在長湖生徒会を支える同期の者とは一線を画すものだ。
公式的には孫権が何処かから、飛び抜けたスイマーである彼女のウワサを聞きつけると、長湖部を後々支える主将となるよう英才教育を施すべく連れてきて、甘寧や陸遜などといった名将の指揮下につけ、手塩に掛けて育成していったとも言われる。
元々将帥としての才覚に優れていた彼女は、「学園無双」と呼ばれる、文字通りの「戦場」においてめきめきと頭角を現し、さらに合肥の絶望的な戦いの中で対峙した張遼の剣技を目標として、新陰流を中心とした剣術をも修め…高等部に昇級する頃には、学園内でも屈指の猛将として名を知られるようになった。
だが…。
…
その日、長湖生徒会幹部会議に出席した丁奉は、出会い頭に浴びせられた一言に、まるで千尋の崖に突き落とされたかのような衝撃を受けた。
「な…今何と、仰ったんですか!?」
「相変わらず、普段の血の巡り悪いわねアンタ。
裏切り者の呂拠と滕胤は捕縛して処断した、そう言ったのよ」
不遜で高圧的な態度を崩さず、その小柄でツリ目の、薄茶色の髪の娘がつまらなそうな口調で、驚愕に目を見開く丁奉へ吐き捨てる。
…
当時の実質的な長湖生徒会支配者…長湖生徒副会長孫綝。
「小悪党が服を着て歩いている」と陰口を叩かれることも多いこの娘は、長湖生徒会の前身である「長湖部」の実質的な創始者である孫堅、その従妹にあたる孫静の親戚に当たる縁で、姉の孫峻共々長湖生徒会に招かれた。
しかし…姉妹揃って飛び抜けた才覚も無く、長湖生徒会が孫権から孫亮に代替わりする頃の混乱期に、無駄に強い権勢欲と狡猾さで諸葛恪を除き、権力を握った事もあって、彼女らに対する憤懣は長湖生徒会全体に渦巻いている。それでも孫峻は孫峻なりに生徒会の安定を図ったようだが、生来の小心さ故か、権力の座を追われ学内にも居場所を失わされた諸葛恪全身全霊の逆襲により心身の平衡を失い、学園を去ることとなった。
ところが孫綝は、そんな姉の不甲斐なさに隠すことなく悪態を吐き、勝手にその後継者の座に収まって権力の濫用を開始した。
孫峻にまだ僅かながら存在した良心というモノが、この妹には寸毫たりとも存在してなどいなかった。
…
呂拠が、この孫綝の身勝手振りに業を煮やし、反乱を企てているというタレコミがあったのはほんの数日前のことだ。
丁奉はあの日いち早くその情報を掴み、呂拠に真意を問いただし…もしそれが事実なのであれば思いとどまるよう説得すべく呼び出すのだが、結果は冒頭の通りだった。
気を失った呂拠を豫州校区の病院へ搬送し、その麾下の少女達を説得し、解散させた。
豫州校区は長湖部の勢力範囲ではなかったが、彼女は揚州校区の病院…もっといえば、孫綝の追求の及ぶ場所へ呂拠の身をおいておくことに危険なものを感じていたためだ。
諸葛恪が放逐されて間もなく、特別顧問として残留していた「長湖生徒会最後の宿将」とも言える呂岱もこの僅か前に運営から手を引き…孫峻も学園を去ると、孫綝の暴虐をとどめる者など存在していなかった。
恐らくはこの情報を掴んでいるだろう孫綝の目の届く場所に呂拠を置いておくのは、餓虎の目の前に肉を放すのと同義。
丁奉はそのことを痛いほどよくわかっていた。
だが。
丁奉のの誤算は、孫綝の持つ執念深さ…いや、その言葉すら憚られる蛇蠍の如き粘着気質を、甘く見ていたことだった。
…
「何処でどうなったかなんて知らないんだけどねぇ、なんか解散されてた呂拠の腰巾着共が滕胤のところで見つかったのよねぇ。
あたしぃ、アイツも絶対謀反人と通じてると思って密かに見張らせてたんだけどね~」
ショックのあまり戦慄し、言葉を失う丁奉に対し、孫綝は下卑た笑みを浮かべて続ける。。
「もうさあ、これこいつら結託してるのなんてお子様でも解る理屈よねぇ。
当然その時点で全員一網打尽にてやったわ。
でもさあ…どいつもこいつも呆れるほど強情でさぁ。
まず両膝の皿を砕いてやって、それから指を足から一本ずつカナヅチで潰してって、手の指を三本ほどやったところでようやく吐いたんだよねぇ。
そこまでやれば顔はぐしゃぐしゃだし漏らしてクサいわみっともないことこの上なくて、ホーント傑作だったわぁ」
問われもせぬのに、嬉々としてその凄惨極まりない拷問の様子を語る孫琳の態度に、丁奉は眩暈すら覚えた。
その拷問の光景を想像し、恐怖したからではないのは…孫琳に見えぬ角度できつく握りしめられ、小刻みに震えるその拳がよく物語っていた。
丁奉はそれでもなお、己の中に芽生え渦巻く激しい感情を抑え、努めて冷静さを保ちながら問う。
「ならば呂拠、滕胤の二名は」
あら、と白々しい態度で、孫綝は陰湿な笑いを止め、一度気怠そうに息を吐いた。
「あぁ、あんたそういえばその時、水泳の大会で居なかったんだっけ。
当然よ、見せしめにしてやったわ。
引きずり出してくるときに病院のジジイ共がうるさくて叶わなかったけどねえ…なぁに? もしかしてあんたもそれが見れなくて残念だった?」
その言葉に丁奉の感情は、この暴虐邪知な小悪党から連座の嫌疑を掛けられていないという安堵よりも、全身を駆け抜けるどうしようもない不快感と憤怒、そして後悔の方が勝った。
一瞬で全身の血液が沸騰する感覚に襲われ、強く握りしめ震える拳を反射的に押さえつけるので精一杯だった。
せめても、相手の郎党で固められたこの会議室で暴発することの愚を…無駄死にするわけにはいかないと己に言い聞かせ、ただ一言「結構です」と吐き捨てるにとどめた。
…
振り返る鏡の先、左目の下に残る痛々しい傷を持つ丁奉自身の顔が見える。
それは半年前、呂拠の放った最後の一撃によってつけられたものだった。
かつては良く笑う、素直で真っ直ぐな性格だった彼女は…その日以来、めっきり口数も減り、笑うこともなくなっていた。
彼女は一度、表情を歪め…振り上げた拳を鏡へ叩き付けようと構えた。
かつて、学園の風雲児と言われた曹操が股肱と恃む夏侯惇が、己の隻眼を陰でいろいろ言われていることに憤慨し、校内の鏡という鏡を叩き割ったという出来事があったことは彼女も知るところだが、丁奉は泣き笑いのような表情で拳を下ろし、自重するように小さく呟いた。
臆病者の…卑怯者め、と。
…
何故このようなことになったのか。
そのすべては長湖畔連合生徒会長の後継者争いを端緒とする…「二宮事件」にあったといっても良いだろう。
この事件の切欠は、次期会長候補であった孫権の従妹孫登の夭折によるあまりにも早い引退。
元々体の弱い彼女は、先年の冬に不運にも風邪をこじらせ、重症化した肺炎のためあっけなくこの世を去り、さらには期を同じくして、同じく将来を嘱望されていたもう一人の従妹孫慮も、家庭の都合により学園都市を去ってしまった。
そのことで孫権は強くショックを受け、精神不安定になり始めていた。
それでも、己の引退の時期が近づいていることもあり、当初は孫登の妹である孫和を次期会長候補とすることで混乱を収めるようにしたが…もう一人の従姉妹である孫覇を担ぎ上げる派閥が、その孫権の精神不安につけ込む形で介入してきたのだ。
大人しくおっとりとした性格の孫和より、利発な孫覇に孫権の興味が傾いていくのも仕方のないことだっただろう。
当然、反対意見は多く挙がった。
一度決めた候補を、一時の感情で変更されることをよしとしない者達と、確かな資質が孫覇にあると「信じてしまった」者達による大規模な後継者争いへと発展する。
前者には陸遜、朱拠、吾粲といった者が、後者には歩隲や呂岱といった面々…そして、呂拠もまた、後者に着いてしまった。
長湖生徒会を二分するこの派閥闘争において、どういうわけか前者派閥の者だけが、異常とも思えるペースでことごとく処断、粛正されていった。
その裏には、これまで「長湖部第二世代の俊英」と讃えられたひとりである全琮を筆頭とする、全一門の暗躍があった…もっと正確に言うと、その裏で彼女達を操っていた孫魯班の存在があった。
かつて、学園都市が現在の形に統合される過渡期において、蒼天生徒会の創始者と争った「覇王」より血を継ぎ、それが故に学園都市を永遠に追放された魯班は、学園都市の実効支配のために、長湖生徒会への介入という形でその毒牙を伸ばしてきていたのだ。
歩隲や呂岱が疑念を持ち、確信を抱いたときには既にすべてが手遅れだった。
陸遜、吾粲、朱拠、顧譚等々…本来なら共に手を取り合い、「長湖部」を未来に繋いでいくべき者達を排除した原因が全琮に唆された自分たちにあると…そしてその裏で糸を引く魯班の存在に気づいたとき…彼女たちにできたのは、その先兵である孫覇を学園から排除することと、全一家を筆頭に除ききれぬ孫覇派閥の「標的」にされぬように孫和を学園から離れさせ、その両名とは無関係である、孫家の遠縁の少女孫亮を後継者とし、傍観者であった朱然やその一派の者達に後事を託すことであった。
しかし…好き放題を展開した全琮が学園を去り、その庇護の元「孫覇派」として混乱をあおった多くの不埒者が処断されたあとも、その「毒」は長湖部に残り続けた。
先述したように、孫峻・孫琳姉妹もそのひとつだった。
…
公式記録によれば、呂拠は孫琳の元に長湖勢力が力を結集したのを知り、自ら階級章を返上したことになっていた。
そして、滕胤も長湖部転覆を呂拠と計っていたという罪科により、共に「然るべき処罰」を受けた末階級章を剥奪された。
実際は何が起きたのか、記録には残されていない。
ただ、その日から呂拠と滕胤の姿を学園内で見たものは居ない。
…
それからは怒涛の如く、長湖部の内情は変化した。
権力を掌握して好き放題の孫綝を粛清すべく動いた部長・孫亮は、クーデターによって会長の座を追われた。
そればかりでなく、孫亮は開場の座を返上させられた翌日行方不明になり…一週間後、発見された時には心身ともに無残な状態だった。
その一週間の間に、孫綝は自ら会長職に就くという野心を顕にした。
この時、虞汜が尤もらしい言葉で彼女の野心に釘を刺し、当初の予定通り孫亮の実姉で、孫権の母方の従姉妹である孫休が部長職に就いた。
孫休は、妹が受けた精神的・肉体的な障害が孫綝に原因があることを九割九分証拠をつかんでおり、孫綝を憎悪していた。
いずれ手をこまねいていれば自分も同じ目に遭うと考えた孫休は、招聘から数日後、会長職に就くと同時に先手を打って孫琳を謀略で陥れ、粛清した。
その際、丁奉も彼女に協力し、孫綝に引導を渡すことと相成ったのだ。
…
学園祭後夜祭が終わっての定例会議の席で、その変事は起こった。
物々しく武装した風紀委員会が部屋を埋め尽くし、数人の少女たちに地面に押さえつけられた孫綝は、何の感慨もなさそうに自分を見下ろす孫休へ、狼狽を含んだ怒声を浴びせた。
「い…いったいこれって…説明しなさいよッ!」
遠縁の従姉妹に向けた孫休は、何の感情もない、冷たい視線でそれを見下ろしていた。
「この長湖部はあなたの遊び場ではないの。
そして、子明(孫亮)にあなたがしたことを知らないわけではないわ」
孫綝は孫休の瞳の中に、自分に対する激しい憎悪の炎が燃え盛っていることにようやく気がついた。
明らかに、自分が関わったことを確信…いや、その証拠も完全に掴んでいるだろう。
そして、自分が完全に掌握しているはずだった生徒会親衛隊、それが孫休の側に居る事も、孫綝にとって悪夢に等しい。
招聘から数日の間に、そのような根回しが出来るなどあり得ないとタカを括っていたが、それが完全に浅はかな考えであったと後悔しても遅かった。
(孟宗…あの貧乏人のマザコンタケノコ野郎ッ…!!)
数日前、有事のために自分が近衛隊を指揮すると申し出た、気の弱そうな同輩を思い出し、孫綝は怒りと後悔で歯がみする。
あの腰抜けが絶対に、今の自分に牙を抜くものかと、そのようなことを考え許可を出した自分自身を八つ裂きにしてやりたいと思った。
心中で毒吐きながらも…それでも彼女は「命乞い」を訴える。
「うぐ…わ、わかったわよっあたしが権力の座を手放して、一般生徒に戻ればいいんでしょ?
もう二度と、運営には関わらないし邪魔もしない、それであんたは満足…」
言葉の終わりきらぬうちに、孫綝の目の前の床に木刀が突き立てられた。
孫綝は驚愕の余り短い悲鳴を上げ、そして、恐る恐る上目にその人物を見て…その字を短く呟き、底知れぬ憎悪と憤怒の色に染まる紅い瞳に、失禁せんかのように震え上がり息を呑んだ。
「だったら貴様は何故…世議や季文(朱異)、承嗣(滕胤)さんや子明ちゃんを一般生徒に戻してやらなかった。
何故やる必要も無い私刑を実行した。
何故、子明ちゃんの精神を壊しやがったんだ。
答えろ…クソ野郎」
その語尾が問いかけでないことは、その怒りと憎悪を何よりも如実に訴える。
その紅玉のような瞳は、気の弱い人間ならそれだけで心臓が止まるのではないかと思われるほどの殺気を、視線に込めていた。
前会長を気安く字で呼ぶなど、という当たり前の揚足取りすら言うどころではない。
そもそも取り囲む誰もが、それを些事だと言わんばかりに…否、まるで丁奉にその代弁を任せているかのように、同じような負の感情を自分に浴びせているように見えた。
基本的に図太い性格の孫綝も、色を失う。
「し…知らないッ!
そんなの知らないあたしは無関係だ!
そ、そうだあたしの妹たちが勝手にやったことで」
狼狽しながら、なおもしらを切り通そうとするその目の前に、数枚の写真がばら撒かれ、孫綝の全身から一気に血の気が引き、ついに決壊する。
いったい、どこからそんなものを。
そう思うが早いか、最早なんの言い逃れも叶わないことも…己の末路を悟り、絶望した。
その理由を、何が写っていたのかを…知っているのはその場にいる当人達だけで十分だろう。
その内容を語る筆を持つのは、無感情に事実のみを伝える記録者のみなのだ。
「放校処分だけで済ませるつもりは毛頭ない。
貴様にも…貴様等にも、同じ目に遭ってもらう…!
構いませんか、孫休会長閣下」
憤怒の光を放つ丁奉の目が、険しく細められ…振り返ることなく、背後の孫休へ告げる。
「始末は一任します、丁奉殿。
この結果如何で、貴女になんの咎も及ばぬことも、長湖生徒会長として保障しましょう…加え、あなたをこの功により、現時点をもって長湖生徒会運動部総括に任命致します」
「恐悦至極」
恐怖のまま見上げる瞳に、天高く振り上げられる木刀の切っ先が映ったのは…一瞬だった。
その後、孫綝や彼女の妹たちがどうなったかを知る者はいない。
何らかの処罰を行ったらしい丁奉が、そのあらましを報告しに戻った際、その衣服は髪飾りの鈴に至るまで、真っ赤に染まっていたという。
…
彼女は淡々と衣服を整え、単調な味しかしないフレークを牛乳で流し込む。
登校用に使っているバッグを肩に掛け、ふと、目をやった先には一着の水着が架けてある。
まだ陸遜など、頼りになる先輩達が居た頃の彼女であれば…例え今が真冬であろうとも、服を脱ぎ捨ててすぐにプールに飛び込めるよう、普段から下着代わりに着込んで、濡れているにもかかわらずのその上からまた制服を着て、気心の知れた同輩から窘められるのも日常茶飯事だった。
今ではそれを着る機会もなくなり、すっかり部屋のオブジェと化してしまっている。
「もう、あの頃には戻れないんだ。
諦めるしか、ないんだ」
自分に言い聞かせるようにして、彼女は部屋を後にした。
部屋の机の上には、倒されたままの写真立てが、ひとつ。
…
丁奉は年を経るごとに、様々な功績を認められ、長湖部の武闘派として押しも押されぬ地位にまで登りつめた。
現在は名ばかりとなった水泳部長の座も手放さず、実質的な水泳部のまとめ役となっている留平からも忌み嫌われているとも…多くの一般生徒からは、年功と功績を鼻に掛けて調子に乗っていると、そう陰口を叩かれるのも自然な流れと言えた。
かつての真っ直ぐな彼女を知る者ならば、決してそのようなことを言ったりはしないだろう。
彼女は要所要所で長湖生徒会の危機を救い、そのために汚れ役も厭わず…あまりに多くの「闇」を見続けた彼女の心はいくつもの深い傷跡を刻み、表情からもかつての面影を消し去っていた。
そのことを知っているからだ。
「彼女」も、そんな一人のはずだった。
…
「こんな朝早くに呼び出したからには、相当の理由があるんだろうな?」
それから間もなくの事…丁奉はある場所を訪れていた。
呉郡寮からそう離れていない湖岸の一角、その少女はいた。
安物の釣竿で釣りに興じている、暗い緑の、襟足の跳ねた髪の少女は溜息を吐き、大仰に頭を振って見せた。
「随分不躾なもんだ。
棟が違うから滅多に会えない旧友に対する言葉とは思えんな。
お前、伯姉の下で礼儀作法の類は教わらなかったのか?」
「無礼はお互い様だろう、敬風。
互いに暇もない身なのは承知の上だ。
始業の時間も迫っているんだ、どんな用件で私を呼びつけたか知らんが、さっさと用件を話せ」
一定の距離を保ちながら、敬風と呼んだその少女へ、丁奉は事務的に告げる。
その時、少女は気怠そうにゆっくりと、背後の丁奉へ振り返る。
朝日を逆光に浴びながら、眼鏡越しに除く鳶色の瞳…その奥底には、底知れぬ怒りの感情が渦巻いているようにも見えた。
「はっ、何様のつもりだお前。
暇無しというなら、原因を作りやがったのはどこのどいつだと思ってやがる。
お前と張布のボケナスが結託してつまらん事をしてくれて以来、あたしも子賤(丁固)もロクに休んでるヒマもねえ…その僅かな暇を割いてやってるこっちの身にもなれ、馬鹿野郎」
丁奉は僅かに…ほんの僅かに、目を細める。
「解っている…現会長は…孫皓は、会長の器ではない。
そう言いたいんだろう」
「それどころの騒ぎで済むか、メチャクチャだ。
確かに最初の数週間、ポーズであれなんであれ少しは期待できそうだと思ったが、そんなことを思ったあたし自身を正直殴り殺してやりたい気分だ。
お前らみたいに前線であいつの命令を聞いて、蒼天会連中相手に鬱憤晴らし出来るヤツらが、一体どれだけ生徒会の現状を理解してるんだ?」
言葉と共に引き上げた釣竿の先には、餌どころか針すらついていない。
その妙な釣竿を仕舞うと、彼女は丁奉の元へゆっくりと歩み寄る。
その表情は、険しいどころではなく…瞳の中の憤怒は明らかに自分に向けられている。
「結局張布は擁立した相手に粛清されてやがるし、その尻馬に乗っかった濮陽興の馬鹿には同情の言葉もない。
無論…お前にもだ、承淵。
確かにお前の武勇、戦略、戦術構築能力、業績は今の長湖部で並ぶものは居ないだろうな。
身内贔屓に身内贔屓を重ねてるかも知れないけど、今のあんたは戦闘は勿論、戦術面においても伯姉以上だと思うよ。
でも、そんなことで堕落しちまうほどあんたが安っぽい人間だなんて思いもよらなかった…!」
仮借ない言葉には、明らかな失望と憤怒の情が見て取れた。
だが、丁奉はその言葉にも…叩きつけられた感情に対しても何の反応も見せない。
「お前はこのまま権力の座にふんぞり返って、何食わぬ顔して学園を去る気じゃないだろうな?」
不意に、少女はその胸元を捩り上げる。
今や長湖生徒会のみならず、学園都市内最高水準とまで称される猛将に対して、まるで怯むことなく。
だが…丁奉もまた、無感情のまま少女を見つめ返している。
「私に、何をしろ、と?」
少女は表情を緩めることなく口の端を歪める。
シニカルというにはあまりにも、狂猛な笑みだった。
「別に責任とって階級章返上しろ、と言うつもりはない。
あんたの一友として、汚名返上の機会を与えてやろうかと思ったまでだ」
「御託は良い、本題は?」
「孫皓を部長職から引き摺り下ろす。
そのためにはどう考えても、あんたの存在が鍵になる」
「何っ…!?」
丁奉はそのとき、明らかな驚愕の表情を現した。
目の前の少女が、よもやそんなことを言い出すとは夢想だにしていなかった。
だが…同時にこの少女が、人払いをしてまで告げてきたということから、掛け値なしの本気でそう言っていることも、また。
「馬鹿な…!
敬風、お前何を言っているのか、解っているのか!?」
「何も孫綝のゴミ野郎みたいに生徒会を引っかき回すつもりはないし、「然るべき後継者」なんていくらでもいる…名君である必要はない、半年もあれば育て上げるに十分だ」
「だが、やっていることに変わりはない、何故そんな」
目の前の少女は、その言葉を遮り、つかみかかって来た手を払いのける。
「ならば、お前にどんな良策がある?
孫皓を活かそうと必死の努力してきたつもりだが…肝心の本尊が足を引っ張っている有様なのは、お前にも良く解ってるはずだ」
「え…」
「孫皓の排斥を抜きにして…長湖部を立て直す方策が、これを見てもお前には思いつくのかよっ!」
怒声と共に、紙の束を叩きつけるように押し付けた。
それは、孫皓が会長位に就任して以来の、様々な事務文書だった。
武闘派を束ねる丁奉には縁の薄いものではあったが、それでも、そこに記録されるデータから、最早長湖生徒会がその組織を維持することが不可能な状態にあることは理解できた。
そして、それが総て孫皓の行動によってなされていることも…その号令により、自分がかかわった対外戦略においても。
「もう、どうにもならないところまで来ているんだ…!
あたしや子賤、恭武(孟宗)のやれる所はここで限界なんだよ…!
孫皓をこのまま野放しにしていたら、「長湖部」は…あたしたちの代で終わるかもしれないんだよっ…!!」
その瞳から流れ落ちる涙を、言葉の端から漏れる嗚咽を隠すように、少女は丁奉の体にしがみついた。
少女は「長湖生徒会」ではなく「長湖部」といった。
何時しか自分たちの中で、それは単なる組織の名称ではなく、自分たちへ連綿と受け継がれてきた、湖南の校区に青春をかけた多くの者たちの想いを意味する言葉になっていた。
「伯姉達との約束を、破ることに…だから、今しか…!!」
このとき、丁奉は初めて「親友」の風貌の変化に気がついた。
最後に会ってから、随分その身体は小さく感じられた。
その姿には、これまでの覇気のようなものはまったく感じられず、その容貌もやつれていたように思えた。
自分の預かり知らぬところで…いや、まったく触れすらしなかったところで、彼女は精魂尽き果てるまで長湖部のために尽くそうとしていたことを、丁奉は改めて思い知らされていた。
そんな彼女が、そこまで悩みぬいた末の結論であるのなら…丁奉は、覚悟を決めた。
「聞かせてくれ…長湖生徒会副会長、陸凱。
私は何をすればいい?
何が…あたしにできることなんだ…?」
そっと肩を抱かれ、少女…陸凱は丁奉の顔を見上げた。
その瞳に、既に失われたと思われていたかつての丁奉の面影が、一瞬だけ重なった。