-私はもう、長湖部に関わることは出来ないわ。
私に出来るのは…これから部を支えていくだろうあなたたちに、この想いを託すこと。
幼節だけじゃない…これから長湖の生徒会を支えていく承淵たち…勿論、あなたにも、よ-

あの日、病床にいて憔悴しきった顔のまま、それでも必死に訴えかけてくる言葉が何度も蘇ってくる。

-あなた達は、きっとあなた達が思っている以上に、ずっと凄いことができるって、信じてるから-

その手の温もりを、弱さを、陸凱は片時も忘れたことはなかった。

連綿と受け継がれたその尊い想いを。
自分もその担い手になるという重責と共に。

それは…呪いにも似ていた。
そのことに、果たして少女自身は気が付いていたのだろうか?

それを知っての上で、事実から目を背けていたのか、あるいは。

「終わらせるわけにはいかねえんだよ。
このあたしの、命にかけても」

少女…長湖生徒会副会長陸凱、その鳶色の瞳には…狂気すらも孕んでいた。



-長湖に沈む夕陽 第一部-

二 「迷走」



その日の夜のことだった。
陸凱の部屋には、二人の少女が訪ねてきている。

どちらも、表情は憔悴しきっており…それでも、強い使命感と深い憂慮が最後の精神的支柱となり、彼女たちを支えているのかもしれない。

「ごめん…やっぱり私たちじゃ、あの連中を黙らせることなんてできないよ」

クリーム色、と言ってもいいぐらい色素の薄い髪を散切りにした少女が、力なくそう漏らした。



少女の名は孟宗という。
現長湖生徒会で三役の一つである、会計総括を務めており…先述したとおり、孫綝の処断にも一役買った長湖生徒会の重鎮である。
もっとも彼女には、亡き母に孝養を尽くしたエピソードがより知られており、学園のエリート集団「清流会」からも一目置かれる存在としても有名だ。

もう一人、栗色の髪を二つくくりにした少女も、まるで空元気を振り回すかのように、持ち込んできたペットボトルを呷っている。
この少女は丁固、これまた現長湖生徒会で三役である書記長を務める大物だ。
経理に優れた才能を示し、かつて長湖部で陰の実力者として時に忌避され、時に多くの者がその力を恃みとした会稽の虞翻が、その底知れぬ才能を高く評価して、方々に根回しをして彼女が大成するよう取り成しに奔走したといわれる逸材。事実この少女は吏才のみならず、高い軍才を示してつい先日起こった孫謙のクーデターを瞬く間に鎮圧してのけている。

そして…陸凱はその長湖生徒会の副会長。
今の長湖生徒会を支える、社稷の臣と言うべき三人がこうして額を寄せ合うというのは…現在の長湖生徒会の実情を鑑みれば、あまりにも不穏に過ぎるといってよいだろう。



孟宗の言葉の端からは、家政部のワガママ勝手な態度や、それを野放しにする孫皓に対する怒りではなく…それを止められない自身の情けなさに対する悔しさがある。
丁固も憔悴しきった表情で、壁際にもたれかかってしまった。
投げ出せるものなら、さっさと投げ出してしまいたい…そう言わんばかりに。

陸凱はその様子に胸が痛みながらも、まっすぐ二人から視線を動かすことなく告げる。

「すまん。
だが、朗報だ…承淵を、動かすことができるかも知れない」
「本当!?」

二人の顔に、驚きと共に喜色が僅かに戻った。
陸凱が頷く。

「これが巧くいけば、長湖部を立て直すことだって絵空事じゃなくなる。
然るべき後継者を育て上げる時間まで考えるとかなりハードだが…それでも、事が定まるまでは慎重に進めなくてはならないが」
「つまるところあとは、その舞台を何処に定めるか、かね」

壁に体を預けたままの丁固が、自分の前髪を弄りながらつぶやく。

「ね、だったら敬風、これが使えないかしら…?」

孟宗が差し出してきたのは、つい先刻行われた幹部会議の議事録だった。
陸凱はそれを一瞥し、視線を受けた丁固は頷く。

「あいつら…家政部の連中は孫和さんをダシにして、来月にパーティをしようと考えているみたいなんだよね。
長湖部の主立った者を招集し、かなり派手にやるつもりだね。
そうなれば、会長を護衛する者も、召集掛けられる奴も…それなりに実績と権威がある者から選ばれるのは自明」

成程な、と陸凱は溜息を吐く。

「二代目部長孫伯符以来の近衛部隊である、水泳部員を動員することに異を唱える輩はない。
そもそも、運動部総括レベルの重任者なら、まず臨席しないことがあり得ない、か。
水泳部長である承淵を孫皓に近づける絶好の好機、だな…!」

陸凱の顔に僅かに笑みが浮かぶ。

「でも、彼女で大丈夫なのかしら?
彼女は、ロクに部活にも参加していないし、水泳部の人間がどれほど彼女の指示に従ってくれるかどうか。
実質的な水泳部長と言っても差支えのない留平さんが…承淵を嫌っているという噂だってあるし」
「それは、多分大丈夫だろう。
承淵が奴らにどう思われていようが、些細なことだ」

孟宗の異論に対し、陸凱は確信をもって答えた。


「そもそも孫皓に反感を抱いていない人間が、今の長湖部に居るわけがないだろう?」





翌日、長湖生徒会幹部会議。
その臨席者の大部分が、戦々恐々として臨むこの中心には、三人の少女がいる。

一人は陸凱。
普段の学園生活で使う夏着のベストではなく、生徒会幹部用のスマートな黒のブレザーを身に纏い…その視線の先にいる少女をじっと見据えている。

見据えられた少女はわずかに不快そうに眉を顰める。
彼女は色素の薄い、ブロンドと栗色髪の中間のような色のセミロングで、右側のみリボンで結びを作っている…勝気に見える少女だ。
だが、そう見える表情の険しさは、どこか精神的な平衡を欠くようにすら見える。

そして、その後ろには、陸凱と同じ服装をした黒髪の少女が屹立している。
アンダーリムの眼鏡越しに見える切れ長の目は、やはりこれも臆することなく陸凱を睥睨している。



陸凱の目の前にいるセミロングの少女…それこそが、現在の長湖生徒会長である孫皓、字を元宗その人だ。
その背後に屹立する第一の側近、すなわち陸凱とともに長湖生徒会副会長を務める万彧と共に、烏程棟長であった頃からその才覚を高く評価され…何より、「二宮事変」を端緒とする動乱により学園を追われたばかりか、列車事故に巻き込まれる悲運により頭に重傷を負い、いまだ覚めぬ眠りを強いられる孫和の妹として、「もっとも正当かつ将来を嘱望されるべき長湖の君」として会長位に就いた。

だが、就任して1ヵ月も経たない頃から、孫皓はその残虐性を露わにし始めた。
まだ高等部に進級したばかりで、その重任に精神が耐え切れず暴走を始めた…そう擁護する事も出来たろうが、それでもわずかな期間で成した暴政は、いとも容易く長湖生徒会の屋台骨をぐらつかせた。

岑昏を筆頭とする「家政部」…すなわち、学園の正式な課外活動参加者にはなれないが、生徒会長の身辺に関わる業務を一手に引き受ける担当部門…の者たちの台頭。
スケジュール的にも予算的にも無理なさまざまなイベントの断行。
気に入らない執行部員の私刑を用いた解任と放逐。
そして確たる勝算もない、さらに計画性のない対司馬晋生徒会勢力範囲への進出と、それに伴う軍事行動。
これらに異を唱える者がいれば、さらに多くの者が言われなき罪科により籍を外され、その結果の学外放逐も頻繁にあった。

そして孫皓は他者からの視線を執拗に嫌い、幹部会の席で癇癪を起こして、自身の手でそうした者を残虐に「処罰」したこともあったが…「私の顔を見るな」と告げる孫皓に対して、「同じ長湖生徒会の運営に関わるお互いの顔を見知らぬという法はない」と陸凱は一蹴し…孫皓もまた、それ以上咎めることはなかった。
結果古くからの側近である万彧と陸凱だけが、面と向かって会話することを許されることとなった。一説には、江陵を統括する陸凱の族妹・荊州学区総代陸抗の勢力を警戒し、孫皓は陸凱の処断に踏み切れなかったとされる。

閑話休題。



陸凱は岑昏ら「家政部」の、無断欠席に対する誹謗に対して全く取り合わず、本題とするところに議題を移させた。

「お聞きしたところでは、また大々的にパーティを行われるとのことですが?
孫和様の回復を祈念するという式典をかねて、と」
「そうよ…何か不服でも?」

孫皓と陸凱、ふたりの視線が交錯する。

「不服があるんだったら、貴方は欠席しても宜しくてよ敬風さん?」

おかっぱ頭の少女…岑昏が口元で手を添えた高笑いのポーズで、思いっきり癇に障る口調で横槍を入れてきた。
その取り巻きが、まるでそれを援護するかのように、陸凱に対して下卑た嘲笑を浴びせてきた。

「もっとも、そのような手前勝手な振る舞いを何度もなされるようでは、貴方の立場も」
「黙れ」

トーンの低い、殺気を込めた一言。
そしてその視線だけで、岑昏は口を噤まされた。

「発言には順序、というものがある。
家政部であれば、初等教育で徹底的に叩き込まれる礼儀の基礎だ。
そんな体たらくなら幼稚舎からやり直したらどうだ、岑昏?」
「くっ…」

陸凱の毒気たっぷりの舌鋒に、怒りやら屈辱やらで顔を赤らめて絶句する岑昏。
口の上では、これ以上反論しても一方的に言い負かされることも理解していたが、無理やり押さえつけたその幼稚な怒りは収まることを知らない。
「この女、何時までも副部長の権勢がふるえると思ったら大間違いよ」そう言わんばかりの憎悪をはらんだ視線をも、陸凱は完全に黙殺した。

いや、正確には始めから岑昏の如き小物など、陸凱は歯牙にもかけていなかった。

「さて、話を戻しますが…私とて、孫和様の無念を悼む者のひとり、その名を出されては反対する理由がございません。
ともなれば、部長の身辺警護を司る者にも然るべき人物をお用い頂くのが筋と思いますが」

陸凱の視線が孫皓を射抜く。
その表情にこそ笑みのようなものが見えるが、その視線には、有無を言わせぬ迫力がある。
だが孫皓はあくまで険しい表情を崩すことはない。

「あなたは…誰がそれに相応しいと?」
「知れたこと。
我が長湖部はかつて、初代孫文台が水上運動部の連合を志して興したもの。
二代目孫伯符は逆境より、自ら水泳部長となり、水泳部を母体として水上運動部を中心とした大組織を作り上げ、今に至りました」

陸凱は一瞬、息を継ぐ様に瞳を閉じる。

「それゆえ、公式の場において水泳部は長湖部長直属の近衛隊としてその傍らにあった。
なれば、おのずと適任者は現水泳部長にして、長湖生徒会運動部総括の丁承淵以外に居りますまい」

心中の策を悟られぬよう、それでいて自信に満ちた表情で、彼女は言い切った。
丁固、孟宗も心中気が気ではなく、表向き平静を装ってはいるが固唾を呑んでこの成り行きを見守っている。

事実岑昏ら家政部の者達も、しぶしぶではあるが…「思ったよりもまともな発言ですわ」と小声でひそひそ言うものの、それに異を唱える理由も見当たらないと見え、何かしら小声でささやき合っている。
一方で他のメンバーは、まさか陸凱までも匙を投げてしまったのか、そんな悲嘆の表情を浮かべるものすらいた。それを目ざとく見出す家政部のものと目が合いそうになり、その少女はあわてて顔を背けるが…おそらく彼女は、程なくして適当な罪状をでっち上げられて学園を追われていくことだろう。

だがしかし…孫皓の返答は、その場にいる誰もの予想を裏切るものだった。


「気に入らないわね」
「は?」

内心の動揺を最大限に抑えた孫皓の呟きに、陸凱のみならず誰もが呆気にとられた。

公式行事における部長の身辺警護を任せるのに、現水泳部長である丁奉以上の適任者はないだろう…それを疑う幹部会メンバーはこの場にはいないだろう。
先ほど、悲憤に顔を歪めた少女だってそうだ。
岑昏らにしても、あくまで「長湖部長の走狗」に過ぎない丁奉など恐るるに足りず、己らの贅沢行為に「公式行事」という大義名分をつける材料として最適、そう結論づけていたはずだ。

孫皓の発言は、その思惑のすべてを覆すものだった。
驚愕の表情を隠しきれぬ陸凱の様子に、表情をさらに険しく歪める孫皓。

「私はね、この会をそんな大事にしたくはないの。
姉様もそんな大事になることは好まないの解ってるでしょう?」
「ですがこのような議題に出される以上、貴方はそれを公的行事として行うおつもりなのでしょう?」
「私の護衛が必要というなら、対外防備の要である丁奉まで引きずり出すことも無いと言っている!」

なおも食い下がろうとする陸凱に、孫皓の怒声が飛ぶ。

(ちぃ…ッ!)

陸凱も舌打ちをせずには居れなかった。

孫皓は勢力拡大の意欲だけは優れている、との陰口どおり、そう言った軍事関係の事情にはよく通じている。
彼女の言葉通り、現在長湖部における丁奉の存在は、荊州学区総代の陸抗、夷陵総督の朱績に並ぶ軍事の要。
長湖部総本山の武昌棟を護る最前線に配置されている彼女をむやみやたらに動かすことがどういうことであるか、陸凱とて知らぬはずはない。

孫皓は一転し、冷静な口調で言葉を続ける。

「あなたの意見を却下するつもりはない、確かに、至極全うな意見である事は認めるわ。
けれども、私とて木石ではない…あなた程の聡明さを持ってすれば、自ずと然るべき人選を取れたはず…そう、水泳部員を取りまとめる責任者がいるでしょう。
水泳部副部長留平、廬江総督を兼任する彼女であれば、実績と立場の上で丁総括に劣るものではないはず」

これには、陸凱よりも成り行きを見守っていたほかの幹部会メンバー…とりわけ丁固や孟宗のほうが、舌を巻いた。
孫皓が単なる暴虐無知の君ではない、と思わせるものが、この返答に集約されているといっても過言ではなかった。

「いずれ丁総括が現役を退くことになれば、必然、彼女がその後継となるは明白。
…そうね、次代の長湖生徒会において、武の要となるべき者の資質を見るにいい機会かも知れないわ」

そのとき初めて、孫皓の口元が僅かに歪む。
邪笑といってもいい、禍々しさすら感じる笑みだ。

「承知、しました」

陸凱は言い知れぬ敗北感に絶叫しそうになる感情を抑え…搾り出すようにそう返し、深々と頭を垂れる。

「ならば、この議題についてはここまでとする。
正直、疲れてしまったわ…後の事は岑昏、あなたに任せる」
「うふふ、畏まりましたわ会長。
陸凱副会長、他に意見が無いのでしたらお下がりくださいな。
議会進行の妨げになりますので」

今にも吹き上がりそうな憤怒の熾火を灯すその視線を、孫皓はあくまで冷徹な瞳で見返し…万彧を伴い身を翻して去っていく。
その後姿を凝視したままの陸凱。
その更に後ろから、家政部の少女たちの嘲笑が俄かに湧く。

「うふふ、これだから」
「何時までもこんなことが続けられるおつもりなのかしらね…」

陸凱はそれに一瞥もくれることなく、憤然とその場を立ち去った。
丁固、孟宗はその背を追うことも出来ず…やがて岑昏を首座とし陰鬱な幹部会は続いていく。



「ちくしょうッ!」

叩きつけた拳が、蒼く葉を茂らす銀杏の太い幹に刺さる。
それを何度繰り返したところか分からぬが…すっかり傷だらけになった手の甲を赤く染めたまま、彼女はその場に力なくくずおれた。

「敬風!」
「敬風さん…」

幹部会を終えたのか、それとも途中で抜け出してきたのか…駆けつけてきた丁固と孟宗が抱きとめて立たせる。
滴り落ちる紅い雫は、その激情からくる血の涙の如く見える。

「敬風、悔しいけどアイツは…あたしたちの手に負える相手じゃないのかも知れない」
「子賤さん!?」

丁固が言い出した言葉に、驚愕を隠せない孟宗。

孫皓の様子からも、恐らくは自分たちの考えを悟られただろうことは解っていた。
現在の状況がどうであれ、今日の一件を考えれば紛れもなく、孫皓は乱世の君主として優れた資質を持っていることはこの三人とて認めざるを得ないことだった。

「だってそうでしょう…?
ただのボンボンの出来損ないなら、あそこで承淵の名を出されれば、何の疑いもなく乗ってくるはず。
確かにあいつは、勢力拡大の為には労力を惜しまないように見えるけど…それだけじゃない何かを感じてならない。
代役の件だってそう…あそこで留平の名前なんて出てくるもんか。あたしも考えてすらなかった」
「そんな…なら何故、あの人は長湖部を徐々に弱らせるようなことを、自らの手で行おうと」

丁固は頭を振る。

「それが解れば苦労なんかしないわよ。
ただ、これだけは云える。
アイツはあたしたちが武力行使に踏み切れないことを痛感していることまで見抜いて、その上でこんな振る舞いをしているようにしか思えない…!!」

丁固の握り締めた拳も、そんな理不尽な状況を打破できないことへの怒りからか…細かく震えている。
そのとき…沈黙を守っていた陸凱が、絞り出すような声で言葉を発する。

「江陵の幼節(陸抗)、南郡の公緒(朱績)、会稽の子幹(鐘離牧)は動かせても遠すぎる。
世洪(虞汜)や世英(虞忠)達は交州学区攻略で出払っている状態で、虎林の敬宗(陸胤)は武力を持たされていない」

荊州学区総代の陸抗、その補佐として夷陵を抑える朱績、会稽棟長として山越高校に睨みをきかせる鐘離牧などは、陸凱達にとっても気心の知れた仲間である。
真意を持って説き伏せれば、きっと自分たちの考えを理解し、協力してくれるだろう。

しかし彼女らを動かすということは、外部に対して長湖部の変事を露呈させる愚行だ。
仮にそれで孫皓排斥が巧くいったとしても、今度は司馬蒼天会や外部校からの介入が致命傷をもたらすことだろう。
せっかく立ち直るきっかけを作っても、それをきっかけにして長湖部の破滅を招くなどあってはならない。

しかも孫皓が指示した、先だって奪取された交州学区の一部を取り返す対外行動は、かえって実働部隊を抱える運動部における孫皓の評価を高めることになった。
そうした少女たちは、この無茶な対外行動が、いかに長湖部にとって大きな負担になっているのか、それを完全には理解していないのだろう。
その軍の総指揮を任された虞汜ですら、かつて姉と共に親しんだ交州の地を取り返すことに躍起になっている有様…彼女の指揮下にあって、その熱に当てられた陶コウら若手部員たちは言うまでもない。

「そして今、肝心の承淵も動かすことが出来ない。
これじゃあ、完全なチェックメイトじゃない」
「いや」

孟宗の言葉を陸凱が遮った。
振り返るその表情に…鬼気迫るような薄笑いを浮かべ…二人は、思わず息を飲み込んだ。

「まだ、手はある。
承淵が動かせなければ、水泳部を動かせばいい…!」
「どういうこと?」

赤く腫れた拳をおさえることも、丁固の問いに答えることもせず、陸凱はその場から歩みだす。

「疎遠になったとはいえ、今の水泳部員の大半は承淵を慕って集った連中だ。
胡乱な噂話を信じる前に、今ある真実を見据えることが肝要だろう?」



「私に…水泳部員を?」
「そうだ」

翌朝、陸凱は再び丁奉を呼び出し…そのことを告げた。
しかし丁奉は、その言葉に難渋を示す。

「知っているだろう…今の私は、水泳部長であって水泳部長でない。
言わば名ばかりの代表者だ。
心から信頼できる者など」
「そんなことはあたしの管轄外だ…だが、お前は多分に嘘を吐いているな?
留平がお前を嫌っているという噂の出元はいったい何処だ?」

見据える陸凱の目が険しく細められる。
そして、丁奉がこちらを見据えながらも、その視線が定まらないことから確信めいたものを、陸凱は見抜いていた。

「お前は言ったな…私の想いに対して、自分が何をするべきかと。
ならば今からでも遅くはない、水泳部に戻るんだ。
お前の帰りを待ちわびている奴がひとりでもいれば、それが孫皓を討つ布石になる」
水泳部員(あのこたち)を…生け贄に捧げろと!?」
「違う!」

恐怖なのか、怒りなのか…震える丁奉の声を、陸凱はきっぱりと否定する。

「犠牲になるのは孫皓と家政部の連中、それだけだ。
ネズミの一匹も残さず討ち果たし…あたしたちの手で「長湖部」を取り戻すんだよ!」

その悲愴な決意に満ちた表情が、丁奉には何故か眩しく…危うく思えた。



陸凱と逢ったその日の午後。
丁奉は課外時間の開始と共に早々に建業棟を退出すると、そこからさほど離れていない廬江棟に来ていた。

廬江棟には長湖部内のみならず、蒼天学園でも最大規模の屋内プールが存在する。
冬は温水プールにもなり、換気設備が整っているので四季を通じて水上部活動が可能な場所だ。
時に水上バレー部など他の部で使用されることも多かったが、ほとんどの場合、長湖部の中核であり武の要である水泳部の縄張り。
彼女にとっては最も居心地の良い場所のひとつだった。

(此処へ来るのも…半年振りか)

わずかに、懐かしさのようなものを彼女は感じていた。



思えば、彼女の長湖部員としての学園生活は、まさに此処からスタートしたといってもいい。
その後実に五年間、彼女はこの棟か長湖にいて、それこそ四六時中、周囲が呆れるくらい水の中に居た。

学園指定は特にないものの、着用するものは長湖部のイメージカラーである青・紺系の競泳水着に統一された彼女らはのちに「青巾軍団」と呼ばれ、その主将として長く部を牽引してきた凌統、留賛、そして丁奉に倣い、部活動の傍ら個人的に武術を嗜む者も多かった。
特に丁奉の影響力は凄まじく、彼女に憧れ集まってきた者も多いためか、現部員のほとんどが剣道の有段者でもある。



(でも…今は違う。
 果たして、今の私には此処に足を踏み入れる資格など…あるのだろうか?)

しかし…それほどまでに居心地の良かった場所から、これまでに積み重なった心の傷が、彼女を自然、遠ざけ続けた。

水泳部長としての「肩書」は残っている。
だが、長湖部最前線の防備の要としての職務に忠実であったために、現在の彼女にとっては水泳部がいちばん縁の遠い場所でもあった。

(今更、やってきたところで、私の居場所なんて)

彼女は棟に入ることもせず、そのまま踵を返そうとした、そのときだった。

「先輩!
承淵先輩じゃないですか!」

その声に、はっとして振り返った。

視線の先に居た少女が、満面の笑顔で棟のほうから駆け寄ってきた。
そのあとからも数人の少女たちが丁奉の姿を認め、その後に続いてきた。

「留平、沈瑩…」
「んもーそんな他人行儀な呼び方しないでくださいよー。
やっと、部のほうに顔を出させてもらえるようになったんですね」
「やっぱ承淵先輩が居ないと部がまとまんないッスよ。
今水泳部も三年生の先輩が、受験勉強やらなにやらでどんどん辞めちゃっている状態ですからねー」

先頭に居た栗色髪をポニーテールにした少女と、青みのある黒髪をアップにまとめた少女が口々に言う。
二人とも学校指定のジャージ姿だったが、開いた胸元からは水着の一部が見て取れる。
おそらく着替えを終えて、これから部活動を開始する準備をするのだろう。



栗色髪の少女は先代水泳部長・留賛の末妹留平、黒髪の少女は丹陽棟の突撃隊長として武名を馳せる沈瑩。

丁奉が水泳部に立ち寄らなくなって以降は、このふたりが後輩たちのまとめ役でもあった。
彼女は形式的な「部長」として、部の方針をメール等で配信するのみで、半年以上も疎遠な状態が続いていた。
向こうからはしばらく返信もあったが、彼女はいつしか目を通すこともなくなり…やがて、返信も来なくなったことに一抹の寂しさを感じると同時に…最早、その関係もまた「形式上」のものでしかない、そう思うことにしていた。

否、そうさせたのは丁奉自身だった。
そしてそこに「丁奉の存在を留平が嫌っている」という噂の真実があるのだ。



「済まない…私が不甲斐無いばかりに」

留平のその一言に、丁奉は心がわずかに痛む感覚がした。
深々と頭を下げるのを、慌てて留平が押しとどめさせる。

「わ、わ、やめてください先輩っ。
最近はメールも返してくださらなくなったから、きっと幹部会のほうが忙しいんじゃないかなって思って。
むしろ余計な手間を増やしてしまってたら、私のほうこそごめんなさいっ」
「私こそ、本来ならここへのこのこ顔を見せにこれる資格など…」

後ろめたさを隠すようにまくし立てる丁奉の手を取って、留平はふるふると頭を振って微笑む。

「そんなことありませんよ、先輩が頑張ってらっしゃるからこそ、あたしたちはこうして活動できるんですから」
「マジ、どいつもこいつも勝手なこと言いやがるよな。
留平が先輩にあまり近付いたりしないようにしてるの、先輩の邪魔したくねーからだってのにな。
まあ先輩のこと嫌ってるとか言われてるの留平だけだから、あたし関係ねえけど」
「ううー納得いかないよー本当にさあー。
でも嬉しいなあ、先輩今日は、気分転換にひと泳ぎしていきますよね?
というか…無茶を承知で後輩達の面倒、ちょ~っとくらい見てあげられればなあ…とか」

そう言って留平は丁奉の袖を引く。
その無邪気な笑みと、期待の眼差しに…丁奉は思わず、表情を緩ませた。


そうだ。
小難しいことは一度、忘れてしまおう。
昔のように…思いっきり泳げばこの煩悶も、忘れられるかも知れない。


「解った。
少し待ってもらえるか、一度寮へ戻って水着を」
「あれ、先輩の水着でしたら、まだロッカーにおいてありましたよ」
「時折洗濯はしておきましたから、着るぶんには問題ないと思うんスけどね。
んまー最後に先輩来てから半年ちょい経ってるけど、見た感じそんな体型だって変わってないみたいだし…んまあ多少ぴちぴちになってたってあたし達気にしませんから」

二人は口々にそういって、ぐいぐいと棟のほうへ引っ張っていく。
一瞬、二人が何としてでもこの場から自分を逃すまいとする方便かと思った丁奉だったが…そういえば、自分で何時でも泳げるよう、常に何着か部室のロッカーにおいておいたことを思い出し、苦笑した。
まるであの時から、時間が止まっているように思えた。

「そういえば…そうだったな」
「じゃ、決まりですね」
「あたし先に行って、みんなに伝えてくるよ。
一年坊喜ぶぞ~」

先行して棟へと戻る沈瑩を見送りつつ、留平に手を引かれるまま丁奉も半年振りに廬江棟内に足を踏み入れた。


その光景を見やる影の存在に、気付くこともないまま。