放課後の武昌棟、生徒会長室。
この日の幹部会も半ばで退席し、孫皓は夕日を背に、険しい表情で中空に視線を彷徨わせている。
この日は結局、陸凱が姿を見せることはなかった。
押しの弱い孟宗、どちらかというとおっとりとした性格の丁固といった数少ない良識派が、陸凱という天敵が居ないことで勢いづいた岑昏ら家政部の少女たちに主導権を握られる形で、会議は進行した。
しかし、そんな会議のことなど、孫皓にとっては瑣末なことだったといえた。
「どうやら敬風先輩が裏で動いているようです」
万彧は、抑揚のない口調で言う。
夏前の日の長い時期とはいえ、既に部屋の中は薄暗い。
逆光を背にする孫皓の表情は変わらないように見える。
「今、彼女が下手な行動に出た場合、私たちの計画が破綻をきたすことも考えられましょう」
「そうね…でも、私には彼女を止める資格はない」
返ってくる声は、悲痛で…悲壮にすら聞こえた。
「そんな資格なんて、もとからありはしないのよ…!
でも、こうするしか道は、残ってない…っ」
逆光を浴び、輝く雫が…憔悴しきったあどけない顔を濡らしていく。
その表情には、あの日見せた険のある表情など何処にも無く。
「彧ちゃん…あたし、怖い…怖いよ…!
ねえ、あたしは最後、先輩になんて言ったの…!?
もう何処まで自分の意思で話せていたのかわかんないよっ…!!」
その言葉を遮るように、黒髪の少女はしっかりとその体を抱きとめる。
激しく嗚咽する少女をあやしながら。
「大丈夫です…あなたは誰もあの時、傷つけてなどいません…!
敬風先輩たちも無事です、ですから…そんなに悲しまないで…!!」
その少女は、紛れもなく現在の長湖部を統べる存在。
後に学園史屈指の暴君としてその悪名を残すこととなる孫皓、字を元宗…その人である、はずだった。
だが、その姿はあまりにも暴君というには程遠い姿だった。
「最早…手段を選り好みする段階に無いのかもしれない。
最悪の手を、最悪の状況になる前に打つ覚悟も…!」
万彧の瞳にも、強い意志の光が灯る。
それは…陸凱の見せたものと、似て非なるもの。
「子孝姉様が愛した「長湖部」まで、地に貶めないために」
-長湖に沈む夕陽 第一部-
三 「こころの在り処」
「よーし、一旦休憩ね~」
練習開始から45分。
初代長湖水泳部長・孫策(というよりもマネージャーだった周瑜)の定めた規定に則り、この日最初のインターバルが置かれた。
とはいえ、スケジュールは無視できないほどのずれが生じている。
なにせ着替え終えた丁奉が顔を見せた瞬間、特に今年度の一年生部員たちが大はしゃぎして収拾に手間がかかったせいだ。
練習が始まっても、丁奉も面識がなかった今年度の一年生からやれアドバイスしろ、やれ泳ぎを見せろだのと引っ張りだこの状態でそれどころの騒ぎではない。
それでも留平がなんとか1年生を捌いてノルマをこなさせていた。
その様子から、丁奉は自分の不在の時は彼女が水泳部をまとめていたことを知った。
「どうですか先輩、久しぶりに泳がれてみて?」
ベンチに休む丁奉の側に、留平が腰掛けていた。
丁奉も留平も、長湖水泳部ご用達の「長湖さん」ワッペンつきの競泳水着だった。
彼女らが着ている水着はそれぞれ個人の所蔵だが、水泳部員は「長湖水泳部の一員」という所属をアピールするため、水の抵抗を最大限に抑える素材で作られるこのワッペンを、そのどこかに貼り付けることを不文律としていた。
2年生にこれを着て居る者が多い様子から、恐らくは大会が近づいているのだろう。
そして、懸念された水着のサイズも、問題なく体にフィットして、まずはそれに安堵する自分がいることに苦笑を隠せなかった。
「正直、ブランクが大きいな。
初対面の一年生達はともかく…りゅ…平ちゃん達も何時の間にかみんなずっと巧くなってて驚いた」
この数時間のうちに、丁奉の表情もずいぶん自然なものになっていた。
そして、その口調も。
留平は謙遜するかのように首を振る。
「それでもまだまだ先輩には敵わないですよ。
それに今年の新入生にすごい娘が居て」
「あぁ…あの背の高い娘」
丁奉も気がついていた。
群がってきた少女の中にひときわ背の高い少女が居たが、その泳ぎも見事なもので、丁奉の見た限りでは先々代部長にあたる凌統のそれと比べても遜色がないように思えた。
「ええ、あの娘…士則は今年の新入りの中でもかなりの実力者なんですっ」
「水泳以外にも相当、鍛えてそうに見える」
「はい、確か剣をやってるって。
何でも最初、危うく豫州の剣道部に無理やり入部させられて…あたしは水泳やるからって、退部の条件として向こうの先輩達を打ち負かした上で、こっちの水泳部に来たって言ってました。
俄かに信じられない話なんですけど」
留平は首を捻って見せる。
「とにかく、そんなところもあって、一年生の中でもあの娘がいちばん承淵先輩に逢いたがってましたよ。
あとでちょっと、相手をしてあげてみてくださいね」
「ああ、解った」
応えながら、丁奉は何時の間にか、自分が自然に笑顔で居ることに気がついた。
言葉は今現在の堅苦しいものだったが、それでも、後輩達がこうして自分を受け入れてくれることに、胸のどこかが熱くなっていくのを感じていた。
この空間に居ることそのものに、違和感を感じなくなってきていたが…それが故、心の中の澱みが、さざ波を立て始める。
(私は…この子達を巻き添えにしていいのか?
敬風が…あたしたちが、これからやろうとしていることに…!)
その苦悩は、次第に大きくなっていく。
…
…
部活の終了時間は規定よりも大分過ぎていて、外に出る頃には8時を大きく回っていた。
「いや~、「廬江のトビウオ」の異名は伊達じゃないっスね。
完敗ですよ」
その背の高い、黒髪ショートの少女は豪快に笑った。
160もない留平はさておいて、丁奉や沈瑩なども170近くあるから背は高いほうではあるが、彼女はさらに頭いっこ上…おそらくは190近くあるように思える。
そのくせスタイルもルックスも良く、モデルにでもなればそれでも十分に食っていけそうにも見える。
…
少女の名は吾彦、字は士則といった。
幼い頃には近所の暴れ犬を素手でひねり倒したという武勇伝をもっており、「蘇州の犬伏」という異名で新一年生の中でもそれなりに名の知られる存在である。
実のところ、先に留平が述べたことも純然たる事実である。
初等部の卒業を控え、中等部生でありながら抜群の猛将として長湖部にその人ありといわれた丁奉に憧れた彼女は、幼少期から続けていた水泳に打ち込むことは勿論、その武勇も近付かんがために剣道クラブにも顔を出す「二束の草鞋」を履くようになった。
ところが水泳のみならず、そもそも備えていた強力に格闘センスがそれで開花したことで当時の蒼天会豫州校区総代の目に留まった彼女は、その旗下にある豫州剣道部の主将から強引にスカウトされてしまうこととなる。
長湖水泳部に行きたかった彼女は再三にわたって部活動をボイコットするなど抵抗と続けるも、その武勇に未練たらたらな剣道部主将の無茶振り…すなわち、彼女が選んだ誤認の先輩達を打ち負かせたら吾彦の条件を飲むと言い出した。
このような無法本来なら許されることではないが、吾彦は見事、その全員を全く寄せ付けぬ圧倒的な武を示した。
そして、たまたまこの棟を訪れていたある蒼天会執行部員の鶴の一言で、剣道部主将は一切の口出しも許されず…晴れて自由の身となった吾彦は高等部進級と共に長湖水泳部の門を叩く事となったのである。
この話は面目を潰された剣道部主将らが揉み消したため、公式的に蒼天会側の誰が関わっていたかは定かではなく、吾彦も忘れてしまっていたが…去り際にその執行部員から「江陵の朱績ちゃんに会ったらよろしくねぇ」と妙ににこやかに言われたのだけは覚えていたという。
…
「いや…最後のターンで君がもたつかなければ、敵わなかったかもしれないな。
「蘇州の犬伏」の噂を聞いたことは確かにあったが、流石だよ」
丁奉の賛辞を割って、沈瑩が横から茶々を入れてきた。
「でもさ先輩、コイツは見てのとおり背ぇ高すぎて、ターンする時どうしても頭か足が引っかかるんですよ」
「うわなんか酷いこと言われてらぁ。
その代わりあたしは手足も長いから直線じゃ超有利なんスからね!?」
食って掛かる吾彦を、沈瑩や他の部員たちがからかっているその光景が、丁奉には眩しく見えた。
しかし不思議と、彼女は疎外感をまったく感じては居なかった。
その喧騒に割って入り、丁奉は吾彦に告げる。
「そうだな。
他は申し分ないけど、ターンのタイミングは練習したほうがいい。
それが出来るようになれば、君ならもう10秒はタイムが縮まると思う」
少女たちから、お~、と感嘆の声が上がる。
「じゃあ明日教えてくださいよ。
先輩が引退されるまでに、絶対追い越して見せますから!」
やや照れくさそうにしながらも、真っ直ぐに、自分を見据えてくる瞳。
その瞳と表情に、かつて甘寧や陸遜の後ろを追いかけていた自分の姿が、重なったような気がした。
「ああ、明日は土曜だから…重要な会もないはず。
徹底的に、付き合おう」
「よっしゃ!」
丁奉の応えを気にしていた少女たちも、満面の笑顔で喜び合った。
…
それから一週間。
時折どうしても抜けられない会議があったりもしたが、丁奉は授業が終わればすぐに廬江棟を目指すようになっていた。
丁奉の泳ぎも、通うごとにそれまでの切れを取り戻し始めていた。
最初は硬い感じだった言葉も表情も、徐々にではあったが、部活にいるときは半年前の彼女に立ち返りつつあった。
そんなある日のこと、寮に帰りついた彼女を待ち受ける人影がひとつ。
その正体に気づいた彼女は、その手の荷物を取り落としてしまった。
「敬風…!」
「よう、楽しそうじゃないか」
その表情は普段、軽口を叩く陸凱そのものだった。
しかし、その瞳は…まったく笑ってはいない。
そして、この段になってようやく、丁奉はその瞳の奥に狂気にも似た光を内包して居ることに気がついた。
「お前の心配は杞憂で済んだようで何よりだ。
そして…お前の浅知恵で他の有象無象までは謀れようが、あたしの目まで誤魔化せると思うなよ」
丁奉の顔から一気に血の気が引いた。
忘れていたわけではない。
しかし、彼女は隠し通せないことを感じていたからこそ、陸凱が考えを改めてくれないかと、淡い期待を抱いていたのも事実だ。
今までその存在を蔑ろにされていたというのに、これほどまでに変貌してしまった自分を、それでも受け入れてくれた少女たちを生け贄にするようなことが耐えられなかったから。
丁奉は、自分を冷たく見据える少女の裾にとりすがるようにして、哀願した。
「待ってくれ!
あの娘たちはこれから大会を控えているんだ…頼む、せめてそれが済んでからでも」
「阿呆。
こっちに残された時間は少ない、タイムスケジュール的にはぎりぎりだ。
お前の意見を考慮してたら間に合いはしない」
「敬風…おまえ…ッ!!」
掴みかかろうとする丁奉だったが、殺意すら孕む狂気の視線にたじろぎ、反射的に後ずさる。
「どの道、現会長サマから御指名が来る。
それを奇貨とし、留平がその気になってくれればいいだけの事。
今の状況が続けば水泳部の大会どころか、その存続すら危うくなるなんて馬鹿にでも分かるさ」
あまりにも、狂気じみた笑顔だった。
それと同時に、陸凱が抱え込んだ闇が如何に深く、濃いものである事を…丁奉は今更のように思い知らされた。
「一時の平穏を求めるべきか…それとも、これからの平和のための礎となるか。
お前には説明の必要はないだろ」
床に力なく座り込む丁奉には見向きもせず、陸凱はそういい残してその場を立ち去った。
まるで、それを待っていたかのように…空からぽつ、ぽつと雨雫が落ちてくる。
「私は」
へたり込んだまま、彼女は呟いた。
その視線を、中空に彷徨わさせながら。
降り始めた雨に、包まれながら。
「あたし…いったいどうすればいいの…!?」
その問いに、応える者はなく。
…
丁奉はそれからふらふらと雨の中を彷徨い、気付いたときには廬江棟室内プールのプールサイドに佇んでいた。
波一つない水面に、全身すっかり濡れ切った、うつろに視線を彷徨わせる自身の姿が映っている。
如何な形であれ、孫皓が式典の為に水泳部員を駆り出すと言うなら、既に部員たちに伝わっていることだろう。
その話題を持ち出し、そこから部員たちが孫皓に対してどう思っているか聞き出すことも不自然な話ではない。
しかし、丁奉は努めて、部員達の前でそういう話題を避けていた。
(あたしがその話を…敬風の計画のことを伝えれば。
あたしはきっとあの子達の思いを裏切ることになる)
こうして自分が再び水泳部に近づいたのも、すべてそのためだったのかと、部員たちは自分を責めるに違いない。
だが、彼女がそれ以上に怖れていたのは。
彼女自身も気付いてしまった…否、以前からまるで変わらずそこにあった純然たる事実。
(ちがう…ちがう!
あの子達なら、そんなこと…むしろ真逆、最悪の事態だッ…!
あの子達なら、やってしまうかもしれないじゃないか…あたしは、あたしはそれを防ぎたかっただけなのに!)
だからこそ、彼女が遠ざかる必要があったのだ。
呂拠の軍団も、呂拠を信じてついていこうとした者たちだった。
彼女の説得もむなしく、結局彼女達がどうなってしまったかを、丁奉は知っている。そして、その姿は水泳部の子達に重なってしまう。
成功すれば、あとの処理は陸凱たちがどうにかまとめてくれるかもしれない。
だが、その際に生じるだろう多大な犠牲…それを彼女は、計画が失敗する以上に恐れていた。
だが、陸凱の言うことも良く解っている。
このまま手をこまねいて傍観していれば、長湖部は破滅するしかない。
長湖部の破滅は、今の水泳部もまた、なくなってしまうということ…究極ともいえる、二律背反だ。
(どうすればいい…?
あたしどうすれば…いいの…誰か…!!)
きつく握りしめ、震える拳。
答える者のない問いを、己の内に何度も投げかけながら、彼女はその場に立ち尽くしていた。
「先輩?
どうしたんですかこんなところで?」
不意に後ろから声をかけられ、驚いて振り返ると…そこには既に水着に着替えた留平の姿があった。
不思議そうな顔をして丁奉の顔を覗き込む留平。
そして嗜めるように告げる。
「確か今日は幹部会議があったんじゃないですか?
だめですよ~、会議サボったりしちゃ…って、もう先輩びしょ濡れになってるしっ!?」
務めて明るい語調で、今更のように驚いている後輩の姿に…その胸中は、乱れきっていた。
「んもー…水着の代えはあっても、制服の替えなんてありませんよ、先輩?
長湖運動部の代表である先輩がそんなことしてたら」
「どうして」
言葉を遮られ、留平は初めて丁奉の表情に気がついた。
「平ちゃんは、あたしが本当に憎くはないの…!?
あたしは、あたしは平ちゃんたちを」
「先輩?」
「長湖生徒会を今みたいにしてしまったのは、あたしなのに…!
私が孫皓さえ部長に据えようなんてしなければ!
こうやって平ちゃん達と一緒にいれば、平ちゃんもとんでもない計画に巻き添えにしちゃうかもしれないのに…それなのにっ!」
その声に何事かと、慌てた様子で沈瑩、吾彦ら他の部員たちも集ってきていた。
「何でみんな、こうやって受け入れてくれるんだよっ!
あたしのことなんか、放っておいてくれれば良かったのに!!」
限界だった。
その双眸から涙がぼろぼろとこぼれ落ち、頬を伝ってプールサイドの床へ吸い込まれていく。
「心の壁」というダムが決壊した、鉄砲水のように留まらぬ涙を払うこともなく、彼女は感情のままに叫ぶ。
その言葉も、その姿も…完全に「壊れてしまう」前の丁奉そのものの姿だった。
「先輩、もしあたしたちが…あたしが本当に先輩を憎んでいるといえば…先輩は満足なんですか?」
沈黙を最初に破ったのは、留平だった。
慟哭し、泣き崩れた彼女を介抱するようにして、彼女は穏やかな口調のまま続ける。
「本当は知ってたんです。
先輩が副会長…陸凱先輩と話してたこと、全部」
その言葉に、驚いた丁奉は留平のほうへ視線を戻した。
寂しそうに笑う留平。
「あの日、本当に偶然だったんだけど…あの近くをランニングしてたんです。
そうでなかったらきっと、逆にこうして先輩を受け入れることなんて、あたしにはできなかったかも知れない。
先輩はそれだけ長く、此処を離れていたんですから」
留平はひとつ頭を振り、なおも続ける。
「でも、元々から先輩を憎むだとか、恨むだとかそんな気持ちなんてありません。
あのあと、あたしみんなにもそのこと、話したんです。
みんな結局は先輩の事、好きだから…もしかしたら、そのことがきっかけになって先輩が戻ってきてくれるって、みんなで喜んだんです」
留平がわずかに目をやると、沈瑩たちもわずかに頷いた。
沈瑩は丁奉の側に歩み寄ると、その手をとった。
「理由はどうあれ、先輩はちゃんと戻ってきてくれたじゃないですか。
先輩たちが部の行く末を考えて、苦しんでいたのは知っています…でも、これ以上先輩がそのために傷つく姿なんて、見たくない…みんな、一緒ですよ」
「だから、あたしたちもその話には触れないようにしてたんです。
出来るなら、先輩がもう二度と傷つかないで済むよう…先輩が副会長の計画を…できれば生徒会とかの嫌なことだって、全部全部一刻も早く忘れるように。
もうやめましょうよ先輩…誰かを傷つけるとか、傷つけられるとか、もう嫌なんです」
「平ちゃん、瑩ちゃんっ…!!」
泣き伏した二人の身体を、丁奉は強く抱きしめていた。
周りの水泳部員達も、同じような寂しい笑顔で、三人の姿を見守っている。
「もういいじゃないスか、承淵部長。
あたし達の力が必要だってんなら、いくらでも力になります。
ナマ言うかもしれませんけど…そんなことをしなくたって、他に方法はあると思うんスよ、あたし」
吾彦の言葉に、涙をぬぐうことなく何度も丁奉は頷く。
彼女にはもう、こうして自分がこの場所へ戻ってくるのを待ち続けた少女たちの心を裏切ることは出来なかった。
(ごめん、敬風…あたしは先輩たちの築いてきた長湖部を、終わらせることになるかも知れない。
でも、もうあたしには、これ以上この娘たちの心を踏みにじるなんて出来ない…そんなことできないよ!)
彼女は、煩悶の晴れたその顔を…いまだ溢れ出る涙をぬぐうことなく、少女たちを見回して頷いた。
「解った。
あたしはもう、幹部会には戻らない。
これからは……っ!?」
その入り口に、数名の少女が立っていることに、丁奉は気付いた。
そして、その先頭には緑の跳ね髪の少女。
彼女の全身が、総毛立つ感覚に襲われる。
「ああ、ここまで想定通りだと清々しくすらあるな。
何処まで言ってもお前はお前だ」
「敬風…ッ!」
そこにいたのは、陸凱、丁固、孟宗を筆頭とした…今回の計画に関わっている少女たちであった。
丁奉は乱暴に涙をぬぐい立ち上がると、その異様な気配を察し恐々としながら様子を伺う部員達を庇うかのように…陸凱の前に立った。
丁奉を冷たく見据える陸凱の視線と、それから部員たちを護ろうとする丁奉の視線が交錯する。
その睨み合いの膠着を先に破ったのは、陸凱のほうだった。
「今のお前は長湖生徒会のことだけしか考えてないかと思ってた」
彼女は不意に表情を緩め…微笑んだ。
「計画のためには残念な話だけど…あたしはかえって安心したよ。
ある意味では、これで良かったかもしれないな」
「じゃ…じゃあ!」
その言葉に、丁奉も彼女が考えを変えてくれたのではないかと、そう思った。
「勘違いするな、馬鹿野郎。
それで計画が変わると思ったら大間違いだ」
だが、一縷の望みはあっさりと打ち砕かれた。
その視線には、最早狂気しか見て取れない。
陸凱はそれこそ本当に、「長湖部」の未来のことだけを考えている。
孫権との行き違いのせいで部を去らなければならなくなった族姉・陸遜が、それでも護っていきたいと言った言葉を、今も一途に護ろうとしている彼女なら…どんなことがあっても、この計画を捻じ曲げることなどしないだろう。
丁奉の背筋に冷や汗が流れた。
「それでもあんたの計画に、みんなを生け贄に捧げるなんてあたしは許さないよ…!」
丁奉は涙をぬぐい、腫れたままの目で、狂気の光を放つ親友の目の前に立つ。
丁奉は知っている。
丁固や孟宗はともかく、陸凱は古武術の皆伝を持つほどの戦闘能力を持っており…彼女が本気を出せば、例え自分が剣を手にしていたとしても容易にねじ伏せられる相手ではないことを。
丁奉自身、徒手でもかつての姉貴分である甘寧が振るったレディース仕込みの「喧嘩殺法」を用いてある程度の戦闘はこなせるし、そこいらの有象無象ならばそれで十分圧倒してしまえるだろう。だが、その武を「怪物的」とも形容できる甘寧とは異なり、彼女の実力で武術の皆伝者を相手取れるかといえば、疑問が残る。
だが、やるしかない。
大切な「仲間」を守るため、彼女は拳を握りしめる。
しかし、陸凱はにべもなくそれを一瞥して吐き捨てる。
「誰がわざわざお前の都合に耳を貸すか。
こんなことだろうと思ったから、あたしが直接部員に交渉するために来たことくらい解らんのか」
息を呑む丁奉。
その考えそのものは違うが…陸凱のその表情には、かつて自分が葬り去った友のそれと重なる。
「な…なんでそんなことをいうんですか、陸凱先輩っ!」
突如後ろから上がった声に、丁奉は思わず振り返った。
その視線の先にいた声の主…留平は、満面に怒気をみなぎらせ、陸凱たちを睨みつけていた。
留平が前に進もうとするのを、丁奉は慌てて制しようとした。
しかし留平は、なおもその身体を押しのけ、一度丁奉に視線を送って、「大丈夫ですよ」というかのように頷いた。
そして、改めて陸凱に対峙する。
「ああ…留姉妹の末っ子か。
実質お前だけに話をすれば問題なくことは進む、丁度いいな」
「先輩、もういい加減にしてください!
何時までそうやって、承淵先輩を苦しめれば気が済むんですか!?
先輩たちは友達だったんじゃないんですか!?」
淡々と事務的に話す目の前の陸凱に、噛み付かんばかりの勢いで、怒声を叩きつける留平。
その言葉にもさして怯んだ様子もなく、陸凱はわずかに苦笑した。
「苦しめる、か…確かにそうかもしれないな。
その意味では承淵を計画から外すことになったのは良いことだったかも知れない…汚れ役はあたしたちだけで十分だ」
「だったら、もういいでしょう!?
これ以上、あなたはどうしようというんですか!?」
陸凱の顔から一切の笑みが消えた。
その狂気の視線が、留平を射貫く。
「知れたこと。
式典に水泳部員が駆り出される以上、あたしたちの計画を遂行するためにはどうしても水泳部員の存在が鍵になる。
承淵が動けない以上、お前たちに動いてもらわなければならないということだ。
そのために承淵を好きに泳がせておけば、何れ切欠はつかめると思っていたが」
留平も、その意味するところを即座に理解した。
「私たちに…孫皓会長を討て、と…いうことですか」
「そうだ。
あの会長が承淵を動かさないというからには、お前たちにやってもらわなきゃいけないんだ。
現在実質的な水泳部のまとめ役である留平…孫皓自身が指名したことだ、ヤツの判断自体が最高の誤算である事を、思い知らせてやる」
陸凱は、その視線をさらに強め、告げた。
「長湖部の、ひいては水泳部の未来への礎として…引き受けてくれるだろうな?」
語尾は疑問型だったが、そこには明らかに「賛同」のみを強迫する響きがあった。
その表情に、水泳部員たちの多くも顔面蒼白になって成り行きを見守っている…いや、その狂気に当てられ失神しかけながらも気を失うことさえ出来ない、そんな風であった。
それを最前線で受けている留平の身体も、小刻みに震えているのが丁奉にも解った。
しかし、留平は。
「嫌です」
一言…ただその一言を、はっきりと言い放った。
その凛とした声に、孟宗も丁固たちも、丁奉ですらかえって呆気にとられてしまった。
一瞬、冗談を言っているのかと思った。
確かに平生の留平はどちらかといえばムードメーカー的な存在で、丁奉不在の水泳部をまとめていられるのもその性格によるところが大きい。
たっぷり三十秒、その沈黙を破って、丁固の乾いた笑い声がした。
「あ…あはは…な、何もこんな時に冗談言わなくても」
「先輩が真面目なお話をされている時に、冗談で混ぜっ返すような事はしません。
本心から…お断りします」
しかし、留平は毅然とした表情のまま、そう言い切った。
丁固とて他者の感情に対して愚鈍な性質ではない。むしろ、鋭敏なほうである。
言葉の中に怒気が含まれていることに、丁固も言葉を失った。
そして顔面蒼白のままの孟宗が、震えた声で問い掛ける。
「何故…?
今、部長の好き勝手に振り回されて、部の存続すら危うい状態だって…あなたも知っているでしょう?」
「知らないはずなどないでしょう。
実際水泳部も例外ではないのですから」
「そこまで解っているなら」
「私たちにとって、部費の多寡とか、活動が苦しいとかなんて問題じゃないんです。
私たちが許せないのは、あなたたち長湖生徒会幹部なんですから」
「え」
留平の表情に鬼気迫るものを感じ、孟宗はたじろいだ。
一見気圧されているはずに見えたその少女が、内に秘めた激情から発するそれで、陸凱の放つ狂気に真っ向から相対していたことを、丁固や孟宗のみならず、丁奉も、沈瑩達も…その場にいた全員が気づいた。
「あなたたちは、何時も何時もそうだ!
確かに承淵先輩は、戦略上長湖部の戦闘活動に欠かせない存在かもしれません。
でも、そのために先輩は変わってしまった!!」
「そ…それは」
取り繕おうにも、丁固にも孟宗にも、その他の少女にも言葉が出ない。
肝心の陸凱も、無感情にその様子を見つめながら沈黙を守っている。
「為政者はいつもそうだ、文句ばかりが美しくて!
長湖運動部連合総帥である丁奉の代わりなんて真っ平御免よ!
そんなことよりも、私たちの承淵先輩を返してよっ!!」
留平の激昂の叫びは、傍らにいた丁奉に身体を支えられると、そのまま慟哭に変わった。
そして、今まで成り行きを見守っていた沈瑩、吾彦もその前に踏み出していた。
「留平の言うとおりだよ…あんたたちはそうやって、友達面して承淵先輩を追い詰めてきただけじゃねぇかよ!」
「最後には汚れ役をかぶるって言うけどさ、だったら、何でこんな回りくどいことする必要があんですか?
最初っからあたし達…つーか、副部長に直接話するのが筋ってモンだろ。
あんたらも蒼天会のクソどもと一緒だな、やり口がきたねえし無駄にしつこいし」
吾彦の言葉を受けて、頷く沈瑩が続ける。
「まーそーゆーわけで、泣いて使い物にならない副部長の代わりに、僭越ながらあたしから言わせてもらうけど…以上が我々長湖水泳部の総意っすわ。
第一会長が「そんな大事にはしたくない」と明言してるなら、わざわざあたしたちを駆り出して大事にするこたぁないでしょうが」
「どうして、それを!」
その言葉に、丁固を初めとした少女たちの顔色が変わる。
沈瑩は咳払いを一つすると、内心の憤懣をこれ以上出さぬよう務めて冷静に言い捨てる。
「万彧副会長が、副部長に話してくれたんスよ。
部長も部長でただ馬鹿をやっていたわけじゃない。
あんたがたの見ていたものが、すべての真実だと思ってんなら大きな間違いだ」
丁固たちも…そして丁奉さえも、その事実に言葉を失った。
この件を孫皓が知っているというのであれば、恐らくは処断は免れないだろう。
水泳部員たちが非協力的である以上、このままで済む事はない。
ましてや自分たちは陸凱を除けば腕に覚えのあるほうではないし、水泳部員は長湖部でも屈指の戦闘能力を誇る集団である。
後にその水着の青から「青巾軍団」と称される事となる、長湖部の精鋭集団なのだ。
丁奉が命令を下さなくても、その中心的な存在である留平か沈瑩のいずれかが檄を飛ばせば、その暴威は忽ちにして自分たちを虜となすだろう。
いや、彼女たちが本当に孫皓の命令に忠実に動くなら、恐らくは丁奉をも。
「じゃあ…このままあたしたちは大人しく、お縄についたほうが無難…ってことなのかな…?」
丁固は観念したかのように、肩をすくめて言った。
沈瑩は頭を振る。
「あたしたちにはあんたたちをどうこうするつもりはない。
それに、あんたたちが計画を取りやめてくれるというなら、この件は聞かなかったことにするってのが会長の意思らしいですよ」
丁固たちだけでなく、丁奉もまたその言葉を訝った。
あれだけ、己に逆らおうとしたものを容赦なく処断してきた孫皓が、何故この件だけは見てみぬふりをしようというのだろう?
始めは排斥計画に関わったものの抵抗を可能な限り少なくしようという方便ではないか、とも丁固たちは考えた。
だが水泳部員たちの表情からはそのような気色は窺えない。
仮にそれが自分たちの一存だとしても、この件は他言無用にするとでも言うのだろうか?
丁固や丁奉、孟宗のこうした思索は、それまでずっと押し黙っていた陸凱の呟きで中断された。
「そうか…そういうことなのか」
押し殺した笑い声。
その表情は、自嘲の笑みだった。
「そこまで、見透かされていたと。
そこまで解る聡明さがあるなら…何故、あいつは」
その場に力なく崩れ落ちる陸凱。
呆然と呟いたその表情には先ほどの鬼気は既に消えうせ…憔悴しきったその瞳からは大粒の涙が零れ落ちていた。
「何故なんだ!
何故あいつは、長湖部諸共自分を潰してしまおうとしてやがるんだ!!
自分で自分を貶めるようなマネをっ…何故なんだあああああああああああッ!!!」
一声叫んだ瞬間、彼女は胸を抑えると…そのまま前のめりに崩れ落ちた。
「敬風っ!」
倒れ付したその姿に、それまでまったく動けずにいた丁奉が、反射的にその側へと駆け寄り、その身体を抱え起こした。
抱え起こしたその口元から、ひと筋、暗紅色の雫が流れ落ちた。