あの日、本当は陸凱と目を合わせずに済むなら、そうしていたかった。
自分に向けられた強い視線にすら、自分の中の「おそろしいなにか」が、彼女へと牙を剥いてしまったら。
だが、何か恐ろしい予感を感じた孫皓は、なけなしの勇気を振り絞ってその場に姿を見せたのだ。
案の定、陸凱から提示された議題など、彼女自身身に覚えのないものだ。
だが、おそらくは家政部の者達が、決定事項としてスケジューリングしてしまっているのだろう。
いったい自分はどれだけ、自分の意識の埒外で事を起こせば気が済むのか。
故に、このような些事など早々に捨て置きたかったのは事実だ。
陸凱には迷惑をかけたくなかったが、彼女はそうした些事を潰し、うまく片付けてくれるだろう…その考えは、予想もしない一言で覆された。
(承淵さんを…?)
普段通り、会議など成り行き任せに聞き流していた孫皓だったが、陸凱のその提案にはなにかひっかるものを感じていた。
確かに、単なる享楽としてのパーティではなく、公式行事的な名分が必要となれば、長湖部の中核にある水泳部の動員が必要になってくるのは解る。
まして丁奉であれば、現長湖部の実質的な最古参であり、知勇兼備の名将であることは誰もが知っている。
専制行為に走ろうとした張布や濮陽興といった連中と違い、あくまで「長湖部」に忠誠を誓う彼女であれば、この場に異を唱えるものはいないだろう。
(でも…今は疎遠とはいえ、敬風さんと彼女は無二の親友のはず。
まさか)
そのことに気づいた時、孫皓は内心、冷や水を浴びせられたような衝撃を受けた。
孫皓は務めて不快そうな表情を作る。
しかしその心情は真逆だ。
ここで彼女を引き下がらせる意見を模索するため、生来聡明といわれたその頭脳をフル回転させ…それでもなお、千尋の谷に張られた吊橋を渡るような感覚で、彼女は言葉を紡いだ。
確証はない。
あくまで直感だ。
孫皓は陸凱が、丁奉と水泳部を利用して自分を「処断」するつもりであることに気がついてしまったのだ。
だが、そこで彼女自身の意識は、暗い闇の中へ沈んでいく。
(だめ…だめ!
おねがい、もうすこし…わたしのまま…で)
必死にもがくその手は、何の救いをつかめぬまま。
-長湖に沈む夕陽 第一部-
終章 「真実、そして決意」
それからすぐに救急車が呼ばれ、陸凱の身は廬江から程近い、江陵の病院へと搬送されていた。
落ち着きを取り戻した留平の勧めに従い、丁奉は丁固とともにその搬送に付き合うこととなった。
搬送されてからしばらくの間、待合室にいたふたりは言葉もなく、その結果が出るまで待ち続けていた。
しばらくして診察結果が出たというので、席を立つ丁奉。
「あたし、此処で待ってて、いいかな?」
「うん…解った」
丁固の辛そうな表情に、丁奉は無理強いせず、ひとりで診察室へと向かった。
…
「結論から言うとじゃな…連日の睡眠不足と栄養不足、そして過度のストレスによって大分胃をやられとったようじゃ」
白髪で痩身、太い眉から細身の目を覗かせる老年の医師は、にべもなくそう告げた。
「あやつといい陸伯言といい、いいやもっと前の陸康やら陸駿といい…陸の一族は思いつめてなんでもかんでも背負い込んで、自分の身体をぶっ壊すのが心底好きなようじゃな」
その言葉は茶化すというより、心底あきれ返ったというのが表情からも見て取れる。
あんまりといえばあんまりな言い草だが、この医師がその毒舌とは裏腹に、患者のことを誰よりも心配しているのである。
水泳部員としての活動中、怪我やらなにやらでこの医師に大分世話になった丁奉はそれを良く知っていた。
「最低でも1ヶ月、それ以上はびた一文でもまからん。
その後は幹部会なんぞに戻らず、大人しく受験勉強でもしとったほうがあやつのためじゃ。
話が出来るようになったら連絡してやるから、そのときにそう言ってやれ」
「はい」
丁奉は、そう答えるのが精一杯だった。
…
「そっか」
丁奉からそのことを聴かされた丁固は、ただそれだけ呟いた。
そのまま言葉もなく、初夏の夜道を帰路に着く二人。
「やっぱり…あたしのせいなのかな。
世議のことだってそう…もっと、うまく立ち回れるやり方だって、あったかも知れなかったのに。
あたしは、敬風みたいに頭良くないから」
どのくらいの沈黙の後か…丁奉がそうもらしたのを聴き、丁固は頭を振る。
そして丁固も、丁奉がこの数時間のやり取りの中で、自分が良く知っている頃の丁奉へ立ち返っていることを感じ取っていた。
「そんなことない。
あたし本当は、水泳部の子達と一緒にいるときの承淵見ててさ、あたしも本当は、敬風のほうを止めるべきじゃないのかなって。
きっと、恭武だってそう思ってたはずだよ…それだけは解ってもらえれば、嬉しいな」
「うん」
「けど、敬風も敬風なりに、伯言先輩や義封(朱然)先輩、他にも多くの先輩たちから受け継いできた思いを、未来へ繋ごうとした。
それだけだったんだ。
あのことの強い思いまで否定できるわけない…板挟みなんてレベルじゃない、まるで鉄の乙女(アイアンメイデン)みたいでさ。
痛くって…痛くって、仕方ないよこんなの」
丁固の声は、少し震えていた。
丁奉が振り返ると、街灯の下に俯いて立ち竦む丁固の姿があった。
「どうして…なんだろうね」
俯いた顔から落ちてくる涙が、街灯の弱い光に当てられ、光の雫になって地面に落ちていた。
「どうして…あんなに必死になっていた敬風が…あんな目に…!
何で正しい努力してる子達だけ…もうワケわかんないよ…!!」
そのまま近くにいた丁奉の身体にしがみつくと、彼女はそのまま泣き崩れた。
その身体を抱き寄せた丁奉の瞳からも、涙が溢れ出した。
…
…
-それでも、あなたにも頼まなきゃならない。
これまで長湖部を支えてきた総ての人のために、あなたにも長湖部を援けていって欲しい-
暗闇の中、かつて病院に見舞った時の陸遜の言葉が、その空間で何度もリフレインした。
(伯姉)
そこに映る陸遜の表情は、そのときに見た、穏かな笑顔のままだった。
-あなた達は、きっとあなた達が思っている以上に、ずっと凄いことができるって、信じてるから-
その言葉は、今まで苦しい時も、辛い時も、ずっと彼女の心の支えだった。
しかし、今ならそうはっきり思える。
これはあまりにタチの悪い「呪い」だったのだと。
否…この純粋な願いを、自分自身が「最悪の呪い」に変えてしまっていたことを。
(やっぱり、あたしはあんたの期待したような器じゃなかったみたいだ。
こんな体たらくで、どの口が承淵を馬鹿呼ばわりしたんだよ…クソが)
その映像が波で歪む。
(承淵のほうが…あたしの何倍も何倍も、痛い思いしてたのかもしれないのに。
あいつ、いいやつだからきっと許してくれるかもしれないけど)
陸凱はその夢の中で、自分が泣いていることを理解した。
(許せねえのは…あたしがあたし自身をだ、クソッタレ)
…
意識が戻りかけたとき、彼女は誰かが自分の手を握っていることに気がついた。
ぼんやりとした視界から、嗚咽の声が聞こえる。
その声と、手を握っていた人物の正体に気づき、彼女は驚きを隠せなかった。
「孫皓…会長」
ベッドの傍らにしゃがみ込み、陸凱の手をとって泣き続けていたのは、孫皓だった。
「何故」
彼女には何故、目の前の少女が泣いているのか、その理由が解らなかった。
彼女が自分を排斥しようとしていたのを知っていたのであれば、何故そんな泣き方をするのか。
「ごめんなさい…ごめんなさい…敬風先輩っ…!!」
かすれた声で、少女はそう呟いた。
陸凱はその後ろのほうに目をやる。
そこには、憂いに満ちた表情の万彧の姿があった。
「理由を、聞かせてもらえるよな?」
「ええ、そのために参りました。
此処であれば、恐らく他に聞き耳を立てるものも居ないはずですから」
万彧は静かに頷き、そう言った。
「ですが、敬風先輩。
今のあなたにとっては、この事実はあまりに酷かも知れません。
そして…これを聞いてしまえば、あなた自身が引くべき道を閉ざしてしまう…そんな気さえ、するんです」
「ふん、分かってるじゃねえか。
まさかここまで一部始終、あたしと留平たちが悶着起こしたところから全部見てた、とか言うんじゃねえだろうな?
なんかお前、冷静になって考えてみりゃそんな気がする。得体の知れないヤツだって前から思ってたし」
そんなことありませんよ、と、何処か寂しそうに万彧は笑う。
そして…その覚悟を見て取った万彧も、その事実を告げる覚悟を決めた。
「この長湖生徒会を今のようにしてしまった原因…「二宮事件」は、まだ終わってなどいないのです」
「どういう意味だ?」
陸凱は、その言葉を訝るより、僅かに不快感を覚えた。
言うまでもなく、それは彼女にとっても忘れることなどできない、悪夢の如き出来事。
尊敬する族姉・陸遜を葬り、大切な妹・陸胤の身体に一生消えぬ傷を刻み込んだ忌まわしき事件だ。
だがこの事件は、孫覇の介入を皮切りにして学外から学園支配を目論んだ孫家の一門・孫魯班が、すべての手駒を失ったことで手を引き、終息したはずだった。
終わったはずだったのだ。
そう思って居たかったのだ。
「確かに先輩の仰るとおり、前会長である孫休お姉様…そして承淵先輩たちの手で孫琳一派が処断されたことで、あの女の手駒は尽きたはずでした。
全子黄…あの女を筆頭とする全一家も、もはや学園都市内に居場所などない。
あの女に与する者は、いなくなったように見えたんです」
怒りと困惑が入り混じった表情の陸凱に気圧されてはいるだろう万彧だが、その都度呼吸をおきながら、落ち着いた調子を崩さず、なおも言葉を続けた。
ここで言う「あの女」とは、間違いなく魯班のことを言っているのだろう。
しかるべき血筋がありながら、その血筋故に学園への入学を許されず、永久に排斥された「覇王」の末裔。
劉氏一族に深い恨みを抱き、それが築き上げてきた「学園」のすべてを否定・破壊すべく、遠縁の全琮を尖兵として長湖部を足がかりにしようとした冷酷無慈悲な復讐鬼。
それが、陸凱の知りうる「孫魯班という存在」だった。
陸凱は、万彧の含みある言葉に、その恐るべき事実を導き出すことが出来ていた。
「まさか、家政部…か?」
「はい。
あの女は「二宮事件」の末期から、言葉巧みに家政部の生徒を抱きこみ、その中から己の尖兵として使用に耐えうる者の選定に当たっていたのです。
「二宮事件」が…己が送り込んだ孫覇とその一派が、最終的に排除され長湖部の乗っ取りが失敗することを見越した上で。
全琮を学園から離したのも、そのためです。
全ては、魯班の布石だった…!」
「な…!」
驚愕を隠せない陸凱。
「私がその事実に気づいたとき、既に元宗様には、二重三重に催眠暗示がかけられていたのです。
特定のキーワードに反応して、その術者の意思を代行させる操り人形となるように。
そのために、子元(濮陽興)先輩や張布さんも巻き添えにしてしまった」
万彧は目を伏せる。
その言葉の響きには、多分に無念さを滲ませていた。
「ちょっと待ってくれ。
どういうことなんだ、暗示って…?」
「元宗様が子考(孫和)様の受難に遭われて、精神的に不安定な時期が続いていたことがありました。
その時の精神科医が、暗示で元宗様の精神安定を図っていたのです。
先輩もご存知のとおり、子考様は…あの事件で次期部長候補の権利を孫亮様に譲られ、長沙棟で残りの学園生活を送られるはずだった」
病による急死によって学園を去らなくてはならなった悲運の部長候補・孫登の双子の妹である孫和は、「二宮事件」の責任を負わされる形で、部の中心部から身を引いていたことは、陸凱とて知らないわけではない。
孫和に返り咲きの野心などカケラもなかったが、諸葛恪が己の権力基盤を固めるためにそれを担ぎ出そうとしているというウワサによって、諸葛恪の失脚と同時に学園を追われてしまったのだ。
それだけではない。
孫和は、学園を離れるに際し、乗っていた電車の事故に巻き込まれ…奇跡的に命は助かったものの、そのとき頭を強打したことで未だに覚めぬ眠りの中にいるのだ。
「そのときから、元宗様は精神の安定を失い、ことあるごとに癇癪を起こしたりすることが多くなりました。
ですから、元宗様もしばしの療養が必要だったのです…確かに元宗様は、表面上は平静を取り戻した…だけど」
握り締められた万彧の拳が、小刻みに震えていた。
「偶然、見てしまったのです…その医者と魯班が、話しているのを。
その言葉から、私はすべての真実を知ったのです」
言い切ったその顔には、怒りとも悔しさともつかない…そんな表情があった。
…
陸凱は沈黙を守ったまま、無言で話を続けるように促していた。
「私にとって、もうひとつの誤算が岑昏の存在でした」
その視線を受け、万彧は再び経緯を語り始めた。
「私たちが高等部に入学した頃、彼女は何食わぬ顔で、我々に接近してきたのです。
初めの頃は、強引で騒がしい程度の印象しかなかった。
しかし彼女と行動を共にするごとに、元宗様が追った心の傷も癒される風に見え、それゆえに私も彼女に疑いを持つことはなかったのです」
その表情から悔しさは消えず…その奥歯が、怒りのために軋んだ音を立てる。
「彼女は言葉巧みに、暗示のことを億尾にも出さぬようにして術を操っていたのです。
先に、あの女が家政部から己の先兵を選定したと言いましたが…岑昏に何定、張俶の輩は、あるいはその生来の悪性を買われ、あるいは悪魔の如き冷徹さを買われ…あの三人こそがまさしく、その中核を担う者。
特に岑昏は危険です。アレは、ただ怜悧冷徹な策謀家ではない…卓越した術士でもあるのですから」
「術士…あいつが、魔法使いだとでも言うのか?」
万彧は頷く。
魔法使い。
超常の力によって超自然の力を操り、人知を越えた様々な事象を引き起こす力の持ち主。
普通に考えれば、それは御伽噺の産物でしかない。
だが、陸凱は知っている。
その存在を知られることはなく、この学園都市にごくわずかながら存在することを。
とすれば…岑昏の操る催眠暗示とは、普通の人間が仕掛ける催眠術とは一線を画す代物である事になる。
「だとすれば…だ。
万彧、あんたはどうやって、岑昏の操り人形となった会長の正気を取り戻させてるんだ?
ただの「暗示」でない以上は、普通の人間にどうにかできる代物ではないはずだが…」
「仰るとおりです。
私は顧家の一門に連なる者よりその手解きを受け、魔術に少々の心得があります。
その力をもって、一部の術を上書きする形で、元宗様の催眠暗示を解除する術を仕掛けました。
このことは、私たち以外に知っているものはいません」
「今聞いたあたしを除いて、か」
万彧は小さく頷いた。
「私は何度か学園の管理部にこの件を報告しようと思いました。
しかし、それを立証すべき材料もなく…無為に時を浪費するだけ。
もう残された手段は、長湖部が長湖部であるうちに、すべての膿を内包しながら滅びの道を辿ることしかなかったのです」
その瞳から、少しずつ涙が溢れ、零れ落ちた。
「すべての汚名を我々で被り、長湖部という「名前」を犠牲にしてでも…その「存在」を次代へ生かそうと…そう、思って。
でもすべてが遅すぎた…!
最早、私たちは消えることなき汚名と共に、「長湖部」諸共に奴らを道連れにするしか…!!」
陸凱もようやくにして、事の全容が理解できた。
そして、彼女たちが彼女たちなりに「長湖部」という存在のために心を砕いていたことも。
だが、それでも彼女はそのすべてを承諾することなどできなかった。
「随分と…身勝手な結論を、出してくれたもんだな」
その言葉にぎょっとして見やった陸凱の表情は、奇妙なほど穏やかだった。
「もしお前たちの思うように事が済めば…この部のために命をかけてきた連中の想いはどうなるんだよ?」
「それは」
淡々と言葉をつむぐ陸凱に、万彧は返す言葉もなく、俯いた。
「どうして…どうして孫家の連中と、その取り巻きは自分たちのことを考えるだけで手一杯にしちゃうんだよ」
それは、何も彼女たちだけに向けた言葉ではなかった。
孫権にしてもそう。
孫登を喪った事で自分を見失い、思い悩んだ末に自らの首を絞める結末を迎えた。
陸遜も、その責任感の強さから、自分ひとりで事を解決しようとした結果、倒れることになった。
しかし、今の自分だって、なんら変わることはない。
この言葉は、彼女自身に対する責めでもあった。
「もっと、もっと早いうちに、何であたしたちに話してくれなかったんだよ…っ!」
「…先輩」
何時の間にか泣き疲れ、そのままの体勢で眠ってしまっていた孫皓を、陸凱は抱き寄せていた。
「いや…まだ遅くはない。
今あたしが聞いたからには、絶対に何とかしてみせる。
あたしたちの代に起こした不始末で、これからの学園生活を送るあんたたちの手を…長湖部の名を…汚すわけにはいかない…!!」
陸凱は片方の手を伸ばすと、傍らにいた万彧の身体も引き寄せた。
「だから、奴らとの共倒れなんてこと、もう考えないでくれ。
長湖部の名も…お前たちも…奴ら如きの棺に使ってやるには、過ぎた代物だよ」
「はい」
その抱き寄った少女たちの姿を、煌々と夜空に移る、初夏の満月だけが映し出していた。
…
翌日。
「倒れたとは聞いてたけど、なんだか元気そうじゃないの」
面会が許されて、最初に逢いに来てくれたのは、彼女にとってもうひとりの族姉である陸績だった。
「伯言もよく言っていたわ。
あなたは私に似ているから、きっと最後には面倒事引き込んで、倒れるんじゃないかって」
「大きなお世話だよ」
そんな言葉に、陸凱も怒るより苦笑を隠せなかった。
だが、彼女には依然、解決の糸口すら見えない難問が、心の中に大きく陣取っている。
万彧たちは明け方を待つことなく立ち去ったものの、それからずっと考え続けて朝を迎えてしまった陸凱は、陸績につつかれて起こされるまでの三時間ばかり、睡眠をとったに過ぎない。
無論良い手段など、浮かぶはずもない。
万彧が語ったとおり、事件の全容を証明する材料があまりにも少ない。
一朝一夕に答えが出るようなら、今こうして過労で倒れてベッドの上にいることもなかっただろう…そんな、自嘲的な考えさえ浮かぶ有様だった。
「なんか悩みは随分深そうね。
あまり立ち入ったことには干渉出来ないけど、話を聞くくらいはしてあげるわよ?」
考え込むうちにそれっぽい顔でもしていたのだろうか…陸績がその顔を覗き込んできた。
陸凱はふと思った。
確かに彼女としても、学園内の悶着について外部に相談を持ちかけるのはルール違反だと思ってはいる。
しかし、今回の件は学園外からの悶着であるとはいえ、下手すれば社会的な問題に発展する可能性もある…だから、極力親しい人間を巻き込みたくないとも思っていた。
とはいえ、陸績であれば、何らかのヒントを見出せるのではないか?
「なぁ公姉、もし学外から学園に介入しようとするとして、公姉ならどういう妨害を受けるのがいちばん困る?」
「何よ突然」
「ちょっと、ね。
もし公姉なら、武力介入以外で学園で権力を握ろうとするなら、どういう手段をとって、どんなことに警戒を払うか…気になったから」
陸績もその真意を量りかね、小首をかしげた。
もともと陸凱自体、なんだかよくわけのわからない推論を考え、それをこねくり回すのが好きで、昔から変な質問を良くされたのを記憶してはいるものの…あまりにも予想外なその問いかけに、かえって答えに困ってしまった。
「あのね、確かに子布(張昭)さんみたいな大例外はあったけど、基本的にOBは学園の課外活動には首を突っ込まないのが原則よ。
学外からなんて言ったらそれこそ論外よ。
だから考えたこともないわ」
「そうだよな」
正論を諭すように言ってはみたものの、陸績も陸凱の表情から、何か違和感のようなものを感じ取ったらしい。
この場合、真意を正直に言えと強迫しても、陸凱の性格からのらりくらりとはぐらかさせるのは目に見えている。
しかし、恐らくは何か重大な…しかも、学園のあり方そのものの根幹にかかわる何か大きな事件に、彼女がかかわっているのではないか…陸績は、そう直感した。
「もしどうしても、というなら、私が伯言にでも訊いて、「答え」をもらってくるわ…それじゃダメ?」
「ううん、そうしてくれると助かる」
意外すぎる陸凱の答えに、陸績はその直感を信じてみることにした。
…
陸績を見送ったあと、陸凱はひとり考えていた。
相手が学外から手を出している場合、それが武力など目に見える干渉の仕方なら対処の仕様もある。
しかし今回のように、目に見えぬ病魔の如く少しずつ侵食する形で干渉してくるなど、過去に例はない。
少なくとも自分たちの知らない、それこそ学園史に残っていないような範例はあるのかもしれないが…学園外のことは、学園外の者にしか対応できないだろう。
陸績の告げた「正論」も、それを示唆しているという風にも取れた。
(とすれば、残された手段は一つか)
彼女はたちどころに覚悟を決めた。
…
それからまもなくのこと、連絡を受けた丁奉、丁固、孟宗の三人が、見舞いに訪れていた。
迎え入れるなり、穏やかな表情で「引退する」と陸凱が宣言したとき、三人は冗談でも言っているのでは…初めはそう思っていた。
しかし、傍らに置かれたままの制服から、当たり前のように階級章を取り外そうとしたのに慌てた三人が、ようやくにして目の前の少女が本気でそういっているのを理解した。
「本気なのね、敬風」
「ああ。
真に遺憾ながら、もう長湖生徒会においてあたしにできるような事はなくなってしまったらしい。
潮時だと思うよ、引退するには丁度いい時期だ」
「そ…そんな…どうして」
その表情は奇妙なほど穏やかで…ほんの数日前まであった険もすっかり取れていた。
あまりに想定外な事態に、色を失う孟宗。
丁奉たちにとってもそうだ。
今まで陸遜の影を追い続け、長湖部の現状を嘆くあまり焦燥に駆られていたように見えた彼女が、こうもあっさりと己の矜持を曲げてしまうなんて…と。
「どうして、か。
そうだな、どこから話すべきなんだろうな」
陸凱は溜息をひとつ吐くと、自分が担ぎこまれた日の夜にあった出来事を、三人に語り始めた。
…
「理由は以上だ。
あの子の本心を知ってしまった以上、あたしはあの子をどうしても救ってやりたい。
そのためにはきっと長湖生徒会副会長の名はおろか、現役部員としての名前すら邪魔になる…そう思ったんだ」
穏やかに…いや、むしろ現実の全てを諦めたように見えながら、三人は陸凱が根元の部分ではやはり陸凱でしかないことに、どこか安堵した。
しかし、彼女の話はどう考えても荒唐無稽な内容に聞こえる。
先ほどの水泳部との一件を見る限り、まったく根拠のない作り話とも思い難いし、陸凱の性格上、無茶な作り話を引き合いにして目の前の問題をすっぽかすような人間でないとも、三人は思っていた。
「先輩のおっしゃっている事は、事実です」
初夏の暑気を払うため、冷房嫌いの陸凱によって明け払われていた戸口に、数人の少女がやってきていた。
声の主である現水泳部のまとめ役の一人、沈瑩。そして留平に吾彦。
それだけではなかった。
その沈瑩の親友であり、実働部隊の作戦参謀を務める文芸部会計の張悌。
長湖のトラブルメーカー歌姫・薛綜の末妹で文芸部長の薛瑩。
長湖幹部会マネージャーの楼玄、王蕃、同じく名将・賀斉の妹賀循、などなど…いずれも長湖部の時代を担う文武の俊英たちだ。
「こういう言い方も不謹慎だと思うけど、やっぱりあんたなら全部背負い込んで倒れるとは予想してたわよ」
その後ろに姿を見せ、苦笑を浮かべるのは、現在交州学区奪還の作戦行動中にあるはずの虞汜。
「よぅ世洪、久しぶりだな」
「ええ、本当に久しぶりね。
そういう感じのあんたには」
後輩たちの中を当たり前のように割って入ると、虞汜は近くにあった椅子を引き、さも当然のようにどっかりと腰掛けた。
「その様子なら、どうやらおまいさんも最初から事情を知ってたみたいだな」
「んや、ごく最近聞いた。
しかもあんたの双子の妹からよ」
「敬宗から?」
流石に陸凱とて思いもよらなかった名前らしく、彼女は目を丸くした。
「えぇ、事情を最初から知ってたのは多分あの娘だけよ。
言ってたわよ…今の風さんに何言っても無駄だから、って」
「いってくれるねぇ…反論できないのが悲しいが」
茶化すように、大仰に肩をすくめる陸凱。
何時の間にか蚊帳の外に追いやられた感のある三人も、ようやくにして陸凱の話が本当である事を信じざるをえなかった。
「敬風…また、あんた一人で全部解決しようなんて…そんなこと、思ってないよね?」
ようやく会話に割り込む事ができた、という感じで丁固が言う。
「お前らにはまだ、居てもらったほうがいい。
奴らを除くために生け贄になるのは、あたし一人で」
「駄目だよっ!」
言いかけた陸凱の言葉を遮る丁奉。
「あたし、あれからずっと考えてた…あたしが本当に守りたかったのが何なのかって。
あたしはきっと、「長湖部そのもの」を守りたかったわけじゃない。
大切な仲間たちと、一緒に楽しく過ごしていけるこの場所を守りたい…ただそれだけなんだ。
そして、できるならそれをあとに残る子たちのために守っていきたい」
その表情にも、先日までの暗い影はない。
それは陸凱たちがよく知る、かつて甘寧や陸遜の背をひたむきに追いかけていた頃の彼女だった。
「だから、あたしにも手伝わせて」
「あたし、じゃないだろ承淵。
あたしたち、だ」
「今度は置いてきぼりなんて、ナシですからね」
その丁奉の肩を思い切り引き寄せる虞汜。
留平の言葉に、穏やかに頷く丁奉。
丁固と孟宗も、ようやくその現実を受け入れることができたと見え、二人で顔を見合わせて頷く。
「や~れやれ、ってことは敬風の抜けたトコはあたしらで埋めにゃならんのか…しんどそーだなぁ」
「大丈夫よ、此処にちゃんと身代わりがいるわ」
茶化すように頭を振る丁固に、珍しくも悪戯っぽい笑みを浮かべて孟宗が後ろの少女たちを見やる。
「え…ちょっとマジで言いますか恭武先輩」
「うちらただでさえ火の車家計のやりくりで」
張悌、楼玄の二人がたじろいだ。
他の少女たちも、どことなく怖いオーラを放つ孟宗に恐れを成したのか、思わず後ずさりする。
「大丈夫大丈夫、私も最近あまり寝てないから。
大概のことは二徹三徹すれば元も取れるわよ」
「しゃれになってないよそれ…つーかあんたもちゃんと寝なさい恭武、よく見たらがっつり目の下にクマができてるじゃない」
にっこりと怖い笑顔で笑う孟宗と、呆れたようにつぶやく虞汜。
そのやり取りに笑いあう他の少女たちも、その思うべきところは一つになったようだ。
長湖部はようやく、そのあるべき姿を取り戻そうとしている事を、陸凱は実感していた。