建業棟、小会議室。
この日は長湖生徒会の定例会議も予定されていない事は勿論、初夏とはいえ既に日は大きく傾くこの時間に、数人の少女がいる。
そもそも通常であれば、幹部級のものであろうと、おいそれと私用で立ち入ることすらもできない場所だ。

逆光の中窓際に佇む者も、少し下がって傅く二名も、その髪型はいわゆる禿(カムロ)…おかっぱ頭というやつだ。
すなわち、岑昏を筆頭とした、長湖部所属の家政科生徒たちである。


しかし…逢魔が時の仄暗いオレンジの光の中佇む姿は、本当にそれが岑昏であるのか疑わしくすら見えることだろう。
普段の下卑た愛想笑いはどこにもなく、険しく細められた切れ長の瞳には、大凡人間らしい温かみを見出すことはできない。
見れば、その周囲の空気が陽炎めいて歪む錯覚すら覚え、権力者に媚び諂う小悪党という形容からはあまりにもかけ離れた姿だった。

傅く何定、張俶の二人さえ、普段の幼稚な態度もなく…その無機質は眼光は、まるで蛇や蜥蜴のような冷温動物を思わせた。


「気に入らないわね」

岑昏が呟く。
その何気ない言葉の一つ一つにさえ、室内の大気が揺れるように思える。

「お言葉を返すようですが、すべてはご計画通りに進んでおられるのでは?」
「むしろ、邪魔者はすべて自ら去っております。
ここは一気に計を進める好機かと」
「甘いわね」

取り巻きの少女たちを一瞥して黙らせる岑昏。
その表情は、常日頃孫皓に媚び諂う奸臣のそれではなく…見ただけで、気の弱い者なら心臓の拍動を止めてしまいそうな、魔王の如き冷たい視線を放っている。
だが、何定らもまた…その冷酷無比なるオーラに気圧されるでもなく、相変わらず無機質無表情で、その次の言葉を待っているかのようであった。

「失策だったかも知れないわ。
あの陸凱を幹部会から離れさせ…態々自由にしてやるなど、虎に翼を与えたに等しい。
万彧めも、この機会を逃さずいよう」

確かに、最大の目の上のこぶであった陸凱は半ば自滅する形で部を去ってくれた。
それとともに、実質的に窓際族になっていたその双子の妹、陸胤も部を去っている。

さらには、丁奉までもが幹部会からの引退を宣言。
以後は水泳部長として、課外活動引退までその活動に専念したいと申し出、許可が下りて幹部会を去っている。

まだ幹部会には丁固、孟宗、楼玄、王蕃といった連中が残っているものの…岑昏にとってすれば、すべてが思い通りに運んでいてくれるように見えたはずだ。

「しかしながら、陸の一族を始め、主だった障害となる一門は軒並み除外されたはず。
万彧の如きは捨て置き、残る陸抗を始末してしまえば、計画は大きく前倒し可能かと」
「わかってないわね」

岑昏は舌打ちし、見下すようにその言葉の主…何定を一瞥する。

「丁奉も、引退を前提とし幹部会から離れた。
奴らは学園都市を離れて久しい有力者とのコネクションも強い。
そもそも課外活動に関わらずとも…近辺に屯する『だけ』なら文句をつける者もおるまい。
…わからぬか? おそらく奴の目的は、陸抗を守ること」
「でしたら、こちらから手を打ち先に奴を学外へ追いやることも出来ましょう。
その武勇も単独であれば、数をもってすれば」
「愚か者。
貴様は、甘寧と同等以上…否、恐らくは彭越にも比肩するだろうゲリラ戦の巧者を、容易に出し抜けるとでもいうか」

冷たく射抜く視線と共に放たれた一言を受け、張俶は口を噤まされた。

「我らの目的を取り違えるな。
全子黄めが半端に手負いにさせてしまった故に、魯班様の計画に大幅な遅れを生じさせるのみならず…その真なる目的を悟られかけている由々しき事態にあって、我らには決して失敗は許されぬ。
漸く、烏丸の獣共を動かし司馬晋の連中を黙らせたというに…この時間稼ぎも万全ではないが、さりとて急いて自らことを損じるなど愚の骨頂」

少女たちの間を抜け、窓際まで歩み寄る岑昏。
眼前に広がるは、真っ赤に染まる黄昏の光景。


「先ずはあの丁奉を潰す、そのこと自体は私の思うところでもある。
なれば、その『犠牲』はより少なく…かつ、最大の効率を持ってすべきであろう」


窓に映るその表情が、邪笑で歪む。
空一面に広がる暗く深い緋の色は…鮮血を連想させるかのようだった。



-長湖に沈む夕陽-
第二部 「湖畔に仇花繚乱す」

一 「許されざる者」



「信じられない」

南郡棟を預かる名主将・朱績はその知らせに愕然とした。

陸凱引退の報を彼女が知った時には、陸凱が倒れてからすでに半月が経っていた。
その引退表明から実に十日後のことだ。

「陸凱副会長は、度重なる激務と心労により、倒れられたとのことです。
虎林棟長陸胤さんも共に引退を表明され、運動部総括兼水泳部長丁奉さんも、総括の任を解かれ廬江棟へ戻られたとのこと…また、夏季休校期間空けでの引退を申請し…幹部会はそれを受理したとのことです」
「そんな」

聞きたくもなかった追加の報告を受け、彼女は目眩すら覚えた。


悪い夢でも見ているのだろうか。
夢なら、早く覚めて欲しかった。

この最前線においても、長湖中枢部の混乱振りは聞き及んでいるが…やはり陸凱では、その偉大なる族姉陸遜には遠く及ばなかったと言うのか。
それとも自分たちの積んできた研鑽が、いち孫皓の存在によって叩き潰されてしまうのかと。
それに、丁奉までもが己の限界を悟り、学園を去ろうとしている。


何故だ。
どうしてこうなった。
全ての歯車は何処から狂い始めた?


「心中、お察ししますわ」

開け放たれている執務室の戸口に、薄笑いを浮かべる禿の少女が姿を現す。
朱績は一瞬、このような場所にいるはずもない存在が、まして伴もつけず何故ここに、と訝ったが…まるでこちらの心中に土足で踏み込んでくるような、不快な視線を感じて、傍らの木刀の切っ先を、岑昏の目の前に突きつける。

「岑昏…会長の腰巾着が、こんな所に一人で何の用?」

朱績はさらに、威嚇するようにそれを見据えた。
自分に対する憎悪の感情を全く隠すことのない朱績に、大袈裟に肩を竦めながら岑昏は続ける。

「そんな怖い顔をなさらないでください。
私とて、会長傍仕えの身として、此度の件は非常に心を痛めている次第です」
「口先だけでは何とでも言えるわ。
お前たちが幹部会で何をしているかぐらいの事、知らないと思って?」
「ふふ…私を今すぐにでも、八つ裂きにでもしてやりたいといったところでしょうか?
しかし、そうすればあなたは処断だけで済まされるのかどうか。
私の代わりなど、いくらでもいるのですよ?」
「減らず口を」

ぬけぬけとよくも…と、朱績は歯噛みする。

普段の彼女であれば、もう少し冷静に振る舞う事も出来たはずだ…何故なら、孫皓がパーティを開いた席で、岑昏のような家政部の者たちに参加者の様子を伺わせ、どれほど些細なものであろうと失言や妙な振る舞いがあったら問答無用で処罰対象になることは、長湖生徒会の者ならだれでも知っている。勿論、朱績もだ。
だが、この時彼女は完全にその冷静さを失いつつあった。

否、失いつつあったのは果たして「冷静さ」だけだったのだろうか?

「ですが朱績さん、あなたがまずこの剣を向けるべき相手は…私の如き小物なのでしょうか?」
「何?」

妙に自信に満ちた表情の岑昏に、朱績は困惑気味に問い返す。
その悪魔は、我が意を得たりという表情を億尾にも出さず、さらにその悪辣な舌鋒を振るう。

「裏を返せば、私の如きは何時始末されてもおかしくないのです。
ましてや、私が重大な秘密を握ってしまった今となれば」
「どういう、意味…?」

その違和感に朱績は気づきながらも…否「気づいてしまった」この時点が既に、手遅れだったと言わざるを得なかった。

しかしその腰巾着がわざわざ単身でこの場に現れたということは、それなりに自信あってのことなのは窺える。
それに、先の岑昏のいうことにも一理あるように思えてきていた。
今この場で感情任せに岑昏を血祭りにあげてみたところで、何の解決にもならないどころか、己の立場を危うくする原因としては十分…何よりもその岑昏の振る舞いが、そのすべてを見越してのものというなら…その姿に、底知れぬ恐ろしさすら感じ取れる。

そして…聞き及ぶ限り孫皓であれば、いくら寵愛がある腹心であろうとも、次の瞬間にはあっさり切り捨てられることがあってもおかしくはない。
まして岑昏ほど近くに居れば、何らかの秘密を握って孫皓の逆鱗に触れていることもあるかもしれない…そんな朱績の心の動きを読みきった岑昏は、淡々と告げた。


「私は知ってしまったのです。
あなたとも懇意にしていた丁総括が、幹部会を離された本当の理由を」


その言葉が、最後の鍵だった。
既に、岑昏の放った術は、朱績の精神を完全に支配してしまったのだ。

朱績の憎悪と憤怒は、その向かうべき先を、あってはならぬ方向へねじ曲げられ始めていた。
彼女はふつふつと湧き上がる怒りの感情を吐きつけるが如く、その拳を執務室の机にたたきつけた。


「許せない…ッ!!」


そう呟く瞳には、憤怒と憎悪の光が宿り始めていた。
その視線は、決してその範囲に収まらぬ場所で…口の端を歪める岑昏の姿を捉えることもなく。





同じ頃、建業棟執務室。

棟執務室は言うなれば棟の中枢部であり、その主がいるべき場所である。
そして建業棟は長湖生徒会本部の置かれる場所であり、建業の主はすなわち長湖生徒会の会長を意味する。
当然ながら、その主は。


「元宗様。
陸敬風副会長及び丁承淵運動部総括の後任人事、すべて滞りなく」
「ありがとう、彧ちゃん」

窓際で黄昏の空を眺める孫皓の表情は、何処までも寂しそうに見えた。


この日、丁奉は万彧に誘われるまま、孫皓との会見に臨むこととなった。

丁奉にとって、長湖生徒会長ではない「素の孫元宗」を見るのはこれが初めてのことであろう。
傍目で見る分には、とても精神に平衡を欠くようには見えない。
それも万彧が傍で彼女を支え続け、ようやくここまで回復させたからに他ならないが。

(これが…孫皓会長…?)

その姿に当惑を隠せない丁奉。

丁奉とて、ほんの数日前まで幹部会に居た人間である。
それゆえ、孫皓がどんな人間かは、良く知っていた。
会長の意向により、確かに面と向かって相対したわけではないが…その風貌を知らぬわけではない。
知っていたはず、だった。

「やっぱり、驚かれますよね…承淵先輩」
「え」

丁奉は、突然声をかけられたこと以上に、その声の柔らかさというか優しさというか…むしろ今にも壊れてしまいそうな「儚さ」に、戸惑った。

「私、本当は今こうしているのさえ怖いんです。
何時私の中の、「恐ろしいほうの私」が出てきて…彧ちゃんや先輩を傷つけてしまうかも…って。
本当は、敬風先輩も…誰一人として、私の所為で傷ついて欲しくなかった…だけど」

そういって、か細い身体を竦ませ、小さく震える彼女は…何処までも脆い存在に見えた。

陸凱の話を信じるならば、孫皓の中には孫皓自身が知らぬ、「もう一人の孫皓」がいる。
普段見慣れた孫皓が後者であるというなら、彼女自身が言う「恐ろしいほうの私」がそれにあたるのだろう。

「私はなんとしてでも、「長湖部」を魯班さんの好きなようにさせるわけにはいかなかった。
これ以上、子考姉さまみたいな目に遭う人を出さないためにも…だから…だから」

俯いたその瞳から、一粒、また一粒と涙が流れていく。

その姿に、丁奉は悟った。


孫皓はきっと、かつて壊れてしまった自分自身の心を必死に治していく中で、自分の中に制御できない闇を抱えてしまったことを。
それは誰にでも起こりうることだ。
むしろ、万彧の援けを得たとはいえ、ここまで立ち直れたのは奇跡に近かったろう。

だが、その「闇」が何らかの意思によって捻じ曲げられ、彼女の意思とは無関係に動き出し…今再び蝕もうとしていることも、また。


「何で、もっと早く打ち明けてくれなかったの?」

不意に抱き寄せられ、孫皓が顔を上げると、そこには苦笑する丁奉の顔がある。


丁奉は「長湖生徒会長」としてではなく、「ひとりの愛すべき後輩」として、孫皓を見ていた。
「孫皓の本当の姿」を知ってしまったとき、それが自分の責務であると、そう思った。

彼女を、この悪夢から救いたいと。
きっと陸凱も、そう考えたような気がしていた。


「って、もしかしたら既に敬風が言っていたかもしれないよね」

丁奉はそっと、その涙を指先でぬぐい、さらに続ける。

「あたしも敬風も、そんなに頼りにはならないかな?」

無言で、俯いたまま頭を振る孫皓。
でも、とか細い声で言いかけたのを制するように、丁奉はその小さな身体を、しっかりと抱きしめた。

「なら、もっとあたし達を信じて。
もうあなたひとりで、思い悩む必要なんてないんだから…!」
「はい」

黄昏の夕日が差し込む中で、二つの影が一つになった。


しかし、彼女はまだそれを知らない。
このことが、今この学園に迫る大きな闇を振り払うにとどまらず…後に更なる謎の核心に迫る行為であることを。


-…けなきゃ…どんな手を…-

その脳裏に、去来するおぼろげなビジョン。
そして、ノイズに塗れた言葉。

-この…を終わらせ…あるべき姿…-

その真実にたどり着くのは、まだ先の事。





「とりあえず部屋周辺の防衛機構、物理的にも魔術的にも可能な限りの備えは済ませておきました。
もともと子瑜(諸葛瑾)先輩と元歎(顧雍)先輩が仕掛けたのをいじくっただけに過ぎないですけど」

程なくして、ひとりの少女がそこに訪ねてきた。
緑の髪をセミロングに切り、ピンクチェックの入った大きなリボンを結わえたその少女こそ、陸凱の双子の妹陸胤、字を敬宗である。

「滅相もない。
敬宗先輩が奴らの監視をかいくぐり、この「仕掛け」を再起動させて下さらなければ、事態はさらに悪化していたことでしょう。
ですが、その分あなたには」

万彧は言葉を詰まらせる。


彼女は昨年度末まで交州学区にいたが、孫皓の部長就任とともに武昌にほど近い虎林棟に棟長として詰めていた。
とはいえ実際「棟」とは名ばかり、実際は小さな集会場程度の建物の管理人に過ぎない立場にいた。
交州学区での彼女の功績を思えば、不当ともいえる扱いではあったが。


「気にしないで、私も好きでやっていることですから。
それに、忙しいのよりゆっくりしてるほうが、性に合ってますし…何より、これをヘタに風さん(陸凱)に話そうものなら、かえってそっちの方が収拾つかなくなるかも、ですし」

そう言って、陸胤はわずかに悪戯っぽく微笑む。

確かに、虎林棟の彼女は膨大な暇をもてあます風もなく、悠然と景色を眺めたり受験勉強をしたりと、まるで隠居老人のような悠々自適の生活を送っていたように見えた。
だが、現実にはそうではない。

張布らの粛清が行われた直後、万彧は陸抗を通じ、彼女にもすべての事情を打ち明けていた。
陸胤は陸凱には「別の大切な役目がある」と丸め込み、彼女の目すら避けることに成功すると、陰に孫皓の身辺を守るべく八方手を尽くしていたのだ。

そして、何よりこれも、丁奉は初めて知ったことであるが…。

「敬宗…キミも、魔法使いだったんだね。
元歎先輩と、同じ」
「そんな大げさなものではないですよ~。
それに生まれつき不思議な力を持ってたのは、私だけじゃなく…私たち姉妹両方です。
承淵さんは、不思議に思いませんでした? 風さんの占い、ほぼ百発百中で的中する理由を」

困ったように笑う彼女の言葉に、丁奉も思い出すところがあったのか「ああ」と嘆息する。


陸凱は意外にもというか、趣味の一つにタロット占いがある。
それどころか「普通のタロット使ったんじゃ面白くねえし持ち歩きに便利だから」という理由で、タロットの図柄をそれぞれ花札の絵柄に当てはめて、花札でタロット占いをするということをしていたが、当人が「当たり過ぎて逆にキショい」というくらい的中した。
その的中率は一説に九割を超えると言われ…「二宮事変」の動乱期に悪い占いほどよく当たったことから、以来それを断ってはいたのだが。


「『長湖の偉大なる魔女』顧雍が、いずれこのような事態を想定して仕掛けた「結界」。
その「起動装置」の在処を探り当てるのには苦労しました…おそらく、打ち捨てられた虎林をその中核とすれば、邪な目的のあるものの注視を避けられると思われたのでしょうが…ヒントぐらいは、頂きたかったものです。
見つけ出してさえしまえば、メンテそのものは問題なく。
以降はこの建業棟を含めたエリアで、岑昏さんたちはうまく術を行使できなくなるはずです」
「つまり今、元…会長が落ち着いていられるのも、そういう?」

危うく字を言いかけて、孫皓の休んでいる隣の部屋を見やる丁奉。
ええ、と陸胤は頷く。

「それじゃあ、敬宗まで引退したらまずいんじゃないの?
あたしもそこまで深く理解できてるわけじゃないけど、彧ちゃんも魔法使いなんだよね。
今まで二人で対抗していたのに」
「確かに、その通りだと思います。
ですが…この機会に私までいなくなれば、かえって岑昏さんたちの注意を私たちに引き付けることができるんじゃないかと思うんですよ。
あの方、私達の思った以上にずっと頭が切れる…ううん、あの狡猾さと用意周到さは、人の及ぶ極みに近いかも知れない。
恐らく、私や彧ちゃんの真の狙いがどこにあるのか、漠然と嗅ぎ取っているでしょう。
とはいえ、風さんが今何の柵もなく動ける状態です。
風さんは私なんかよりずっと頭はキレッキレですから、ある程度情報を共有したうえでほったらかしておけば、そっちの方が岑昏さんたちにとって大問題になると思うんですよ」
「そんな乱暴な…ああいや、あたしがあいつらの立場でも、敬風が野放しになってたら気が気でないかも」

苦笑する丁奉に、同じような顔で「でしょう?」と相槌が返ってくる。

その言葉通り、実際既に陸凱は独自に行動を起こしている。
智謀のみならず、卓越した戦闘能力を持つ彼女が野放し状態になっているという事態は、岑昏たちにとって大いに憂慮すべき事態だろう。

「それに、承淵さんがこうして「戻って」来てくれた以上、心配することなんて何処にもありませんから」

その少女が向けた微笑みに、丁奉もかつての穏やかな笑顔で返した。
そのときである。

「会長ッ! 緊急事態です!」

執務室に一人の少女が飛び込んできた。

赤毛を三つ編みにし、眼鏡をかけたその小柄な少女は先日、陸凱を見舞った中にいたうちのひとりで滕修、字を顕先である。
虞汜引退ののち間もなく、交州総代としてその地に赴く事になる少女である。

「静かになさい、何事なの!?」

隣の部屋から飛び出してきて、滕修を叱り飛ばさんばかりの万彧を制し、陸胤がその発言を促す。

「西陵総督朱績さんが、西陵駐屯軍を動員し廬江棟へ進軍中とのこと!
報告によれば数人の水泳部員を捕縛しているとのことです!」
「何ですって!?」
「公緒っ…どうして!?
なんでそんなことにっ!?」

陸胤さえも色を失い、丁奉が激して滕修の肩をつかみかかった。

「あ…その、申し訳ありません現在もまだ詳細は…。
しかしながら、江陵駐屯軍には手出し無用としたうえで…そのっ…「長湖の裏切り者丁承淵と水泳部を討つ」と…そう述べていたそうです…!」

丁奉の顔色が蒼くなる。


裏切り者。
確かに、自分は彼女らの事など他所にして、ただ「長湖部の存続」のことだけを第一に動いてきた。
多感な朱績なら、きっと…そう思っても不思議でない。


「大丈夫。
承淵さんの所為じゃない」

そんな考えを否定するかのように陸胤はそっとその肩に触れ、滕修に話を続けるよう促した。

「それで…?」
「私用外出にて行方の分らない江陵総督陸抗さんに連絡がつかないとのことで、江陵軍はその異様な雰囲気に恐れをなして素通ししたとの事…指示を仰ぎたいと、先程伝令が。
独断ではありますが、陸抗さんが戻り次第江陵から追撃してもらうよう連絡致しましたが…時間的には程なく西陵軍が廬江に着陣するかと思われます」
「…ッ!」

その報告が終るのが早かったか、丁奉が反射的に部屋を飛び出していった。

「承淵先輩ッ!?」

万彧が呼び止めようとしたときには既に、丁奉は向かいの窓から一気に階下へ飛び降りたあとだった。

「仕方ないですね。
でも、公緒さんも、水泳部の娘たちも、承淵さんにとっては大切な存在」
「敬宗先輩…これは」
「先手を打たれちゃったかも、ですね。
現状、確実に手駒として利用できそうな中で、承淵さんを相手取れるレベルの武勇の主将は少ない…公緒さんを、止めなきゃ。
彧さん、顕先さん、会長のことはお任せしますね」

ふたりが頷くのを見ると、そのまま陸胤もその場をあとにした。





慮江に向かう道中、朱績の脳裏に岑昏の言葉が反響する。

-丁承淵のやらんとしていること、それはあくまで孫皓と水泳部のためでしかないのです。
そのために邪魔な陸敬風副会長を退け、自らその刃となって荊州に陣取るあなたや陸幼節さんを攻め滅ぼす下準備。
それが彼女が廬江に舞い戻った真の目的なのですから-

その言葉が彼女の頭を反響するたび、その瞳は更に憎悪の色を濃くしていく。

-そして水泳部員は、自分達の権力拡大のため、諸手を上げて歓迎している。
かつて孫伯符がこの地に覇を唱える礎となった、栄えある部の一員であるというプライド故に。
あの方たちにとって、あなた達の大切にしてきた「長湖部(おもい)」などというものは、最初からどうでもよい事だったのかも知れません-

しかし…その言葉は何時の間にか、彼女がかつて敬愛した多くの先達のものに置き換わっていく。

-除かねばなりません。
全てが害毒。
この学園都市に住まうすべてにとっての…!-

「許せぬ。
奴らの血の一滴たりとも、この地に止め置かぬ…!」

憎悪に染まる視線の先には、廬江棟。

「クキキ…いいね、いいねえ…。
奴らのどっちが生き残ろうが、あたしにとって大した差じゃない」

その軍に混じり、明らかに自分の体より大きなパーカーを目深に羽織る、狂気的に嗤う少女が一人。
わずかに覗く口元や、手の甲に痛々しい傷を負う異様な風体が、まるで浮浪者の如くそこに随行するのを、咎める者はどこにもいない。

「ぜぇんぶ、潰れてしまえばいい。
長湖生徒会も…あのアバズレも…みんな、みんなだ。
だけど…あの丁承淵だけは…ヒヒッ…あたしの手で潰してやりたいねえ…!!」

その言葉だけ残し、影は跡形もなく消え失せていた。

不気味に蠢くその影を、誰が果たして認知し得ていただろうか。
その真実も行方も、杳として知れず。





突如、武装した友軍に包囲され、廬江は戦慄に揺れた。
留平と沈瑩は、朱績が水泳部の一年生部員数人を不当に捕縛、暴行を加えられているという報告を受け、その対応を協議しようとしていた矢先のこの出来事に、色を失った。

南郡の軍団員にとらわれている数人の少女は、いずれもが手足、中には顔にも痣が出来るほど痛めつけられ、ぐったりとしているのを無理やり引きずられてきた…そんな状況が見て取れる。
留平も沈瑩も、朱績という少女がどのような人物なのか良く知っていた。
愚直なまでに素直で、御人好しが過ぎるほど優しく…まかり間違ってもこのような暴挙に出るような人間ではないはずだった。

そして、このような憎悪に満ちた瞳を、無闇に他人へ向けるような人間ではないことも。

「何故ですか!?
何故あなたがこんなことをするんですか、朱績先輩っ!」
「その娘たちが何か校則に触れることをしたと言うなら、きちんと上層部の最低を通すのが筋でしょう!
いくら方面軍の総司令といえど、そんな越権行為が許されて堪るかっ!」
「煩いよ…この裏切り者どもめ」

憤怒より、純粋な殺気に近いモノを込めた視線に、二人は言葉を失う。

「長湖部を孫皓の如きに売り渡し、私利に走る丁奉も、貴様らも…このあたしが残らず叩き潰してやる…!」

そう宣言する声は、まるで地獄の底から響いてくるかのようであった。

信じたくはなかった。
日頃さほど接点はなく、時折の打ち合わせの時にしか話す機会はなかったが…「親友」と言っていた丁奉に対して、朱績がこのような言い方をするなど。
恐怖よりもわずかにその違和感を強く感じ取れたことが、二人にとって良い事だったのかどうなのかはわからない。

「だめだ留平。
多分今のこの人には、何を言っても通じないかもしれない」
「瑩さん?」
「今のこの人は、もしかしたら普段の朱績先輩じゃなくなってるかも知れない…!」

何時の間に取り出したのか、沈瑩の手には一振りの木刀が握られていた。
沈瑩は己の恐怖心を強引に捻じ伏せ、震える足を叱咤するかのように一歩前へ踏み出して…その切っ先を突きつけた。

「此処へわざわざやってきたということは…長湖部長直属親衛隊である水泳部に、上奏抜きで謀反人を処理する特権が与えられていることを忘れているわけではないだろうな…!?」

朱績は不快感を露に表情を顰める。
留平を除く水泳部員達も、手には既にそれぞれの獲物を手にしている。

「瑩さん、待ってよ!
そんなことをしたら!!」

慌てる留平が沈瑩の袖を引こうとする。
沈瑩は振り向こうともせずそれを手で制した。

「解ってるよ。
あたし達の目的はあくまで先輩を止めることだ…留平、あんたはすぐに呉郡寮へ! 敬風先輩を!」
「…うん!」

沈瑩や他の部員達の覚悟を読みとった留平は、そこからまっしぐらに寮へと向けて駆け出していた。

「水泳部長代行として命じる!
部員の救出を最優先、南郡勢の無力化よりも自身の安全を第一に考えろ!」
「…上等だ…!!」

それが合図だった。
朱績が無言で木刀を振り下ろすと、防衛最前線の精鋭で知られた南郡軍団と、長湖部最強の親衛隊である水泳部員が激突した。





「待って、承淵さんっ!」

無我夢中で走り続ける丁奉は、その声に振り返る。

そこには肩で息をしながら自転車を漕いで来る陸胤。
その背には、ひときわ大きな棒のような物が、布にくるまれた形で担がれている。

「敬宗!?」
「もう…急いでいるのは解りますが、一体丸腰でどうするつもりだったんですか?」

窘めるようにそう告げると、彼女は重そうに、その背に担いだものを両手で抱え、装を解く。
そこに現れたのは、刃渡り1メートルはあろうかという大振りの木刀だった。

「これは…覇海」

丁奉の瞳が驚愕に見開かれる。

かつて長湖部存亡をかけた夷陵回廊戦において、己の一身も省みず自分を救おうとした甘寧から受け継いだ剣。
以後片時も離れず丁奉の傍にあったこの剣は、彼女が友を撃ち伏せたときから硬く封印していたものだった。

形はどうあれ、「敵は討ち、仲間は護る」という「銀幡」の理念に背いてしまった自分に、この剣を振るう資格などないと、そう思ったから。

「これはあなたが持つべき、確かな力の証。
この力をもって、あなたが公緒さんを、助けてあげてください」
「助ける…?」
「ええ。
今の彼女を止める力を持っているのは、きっとあなただけ」
「でも」

丁奉は躊躇した。

確かに呂拠に対した時、彼女を「討ちたかった」わけではない。
彼女を「止めたかった」から…だが。

「あたしは…世議を止めてやる事が出来なかった。
その上、あの子を…護ることができなかったのに…!!」

丁奉の心は、未だその罪悪感にさいなまれていた。
友を止める言葉も持てず、力で押し潰した挙句…危険に晒して救うこともできなかった。

あのあと呂拠がどうなったのか、彼女は知る術もなかった。
陸凱ならもしかしたら知っていたかもしれないが、それでも確かめる気持ちが起きなかった…というよりも、確かめるのが怖かった。
今更どんな顔をして、何を言えばいいのか…それ以上に、向こうが自分をどう思っているのか。
それを知るのが、怖かった。

もしあの時と同じように、朱績まで傷つけてしまったら。
丁奉の心は、どうしてもその力を手にすることを拒むかのようだった。

「でも、このまま何もしなかったら、きっと後悔するのは承淵さんですよ」

丁奉ははっとした。

「力だけではただ無意味な破滅しかもたらさない。
心だけでも…ただその想いを言葉にするだけでも、何も起こせない…辿る先は、同じく破滅だけです。
ふたつ揃って初めて、意味があることだと思います」

重そうに両手で抱え、覇海を差し出す陸胤。

「この「覇海(ちから)」は、「承淵さん(あなた)の想い」があって初めて意味を成すモノです。
どちらが欠けても、無意味なんですよ」

その言葉に、丁奉は自分がこの剣を「正式に」受け継いだときのことを思い出していた。