「おまえなぁ」

その剣を携えて丁奉が現れたとき、その目的に勘付いていながらも、それでも甘寧は苦笑を隠せずにいれなかった。

「あの時言っただろ?
大切に使ってくれってよ」
「ええ…でも、必要な用事は済んだから、やはりお返ししなきゃ、って」

自分のほうをおずおずと見やりながら、かつて愛用していた獲物を差し出してくるその姿に…仕方ないヤツだなぁ、と言わんばかりに頭を振る甘寧。

だが、この馬鹿真面目なところが丁奉らしいと、甘寧は思った。
甘寧はその両肩を引き寄せると、諭すように言う。

「いいか承淵。
コイツはな、引退した俺様からこれから長湖部の要になるだろうおまえにくれてやったものだ」
「でも」

躊躇する丁奉。


丁奉にも本当はわかっていたのだ。
これは自分に対する「先輩からの贈り物」なのだと。

しかし、彼女にはどうしても、これを受け取るべき資格はないと思い込んでいたのだ。
あの日、甘寧を討った者を討つことが出来なかった…「報恩と報復」という銀幡の大原則をまっとう出来なかった自分には、この剣を受け継ぐ資格はないのだ、と。

丁奉の表情からも、そのことを甘寧も薄々は気がついていたようだった。
そのことは自分の守ってきたものを受け継いでくれる存在が居ると言う嬉しさもあったが…それと共に、そんなことで「可愛い妹分」の未来を縛り付けたくはないと思った。


「いいか承淵、確かにおまえは俺の妹分であり…「銀幡」の仲間だ。
だがな、それ以前におまえは「長湖部の主将」でもあるんだ」

その肩を引き寄せ、その緋の瞳をじっと見据えて、甘寧は噛んで含めるように諭す。

「俺は「銀幡の一員」としてではなく…「長湖部の主将」として、俺の力を受け継いで欲しいと思った。
覇海(こいつ)は、その証なんだ」

丁奉の瞳に、穏やかに微笑む甘寧の顔が映る。


甘寧にとっても、丁奉という少女との付き合いもいいかげん長い。
逆もまた然りだ。
彼女が自分の培ってきたものを受け継ごうとする姿勢を無碍に打ち払おうとするのも、気が引けていた。

だから、彼女は唯一つだけ、この後輩に「自分の矜持」を受け継いでもらおう…そう考えた。


「だから、これを受け継ぐ誓いが必要なら、今から言うひとつだけでいい。
最初から何もせずにいて、終わってから後悔するようなマネはするな。
たまには…どうすりゃいいか、わけわかんなくなる時もあるだろうけどよ…難しくあれこれ考えるのは、全部後回しだ。
…お前は、俺よりもずっと頭いいからな、絶対どっかでそうやって引っかかりそうだしな」
「先輩」
「切り開いて見せな…俺がいなくなっても、何処までもお前らしい道を。
行き先が違うように見えても、お前がこの想いを捨てない限り…俺たちは大切な仲間なんだからよ!!」
「はい!
この魂(おもい)、きっと、私の後輩たちにも!」

泣き笑いのような表情で力強く応えるその狐色髪を、甘寧はこれまでのようにかき回していた。



丁奉は思うよりも前に、その柄を手にとっていた。

『初めから何もしないでいて、終わってから後悔するようなことはしない』
偉大なる先輩から受け継いだその矜持が、自分を突き動かしたのだと…心が理解した。

(そうだ…あたしに託された想いの意味を。
 興覇先輩、あなたの、言った通りだったみたいです。
 あたし…あなたがそういってくれたみたいに…頭良くなんて、ないから…!)

丁奉はその感触を確かめるように、それを一振りする。
風切り音に混ざる鈴の音に気づき、この剣を封印した際に己の髪を切り落としたことを思い出した。

(行かなきゃ。
 そうと決めたら、止まってなんていられない!)

髪飾りにしていたその鈴も、この剣を受け継いだときの証として常に身に着けていたものだが…その誓いを完う出来なかった事を恥じ、共に封印したものだった。
丁奉はその髪飾りを剣から解くと、襟を越したその狐色の髪に結いつけた。

「ありがとう、敬宗。
あたしまた、大切なものを見失うところだったよ」

穏やかに微笑むその姿に、満足そうに頷く陸胤は、自分の乗ってきたその自転車も差し出した。

「礼には及びませんよ。
さ、此処から全速でいけばあなたなら二分もあれば十分でしょう?」
「うん…行って来るッ!」

それに素早く跨ると、丁奉は廬江棟へ向けて一気に加速をつけた。
その背中を見送る陸胤を、振り返ることもなく。

「あとはあなた次第。
がんばってくださいね、承淵さん…さて、あとは」

彼女は懐から携帯電話を取り出すと、慣れた手つきで電話帳のページを開き、通話ボタンを押した。



-長湖に沈む夕陽- 第二部

二 「剣を掲げ矜恃を胸に」



幸いにも、留平は呉郡寮の門のところで、目当ての人物に出会うことができていた。
その只ならぬ様子に、最悪の事態を予感した陸凱は、驚愕の表情を隠さず留平の肩を引き寄せた。

「何だって…!?
どうなってやがる…にしても幼節の馬鹿、こんな時にまで!」
「今、承淵先輩も武昌に…私、どうすれば…!」

今にも泣き出しそうな表情の留平に、陸凱も事態の重さを感じ取った。

陸凱にしても、朱績がこんなばかげた行為に及ぶことは信じられなかった。
信じたくなかった、というのが本音かもしれない。
根が単純な朱績ではあるが、それでも、いきなりこうした無意味な暴発をするほど浅はかではない。

だが、陸凱はそれすらもねじ曲げる魔性の力の存在を…それを行使する悪魔が、今の長湖部に潜んでいることを知っている。
その毒牙が、朱績を捕らえたとするならば。

「やってくれやがったな…クソが!」

奥歯を噛む、強く鈍い音。
留平も思わずたじろぐほどのその怒りの言葉は、果たしてあっさりと術に捕らわれた朱績に対するものか…それとも。

「留平、悪いが襄陽まで行って、幼節の野郎を引きずって来てくれ!
そこにあるあたしの自転車、使っていいから!」

陸凱は隣にあった自転車…恐らくは寮生の共用品だろう…に飛び乗りざま、ポケットから乱暴に引っ張り出したもう一つの鍵を、留平へ投げ渡す。

「先輩!?
どうするつもりですか!?」
「知れたこと!
最悪飛ばしてでも、あの大馬鹿野郎を止めるっ!
幼節引きずってきたら、あいつの指示に従え!恃むぞ!!」

叫ぶや否や、陸凱は疾風の如く寮の門を通り抜けていった。





戦況は刻一刻、厳しいものになっていった。
元々の戦力は廬江軍が水泳部員が七十名に、廬江で水泳部の指揮に入るカヌー部、水球部など百数十名余りをあわせて約二百。
対する南郡勢が五百余。

水泳部員も戦闘にかけてはかなりの手練が集ってはいるものの、南郡勢の主力は長湖部内でも最強と名高いレガッタ部…かつて、名将韓当が率いた解煩・敢死の二軍団七十名を含む精鋭中の精鋭を主力としている。
何とか虜になっている僚友たちを助け出すどころか、この精鋭二軍団の猛攻から己の身を守るのが手一杯な状況である。
増して、兵力も南郡勢は廬江軍の倍以上もいる。

そして今、沈瑩ひとりで朱績を釘付けにしなければならない…いや、それすらほぼぎりぎりの状況。
指示を飛ばして戦場をコントロールすることなんてほぼ不可能に近い。

「どうした小娘!
そんな剣でこのあたしと戦うつもりか!」
「くっ…!!」

乱戦の中、朱績と沈瑩の凄まじい一騎討ちが繰り広げられている。

沈瑩とて、決して弱いわけではない。
クロールに必要な腕の力を鍛えるために始めた直新陰流の剛剣は、単純な剣の重さ、ひいては破壊力そのものなら朱績のそれを大きく凌ぐほどだ。

しかし、沈瑩にとって、この戦いには不利なことが三つある。
ひとつは、とらわれている仲間の安否。
ふたつめは、朱績と沈瑩の戦闘経験の差。

(なんて豪剣だ…!
 マトモに打ち合ったらこっちの腕が潰されちまう…それに…この太刀筋の正確さ!
 一瞬でも集中切らしたらオダブツだ…畜生!!)

沈瑩は何とか自分の得意な間合いを取ろうとするが、相手の反応速度と踏む込みが異常に速く、打開を許さない。
しかし朱績の瞳は、この神業の如く見える立ち回りの最中でも…どういうわけか自分に対して焦点が合っていないように、沈瑩には見えていた。

まるで、冷温動物を思わせる、深い澱みをいくつも折り重ねたような…無機質にも思える瞳。
先程の殺気だった視線とは別種の、狂気すら感じさせる瞳だ。

(先輩の眼…どう見たってまともじゃない。
 やはり催眠術か何かで操られて…!?)

催眠術。

今の長湖部には、その熟練者が二人存在する。
ひとりは万彧。
そしてもうひとりは。

(あいつ…岑昏ならそれくらいしでかしかねない。
 先輩を利用して、あたし達で潰し合わせるのが目的か…!)

確証があるわけではない。
しかし、彼女は直感的にそう確信した。
長湖水泳部と南郡勢という、長湖生徒会のキーパーソンふたりを擁するふたつの勢力をつぶして得をするものは…現在北方男子校の対策に追われる司馬蒼天会でなければ…長湖部を我が物にしたい岑昏一派くらいしかいない。
此処に今、丁奉が居ないのはその誤算か…あるいは。

(あたし達を利用して、承淵先輩を追い詰める…といったところか)

朱績の剣をかろうじて受け止めながら、沈瑩はなおも思う。

(なら、なおさら先輩を飛ばしてしまうわけにはいかない…!
 いや、おそらくは飛ばされても目的を果たすまでは止まらないはず…なんとか無力化させて、捕縛するなりして動きを止めるしかないってか!?)

沈瑩の背筋から冷や汗が一気に吹き出る。

一度でも昏倒させてしまえば、下手をすればこの棟周辺に存在する「学園無双」で「脱落者」を判定するセンサーが、朱績の階級章に付属する学生IDを読み取って「脱落」の扱いにする懸念があった。
まだ赤壁・夷陵の頃は実験段階だったそれらのシステムは、現在そこまで進歩しており…このような乱闘における諸判定もシビアなものになっているのだ。

つまり…実力的には遙か上の相手を、手加減しながら昏倒させずに無力化しろということ。

(くそ、無茶にも程があるっ!
 失敗した…留平じゃなくて、誰か別のヤツ行かせれば良かったッ…ふたりがかりなら、まだ手はあったものを!!)

容赦なく降り注ぐ剣を受けつつ、彼女は心の中で悲鳴をあげた。





朱績暴発。
襄陽棟を望む漢江水路の畔で、その報を受けた陸抗もと吾彦も、あまりの出来事に色を失った。

確かに朱績の性格上、感情に流された上での失敗はそれこそ数え切れぬほどあるが…いくらなんでもこのような行為に、しかも何の前触れもなく出るということは、俄かに信じがたいものがあった。
だが、陸抗にはそうなってもおかしくない心当たりがあった。

「迂闊だったな。
わたしがたまにこうやって、境界線超えて出歩いてたりすることも、折込済みだったってことかぁ。
やっちゃったなあ…これはあとでふーちゃん(陸凱)に何言われるかわかんないなーあはは」

やや大げさなぐらい、困ったように笑う陸抗。

「だからあたし言ったじゃないスか先輩。
今日、なんかすっげえ嫌な予感するから襄陽行くのやめましょうって」
「それ言いっこなしだよー。
彦ちゃんだって襄陽カフェテリアの限定スイーツには勝てないって言ってたじゃん」
「いや言いましたけど言いましたけどねえ」

なおもどうでもいいような言い争いをしながらも、陸抗も吾彦も、決してその瞳までは緩んでいない。


実のところ、吾彦は水泳部預かりにはなっているものの、高等部一年生の時点では破格ともいえる扱い…すなわち、長湖生徒会荊州方面総司令たる陸抗の元で副主将を務める立場にある。
故に陸抗が事を起こす際には第一の側近としてその傍らにあるのだが、それは後述する「ある事」に対する目付け役という意味合いもあった。
それは現在敵対関係にある司馬晋生徒会の勢力範囲にあたる襄陽棟とも決して無縁の話ではない。

それはさておき…陸抗もまた吾彦同様、万彧から現長湖部の本来の事情について聴かされている。
それ以来、彼女は秘密裏に岑昏一派の行動を探らせていたのだ。
故にその動向もある程度把握できていた…そのはずだった。


「探っているつもりが、探られていたとすれば、間抜けな話だね」

やがて同じ場所に合流してきて、土下座せんばかりの左奕を宥めつつ、自嘲気味に呟く陸抗。

「今まで送り込んだ連中の中に、逆に向こうの術を仕掛けられていたヤツがいるということなんスかね」

呟く吾彦の表情にも、苦渋の色が濃い。
吾彦の言葉に小さく頷き、泣きそうな表情の留平をさらに質す陸抗。

「それで、ふーちゃんは?」
「最悪、飛ばしてでも公緒先輩を止める、って…おひとりで。
でも、このままじゃ」

内心、焦燥に駆られながらも、陸抗は(あぁ、ふーちゃんらしいな)と、何処か呆れる余裕まである自分に苦笑を隠せない。
その光景…いや、そう吐き捨てた陸凱の表情まで、鮮明に想像ができてしまう。

「大丈夫、きっと今のふーちゃんなら、どんだけ頭に血が上っててもきっちりどこか計算して動いてるはずだから」

だからこそなのだろう。
別に根拠はなかったが、彼女は「今の」陸凱のやることには心配など抱くと言う概念もなかった。
恐らくは自分たちの兵力を当てにしてではなく、恐らくは道中で虞汜あたりに連絡をつけているか…あるいは、もっと別に信頼できる者を呼びつけているか…いや、その考えられる総てを順次やっていることであろう。
彼女の知る陸敬風とは、そういう抜け目ない少女なのだから。

そうすれば、自分の考えるべき点は一つ。

「となれば、今戦力になりそうなところを動員するには」

陸抗は思案する。

今日は折りしも土曜、しかも既に時刻は午後四時半を回っており、西陵に活動拠点を置く部の部員たち…言い換えれば陸抗旗下の軍団員の多くはその活動を終え、順次帰路についていることだろう。
ましてや、左奕や留平の伝えるような朱績の鬼気に当てられ、戦意喪失のあまり早々に引っ込んでしまったらしい人間が居てもおかしくはない。

「今居るのはほんの二百五十名足らず…そのうち戦闘に耐えうるのは剣術同好会、ビーチバレー部などの二百名余りです。
課外時間はもう僅かですが、長湖部に異変が起こったと知れば襄陽の蒼天会がどう動くか」
「それは心配ない…よね?」
「そうねぇ」

左奕の報告に、陸抗はこの間までずっと後ろに居た帽子の少女を振り返る。

ニット帽を目深に被った、銀髪の少女。
陸抗が連れて来た、見慣れない少女である。

制服こそ着ていなかったが、クリーム色の半袖トレーナーに紺チェックのスカート、腰にくくったデニムジャンパーの腕に校章だけをピンで取り付けている。
陸抗もピンクの半袖ワンピースの袖に同じように校章をピンで留めている。
このように私服で学園の建物内をうろつく為の最低限の装備をしていることからも、その少女が学園の生徒であることは窺い知れる。

その正体を訝る留平を他所に、恐らくはその正体を知るらしい吾彦や左奕は、何とも言えない困惑した表情を隠しきれていない。
今、会話の俎上に上がっているのは、本来なら外部に最も知られてはいけない長湖生徒会の機密…否、言ってしまえば「恥部」だ。

しかし陸抗も、他人事のように相槌を打つ少女も、そのようなことを気にした風はない。
何やら考えを吟味していたらしいその少女は、帽子を頭から引き抜いた。

「とりあえず私がここに居れば、襄陽は動かないことも、動くこともできるってトコかしらね」
「あ!」

そこに現れた、僅かにカールした、まるで羊の角を連想させるツインテール。
留平はそのニット帽の少女の正体を知り、目を丸くした。


襄陽棟長にして、司馬晋生徒会の荊州方面総司令羊祜、字を叔子。
青州校区の名門一家羊家の末葉に当たり、現在司馬晋の生徒会長を務める司馬炎とは母方の従妹という関係にあるこの少女は、つい先日まで西陵を巡った攻防戦において陸抗を鎬を削り、敗れどもその武名を荊楚の地に轟かせた名将。
本来なら、この場にいていいような人物では決してない。敵方の、最も警戒すべき存在なのだから。

それが何故、こうして旧来の友人同士のようにして緩く談笑しているのか。
実際に二人は初等部にいたころに面識があり、その頃からの幼馴染でもあった。
そして双方ともに緩いながらも、完全にプライベートと課外活動においては線引きをきっちりとしており、先だって西陵棟長歩闡が配置換えを嫌がって司馬晋側に寝返りを打った際、歩闡の支援に現れた羊祜に対し、陸抗は容赦なくありとあらゆる面から(あくまでその戦略上で)マウントを取り続けて支援を断念させている。

自他ともに認めるライバル同士ではあったが、陸抗に軍略では敵わないと悟った羊祜は、長湖生徒会側からの降伏者を受け入れやすい環境づくりという方面に政略をシフトさせ、陸抗もそれに対抗を始めて、結果襄陽・江陵ラインには勢力境界線があってないようなレベルで双方の所属者が自由に行き来している有様だった…そう、双方のトップである羊祜と陸抗も含めてだ。

吾彦が陸抗の後を渋々くっついて襄陽まで同行しているのも、陸抗が妙な気を起こさないように見張っているからに他ならない…正確に言えば、その建前で同行しているというべきなのだろうが。


「けどまぁ…私も今私服だし、課外活動とは無関係の友だちづきあい、って事にしときましょうか。
いちおー此処は貸しにしとくよ、りっこちゃん」
「うん、それでいいよ。
ありがとね、よーこちゃん」

呆れたように顔を見合わせる少女三人を他所に、羊祜は悪戯っぽい表情で笑い、陸抗も笑顔で返した。





何時の間にか沈瑩は、南郡勢の真っ只中で、孤立させられた状態で朱績と「戦わされている」状態になっていた。

この状況では、たとえ留平が居たとしてもそう状況は変わらないだろう。
現に朱績は自分を相手にしながらも、軍に巧みに指示を与える余裕を残している。

「ふん、権力に頼った者の、哀れな末路を見るようだな!
さぞかし居心地は良かっただろう、運動部総括の庇護下で行われるお前達の部活動は!!」
「け、あんたみたいな単細胞にんなこと言われる筋合いはねぇ!」

放った横薙ぎは、やや斜めに構えた剣に受け止められ…否、完全に「受け流されて」しまっている。
そのまま、鎬と鎬ががっちりと組み合わされた「続飯(そくひ)付け」の状態に持ち込まれ、受け止める剣には凄まじい圧力がかけられてきた。

「この状態になって、それでもその減らず口が叩き続けられるかどうか…見物だな」
「くそぉ…!」

邪笑にも思える薄笑みを浮かべる朱績に、沈瑩は歯がみする。

朱績はその直情的な性格通り、基本的にはインファイターである。
一方で沈瑩が振るう新陰流系剣術は基本的にカウンター主体の剣術であり、朱績のようなタイプとは本来相性は良い筈だった。

しかし、様々な要因に心を奪われ、本来の実力をほとんど発揮できないでいる沈瑩の間合いはあっさりと崩されてしまった。
そしてこの状態に持ち込まれてしまった以上、朱績のタイミングでバランスを崩され、そのまま一気に朱績の決め技である「一の太刀」で文字通り叩き潰されるだろう。
技から脱しようと自ら先に後ろへ下がれば、その時点でアウト…向こうの踏み込みのほうが、遥かに速い。

ほとんどチェックメイトに近い状況の中で、沈瑩は起死回生の可能性に欠け、軸足を固定しつつ全力の横蹴りを放った。

「甘い!」

だが朱績はそれより一瞬早く反応し、体当たりしてそのバランスを大きく崩させた。
かろうじて踏みとどまるものの、立て続けに飛んできた横蹴りに沈瑩の体は後方へ大きく吹っ飛ばされた。

「がぁっ…!」

体を地面に叩きつけられるとともに、沈瑩は蹴られた左腕に激痛を覚え、思わずうずくまってしまう。

(くそ…腕が…っ!)

今の一撃で、彼女の左腕はかなり深刻なダメージを受けたらしい。
その激痛で、左手の指一本動かすことすら出来なかった。

それでもなお立ち上がろうとした沈瑩の瞳に映るのは、能面のような表情のまま無言で剣を振り上げる朱績の姿。

(ちくしょうっ!)

彼女は、すべてをあきらめたかのように、目を閉じた。


その瞬間、鈴の音がした。



陸凱はその光景を、ただ呆然と眺めるしかできなかった。
朱績の振るう凶剣が、無常にも沈瑩の体めがけて振り下ろされる刹那…閃光の如く飛び込んできたその影が、その剣ごと朱績の体を突き放したのを。

見覚えのある狐色の髪。
襟足を少し残した状態で切り取られていたその髪を、一際大きい鈴をあしらった髪留めで結い上げ、彼女は左目の下に生々しい傷跡の残るその顔で…ただ一点を見据えている。
その深紅の瞳には、一転の曇りもなく…陸凱がよく知る、昔の彼女が持っていた強い意思の光を宿していた。

「…承淵」

そこには、総ての迷いを払拭した長湖部の宿将・丁奉の姿があった。

「承淵…先輩!」
「…ごめんね、遅くなっちゃって」

そうして、寂しそうに笑うのを見て、沈瑩は無言で頭を振る。
何か言おうとするのを、彼女は手で制し、その長大な刃を柳生天の形に構えた。

「後は、あたしに任せて」

それを見据える朱績の瞳に、再び強い憎悪の光が灯る。

「承淵…裏切り者が、のこのこと!」

朱績が苦々しげにつぶやくのを…いや、彼女を操る「何か」が言わせただろうその言葉に、丁奉の表情がわずかに曇る。

「確かに、あたしは世議を止めてやれなかった。
長湖部の安寧を理由にして、多くの子達を自分の手で傷つけた。
でも」

再度向き直った瞳には、その意志の光が喪われている事はなかった。


「公緒、あんたは絶対に助ける…あたしの、総てをかけて!!」
「ほざくなぁっ!!」

その咆哮と共に、現長湖部きっての勇将二人の戦いの幕は、切って落とされた。



(何て奴等だ…)

駆け付けた先…そのふたりの凄まじい戦いぶりに、陸凱は完全に釘付けにされていた。
本来なら轡を並べて共に戦陣に立つべきふたりが、このような愚かな戦いのために死力を尽くして戦わなければならないことをやるせなく思っていた彼女も、何時しかその戦いそのものに魅せられていた。

朱績の振るう剛剣を、一歩も退くことなく正面から叩き返す丁奉。
朱績も丁奉が繰り出す変幻自在の「(まろばし)」の歩法に惑わされることなく、その攻撃に転ずる一瞬を見切って確実にその攻撃を受け止めている。
一瞬の隙を突いて朱績が「続飯付け」の状態に持ち込んでも、双方いずれも譲らぬ駆け引きをやってのけているのが解る。


元々小柄だった丁奉は、そのリーチの短さを天性の瞬発力と、「覇海」という規格ハズレな長い木刀を振るうことでカバーしていた。
折りしも成長期にあった彼女は、孫権が引退する頃には170センチを超える長身と、剣術稽古によって身につけた膂力、しかも敏捷性も日々の鍛錬(というか、半分は趣味)の賜物か損なわれていない。
その恵まれた身体能力で、柳生新陰流の「転」で得意な中距離間合いをキープする…甘寧仕込みとも言える素手での喧嘩殺法を織り交ぜたインファイトも可能だが、どちらかと言えばミドルレンジの間合いを保つことを得手としている。

一方朱績は先に触れたとおり、奥義である「一の太刀」を修めていることもあり、その驚異的な踏み込みの速さで一気に相手の死角を蹂躙することをもっとも得意とするインファイターだ。
腕力にも優れ、沈瑩を追い詰めた「続飯付け」の状況に持ち込み、少しでも相手が後ろに下がる気配を見せたら一気に「一の太刀」で決める…それが彼女の必勝パターンである。

ベースとなる剣術流派の違い、あるいはその戦闘経験の違いから多少の差異はあっても、二人の方向性そのものは良く似ていた。
丁奉が北辰一刀流、直新陰流をかじっているように、朱績もまた元来の強力を活かすため馬庭念流、薬丸示現流にも手を出している。
丁奉が転の体捌きと使い分ける払車剣は一刀流の極意であり、朱績が操る続飯付けも馬庭念流の秘剣だ。
自分のベースとなる流派以外に、自分のタイプにあった流派の良いところを取り入れていく柔軟性も、このふたりに共通している。


何処か抜けた娘ではあるが、陸凱は当人が知る以上に朱績という少女を高く評価していた。

長湖部の発展期から在籍し、数多の決戦を生き延びてきた現長湖部…いや、関羽や張遼といった学園史を象徴する武を目の当たりにして成長してきた、現学園内最強の武を持つだろう丁奉と、どちらかといえば姉のコネで幹部になったようなエリートタイプの朱績が互角の立ち回りをしている。
陸凱もまた、その血筋ゆえに周囲からその能力以上のものを期待され、そのしがらみに苦しんだ時期もあったが、彼女はその足りない部分を努力で埋め合わせてきた。
それだけに、彼女は同じような境遇にあった朱績とは…表面上ではそうではなかったが…他人とはとても思えない何かを感じていたのだろう。

それが…彼女にとって親友であると同時に、その有り余るほどの才覚を有した「羨むべき者」であった丁奉と、互角の立ち回りをするまでになっていたことが、彼女には嬉しかったのかもしれない。


その戦いに目を奪われ、自分が此処へ駆けつけてきた理由すらも忘れそうになったそのとき。

「相変わらずツメが甘いね、敬風。
何時だったかあんた、実の妹に最終局で大逆転されたことを忘れちまったかね?」

不意に後ろから声をかけられ、ぎょっとして振り向く。
その視線の先に思いもよらぬ人物の顔を見て、陸凱は再度目を見開いた。

「あんた達!」
「確かに今は、互角に戦ってるように見えるよ。
でも見な…あの承淵だったら絶対に看過できない案件ってモンが、あっこにあんじゃねえのかな?」

その少女が指差す先に見たものに、陸凱はようやく現実に引き戻された。



丁奉が気にしているのは…その遙か向こう。

暴行を受けたと思しき、とらわれた数人の少女たち。
いずれも、見覚えのある顔…それもそのはず、この一週間ほどの間に打ち解けた、水泳部の一年生達だったからだ。
それを解煩・敢死軍の少女たちが取り囲み、抵抗する力も失ってぐったりとしているその少女たちに鉄パイプのようなものを突きつけている…自分が下手な行動を取れば、さらなる暴威を、捕らわれた彼女たちに振るわれる懸念もある。


「何処を見ている、裏切り者!」

その隙に、体勢を整えた朱績が再度「続飯付け」の形に持ち込んでくるのを、丁奉には辛うじて受け止めることしか出来なかった。

「公緒…あの子達を……どうしてっ!」
「粛清に見せしめは同然のことだろう…?
貴様が過去に孫琳にやったことと、何処が違う!?」
「ぐっ…!」

その言葉と共に、さらに圧力を増してくる朱績の剣。
いや、自分の戸惑いが、自分の剣を乱している。

「安心しろ…貴様との決着がつくまで、あの小娘共にはこれ以上手を出さん。
貴様を血祭りに上げ…そして、他の水泳部員諸共全員、二度と水泳などできないようにしてやる…!!」

呪詛にも等しいその言葉と共にその重圧は、丁奉の体を一歩、また一歩と後ろへ追いやり始めていた。

「さっきまでの威勢はどうした…?
このままいけば、貴様をその後ろの小娘諸共、両断することになるぞ?」

じりじりと後方に押される丁奉に、朱績の放つ酷薄な言葉が追い討ちをかける。

はっとして、丁奉は一瞬後ろを振り返る。
左腕の激痛を堪え、目の前で戦う丁奉の姿を見上げる沈瑩の姿が見える。

「このまま、手の空いた連中にそこの小娘から血祭りに上げさせるのも一興か…!」
「くっ!」

自分の知る朱績のイメージとはかけ離れた冷笑に、丁奉は戦慄しながらも…なおも渾身の力を込めてその剣を押し返そうとする。
しかし、困惑する彼女の心は、その力すらも十二分に発揮させるのを妨げていた。

(どうすればいいの…どうすれば…?!)

傷ついた仲間…守るべき少女…救うべき者…その総てが板ばさみとなって、その手足にまとわりついてくるかのようだった。
その心すら、剣と共に砕け折れそうな、そんな錯覚がしたその刹那。


「くぉらこの馬鹿承淵!
つまらねーことで気をとられてる場合かよっ!」
「え!?」

懐かしい声。
だが、決して錯覚ではない。


その視線の先…囚われた水泳部員の傍には、先ほどまでそれを捕らえていた少女たちの姿はない。
それらの少女たちは悉く倒れ付し、動きを止められている。

その傍らには、それをやってのけたらしい三人の少女。
ひとりは陸凱。
恐らくは、今この場にいない留平か、吾彦か、あるいはそれ以外の少女が呼びにいったのだろう。


そして残るふたりの少女。
何れも夏の制服を着込み、その場に立っている。

ひとりは青みがかったショートの髪に、似合ってるんだかどうかよく解らないピンク色のヘアバンドを身につけている。
もうひとりは、頬や腕、足にうっすらと傷跡の残る、赤い髪で長身の少女。

その姿を見たとき、丁奉の目が驚きに見開かれた。