「そこの大馬鹿公緒を止めてやれるのは、今この時点ではおめぇしかいねーんだぞー!
もうちょい気張れこのスットコドッコイ!!」

青い髪の少女が、能天気にそう呼びかけてくる。
赤い髪の少女も、一瞬躊躇したようだったが、苦笑する陸凱に小突かれて息を一つ吸う。

「承淵!
あんたが守りたいものは、まだたくさんあるんだろう!?」

その少女は、かつて丁奉が知っている頃の…勝気で真っ直ぐな瞳と言葉を、投げつけてきた。

「他の連中のことは気にするな!
あたしたちで何とかしてやるから、あんたは公緒を止めてやることに専念しろ!いいな!」
「季文…世議!」

朱異と呂拠。
一度はすれ違ったはずの、かつての親友の姿に、丁奉の心にも熱くこみ上げるものが抑えきれない。


彼女たちが、戻ってきてくれた。


「うん!」

浮かぶ涙を払うこともせず、頷く手に握られた愛刀に、再び闘気が漲っていく。
否、すべての懸念が払拭された今、目的の指向性が一点に集約されたその剣気が、それまで以上の圧を覇海へと伝えていく。


「うおおおおおおおおおおおおおおあああああああああああああああああああ!!!」


丁奉の剣気が、その咆哮と共に一気に弾けた。



-長湖に沈む夕陽- 第二部

三 「親友」



「何ッ!?」

すべての迷いを振り切った、純粋かつ強大な闘気が…朱績を一瞬、怯ませた。
その圧力が弱まったその一瞬の隙を突いた丁奉は、その無限にも溢れんばかりの闘気に後押しされるかのように朱績の剣を力任せに押し返し、その体勢がが崩れたところへ肩から体全体で朱績の体を突き飛ばした。
そこへさらに踏み込みからの間髪入れない一撃を繰り出し、さらにその体を押し返していく。

本来の力を取り戻したその刃が、変幻自在の歩法と相まって様々な角度から朱績を襲う。
さしもの朱績も、これまで感じ取れなかった丁奉の力に困惑の色を隠せなかった。

「おのれ…調子に…!」

朱績は軸足で踏みとどまり、反撃の一撃を繰り出そうとする。

(これは…義封(朱然)さんの豪撃(こわうち)!)

剣を大仰なくらいに振りかぶる独特の構え。

豪撃。
朱績の姉である朱然が必殺の一撃として用いた立身流の大技である。
丁奉はかつて練習試合で、この技を受けて失神したことがあったが…その速度、技の掛かりも明らかにそれ以上と感じ取れた。

「乗るなぁっ!」

怒声とともに、その一撃は朱績の全体重を乗せて丁奉の脳天めがけて振り下ろされる。

(受けちゃダメ…かわすのもダメ…だったら!)

まさしくその刹那、人間の限界反応速度すれすれで、丁奉の剣が動いた。
丁奉は通常よりもずっと長いその木刀で、振り下ろしてくるその根元をいなすように突く。
そしてその小手を絡めるようにして流すようにその剣の軌道を変えさせたのだ。

「な…に!?」

朱績が驚愕の表情を見せた次の瞬間、その太刀は凄まじい音ともに土煙を巻き上げていた。
その技の応酬に目を奪われる三人。

「あれは…豪撃!?」
「間違いねぇ…義封さんの必殺技だ。
でも」

陸凱はその後の言葉が継げずにいた。


彼女にも理解できたのだ。
かつて長湖部でも屈指の剣士であった朱然のそれを、朱績のそれは明らかに超えていることを。

単純な膂力のみでは、流石にこうはならない。
しかもそこそこ筋がついている程度の朱績の腕一本ではこれだけの状況を作り出すこと自体不可能に近い。
恐らくは、様々な基本に則り、それを組み合わせて工夫と努力を重ねてきたことで朱績がたどり着いた境地のひとつであるのだろう…陸凱は、そう結論せざるを得なかった。


土煙が晴れた瞬間、計ったように両雄の剣がかち合った。
必殺の一撃がかわされ、一瞬驚愕した朱績も次の瞬間には冷静さを取り戻し、丁奉もまたその一瞬を見切って剣を返した。
朱績が「続飯付け」の体勢に持ち込もうとするのを巧みに受け流し、双方の剣はその気合とともに火花を散らしている。

その様はまるで、猛々しいダンスのようでもあった。


(凄まじい重さ…心を失ってる所為で、気兼ねなく全力が出せてる…?)

丁奉は繰り出される一撃の重さに舌を巻いた。

丁奉自身、自分の膂力にはそこそこの自信があった。
しかし、彼女の見立てが正しければ、朱績のそれは自分よりも明らかに強く感じられた。


かつて丁奉は部内の練習試合で、一度だけ朱績と戦ったことがある。
当時の朱績はまだ「一の太刀」を修めておらず、技も荒削りだった故、既に多くの実戦をくぐり抜けた丁奉の敵ではなかった。

しかし…自分が疎遠だった一年余の間に朱績どのような成長を遂げたかは、丁奉にとって未知数の領域だ。
朱績はその性格通り、相当の負けず嫌いである。
孫琳粛清から以後、馴れ合いには無関心だった丁奉にしても、朱績がある一人の人物を追い続けていたことは良く知っていた。


目の前の朱績の一挙一動足を見据え、その次の動きと繰り出される技を予期し、繰り出された剛剣に対し丁奉も縦横無尽に繰り出す大太刀で迎え撃つ。
そのとき…丁奉の脳裏に、ふと、懐かしい光景が浮かぶ。

四年前の合肥棟。
傷ついた凌統と共に遭遇した、彼女が知る限り最大の恐怖。
凍りつくような凄まじい鬼気を撒き散らす、長湖部の者に消えぬトラウマを植えつけた…丁奉にとっては、尊敬する者を打ち倒した仇とも言える存在。

彼女もまた、かつてその存在を超えることを目的に、水泳部の活動の合間を縫って剣術に打ち込んできた。
元来優れた資質を持った彼女はすぐにそれを開花させ、長湖部の次代を担う武の要として、その将来をますます嘱望されることとなった。

だが…そんな彼女の行く先に待ち構えていたのは、その目的すらも霞ませるに足るほどの悲劇。
自分が自分の目標を見失ってしまった間、朱績はただひたすら自分の目標を追い続け、努力してきたことの確かな証がそこに垣間見えた。

(公緒も昔のあたしと一緒だ。
 負けたくない人がいたから、超えたい人がいたから、だから強くなったんだ…!)

心を失わされていても、朱績の剣に彼女がどんな一年半を歩んできたのか…それは、丁奉にとっても好ましくもあり…羨ましいことだったに違いない。



「アレが本当に…あのアホ公緒なのかよ…?」

呆然と呟く朱異。

言葉はなかったが、その表情からも呂拠が同じ印象を抱いていたことは想像に難くない。
そして、これほどの技を見事、高等技術である「剣絡み」を応用して捌ききった丁奉の格闘センスにも。

「あいつら…いったいどういう戦いしてやがるんだよ?
あたし等と同じ領域(レベル)の戦いに思えねえぞアレ」
「だけど、承淵の奴、なんか楽しそうだな。
ったく…ついさっきまで公緒に押され気味だったくせに」

戦慄く朱異に、最早苦笑する以外にない、といった面持ちで頷く呂拠。



「貴様…何が可笑しいッ!」

朱績の怒声で、はっと我に返る丁奉。

恐らくは、そのことを思い出しつつ、僅かに笑っていたらしかった。
だが、哀れにもその直向さゆえ、深く術にかかった朱績がその心中を理解することは出来ぬだろう。

丁奉も気持ちを切り替え、目の前の朱績の動き…「続飯付け」に持ち込もうと踏み込んでくる朱績の剣先に全神経を集中させた。



(そうか。
 こんなくだらない戦いでも…公緒は公緒でしか、ないってことなんだな)

一方で丁奉の笑みの意味を、陸凱は理解していた。

朱異も呂拠も、陸凱がそう感じたように、朱績の底知れぬ修練の結果を…いや、それが元々身に秘めていた途方もない才覚を、絶え間ない努力によって大輪の花へと育て上げたことに感嘆せざるを得なかった。
陸凱は、自分もそうでありながらそれを億尾にも出さず、あえて茶化した口調で言った。

「それよりどうする世議先生よ、あたし達の賭け、どうやら無勝負で終わりそうだぜ?」
「あ?」

急にそう話を振られて、怪訝そうに呂拠は陸凱へ振り返る。

「惚けようったってそうはいかねえぞ。
賭けただろ、あたしたちの世代で承淵級のバケモノもう一匹生まれるかどうかって、高等部上がってすぐによ。
形はどうあれあんたは承淵に負けてる、季文も孫綝のクズ野郎にやられてるからアウト、あたしはいないって賭けてたしな」
「あたしタイマンであのゴミ野郎に負けた覚えねーぞコラ!!
当然承淵とかともまだ決着つけてねーし!!」
「そこで容赦なくあたしのトラウマ抉っていい気になってるとこ悪いがな敬風…多分あの女のひとり勝ちだ。
どうなってんだろなあいつの洞察力マジで」

喚く朱異を余所に、呂拠もそんな陸凱の心中を一瞬のうちに察したのか、にんまりと笑みを浮かべた。

呂拠が指差す先…一軍を率いて登場した先頭の少女が、これとわかる具合に笑みを浮かべる。
特徴的なプラチナブロンドの髪を短めに切り、細目がちな目をさらに細めていたのは、交州学区奪還作戦の最中にあったはずの虞汜であった。
陸凱もそれに気づいて苦虫を思いっきり噛み潰したように顔をしかめる。

「ちっ…こらぁ世洪、来るの遅ぇーんだよこののろまー!」
「賭けの件はこれ終わったら清算だぞあんたたちー♪
ヨチカ一週間分の食券、用意しときなさいよー!」

陸凱の嫌味も何処吹く風、といった風に、けらけら笑いながら手を振る虞汜。

「あたしもさー昔から気になってたんだよねー。
世洪(アイツ)と囲むと全く勝てねえ理由さあ」
「全くだ、本当に未来でも見えてるとしか思えねえ時あるよな」

呂拠ももう苦笑しか浮かばない。
その様子に、呆れたように肩を竦める朱異。



「よーし、相手は南郡防衛軍!
この戦いはあくまで「演習」だから、連中の動きを止めるのが最優先!行けぇぇー!」

虞汜の号令一下、ときの声と共に戦場へ雪崩れ込むは虞汜、その妹である虞忠、そして陶璜らを主将とする交州勢三百名。
時を同じくして、その反対側、西陵側から姿を見せる一団。

「間に合った!」
「よしっ、部隊を二手に分けるよ!
平ちゃんと彦ちゃんは廬江棟及び傷ついた水泳部員の防衛!
あたしはよーこちゃんと一緒に交州軍と挟撃体制に入るよ!
全軍、とっつげきいいいいいいいいいいいい!!」

陸抗、羊祜、吾彦、留平四将が率いる西陵軍団二百名。
その半数が、陸抗の号令一下、虞汜率いる交州軍団に食いつかれて混乱する反対側へと突っ込んできた。

その先頭で陸抗と共に竹刀を振るうツインテールの少女を見た瞬間、陸凱は呆気にとられて叫んだ。

「んな!
何でアホ叔子がこんなところに居やがるんだよっ!?」
「おー、ふーちゃんおひさー♪
元気してるぅー?」

その姿に気づき、能天気に手を振る羊祜に、頭を抱える陸凱。

「幼節のアホンダラマジでもう…!!
どうせまたあのアホ女に貸しだとか言われてホイホイ連れてきやがったんだろあいつはああああ!!」

一瞬こちらも呆気に取られていたらしい朱異が、件の人物を指差して呟く。

「え…あれまさか、蒼天会車騎主将の羊叔子か!?」
「あぁ、泣く子も黙るどころか大笑いさせる対長湖部実働部隊の総大将様だ!!
ついでに言やぁあたしの幼馴染の中でも一等ムカつくアホ女だよッ!!」

何か過去に余程嫌な事があったのか、陸凱は地団駄踏みながら苦々しげにはき捨てた。

「まぁそう言わない言わない。
羊姉妹っていや生徒会執行部に貢献した堅物姉妹だから、その末妹も公私にはしっかり線引きの出来る人間だと聞いているし…ここは信用していいんじゃないの?」
「あたしはあのアホにどんな形であれ借り作んのがいやなんだよっ!
幼節のアホがアレに借り作る時は150%あたし巻き込みやがる、それこそ初等部にいた時からなあクソが!!」

呂拠のフォローも何の効果もないかのように、まるで駄々っ子のようにさらに地団太を踏む陸凱だったが、

「ほら、この子達廬江にとっとと避難させて、あのアホにでけぇ顔させないようあたしらも南郡の連中蹴散らすよっ!」

言うないなや、彼女は傍らに倒れていた少女をひとり背負い、戦闘地域を避けつつ風のように廬江棟へ走り去っていった。
それを見送り呂拠と朱異は顔を見合わせて笑うと、ふたりもそれに倣ってひとりずつ少女を背負い、その後を追いかけていった。



戦の趨勢は一気に変わった。

長湖レガッタ部員を中心とする解煩・敢死軍は、長湖部でも屈指の戦闘集団である。
かつては韓当がこれを率い、その後も様々な名将たちがこの軍を率いて活躍していたことでも知られる。
学園無双における個人戦闘能力の向上のため、基礎体力作りを兼ねて古武術や、形意拳、八極拳といった中国武術に通じている者も多い。
個人戦闘力だけを取るなら、その一人一人が一対一の戦闘で主将クラスに匹敵すると言われるほどのスキルの持ち主である。

しかし催眠術の影響で精神の箍が外されているとはいえ、戦闘そのものは既に一時間近く続いているのだ。
しかも五百以上いるこの大人数、術の効果もまちまちで、一部では自然に術が解除され始めたものも出てきていた。

まして、同様に精鋭部隊である交州軍団、西陵軍団に、陸抗や虞汜、羊祜を初めとした名将が戦場をコントロールし始めている。
加えてそこに陸凱、呂拠、朱異といった、スタンドアローンとはいえ個人戦闘能力の高い者まで暴れまわっている状態である。
対する解煩・敢死軍は、大将の朱績の他主将クラスの者はたまたま居合わせたために術の虜となった数名に過ぎない上、そもそも術のコントロール下にあって指揮能力は皆無に等しい。
それゆえ、交州、西陵の両軍団が戦闘に介入して、朱績を除く解煩・敢死軍はものの十数分ほどでほぼ無力化されつつあった。
さらには既に催眠状態から抜け出し、かつまだ戦闘に耐えうる者たちが同胞の無力化に協力し始めたことで、やがてそのほぼ総てが取り押さえられることとなった。

「こっちはほぼ終わりだわ。
起きてる連中もほぼ八割が術の束縛から外れているみたいよ」
「うん、こっちもけが人の収容作業に移ってる。
あとは」

虞汜と陸抗の視線の先には、未だ激しい戦いを続けている丁奉と朱績の姿があった。



激しい打ち合いを続けていた両者が、どちらともなく飛び退いて、再び対峙した。

「あと、戦っているのはあたしたちだけだよ。
そろそろ、決めさせてもらうよ」

丁奉は脇構えから、本願の柳生天に構えなおした。
術に曇った瞳のまま、朱績は憤然と鼻を鳴らす。

「ふん…ならばあたし一人で、この場の敵のすべてを叩き伏せるまで!!」

青眼に構え直した刹那、朱績は猛然と間合いを詰めてくる。
朱績最大の決め技…香取神道流の極意「一の太刀」だ。

しかし彼女の「一の太刀」は、既に流派の説くそれとは一線を画する。
薬丸示現流を通じて朱績が到達した、示現流の極意「雲耀」の境地が、「防御も回避も許さない必殺剣」としてこの奥義を昇華させていた。

(勝負は一瞬。
 アレを決めるには、相手の呼吸を読み、合わせていくことが総て!)

丁奉は瞬時に後方に一歩下がり、繰り出される朱績の一撃に狙いを定めた。

「せぇぇぇい!」
「うらぁぁッ!」

両者の剣がほぼ同時に振り上げられ、振り下ろされる。

その呼吸はまるで図ったかのように同時…というより、丁奉が朱績の呼吸に合わせたのだ。
陰流の奥義の一つ、「合撃(がっしうち)」。
丁奉が超えようとするその人物が、ただ一度、濡須で呂範と戦った時に見せた必殺のカウンター技である。

「ぐあ…っ!?」

その衝撃に顔をしかめる朱績。
明らかに同時のタイミングで、ほぼ同等のパワーとスピードで振り下ろされた剣。
しかし、朱績の体は大きくはじき飛ばされ、彼女は蹈鞴を踏んでなんとか踏みとどまって見せた。

だが丁奉は朱績が体勢を崩したこの好機を逃さぬべく、再び柳生天に剣を構え直して猛然と間合いを詰める。
これまで多くの強敵を沈めてきた彼女の必殺技のひとつである「逆風の太刀」、その一撃によって勝負の幕引きとするために。

(足なら…レガッタの指揮には影響を及ぼさないはず。
 これで決まりだよ!!)

彼女は陸胤から、廬江周辺にある自動的に「脱落者」を判定するシステムを一時的にダウンしてあるということを聞かされている。
朱績を昏倒させることが、彼女の「脱落」とイコールでないことを知っている以上…加減などそこにはない。

地面ぎりぎりを走る切っ先が、まるで火花を散らさんかの勢いで猛然と風を斬り、動けぬ朱績へ迫る…!


「ならばわが秘剣にて、総て叩き潰すまでだ…!」


その構えを青眼から、まるで納刀するかのように剣を腰の辺りに納める。
憎悪に燃え盛っていたはずの朱績のどす黒い闘気が、一転して急速に静かに、漆黒の闇の如く冷たくなっていく。

(えっ…!?)

丁奉は戦慄した。
その変化の不気味さではない。
それとは別にあった…彼女の記憶の奥底にあった何かが、警鐘を鳴らしていた。

その記憶にある光景と、眼前に展開される光景が、丁奉の脳裏に奇麗に重なった…次の瞬間。
風切り音とともに、真一文字にその刃が丁奉を襲った。


仮に「合撃」で迎え撃とうにも反応すら出来ない、無拍子にして神速の一撃を…踏みとどまった彼女は辛うじて覇海を立てて防ぐ。
だが、その瞬間凄まじい衝撃が、その体躯に叩きつけられた。

その凄まじい衝撃に、彼女は声を発することさえ出来なかった。


刀身の下のほうに逆手を添えていた彼女は、辛うじてその一撃を受け流すことには成功していた。
しかし、その衝撃により、彼女は剣を構えた体制のまま、凄まじい勢いで地面へと叩きつけられてしまう。
受身も取れない状態で、更なる衝撃がその身体を襲った。
そして、その身体は勢い余って地面をバウンドし、さらに別の地面へ叩きつけられた。

思いもしなかったその事態に、見守る少女達も息を呑んだ。
倒れ伏し、その衝撃で解かれ乱れた狐色の髪はぴくりとも動かない。


「無念無想、明鏡止水の境地より放たれるこの一撃の前に防御など無駄なこと。
この秘剣を受けるものは、このような末路しかないのだ」

曇った瞳のまま、勝ち誇ったように呟く朱績。

呆然と眺める少女たちを他所に、倒れた丁奉のほうへ歩み寄る朱績。
このまま止めを刺そうとでもいうのだろうか。

「惜しむらくは、編み出したばかりのこの技に名前がないことだが」
「名前なら…ある」

朱績の瞳が、確かに打ち倒した相手の声に驚愕し、見開かれた。
その視線の先には、立ち上がろうとする丁奉の姿があった。

「ば…馬鹿なっ!
この技を受けて立てるはずなど…!」

狼狽する朱績に、丁奉は僅かに微笑んだ。

その額からは一筋の流血があり、地面に打ち付けられて出来ただろうあざが腕や足の到る所に見える。
相当なダメージを受けていたように見えたが…恐らく無防備のように吹っ飛んでいても、丁奉の体そのものが無意識にダメージを和らげるような体勢をとっていたのかもしれない。

「そりゃあ、この技は一度、見たことがあるからね。
解れば…防ぐことはできなくもない…!」
「出鱈目を言うな!
誰一人として友を顧みず、ただ長湖幹部の走狗と成り下がってきた貴様が、何処でこれを見たというのだ!」

その狂気すら孕んだ怒声に怯むことなく、丁奉もまた歩を進めた。


「その技は…断じて今の公緒が使えるような技じゃない。
その技の基にあるのは、柳生新陰流の奥義・水月神妙剣。
それに抜刀術の要素を加え、無念無想の境地から放たれる神速の抜刀術…それがこの技の正体だからだよ…!」


丁奉はゆっくり、抜刀術の構え…先程朱績がとって見せた同じ構えをとって見せた。
朱績は一瞬不快に眉をひそめ、無言で、再度同じ構えを取る。

「確かに…あたしはこの一年ぐらいの間…あまりに多くのモノから目を逸らせてきた。
けど、今の技は公緒の使う技のはずがない。
神道流、そして示現流、念流…ただひたすらに前に進んでいく、公緒らしい「動」の剣。
誰が何をしたか知らないけど…それをねじ曲げた奴だけは、最ッ高に許せないッ!!」

その怒りが、オーラの如く立ち上って見えるかのように…見守る少女達に見えている。


じりじりと、双方が間合いを詰めていく。

「かつて…あたしは文珪(潘璋)さんの指揮下で、荊州学区で武神関羽と戦った。
学園稀代の武神…そして、それに対峙する長湖部の「伝説」…双方死力を尽くした戦いの中で、今の技を「武神」関羽が使ったんだ。
あたしがそれを知らないとか…見くびられたもんだよね…!!」

互いの立ち位置が、丁度双方が抜刀の体勢に入った時の、それそれの必殺の間合いに重なった。

「見てたんだよ…あのとき。
あたしも、伯言さんも…義封さんも。
どうせあんたはこれも知らないんだろう…武神を討った、その人の名を。
「小覇王」と共に激動の時代を駆け抜け、「長湖部」の礎となった誇るべきその名を!!」

その言葉は…朱績に向けられたモノではない。
その心を弄んだ、卑劣なる術士へ向けられたモノだった。

「そして…学園最高の武神が生み出したこの奥義の名も…知らないんだったら、その耳かっぽじってよく聞きやがれ…!
その名は」

精神を集中させるため、丁奉はその視界を閉ざした。
双方の闘気は急速に冷え、まるで凪の湖面の如く澄んでいく。


「鏡華水月ッ!!」


双方の剣が放たれた。


亜光速の域にまで達する横薙ぎが、閃光の如く奔り激突する。
その瞬間、ふたりを取り巻く大気そのものが、途轍もない衝撃波を生み出した。

そして。


「馬鹿…な…!」


朱績の木刀は根元から折れ飛んだ。


朱績は気付くべくもなかったが、このとき丁奉は、わざとタイミングを一拍ずらして後から抜刀したのである。
態々技の名を叫んだのは、朱績に先に技を放たせるためのフェイク…そして、丁奉はこの「完成された」と思われた奥義に、さらに「合撃」の要素を加え、超必殺のカウンター技へと一瞬のうちに進化させたのである。

剣の速度もあらゆる技の掛かりも、ほぼ互角。
しかし、丁奉は先に受けたダメージゆえ、そう長く体がもたないことを理解していた。
だからこそ、朱績からひとつの技だけを引き出させ、それをカウンターで潰すことに総てを賭けたのだ。


無論、まったくの無謀な賭けだったわけではない。

丁奉本来の流派は柳生新陰流…この奥義のベースとなるのはその奥義たる水月神妙剣であり、合撃を扱える力量を持つ彼女は当然ながらこの奥義を習得してはいたのだ。
ただ、彼女の心が、その技の行使を妨げていたのだ。
だが、心を取り戻し…術に囚われた親友を救う彼女の心が、この技を扱う境地にたどり着けたことを…彼女は無意識のうちに悟っていたのである。


そして、彼女はこの賭けに勝ったのだ。


丁奉は即座に柳生天の構えを取る。
その剣に残る総ての力と、総ての想いを乗せて。

「これで…終わりだあぁぁぁっ!」

そのまま、駆け抜けざまに朱績の体を袈裟懸けに叩き伏せていった。
丁奉の総ての力を注ぎ込んだ「月影」の一刀に、朱績の身体はその場に力なく崩れ落ちた。
まるで糸を断ち切られた操り人形のように。


そして総ての力を出し尽くした、丁奉の身体も。




「承淵っ! 公緒っ!」

それまで凍りついたように動かなかった少女たちの中から、陸凱の叫び声とともに次々と飛び出してきた。

「先輩っ!」
「しょーちゃんっ!」

駆け寄ってきた留平と陸抗が、崩れ落ちた丁奉の身体を抱き起こす。

「大丈夫…あたしは、大丈夫だよ」

ふたりに弱々しい笑顔で応えるが、誰の目から見てもやせ我慢であることは明白だった。
ほぼ限界の状態で大技を立て続けに放ったことで、丁奉は自身では指一本動かせないくらいに消耗しきっていた。
そして、額だけでなく、体の到る所から流れ出た血が、制服の白地に赤黒い染みを作り…この戦いで負ったダメージの大きさを、何よりも雄弁に物語っていた。

「それよりも、公緒は…?」

彼女はそれでもなお、打ち倒した親友の身を案じ続けていた。



陸凱は駆け寄り、その体を抱き上げ呼びかける。

「公緒! 公緒っ!」

その呼びかけに、僅かに朱績が反応する。

「……敬風…?
…あたし……あたしは……」
「公緒、解るか?
ちゃんと、あたしのことが!」

朱績は小さく頷く。
見上げる瞳は、確かに陸凱の顔をしっかりと見ていた。

「……悪い夢、見てた。
……みんなと、戦わされる夢……!」

その瞳から、一滴の涙が零れ落ちる。

「承淵が悪いわけじゃないのに…ずっと…承淵が悪いと思い込まされて…!!」
「もういい…もう終わったんだ…だからもう、心配しなくていいから…っ!!」

その鳶色の瞳からも、ぼろぼろと涙が零れ落ちていた。
そう、と小さく微笑む朱績。

「承淵…あの娘は…?
…あたしは…あの娘を…」
「大丈夫…だよ」

朱績と陸凱が振り向くと、そこには、陸抗と留平に身体を支えられた丁奉の姿があった。

「…ありがとう…助けてくれて」

力なく微笑むと、朱績は再び目を閉じた。



その物陰から、その様子を苦々しげに眺める影がひとつ。

(丁奉の武が此処までとは。
 正直侮りすぎていたわね)

岑昏は自分の見立てが甘かったことを認めざるを得なかった。

彼女はその普段の振る舞いとは裏腹に、綿密且つ周到に計画を練り、策を実行する稀代の策士でもある。
故に、その策を滞りなく進行させるべく、不確定要素の排除は多少神経質にも思えるくらい意識を払っている。

彼女がその知識として蓄えてきた丁奉、朱績両者の武はほぼ互角。
僅かに経験の差から丁奉に利ありと見ていた程度で、その差を丁度埋める「仕掛け」も施していたはずだったが…。

(所詮は打たれ弱いエリートでしかなかったか。
 それとも、私が術に仕掛けた「武神」のレプリカが不完全だったか…否)

そこで彼女はあることに思い当たる。
彼女が朱績の精神に「宿らせた」それは、丁奉がその長大な課外活動の参加期間に遭遇していたということを。

(まあいい。
 次の手は既に打ってある)

その顔に冷笑を浮かべ、彼女の姿は闇の中へと消えた。
そのことに気付くものはなかった。