解説 丁奉
-学三設定-
蒼天学園中等部入学後間もなく、赤壁島と揚州校区を泳いで往復するずば抜けた体力が孫権の目に留まり、長湖部の幹部候補生として抜擢された慮江棟の俊英。その後、孫権の計らいで甘寧や潘璋といった荒くれ連中に追従して研鑚を重ね、夷陵丘陵戦後は一部隊を任されるほどの良将へと成長する。その後は陸遜軍団の突撃隊長として名を馳せた。
長湖部の柱石ともいえる陸遜らが引退していった後も、東興堤では蒼天会の大軍勢を寒中水泳からの奇襲で撃退したり、専横に走る孫綝らを粛清するなど長湖部の重鎮として活躍し、同時期に部を支えてきた陸抗、陸凱らとともに長湖部の最期を見ることなく引退する。実に6年もの間、留年することなく課外活動を続けた稀有な存在である。
生来、髪の色が鮮やかな狐色であったことからヤンキー扱いされる事も多かったらしいが、素直で真面目な性格で、泳ぐことが大好きな生粋のスポーツ少女であった。しかし陸遜が讒言で部を去ったこと、その後の長湖部内の権力闘争に巻きこまれたことなどが彼女の心に影を作り、年を経るごとに寡黙でとっつきにくい少女になっていった。さらには長湖部幹部として行動することを第一義としたために、水泳部部長でありながら部にもロクに顔を出さなくなったため、多くの長湖部員から「功績に奢っていい気になっている」と陰口を叩かれるようになったという。同じユース時代の仲間である陸凱や丁固、孟宗らが孫皓の排斥計画を立てたとき、孫皓の信頼厚い(と思われていた)彼女に孫皓を処断する者として白羽の矢が立てられるものの、その計略の一環で水泳部へと足を運んだ彼女はかつての素直で仲間思いの矜恃を取り戻してしまい、結局計画が頓挫すると、夏の大会を最後に課外活動を引退し、その身は学園の南外れにある臨川寮へと移された。一説によれば、長湖部の崩壊を止められなかった自分自身を恥じ、この強制移住を申し出たともいうが、同時期に引退した陸凱らも同地に移り、とある計画のために活動していたとも言われる。
当初は格闘術の経験はなかったが、経験とセンスで格闘能力を身につけ、後には柳生新陰流を修得して学園でも屈指の猛将となった。その戦闘能力の高さから、一説には引退間際の張遼を激闘の末に討ち取ったとも言われている。この話は後世の創作小説に多く取り入れられたため、作り話に過ぎない、と言われているが…。
-史実・演義等-
丁奉 ?~二七一
字は承淵、慮江郡安豊県の人。
若い頃は甘寧、潘璋、陸遜といった名将の部下となって研鑚を積み、生来の勇猛さを買われて小さな部隊を率いるようになると、戦に出て必ず相手の軍旗を奪い敵将を討つ活躍を見せた。そのため体中に無数の傷を負っていたという。
孫権が死んで間もなく、魏は諸葛誕、胡遵らを大将とする十万余の大軍を送り込んできたが、その際総大将の諸葛恪に迎撃よりも相手の出鼻をくじくことが重要であると進言し、自ら三千の手勢で数十倍の軍に奇襲をかけて勝利に貢献した。このとき、雪が舞う寒空の下にもかかわらず兵士の鎧を脱ぎ捨てさせ、相手の油断を誘ったといわれる。この時のエピソードは演義にもほぼそのままで語られており、また演義では夷陵の戦いの後に濡須口に攻め寄せてきた魏軍を迎え撃った際に、孫呉の天敵とも言える猛将張遼に矢傷を負わせ、その傷が元で張遼は間もなく亡くなったとされたことから、間接的に張遼を死に至らしめるという大手柄を上げている。
孫休が帝位につくと、その密命を受け、専横に走っていた皇族の孫綝を宴会で誅殺することに成功し、これによって大将軍の位に昇り、実質的な軍部のトップにのぼりつめた。
景帝孫休が世を去ると、丁奉は濮陽興、張布らと計り、烏程候孫皓を帝位に迎えた。その後二六八年、丁奉は合肥攻略を命ぜられ、偽手紙によって守将の石苞を放逐させることに成功したものの、そのときも、翌年行われた侵攻戦でも成果を上げることができず、孫皓が怒って丁奉の部下(斥候といわれる)を殺してしまうという一幕もあった。
二七一年に逝去。功績もあり、実力も名将と呼ぶに相応しいものだったが、年を取って位が上がるにつれ驕りたかぶるようになったといわれる。そのことを非難するものがあり、その死後、孫皓は丁奉晩年の軍事行動の失敗を取り上げ、その家族を臨川という僻地へ強制移住させてしまった。また一説には、孫皓の暴虐が激しくなると、左丞相の陸凱や御史大夫の丁固(丁密)らと謀って孫皓廃位を目論んでいたといわれる。
-狐野郎が曰く-
狐野郎が「学園三国志」本家サイトに乗り込んでいった際に、手土産の如く初めて投下してきたオリジナルデザイン。正直なんで玉絵存在してなかったのか、今考えても本当にナゾで、裏返せばこれだけのポジションの人物に本家オフィシャルデザインが存在しなかった事に運命を感じたぐらいである。まあそれ虞翻もなんだけど。そんなこんなで当時の狐野郎は「ポップンミュージック」の無口な詩人()とカナヅチ天使()にエラい入れ込んでいたこともあり、かごめは虞翻に使おうと思ってたので必然的にポエットがデザインのベースとして当てはめられることとなった。ただツーサイドアップだとなんとなく猛将って感じはしない(っても賀斉なんか思いっきりツインテールなんだけども)と思ったので、うなじでおさげを作ってさらにアップのポニーテールを作るという、まあ要するに同じく「ポップン」のBis子の髪型を採用したわけである。しかしながらポエットは公式設定でもカナヅチなのに、学三設定で泳ぎが達者どころかマグロめいた水泳狂の承淵ちゃんのデザインベースにするとか当時から狐野郎の脳内配線は大分狂っていた事が窺える有様。ちなみに水泳が大得意名設定は、流石に東興堤の話は知っていたのでそのエピソードから拡大解釈しまくってつけたものである。ついでに丁奉が傷だらけになりながら武功を立てたという事も知っていたので、とある読参企画(しかもR18の、三国志めいた戦乱モノだ)に登場した亜人の少女が左目の下に痛々しい傷を持っていたのを採用させている。まあその子、ここの承淵ちゃんとは似ても似つかぬ大人しい性格のクセして腹違いの兄貴と【データ削除済】
さて何気に横山光輝、吉川栄治双方の「三国志」にその名はちらほら登場している丁奉、一般的には「ああ、そんな名前の人も居たっけな」程度の認識しか当時はされてなかったんじゃないかと思う。演義では「対孫呉最終ナマハゲ兵器」張遼を結果的に死に至らしめたすんごい奴だし、後には「三國無双」でもプレイアブルキャラになったり、「蒼天航路」でも最終局面に出てきて歩兵隊長的なポジションなのに果敢に関羽に挑む(何故か中性的な見た目の)悪たれの一人として存在感を大分発揮し始めていたり、「三国志大戦」でも強力な号令持ちになったりで徐々に知名度を上げてはいるんじゃないかとは思う。ただ何気に正史を読む前にキャラクター設定を考えたため、重責を担うにつれ奢るようになったという事を知らず、勝手に素直で真面目な性格と決め付け(甘寧や潘璋の部下だったことも当然知らんかったし)、そのイメージ優先でキャラデザしたってのもあったし。ただまぁ、解釈によっては中等部から高等部卒業までの六年間、課外活動に参加していたことになるわけで、まさか黄忠みたいに三留だの、張昭みたく卒業後も首つっこんでたとかは…いや正史を知ってたらどっちかの案は間違いなく取ってたかも知れんが、逆にそれだとキャラの魅力が損なうと思ってやっぱり中等部から参加してた事にはするだろうけど。