解説 虞翻


-学三設定-

もともとは会稽棟の役員。会稽地区に代々ある診療所の娘で、六人姉妹の長姉でもある。
孫策の長湖周辺棟平定戦の際、当時の棟長であった王朗に孫策への帰順を進めるが聞き入れられず、敗戦のあとは野に下り、しばらくは一般生徒として過ごしていた。やがて幼馴染でもあった董襲が彼女のことを孫策に吹き込み、興味を得た孫策に無理矢理引っ張られてくる格好でその幕下に引きずり込まれた。しかし虞翻は話をするうちに孫策の破天荒な人柄に魅せられ、孫策も彼女の非凡さを見抜いて、その側近の一人として抜擢している。孫権の代になっても長湖部運営の中核として引き続き、長湖部のイベントには欠かせない裏方として、張昭に次ぐ実力者として認知された。
特によく知られるのは弁士としての才覚を活かした交渉人としての功績で、孫策の代にあっては湖南高区の有力者である華歆を懐柔し長湖部へ帰順させたこと、荊州棟攻略時にもその能力を十二分に発揮して帰宅部連合側の有力な棟長を懐柔・調略するなどおおいに暗躍したことが挙げられる。ただし、孫策には忠実であったはずの彼女は、孫権政権時代には思ったことを周囲にずけずけと言う、といった歯に衣着せぬ言動も目立ち、幹部会では次第につまはじきにされることとなる。そのために最初は丹陽に、その後一度復帰するものの、夷陵回廊戦間もなく孫権の勘気を被って交州学区へ追いやられてしまう。
交州学区に移った後の彼女はこれまでとはうって変わって穏やかな雰囲気を持つようになり、多くの才能ある少女たちを陰ながら支援し、大成するように図ったという。また、手紙を通して優れた献策を多く行い、孫権が蒼天会から独立を果たしたとき、彼女は孫権の業績を讃える手紙を送ったとされる。
彼女は結局幹部の座に返り咲くことなく、交州学区に左遷されたまま引退し学園生活を終えたが、当時北の辺境高区である遼東特別校区の公孫淵に外交で煮え湯を飲まされた孫権は唐突に「もし今も仲翔さんがボクの傍に居て、遠慮無くボクの浅はかさを指摘して止めてくれればこんなことにならなかったのに…」とコメントし、虞翻共々交州学区に追いやられていた虞汜を筆頭とした彼女の妹達を幹部会に招き、更にこれまでの彼女の功績を鑑みて、部の公式記録に幹部会代表就任の記録を残させたという。
普段の口の悪さからは想像もできないことであるが、感極まると人前でも子供のように泣きじゃくるという一面があり、何時しか陰で「泣きの仲翔」と呼ばれるようになった。見た目も周瑜ほどではないが、北方系人種の血筋によるプラチナブロンドと碧眼が特徴的な美少女で、非常に高い歌唱力の持ち主でもある。その言動から「ツンデレの典型」のように言われることもあるが、比較的親しい間柄にあった諸葛瑾に言わせれば「本当は恐ろしく恥ずかしがり屋な素直クール」らしい。
また、このような話もある。彼女は護身兼息抜きとして杖術を習っていたらしいが、その技量について、彼女が学園から姿を消す頃には「鬼姫」呂布を凌駕する戦闘能力を身に付けていた、とまで言うものがいたという。この話は一部長湖部員の中で伝説的に語り継がれていたらしいが、真偽のほどは不明。
孫権との不可解な関係も含め、長湖部における大きな謎を残しまくったことで、後代の学園史編纂者達は彼女について語る際大いに頭を抱えることになったという。


-史実・演義等-

虞翻 生没年未詳(一六四~二三三とする説もあるが、信憑性は薄い。論拠は文中にて)
字は仲翔、会稽郡余姚の人。
若い頃から学問に良く励み、その才能は広く知られていたが、その切欠となった出来事として、十二歳の頃に兄を訪ねてきたある人が自分を顧みることなく帰ってしまったときのエピソードがある。虞翻少年はその人物に「琥珀は腐った塵芥を引きつけず、磁石は曲がった針を引きつけないと聞いております。あなたが私をお訪ねくださらなかったのも、不思議ではありません」と手紙に記して送り、その人物は虞翻少年の非凡さに大いに驚いたという。この一件で虞翻の評判が高まることになるが、同時に後述する虞翻の欠点も、この文面より窺えるように思える。やがて虞翻は成長して会稽太守王朗の元で功曹(人事関連の仕事を中心に取り扱う庶務官)を務めることになった。
孫策が会稽に進軍してくると、父の服喪中であった虞翻は喪服を脱ぎ捨てて駆けつけ、王朗の身を守護した。演義では孫策が攻めてきた際に太守王朗に「時流に逆らわず孫策に帰順すべき」と進言して王朗の勘気を被り、そのまま野に下ることになっているが、史実ではそのまま敗北後の王朗に付き従っており、このあと王朗の勧めにより、母親の居る会稽郡に戻ると孫策に召し出され、その任用を受けることになる。孫策は非凡な虞翻の能力を高く買って賓客として待遇し、以後は孫策に従って江東を転戦し、三郡の平定に尽力した。当時豫章太守だった華歆の誘降も、彼の功績のひとつである。
呉を平定したあと、孫策は宴席で虞翻の能力を褒め称え、会稽に戻って後方支援の一切を取り仕切るように指示した。このことからも、孫策からはかなり信頼されていたことが窺える。
孫策が不慮の事故で世を去ると、漢朝廷や曹操の幕府からも招かれたが、そのすべてを蹴って孫権に仕えた。しかし孫権と虞翻は元々性格的に合わなかったのか、自分の意向に逆らうだけでなく、周囲からも非難を受けていることを受けて丹陽郡に左遷してしまった。
呂蒙が荊州攻略の際、一度病と称して建業へ帰還する芝居を打ったが、この際に虞翻が医術にも通じていることを理由に自分のそばに付き従わせた。呂蒙はこのことによって虞翻と孫権の仲を取り持とうとしたという。荊州攻略の際、その弁舌をもって糜芳の誘降に成功するという大功を立てた。その後孫権は、虞翻にこれからのことを占わせたところ「二日以内に、関羽を討ち取れましょう」と答えた。果たしてその言葉どおり関羽が討たれると、孫権はその占いの腕を「伏犠(古代三皇のひとりで筮竹の発明者)に及ばずとも、東方朔(漢代の占いの名手)に比肩する」と誉めそやした。
こうして孫呉の幹部に返り咲いた虞翻であるが、口が悪く、他人の事を顧慮せず己の正義を押し通そうとする性格は改まることなかった。自分で調略し孫権陣営に引き込んだはずの糜芳をことあるごとに誹謗し、それが正論故に反論できずに恥じ入った糜芳が徹底的に虞翻を避けるといったエピソードは非常に有名で、周囲との折り合いも非常に悪かったという。更に孫権に対しても、宴の席で孫権が(酒を勧めに)近くに来ると酔い潰れたフリをし、行き過ぎると起き上がるなどの露骨な振る舞いが多かったことから孫権も苦々しく思っていたようだ。そのようなことが重なり、宴席での言動が再び孫権の逆鱗に触れて交州に左遷された。虞翻は配流先でも学問に励み、門下生は二百人を数え、「易経」の優れた注釈を残したといわれる。そこで十数年過ごしたのちに七十歳で世を去った。
虞翻が交州に送られた頃、交州は士一族に支配されていた。士一族は表面上孫家に従っていたが、家臣ではないためいつ背いてもおかしくない存在であり、虞翻が交州に送られたのはその士一族に対する備えであったのではないかという説もあるらしい。もっとも、二二六年には交州は歩隲、呂岱らによって平定され、それ以後も虞翻は死ぬまで交州から戻れなかったようなので眉唾ではあるのだが…ただし史実でも孫権は遼東の公孫淵に外交関係で煮え湯を飲まされ憤慨した際「虞翻は一本気であけっぴろげの性格から、何憚ることなく意見してくれるのは我が国の周舎(劉邦に仕えた人物で、彼が皇帝となっても何一つ憚ることなく直言で諫めたとされる)であるのだ。もしこのとき(遼東に船団を送るとき)に虞翻が私の傍に居てくれたなら、こんな遠征が実行に移されることなどなかっただろうに」と述べ、なおかつすぐに交流へ人をやって安否を確認したところ、既に虞翻が身罷っていたことを知ったため、その棺を故郷の会稽に返すと共に、彼の遺児達を都に戻して出仕させたとも伝わっている。これは「江表伝」の記述であるが、これが確かであれば公孫淵のもとへ兵団を送ったのが二三三年の三月であることから、(虞翻の死が)その前後のことと考えるなら二三三年、あるいは公孫淵の滅びた二三八年頃と思われる。なのでウィキペディアでは生没年が一六四~二三三と記されているのだが、「会稽典録」には虞翻の四男虞汜が交州南海郡生まれであり、帰還した際には十六歳であったと記述があるので、そこに整合性を求め、かつ虞翻が関羽撃破に関わっていた事を鑑みるなら、亡くなったのは二三五年~二三八年のいずれかが可能性としては高い。ともかく、このエピソードを鑑みると、孫権と虞翻の間には史書では伝わらぬような微妙な関係が存在すると考える余地も在るのかも知れない。
余談だが「江表伝」には(当人の言葉ではあるが)矛の扱いが巧みで、徒歩でも馬の速度に負けないという健脚の持ち主だったともある。


-狐野郎が曰く-

狐野郎が最初にオリジナルデザインを作ったのは丁奉だが、その次に手がけたのが彼女である。丁奉もそうだが、意外にも孫呉の史上でもかなり重要な役割を果たしているポジションでありながら「玉絵ないのナンデ?」って首が540度は回転した(ように感じた)ように記憶している。
無論当時の狐野郎にとっても未知な部分の多い人物であり、多方面で情報を集めているうちに何故か蛇蝎の如く嫌う輩がいる(ニコニコ歴戦動画で、「変態記」シリーズの長寿シリーズを上げてる結構有名な動画投稿主とかな)ということを知ったり、実はかなり波瀾万丈な生き様をした人物だと言うことが解ったり、挙句何故か「五星戦隊ダイレンジャー」の老師の名前に採用されていたり(まあ怪人サイドにそのまんま張遼が出てくるような作品ではあったがコレ)、調べれば調べるほどいじりがいがあるな!みたいな事を思った狐野郎が当時の推しキャラをベースに好きな要素を色々ぶちこんでこのデザインが完成した。デザインベースに「ポップンミュージック」のかごめを置いて(当時本当にかごめ一本だったので、他にもかごめベースで作ったオリジナルデザインが存在するし)、当時ようやく認知し始めていた東方Projectや、ドハマリしていた某漫画でよく見かけたサイドのお下げ髪、そしてここに「Kanon」の倉田佐祐理のプラチナブロンドをパズルのように組み合わせていったら何時の間にか紅魔館のメイド長めいたデザインになっていたので、こりゃいかんときょうきょ書生眼鏡を装着させた。まあ書生眼鏡の出元もまた別の漫画なんだが。
さて、某動画主やその取り巻きから「基地外毒舌野郎」と蛇蝎の如く嫌われる虞翻であるが、孫呉と言うお国では名君の皮を被った酒乱野郎孫仲謀と、泣く子も更にギャン泣きさせるクソジジイもとい江東の御意見番張昭があまりに大人げない仁義なきバトルを繰り広げる(しかも事もあろうに正史に記述されているんだこれが…)毎日で、毒舌野郎が気ままに毒舌振り回してる程度別によくない?みたいなのは感じなくもない。実際孫策に牙抜いたという記述は見られない(張昭もなんだけど)のに、孫権時代になって彼を何故そんな方向性に走らせたのか…そして、彼の死後を狙ったかのような孫権の発言と、なかなかその関係性については謎を多く残している。周知の人も居られようが孫権は最晩年に「二宮の変」で陸遜を筆頭とした忠臣名臣の類を撫で斬りにするわ憤死させるわで思いっきり大失態を犯していることから、まあ虞翻は大いに加害者でもあり被害者でもあり、と断ずるのも簡単な話だ。しかしそれでは虞汜や虞忠といった彼の子らがその後命懸けで斜陽の呉を支え続けていった理由がわからない。そんな疑問が多く降り積もるうち、どうせこれは作り話だし、なにより萌え三国ならそれらしいキャラ付けをしてやってもええやんけ、と開き直った結果ネタはどんどん生まれ、いまだ語られざるままのような裏設定がどんどん産生されていった。ぶっちゃけると狐SSだと武神【編集済】を始末してたりするしな
改めて言うこともなかろうが、結果としてもっとも思い入れのある人物になってしまったと思う。演義でもさほど出番があるわけでもなく、三国志大戦でも特技は十把一絡げの火計で知力も大したことないみたいな扱いと、一般的にはあくまでマイナーメジャーにすら入りきっていない虞翻ではあるが、広いネットの片隅にたまにはこんな変わり種の仲翔姉さんが居たっていいんじゃないかと思う次第である。え? 完全なメアリー・スーじゃないのかって? 知るかバカそんなことよりry
あ、あと個人的にはパートナーは子瑜さんで親友は長文さん。異論は聞かねえ。