解説 闞沢


-学三設定-

会稽地区にある寺の娘であるが、その実家が貧しいものの、その成績により高額の奨学金を受けている程の才媛。明晰な頭脳と類稀な記憶力が買われ、長湖部の幹部となった。その記憶力は、学園刊行物の文章校正のアルバイトの際に読んだ記事を総て暗記していた他、趣味で読んでいた仏教経典を一言一句過たずに暗謡して見せたほどであった。
飄々としたマイペースな性格で、何処か人を食ったような言動が目立つが、実直で正義感が強く、目下の人間に対しても決してそれをおざなりに扱うことがなかった。皮肉屋の虞翻でさえ彼女を「董仲舒先生に匹敵する人格者は、学園には彼女しか居ない」と絶賛している。
帰宅部連合の関羽仇討ちの大軍勢が攻めてくると、居並ぶ幹部達を前に命を賭け、当時学園では無名の存在だった陸遜を推挙した事でも知られる。その見識で次期部長後見まで任されるほどになったが、受験勉強の為早期に引退して孫権をおおいに悲しませたという。
最大の趣味は釣りで、休みの日には長湖のほとりで一日中釣り糸を垂らしていることもある。無欲で倹約家だが、釣り道具に関しては金に糸目をつける気がないらしく、稼いだバイト代を全部このためにつぎ込んでいるというウワサもある。


-史実・演義等-

闞沢 ?~二四三
字は徳潤、会稽郡山陰の人。
農民の家に生まれたが、学問を好み、文書書写のアルバイトをして筆記用具の元手にしたという。しかも闞沢は、書物一冊を書写し終わる頃には、その書物の内容を完全に暗誦できるようになっていたという。それゆえ多くの書物に通じるようになり、暦の計算に通じていた。後年、彼は後漢末に改定された「乾象暦」に手を加えた「乾象暦注」という書を著し、暦と季節と日付が一致するようにしたが、その暦は呉が滅亡するまで用いられたと言う。
やがて孝廉に推挙され、江東各県の県長を歴任し、孫権が車騎将軍となるとその将軍府に招かれた。のちには中書令まで出世し、さらに儒学に励んだということで都郷候に封じられた。
謙虚で実直な性格の持ち主で、身分の低い役人達を呼び寄せて質問する時も対等の礼をとり、口の悪い虞翻も「現代の董仲舒(前漢代の、徳行に優れたと言われる学者)である」とその人物を賞賛したという。その学識を買われて太子の教育係にもなったが、二四三年の冬に逝去した。孫権はその死を非常に悲しみ、何日も食事をとらなかったという。
演義では周瑜と黄蓋の仕掛けた「苦肉の策」を曹操に信じ込ませるほどの弁舌を振るったり、関羽の仇討ちに燃える劉備の軍を撃滅するために、自らの命を賭けて陸遜を総司令官に推挙するなど、要所要所で活躍を見せている。
また、ある書物によれば、当時としては珍しい仏教徒であったらしい。


-狐野郎が曰く-

意外に演義では比較的出番が多い人物で、例えば赤壁の戦いの時に黄蓋と周瑜の茶番を見破った上で黄蓋の依頼を受けて曹操の元へその偽降を信用させる使者に立ったり、夷陵の戦いの際に陸遜の起用を訴えたりがその主な活躍として挙げられよう。当然これらは完全な演義の創作であり、史実では暦を作ったり、勉学に励んだことが功績として認められたという地味なものだ。いや暦の作成って結構でかい事ではあるのだが。横光三国志では曹操の陣に訪れたときに、まるで太公望よろしく意味深に釣りをしている姿が印象に残る…かどうかはさておき。
ちなみに正史には記述はなくとも他の書物に書かれた事績としては、彼が経典を奉納した寺院は後に彼の字を取り「徳潤寺」と改名したのだとかいうものがある。日本に仏教が伝来したのは三国志の時代から300年ほどあとの話ではあるが、当時の中国においてもメインは道教系の宗教がメインで信仰されていたはずなので、仏教はまだまだメジャーな存在ではなかったはず。流石にそんな時代の寺院が残っていればすごい歴史的な寺院として有名になってそうな気がするのだが。
別に生家が貧乏だったかどうかは解らないが、学三ではその事績を鑑みて「バイトに明け暮れる苦学生」という設定を加えている。無造作に二つ括りをつくっただけの髪型とか、なんとなくそれっぽいということでデザインを考えたが、実はこれと言ってデザインのモチーフは存在しない。釣りに関しては完全に横光三国志の印象からだな。