解説 曹丕


-学三設定-

曹操の年子の妹。学年的には一級下になるが、同じく年子の妹である曹彰・曹植とは三つ子でその長姉にあたる。
一見すると曹操とよく似たタイプで、どちらかというと曹操に対しては妹として一歩引くところもあるが十分に口喧嘩は強いし、殴り合いの喧嘩も得意だし、しかも同じように絵画に書道に詩作の才能も曹操に迫るものがある。ただし猫の被り方については曹操以上の才能があり、優れた才能を持つ者に対しては敬意を表すが、一度気に食わないと思ったら徹底的に嫌い、目を付けた者に対しては陰湿ないじめをするなど性格的には残虐な面もある。曹操の在任中にも魏諷などが反曹操のキャンペーンを行い集めた同志と共にクーデターを起こそうとすると、それを万全の態勢を整えた上でわざと決起させて速攻叩き潰し、口に憚られるような陰湿な処罰を行い首謀者一派を学園から追い払っている。流石の曹操もこの時初めて妹の残虐性を垣間見て戦慄を隠せなかったが、一度自分の後継者に定めた以上はと後事を託す賈詡や陳羣、劉曄らのサポートを信じて後継者を変えることはしなかった。
そうして曹操引退により「魏の君」の称号を継いで間もなく、彼女はいろいろな事象をこじつけにして「献サマ」こと劉協に政権交代を迫り、劉氏蒼天会を滅ぼして曹氏蒼天会の初代生徒会長となった。その景気づけに、帰宅部連合との大々的な会戦で疲弊している(と思っていた)長湖部を叩き潰すべく大攻勢をかけるものの見事に失敗。政権奪取から半年も経たぬうちに求心力を失った曹丕は、曹氏蒼天会をいきなり終わらせぬ為に陳羣、司馬懿に後見を託して二つ年下の妹である曹叡を新たな生徒会長に据え、受験勉強を理由にさっさと表舞台から身を引いてしまった。政権奪取から引退まであまりにも短い曹丕の天下に、一般生徒達は毀誉褒貶様々な憶測を交わすようになるのも当然の流れであった。
なおかつて彼女に金を貸さなかったことで恨みを買って処断されかけた曹洪、同じく曹丕の行動に不満を抱いて命令をシカトしたことで放逐されかけた曹植、生徒会長の座を追われた劉協などは閑職に回されたものの、皆曹丕よりも長い間課外活動に在籍し何事もなく学園を卒業していったという。


-史実・演義等-

曹丕 一八七~二二六
字は子桓。曹操と卞夫人の子で、魏の文帝。「文帝紀」には、中平四(一八七)年の冬、曹操の故郷である譙県で生まれたと記され、「魏書」によれば生まれたときに車の幌のような運気が生家を覆ったという。八歳にして文章をよく書き、長じては様々な書物注釈を書き、剣術を好み、さらには騎射を得意とした文武両道の天才とされる。
若い頃考廉に推挙されたが、彼は出仕せず、曹操の元で二一一年に五官中郎将・副丞相となり、二一六年には魏王の太子に据えられた。二二〇年に曹操が世を去ると、彼は魏王となり、この年(建安二十五年)年号を改めて延康元年とした。それからまもなく、世論が漢から魏への禅譲を望むという流れになってきたことから、漢帝(後漢の献帝)は大臣高官を集めて協議し、結局は禅譲を行うことに決定した。余談だが当時は華歆、王朗、賈詡、陳矯などを初めとした曹魏に親和する者が多数官位についていたため、演義では彼らは悪役としてこの際に悪逆の限りを尽くしたように描かれてしまうことになる。曹丕は漢朝廷からの要請を再三に亘って辞退したが、結局繁陽に壇を築き禅譲を受け、同時に年号を「黄初」と改めた。二二〇年十月二十八日のことである。
曹丕は陳羣の上奏した「九品官人法」を採用し官の採用方法を改正したり、飢饉に際しては官倉を開いて民衆を救済するなど政治を整えた。孫権は初め曹丕に従い、九錫と呉王の位を授けられていたが、夷陵の戦いの後、太子孫登を人質として魏に送ることを拒絶したため、曹丕は激怒して曹仁、曹休を大将として、さらに自ら軍を率いて三路から呉に攻め入った。しかしこの南征は朱桓、徐盛らを初めとした呉の名将たちの活躍により頓挫し、引き上げることとなった。二二三年のことであり、この戦役からまもなく疫病が流行し曹仁、張遼といった宿将たちが相次いで病死している。
「文帝紀」には、ほんの三年ほどの短い間に日食が三回も起きている事、冀州で大飢饉が発生したこと、水軍調練のために作られた人工池にペリカンが群れを成した(ペリカンは「詩経」では汚れの象徴として扱われる)など凶兆が相次いで起こっている。極めつけには二二六年正月、許昌巡幸の際に許昌城の南門が崩れ落ちるという事件があり、曹丕はそれを不吉と思い結局入城しなかった。まもなく曹丕は病を発し、五月十六日には危篤に陥った。曹真、陳羣、曹休、司馬懿の四名に後事を託すと、その翌日に曹丕は帰らぬ人となった。享年四十歳、文帝の諡号を贈られ、その遺言に従い太子曹叡が即位した。
「筆を下せば文となる」と言われたほどの文芸の才能を持ち、若くして古典にも通じ、記憶力もあり知識も広く、父曹操の資質を良く受け継いでいたといえるが、「文帝紀」の記述からはかなり狭量で残酷な面が目立つことが伺える。弟曹植を追放したり、呉から戻ってきた老将于禁や、降伏して間もない張繍をいびり殺す、若い頃に借金を断られた腹いせにちょっとした罪を論って曹洪の財産全て没収した挙句殺そうとする(これは母親の卞夫人が曹丕夫人の郭皇后を脅し、郭皇后が曹丕に働きかけたおかげで未遂に終わったのだが)、郭皇后の讒言を真に受けて甄皇后を殺させてしまう等々、これが初代皇帝になった男の行状として正史に書かれている有様なのだ。それゆえ帝位禅譲直後に「(後漢の)献帝は殺害されてしまった」という噂が実しやかに語られたのも、そうした曹丕の欠点が世間に良く知られていたと言う証左なのかもしれない。評で陳寿は曹丕の才能について賛美した上で「もしこのうえ、広大な度量を加え、公平な誠意をもって努め、徳心を充実させることが出来たならば、古代の賢君もどうして縁遠い存在であっただろうか」と述べている。


-狐野郎が曰く-

上記の通り、曹丕の残虐ぶりは堂々と正史に書かれている有様である。一応フォローすると張繍は兄貴(曹昂)の仇でもあるし、曹洪のドケチぶりは有名で身から出たサビとも言えるし、曹植にしたって命令無視した挙句酒浸りの日々を送ってたことに原因があるわけだから自業自得と言えなくもないのだが…それにしたって皇帝にまでなったお方が、こんなケツ・ノ・アナの狭いマネをしまくってるというのも正直どうなんよ。于禁に至っては死んだあとの諡号すら酷いものを贈って死体蹴りまでしてる始末。陳寿は曹操を絶賛したぶん曹丕をぼろくそにこき下ろしているきらいすらあるが、これは果たして曹氏から簒奪する形で帝位を奪った司馬氏に気を遣ってのことか、それとも生国の蜀を大々的に賛美できないしわ寄せに曹丕を選んだのか…司馬氏にとっては太祖の司馬懿を引き立ててくれたのが他ならぬ曹丕であるので、陳寿による遠回しな司馬氏に対する嫌がらせなのかもしれんねこれ。
三国無双でも3からプレイアブルキャラになったのだが、曹操に対してニヒルというか酷薄さの似合う悪の貴公子、といったイメージが先行する。ただ言葉の端々に何処か刹那的な雰囲気も持っており、司馬懿に対して「私の死んだあとのことなど知らぬ、貴様の好きにするがいい」と意味深なことを言うシーンが印象に残っている。蒼天航路では魏諷に「私が目指すのは奸雄の類が住めぬ世だ」と一刀の元に叩き伏せ、そして顔色ひとつ変えずに謀反人共の首をずらりと並べた階に座るシーンがまず思い浮かぶが、この時の劉曄の「この人の治世は血の粛清で始まるのか」という独白は、曹丕の方向性を端的に現しているように思える。
さて学三曹丕だが、実は本来は緑髪緑眼で曹操とは似ても似つかない。一応実の妹と言うことにはっているのだが、モデルについても触れられてはいないもののぱっと見の印象では「ONE ~ 輝く季節へ」の広瀬真希のようにも見える。ただ広瀬モチーフは実は楊儀がいるんよね。蒼天航路の曹丕とも印象全然違うしね。ついでに全然似てない(←ここポイント)三つ子の妹曹彰&曹植とも仲悪いみたいだし。そんなこんなでここで再編纂するに至り曹丕に関しては狐野郎が曹操をベースにリデザインしたモノであり、本家の曹丕とは全然異なるグラフィックであることはお断りしておきたい。ちなみに曹操の項では触れなかったが、このカラーリング実はここなt【データ編集済】