解説 田豊
-学三設定-
冀州校区の才女。感情に乏しいということはないが、幼い頃に両親を事故で失って以来まったく笑うことがなくなってしまったという。
当初は蒼天生徒会に招かれ風紀委員になったが、当錮事変の影響で権力闘争が激しくなると職務を辞して冀州へ戻ってきて来ていたのを、冀州校区総代となった袁紹から再三にわたる招聘を受けてその相談役となった。
古今の事績に詳しく、兵法にも通じそれらを応用する才覚は華北随一と呼び声が高い彼女の参入により、公孫瓉を倒して華北四校区を制覇した袁紹であったが、その頃になると最早形骸化した劉氏蒼天会に見切りをつけ始めていた袁紹と、劉氏蒼天会を輔弼する学園都市の覇者を補佐することを目指していた田豊の間で方針の食い違いが起き始めた。田豊が元々相当な堅物であり、華北の地盤固めをしているうちは袁紹も丁重に扱っていたものの、多くの幕僚を抱えるようになってそれらの面々と折り合いを悪くしていったため、袁紹も次第に田豊を疎んじるようになった。
結局田豊は最後まで曹操(というよりも曹操の奉戴する劉協)と協調路線を取るべきと訴え続け、強行的な南下政策に反対し続けたことで官渡公園決戦前に幹部の任から罪人として追われた。それを伝え聞いた曹操は「これで勝負は八割もらった」と大喜びし、烏巣での敗北が決定打となって袁家生徒会の軍が総崩れになると、世話人であった少女は「これで会長(袁紹)は考えを変えて、またあなたを受け入れてくれるかもしれませんね」と励ましたが、田豊は「戦いに勝ったならばまだしも、負けてしまったのであれば私はかえって除かれるだろう」と述べた。果たしてその言葉通り、袁紹から階級章を剥奪する旨の通達が届き、田豊は階級章を返上し冀州校区を去った。この時、逢紀が袁紹に「(田豊が)我が軍の大敗を知って大笑いをしている」と吹き込ませたという噂も立ったという。
-史実・演義等-
田豊 ?~二〇〇
字は元皓。鉅鹿郡の人だが、一説に渤海郡の出身ともされる。
「先賢行状」の記述によると生来才気に溢れ、権謀奇略に富む傑物であるとされる。さらには幼い頃に親を失い、その悲しみからかそれっきり歯茎まで見せて笑うようなことはなくなってしまったともいう。博学多識で名声は郷里にとどろき、時の大尉に推挙されて侍御史にまで出世したが、宦官支配により政治腐敗が酷くなると官を辞して郷里に戻ってしまった。
やがて袁紹が冀州を支配したとき、袁紹は多額の引き出物を贈り田豊を招聘し別駕とした。参謀として公孫瓉勢力を滅ぼすのに貢献した田豊は漢王室の多難を救う事を目的としており、反董卓連合の盟主にまでなった袁紹に協力するつもりであったようだが、袁紹は彼の「皇帝を奉戴すべき」という意見を退け、挙句には田豊の公明正大で率直な性格を嫌った逢紀の再三に亘る讒言を受け、田豊を遠ざけるようになる。終いには官渡への出陣を諌めた事で袁紹の逆鱗に触れ投獄してしまった。
官渡の戦いは田豊の予言したとおりに袁紹軍の総敗北と言う結果に終わり、袁紹は「もし田豊が此処にいれば、このような目には遭わなかっただろうに。彼の諌めに従っていればと思うととても顔向けは出来ない」と後悔したが、その時逢紀が「奴めは殿の敗北を知って、手を打って笑い、自分の言った通りだと喜んでいたそうですよ」と吹き込んだため、袁紹は鄴へ帰還すると即座に彼を殺してしまった。
田豊もこのことを悟っていたようで、官渡決戦敗北の報を聞きつけた担当の獄吏が「あなたはきっと尊重されるでしょう」と田豊を励ましたが、田豊は「いや、戦を制したならともかく、負けたのであればわしは殺されるだろう」と言ったという。また、曹操は袁紹の陣中に田豊がいないことを知ると「袁紹が勝つことは先ずありえないだろう」といい、袁紹が敗走したときも「もし袁紹が田別駕の計略を採用していれば、どうなっていたか」と言ったという。
-狐野郎が曰く-
「袁紹がいかに愚物であったか」を解った風にしゃべりたがる三国志ニュービー上がりは、概ねその理由として引き合いに出すのが田豊の扱いではないかと個人的には思っている。確かに田豊が「十人並みの軍師」でしかないなら、その戦略眼を受け入れられず暴走した袁紹が負けた、じゃあ袁紹ってのは馬鹿のボンボンなんだな、で済ませられる話であろう。だが待って欲しい、「ただの馬鹿ボンボン」が、その財力とそれにつられて集まっただけの食わせ者を率いての数の暴力だけで、果たして華北の大半を支配し十数年も勢力を保っていられるものだろうか? それが可能だと言えてしまうような奴の方がただの馬鹿だろう。
実際に袁紹という男は相当の傑物であり、曹操は官渡で「袁紹の南下を食い止めた」だけで「袁紹を滅ぼした」わけではない。実際袁紹の存命だった二年間は睨み合いを続け、その死によってようやく北伐に乗り出せるようになったということを忘れてはならない。そして、袁紹が華北四州を手中に収める原動力となった裏には田豊の存在があり、彼もまた「傑物」と呼ばれた男だ。「傑物」と「傑物」が同じ目的に向けて動いている時のパワーは計り知れず、しかし一度その方向性にずれが生じたら…田豊の悲劇の原因は、そこにこそあるのだろう。反目はしたが、それでも田豊は最後まで袁紹の元を離れずにいたのは、天下人袁紹の姿を田豊自身も見てみたかったのではないか?とも思う。項羽に仕えた老軍師范増の類縁なのかもしれないな。
学三版田豊は登場媒体がないので何とも言えぬが、無口というわけでもないようだし、孤高と言い切れるほどでもない。多少とっつきづらいだけの荀彧というのが、イメージとして近い気がする。