解説 陳表
-学三設定-
孫権が諸葛瑾、周泰に匹敵するくらい敬愛した猛将陳武の従妹にあたる少女。
同い年で従姉妹に当たる陳脩(陳武の実妹)と一緒に長湖生徒会の幹部候補生になった。陳脩はとある作戦の準備期間中に些細なミスから階級章を失ってしまい、惜しまれながらも規定により課外活動の表舞台を去ったが、陳表は仲の良かったこの従姉妹の分も長湖生徒会に尽くそうと奮起する。次期会長である孫登の側近「四友」の中では唯一の年長(というか孫権と同学年)として、年少故か得手勝手な行動の多い顧譚ら他の「四友」に対する姉貴分的な立場にあり、陳脩共々陳武の勇猛さと気風の良さを見習おうとしていた事もあって、顧譚達はいざというときに恃みにしつつも平時はやや煙たがっていたようだ。諸葛恪のサポートとして丹陽に赴いて治績を上げると、そこで特別に許可を得て組織した「山越高校特別軍」を率いて鄱陽棟の反乱を鎮圧し武名を上げている。
間もなく、呂壱が孫権に取り入って、気に入らない者を次々に讒言して幹部会から追い払おうとした事件が起きたが、その中で建安棟長の鄭胄もが讒言により学園を追われそうになった際、潘濬と共に鄭胄を庇っている。間もなく孫登が風邪をこじらせて身罷ったことで、先に風邪で体調を崩していた彼女は「自分が彼女に風邪をうつしてしまった」と思い込んで心神喪失状態となり、階級章を返上して学園を去った。
-史実・演義等-
陳表 生没年未詳(二〇五~二三八または二〇六~二三九と推測される)
字は文奥、陳武の妾腹の子に当たる。
孫登が太子となると諸葛恪、顧譚、張休らとともに太子賓友となった。その頃、曁艶や徐彪が孫権の幕府内に居る不品行な者達を一斉に処断仕様と目論んで失敗し、専横の罪で誅殺されると、とばっちりを恐れてそれまで曁艶と親しくしていた者まで曁艶を非難するようになったが、陳表もまた曁艶と親しい間柄であったものの曁艶を非難するようなことは言わなかった。このことから、士人たちに一目置かれるようになった。
二三〇年、家督を継いでいた兄の陳脩が若くして死ぬと、陳表は兄の子を陳家の家督を継がせたいと考えたが、陳脩の子がまだ幼かったことから孫権は許さず、やむなく陳表は陳家の家督を継ぐこととなった。その頃から陳表の母親が、陳家の正妻(陳脩の母)に対してそれを無視したりするような振る舞いをするようになった。陳表は母親に身を慎むよう諭し、母親も心得違いを認めて再び正妻に仕える立場をとるようになったという。
陳表は常々、父のような武将になりたいと思っており、願い出て五百の兵を預かる武将となった。陳表は兵卒たちが十分な働きが出来るよう願い、彼らを手厚く遇したので、皆喜んで彼の命に従ったという。その当時に官物の盗難事件があり、兵士の一人であった施明に疑いがかかった。施明は強情な男で、拷問を受けても口を割ろうとしなかったが、孫権は陳表が兵士たちの心をつかんでいることから、施明を陳表に預けたところ、陳表は施明を手厚く待遇し、それに感激した施明は自分の罪を認め、共謀者たちの名を自白した。孫権は陳表の手柄を喜び、また陳表が施明を騙したことにならぬよう、施明の罪を許しそれ以外の共謀者を処刑した。施明はこれ以後行動を改めるようになり、後にはその勇猛さで将軍の位まで昇って活躍した。
二三四年、丹陽太守となった諸葛恪に従って丹陽に赴いた。この頃、陳表は専属の小作人として宛がわれた者の中に、兵卒として立派に戦えるものが多数含まれていることを知り、それを一度公に返して精鋭兵に当てて欲しいと上訴した。孫権は最初認めなかったが、再度「優れた資質を持つものを召使い程度の役目にしかつけないことは、私の志すところではありません」と申し出、検査の上これらのうちで兵役に耐えられるものを選定して配下の部隊に編入した。孫権はそれをよしみ、改めて兵役に耐えられない平民を選抜し、その不足分を補わせた。丹陽にいた三年間、陳表は不服住民を手懐けて万余の軍勢を得た。
二三七年に鄱陽で呉遽という者を首領とした反乱が起こった際、陸遜に従ってその鎮圧に当たった。それを受けた陸遜の推挙によって偏将軍に昇進し、都郷候に封じられたが、間もなく三十四歳の若さでこの世を去った。陳表は余分な財産を家に残していなかったため、妻子はその死後路頭に迷う有様であったのだが、孫登の取りなしにより保護が与えられ、息子の陳敖は十七歳になると別部司馬として兵を預かることとなった。
亡くなった時期は明記された資料がないが、孫権の寵愛をいいことに丞相の顧雍や驃騎将軍の朱拠をも罪に陥れようとした校尉の呂壱が誅殺された際、呂壱に陥れられかけていた鄭胄という人物の無罪を潘濬と共に訴えたことが「文士伝」にある。朱拠は呂壱により、二三八年に鋳造されることとなった大銭に関する部下のトラブルを論われて誅殺されかかっており、呂壱の失脚がそれから間もなくの事であること、尚且つ伝の記述より死没が太子孫登存命中(孫登は二四一年没)であることから二三八年か二三九年の事であろうと思われる。
-狐野郎が曰く-
呉書十巻は正直取り上げられている人物が多いのだが、中でも陳武伝は息子達のことまでそれなりに詳しく触れられている。陳武に対する孫権の親愛ぶりは相当なもので、実際に陳脩・陳表兄弟もそれなりに優れた資質を持っていたことは確かだろうが、ちょっとこれは過剰すぎるのでは?と思わされる点も多い気がする。ただし陳武も戦死とは言え三十半ばで世を去っており、まるでそれすらも受け継いでしまったかのように息子兄弟も若くして亡くなっている。挙句陳表はこの手の人物にありがちな「財産一切残さなかった」ムーブをかましている。記述からは自分の息子は元より兄の子も巻添えにして路頭に迷わせている事が窺えるし、むしろ逆にこれって道義的にどうなんだろうかと思う。最後まで主に殉じて刑死したのに財産が多く蓄えられていた審配のほうがマトモなのでは…。
さて、史実でも孫登の太子四友である陳表だが、他のメンバーがクセモノなので学三環境では一人だけ年長のまとめ役みたいなイメージで取り扱っている。女丈夫陳武と比べれば線が細く見えるというか、こざっぱりというイメージで纏めたのだが、どういうわけかそのビジュアルイメージが(あずまんがの)大阪みたいなものになってしまった。狐野郎が当時のキャラ案として走りしたところでは「マリア様がみてる」の二条乃梨子らしいのだが…じゃあ志麻子さん誰だよこの場合。