解説 陸遜
-学三設定-
揚州校区の一帯に勢力を張っていた陸一族の娘さんで、蒼天生徒会末期に廬江棟長を務めた陸康の従妹。
陸康は孫策率いる長湖部が揚州学区を平定していった際に敗れて学園を去ってしまったため、学内における陸一門のまとめ役を失った陸遜らは仕方なしに長湖部の傘下に入ったのだが、陸康引退後にそのまとめ役を受け持つことになった陸遜は揚州学区の安寧のために長湖部へ積極的な協力姿勢を見せた。孫権も陸遜に対して特別待遇を与え、やがて孫権、陸遜、そして孫権の「竹馬の友」であった朱然と親友同士ともいえる関係を築くまでになった。長湖部に参画した陸遜は湖南学区各棟の長を歴任。マネージャーとしての治績はもちろん、学園都市南境にある男子校・山越工業高校の不良生徒を追い払うエキスパートとして、早いうちから一部に用兵手腕を認められていた。しかしながら周瑜や魯粛がまだ現役だった頃の陸遜は、長湖部中枢にあってはうだつの上がらぬいちマネージャーに過ぎず、部のレクリエーションの一環として行われたキャンプでは呂蒙・甘寧・魯粛という悪夢レベルの悪ガキトリオと組まされた挙句に、ヤツらの産生した激辛豚汁の後始末を押しつけられる、その夜に魯粛主導のイタズラで周瑜のベッドに放り込まれてその勘気を喰らうなど鈍臭い面の方が目立った。当時から陸遜は周瑜を敬愛していたのだが、キャンプの間は怒りを解かなかった周瑜からぞんざいな扱いを受け続けたことは相当堪えたようである。以後も表面上周瑜との関係はぎくしゃくしたように見え、それがためにその潜在能力を誰もが高く評価しつつも、周瑜が引退してしばらく後まで重く用いられることはなかったと言われている。ただし生来の陸遜は、普段は明朗で人当たりの良い好人物である一方、一度激情を示せば歴戦の猛将すらたじろがせる威厳と迫力を示す。
そんな彼女に転機が訪れたのは、呂蒙主導による荊州学区攻略の際であった。実は周瑜と陸遜は紆余曲折あったもののとうに仲直りしているどころか、周瑜は自身のみならず孫策が志半ばで引退を余儀なくされたことをトラウマとして持ち続けており、陸遜の怪物じみた将器を知りながらも「自分や孫策のような悲惨な末路を辿って欲しくはない」という想いから、引退後も病床から魯粛や孫権に働きかけ、決して陸遜を重責に就けぬよう懇願しているという事情があった。呂蒙はその事情をある人物から知ることとなり、また自身の目で陸遜の真価を確認して「この一戦のみ力を貸して欲しい」と説き伏せた。陸遜はその意気に応え、臨時の主将として荊州学区に居座る武神・関羽を撃破するための策謀を巡らせ、長湖部が荊州学区奪取の悲願を果たす事に貢献することとなった。やがて、それを端緒に「義妹の仇を討つ」と暴発した劉備率いる帰宅部連合の大軍勢の侵攻に際し、(これまた周瑜との事情を知らなかった)敢沢の推挙を受けて長湖部の実働部隊総括に就任。陸遜は「例え自分の身にどんな結末が待ち受けようも、皆が受け継いできた長湖部を失いたくはない」と周瑜に伝え、その理解を得ると、荊州学区南部の夷陵丘陵において古参諸将の反発を(韓当の理解もあったためだが)よく抑え、劉備を陣地の重深部へ引きずり込み、春先の大嵐を利用して大勝利を収めた。
その後も長湖部の運動部連合代表、顧雍引退後には副部長として辣腕を振るうが、後継者問題で全琮や歩隲と激しく対立し、終いには孫権との仲がしっくりいかなくなってしまった。部の行く末を案じた彼女は孫権に対して、後継者を軽々しく変えないように訴え続けたが、そのために反対派の讒言を信じた孫権に放逐された挙句、彼女は言われなき問責にショックを受け、心労のために倒れてしまう。心神喪失状態寸前に追い込まれた陸遜は、後事を親友の朱然や実妹の陸抗、族妹の陸凱らに託して階級章を返上、失意のうちに学園生活を閉じることとなる。
余談だが周瑜に及ばずともスタイルもルックスも抜群(何気に長湖部の同世代幹部内でも一番の巨乳だと言われる)で、内政手腕や軍略での功績が目立つが、一線級の猛将に及ばずとも剣術の心得もある武闘派だったりもする。
-史実・演義等-
陸遜 一八三~二四五
字は伯言、呉郡呉の人。元の名を陸議といい、のちに陸遜と改めた。陸一族は呉郡において顧氏、張氏、朱氏と並び称される名門の一族として知られ、後には孫策の娘を娶っており、その意味では孫権と同族であるとも言える。
演義では二一九年、荊州攻略の際にデビューしたように書かれているが、実際はその十四年前、彼が二十一歳のとき孫権のもとへ出仕している。初めは孫権のもとで令吏として実務の経験を積み、やがて海昌県(のちに塩官県と改称される)の屯田都尉として赴任したが、当時海昌は度重なる旱魃で荒廃しきっており、赴任直後から荒れ地を蘇らせるべく悪戦苦闘の日々を送ることとなる。やがて山越系の不服住民の度重なる反乱にも対抗することになり、陸遜はそのための兵力を得るために呉郡・会稽・丹陽の諸地域に隠遁する難民や不服住民の類の中から兵を募ることを申し出、二千程の兵力を得ると、会稽の潘臨、丹陽の費桟といった有力な頭目を討伐し平定していった。陸遜が孫策の娘を娶ることとなったのもそんな折りで、姪の婿となった陸遜に孫権は江南地域の政治について意見を求めたが、陸遜は「山越の賊徒が険阻な地形に潜んで悪事を重ねており、まずこれを平定しないことには英雄や凶徒の跋扈する北方へ討って出ることは困難を極めますので、まずこの賊を平定してその中から精強な兵を選りすぐるべきです」と述べた。この献策を是とした孫権は彼を帳下右部督に任じた。
また、陸遜がその献策通り降伏した不服住民達の中から徴兵を始め、その成果が出始めた頃に会稽太守の淳于式が孫権へ「陸遜の徴兵手段は不法であり、それに反抗して民衆が騒いでいる」と讒訴した。ところが陸遜はそれを知った上で、孫権の元へ出向いたときに、世間話のついでに「淳于式は立派な役人である」と賞賛し、訝る孫権が「彼はあなたを讒訴しているのに、何故あなたは彼を誉めるのだ?」と問うと、「彼は民衆を想い、それ故に私のやり方に不備があると訴えたのです。それに、それを受けて私まで彼の讒訴を行えば、陛下(孫権)の不興を買うことにもなるでしょうし、このようなことはどこかで断ち切らねばならぬのです」と答えた。孫権は陸遜の人格を大いに賞賛したという。
こうして内患平定で軍事や実務のキャリアを積んで来た陸遜は、荊州攻略に際して呂蒙に協力することとなった。用心深い関羽を攻め破る方策に苦慮する呂蒙に、名将である呂蒙を国境線の守りから遠ざけ、無名の人物を後任に当てて油断を誘うよう進言すると、呂蒙は陸遜が対外的に無名であったものの、優れた才覚を持っていたことを知っていたのでその後任として推薦した。呂蒙の後任として陸口入りした陸遜は、関羽に対して必要以上にへりくだった態度をとって油断させ、関羽が樊城攻略に全力を傾けるよう仕向けるのに成功した。呂蒙の荊州攻略に同期し、陸遜も夷陵周辺に軍を動かして周辺を平定する戦功を挙げた。この功により、陸遜は鎮西将軍の位に就いた。
夷陵の戦いの際、都督に抜擢されたときは古参諸将の反発も大きかったが、その不満を良く抑え、長対陣で疲弊した蜀軍を火計で攻め滅ぼしてその名を轟かせた。その六年後には、石亭に魏軍を誘き寄せ、散々に打ち破るなどの活躍も見せている。二三三年の合肥新城攻めは失敗に終わったものの、その駆け引きの巧みさで、親征して来た曹叡をして「孫呉(孫武と呉起、いわゆる孫子と呉子のこと)にも劣らぬ兵法家だ」と言わしめた。このことにより名戦略家として言われる事も多い陸遜だが、山越平定のキャリアを除けばその戦歴は意外に少ない。
孫権が帝位に就くと、陸遜は上大将軍となり、荊州の軍事を総括することになる。その後太子孫登の後見人にもなり、先代丞相の顧雍が死ぬとその跡を次いで丞相となった。しかし、丞相の位について僅か一年後、後に「二宮の変」と呼ばれる後継者争いが勃発したことを知った陸遜は、孫権に「一度立てた太子を軽々しく廃するべきでない」と勧告しつづけた。しかし孫権はこれを聞き入れず、さらに魯王孫覇の支持派閥がこの件を取り上げて陸遜も太子孫和派であると孫権に讒言したため、有りもしない罪状をでっち上げられて免官・流罪の憂き目に遭う。孫権はなおも流罪先の陸遜に問責を与え続けたため、遂には憤死してしまった。二四五年のことで、享年は六十三歳であった。
陳寿は正史の中で「社稷の臣と呼ぶに相応しい」と評している。これは臣に対する最高の賛辞であり、この評が後世に伝わったことは、その無念を少しでも晴らせたのだろうか。
-狐野郎が曰く-
陸伯言。陳寿は三国志の中で各国の臣下の中でただ二人だけ単独立伝の巻を作っているが、そのうちの一人である。ちなみにもう一人は陳寿の生国である蜀の大英雄諸葛亮であり、それを考えると如何に陳寿が陸遜を高く評価しているかが窺えるだろう。注釈では一カ所だけ裴松之の野郎が事績を論って噛み付いてやがるみたいだが、まあそんなのかんけーねー!みたいな勢いで、そもそも演義でも正史でも軍★神★関羽を撃破した立役者になっているのに何故か呂蒙と違って「陸伯言逝って良し(キリッ」とかいうのを一切聞いたことがない。これマジでナゾなんだよな。挙句に演義だと超絶イケメンみたいな書かれ方してるし、しかも主人公()劉備を完膚なきまでにぶちのめしてのけるという華々しいデビュー戦は用意して貰ってるわ、挙句に「二宮事変」で悲惨な末路を辿ったことには一切触れられていないどころか、東興堤の戦いの時には「もう名君孫権も名臣陸遜も人生オワタしたんでチョーシこいて魏軍がめっちゃ攻めてきたよ!!」みたいな導入にされてるし。ある意味扱いがぞんざいではあるけど演義って元々呉の扱いはぞんざいだしね。何しろ1986年に陵墓が見つかったことでも有名な朱然が、夷陵のドサクサで趙雲に殺されてたりするしね。まあ史実通り悲惨な末路を演義でも辿らされずに済んだと喜ぶところなのかも知れんけど。あ、そういえば何気に横光三国志だと諸葛亮が逝ったあとから蜀が滅ぶまで一切呉に触れられてないから更にぞんざいな扱いになってるんですよな。挙句に見た目もなんかメタボなおっさんだし。っても史実では夷陵の戦いの頃には数えにして四十三のおっさんなんである意味史実通りなのか。ちなみに蒼天航路だとナイスミドルのイケオジで、三国無双だとイケメンの若者なんだけど、設定によると後者の陸遜は十七歳の若造らしい。それを受けてなのかセガの「三国志大戦」には若い陸遜(通称「りっくん」)とナイスミドルのイケオジ陸遜(通称「りっさん」)のバージョン違いがある始末。むしろ史実をベースにナイスミドルの方面へ振り切ってくるセガはマジでなんなん
一方の「学三」陸遜、本家でSS集を漁ってみると何気に損な役回りを与えられている印象が強く、先述したように魯粛たちのイタズラで、気絶しているうちに周瑜のフトンに放り込まれて周瑜の怒りを買ってみたり、甘寧に失敗した料理の後始末を押し付けられたり、かくいう狐野郎も酒に酔った孫登や孫和に陸遜を襲わせたり…まぁ、普段の陸遜は孫権に小言を言う人みたいなアレなんだけど、どうも普段の学三伯言ちゃんはいぢめられっこ属性がついているのかも知れぬ。なお超★余談なんだけど学三陸遜についてはないすばでーの巨乳美少女という設定もあるとかなんとか。髪型ショートボブで巨乳…と言う繋がりなのかも知れないが、カットをリファインした際にかなりイマジナリがさきき(「日向美ビタースイーツ♪」の春日咲子)に寄ってる気が。えっわざとじゃないのかって? おかけになった電話番号はry そういえば「萌え三国」の代表的な作品「恋姫†無双」の穏(陸遜)もおっぱいおばけだったなあ(言い草。
それと陸氏一門は緑色の髪、というミームがあるのかも知れないし後続でもそれに追随している感がある。ちなみにここのカットではやや緑色がかった灰色に、自作SSで陸凱の風貌に「鳶色の瞳」と書いてしまったのでそちらへかなり寄せてしまっている。つまりカラーリングもキャラデザも微妙に玉絵とは異なることはご留意願いたい。