解説 周瑜


-学三設定-

廬江の名門周家の令嬢であり、孫策の幼馴染にして親友。とはいえふたりの関係は親友と言うよりは半身に近いとも言われる。
長湖部の創生期からユースとして関わっていたが、孫堅のリタイアによって一度本願であった廬江棟に戻って密かに協力者を募り、やがて孫策が袁術のもとから独立し群雄割拠する湖畔の学区に打って出ると周瑜も合流。彼女は密かに、袁術が拘束していた孫堅麾下の軍団を少しずつ離反させて糾合しており、後顧の憂いが無くなった孫策は周瑜を副部長に据えてその勢いは最早止まらなくなった。この際に周瑜は同郷でもあった魯粛を招いて協力を取り付け、有力な資産家である魯家のサポートを受けることにも成功しており、孫策が袁術に対し絶縁状を叩き付けたときには、袁術は孫策を外へ解き放ったことを歯がみして後悔した。とはいえそれだけの勢力を高速で築き上げる為には孫策のケタ外れの勇武とカリスマ性、周瑜の飛び抜けた実務能力いずれが欠けても成立しなかったことであろう。ところがその周瑜のサポートをもってしても、孫策が単独行動を好み、挙句危険に乗じてかえって嬉々として飛び込んでいくという悪癖を正すことは出来ず、それが為に孫作画不慮の事故により引退を余儀なくされたことは周瑜にとって大きなトラウマとなった。
孫策を失った長湖部は崩壊寸前であったが、彼女は張昭や張紘と謀り、当時中等部の三年生であった孫権を長湖部長に就任することを蒼天生徒会に認めさせ、その後継者として擁立。そして魯粛と、孫策リタイア直前に幕僚となった諸葛瑾らのサポートにより長湖部幹部による空中分解を防いだ。周瑜は実働部隊を総括して版図拡大を目指し、やがて長湖周辺の学部を中心として学園都市南側を制覇し、北を制覇する曹操率いる「蒼天通信」と学園を二分し覇を競う構想を描いた。そのために益州・交州方面へ進出する準備を始めた頃に、荊州を制した曹操が南下を始めを始めたという情報が入る。張昭を中心とした幹部会メンバーは無条件帰順を唱えるが、周瑜と魯粛は徹底抗戦を主張。魯粛が連れ帰った諸葛亮が幹部会を引っかき回している隙に迎撃準備を整えたことで、その気になった孫権に後押しされる形で徹底抗戦を断行。勝手知ったる水上戦で曹操率いる蒼天会軍を散々に翻弄、赤壁島決戦では暴風と荒波に飲まれる蒼天会軍を殲滅して大勝利を挙げる。
赤壁島決戦を制した周瑜はこの期を逃すことなく、荊州学区の奪取を狙って南郡に侵攻するが、そのさなかかつて孫堅がリタイアする切欠になった落とし穴に嵌まってしまう。打ち所が悪かった上に間もなく破傷風を発症し、周瑜は長期入院を余儀なくされ、ドクターストップにより課外活動を引退しなければならなくなった。このことは孫権を始め多くの長湖部員を悲しませ、以後二年間、彼女は入院生活を余儀なくされることとなる。
智謀に長け、戦場においても指揮官としては超一流の才覚の持ち主であるのみならず、運動神経も学年ではトップレベルで、必要とあらば単独で動く果敢さも持つ。穏やかに微笑んでいてもその笑顔にさえ妙な風格があり、上級生を一瞥で黙らせることが出来た。このことからも見える激情家の性格は、孫策に通ずるものがあった。
息を呑むほどの美少女で、学園祭の投票では常に圧倒的第一位。熱烈なファン層を抱えるが、本人はまるで意識していなかったというが、その陰にはある課外活動のレクリエーション中に紆余曲折あって、孫策に匹敵するほど深い絆を結んだある存在が居たからなのかも知れない。
音楽がことのほか好きで、ポップス、パンク、ロック、トランステクノ、クラシックとジャンルを選ばず無心に聴いている。聴くばかりでなく生まれ持った絶対音感を最大限に活用し耳コピで完璧な楽譜を再現して、もっとも得意とするギターでは百曲以上のレパートリーを持っていたり、そして抜群の歌唱力とライブパフォーマンスを持つ「文化祭の花形」であった。ただし音楽に対する妥協はまったくせず、「調律狂いのピアノがあると周瑜が来るよ」と囃され、他の者が演奏していてわずかでも音程やリズムを外すと演奏中でも遠慮無くツッコミを入れてくるなど眉をひそめられることもあった。


-史実・演義等-

周瑜 一七五~二一〇
字は公瑾、慮江郡舒県の人で、その一族は後漢王朝で三公を輩出したほどの名門。孫策の幼馴染みであり、義兄弟でもある。
孫堅が義兵をあげて董卓討伐に赴いた際、その家族を舒県に住まわせたが、たまたま隣同士になった周家では孫家と親しく交わり、必要なものは互いに融通しあうようになった。そのときに周瑜と孫策は同い年であった事から、ふたりは義兄弟の契りを結んだが、後に橋玄の娘姉妹を二人で娶り、名実ともに義理の姉妹となった。
智謀に優れ、容姿端麗、しかも歌舞楽曲に通じており、酩酊状態であっても旋律に誤りがあるとそれをキチンと聞き分けたという。故に「曲に過ちあり、周郎顧みる」なんて囃し言葉があった。なんとも嘘っぽい話だが、これは正史の周瑜伝にも記載されているれっきとした史実である。また、周瑜と孫策が美丈夫であったことに関しても正史で触れられており、孫策たちが橋氏姉妹を娶った時、孫策は「橋公(橋玄)の娘姉妹は美貌であるとはいえ、我ら二人を婿に迎えたのだから喜んでよいのではないかな」と周瑜に言ったといわれる。
周瑜の叔父が丹陽太守となった頃、挙兵した孫策は周瑜を誘い出し、秣陵を本拠とする劉繇の勢力を打ち払うのに協力した。その後、会稽・呉郡地方攻略に赴く孫策に丹陽の守りを固めるように頼まれたことから丹陽に一時帰還した。その後間もなく、袁術が丹陽太守を交代させたことで彼は叔父とともに寿春へ移り住んだ。袁術は彼の才能を高く評価して、配下として用いようとしたが、袁術の器を見限っていた彼は、孫策に合流するために外地勤務を願い出て袁術の元を離れた。呉郡に近い居巣県の県令になった周瑜は、当地で知り合った魯粛とともに孫策の元へ赴いた。一九八年のことで、親友の帰参に孫策は大いに喜び、その場で建威中郎将(中郎将は将軍に次ぐ軍官職)に任じ、兵士二千と騎馬五十を与えた。
この厚遇ぶりに反感を抱いたのが、破虜将軍孫堅以来の宿将程普で、程普は度々周瑜を侮辱したが、周瑜は年長の程普の顔を立て、身を低くして決して逆らおうとしなかった。そんな周瑜の態度と、息子から周瑜の采配の見事さを伝えられた事で、程普はやがて周瑜に心服するようになった。そのとき、人に告げて「公瑾殿との交際は、まさに芳醇な美酒を飲むかのようだ。自分が何時の間にか酔っている事にも気づけない」と言ったという。激情家で知られる周瑜だが、このように謙虚な面もあったという好例である。
以後孫策、孫権の二代に仕え、曹操が南征軍を起こした時には赤壁において迎え撃ち、見事これをうち破った。江東の幕下では天下統一のヴィジョンをしっかり持っていたのは彼と甘寧くらいで、赤壁の後、荊州と益州(蜀)を手中に収める為の遠征軍を起こす。しかし、荊州に地盤を固めつつあった劉備の妨害を受け、さらには南郡攻略中、流れ矢を鎖骨に受けるという重傷を負う。結局その矢傷が元で、二一〇年に病を得て急死した。数え三十六歳の若さであった。
演技における周瑜は、孫策時代においては確かに主役として申し分ない活躍をしているが、問題は赤壁の戦いからの描写にある。とにかく諸葛亮を敵視してこそこそと裏で謀略を巡らせて彼を除こうとし、散々におちょくられ手玉に取られ続ける事になる。終いには怪我で倒れながらも曹仁を空城の計で破る活躍はあったものの、直後に諸葛亮から自分の行動全てを察知されていたことを告げる手紙を送りつけられ、「天は残酷だ。この周瑜をこの世に生み出しておきながら、何故諸葛亮まで生まれさせたのか!」と激昂。このために矢傷が開いて憤死した挙句、その葬儀の席では諸葛亮がその死をダシにして呉の群臣からも「周瑜が一方的に諸葛亮を憎んでいただけだった(≒死んだのは自業自得だった)」などという印象操作までされる始末であった…解説であるが敢えて言いたい。正直、物語上の演出とは言え周瑜がここまでされる謂われは何処にもない。


-狐野郎が曰く-

江東の歌って踊れる大都督、美周郎。正史でも陳寿がわざわざ触れているくらい、とにかくイケメンだったことは確からしい。イケメンで美人の奥さんが居て(しかもめっちゃ仲良かったらしい)、なおかつ軍事的才能はあるし音楽的才幹もあって…ううむ、書いてるうちにだんだん腹立ってきた()。天は二物を与えず、とはいうが、ある意味戦場で受けた傷が元で若死にしたことは、そんな美周郎に対する天罰であるのかも知れぬ。といっても、あの演義における数々の仕打ちまでされる謂われはない。ちなみに正史の姿を知って余計に諸葛亮が嫌いになった一因に、演義における周瑜の扱いの悪さは間違いなくあると思う。話はズレるが、この人物解説項目でやけに蜀の扱いが悪いこともそこから察していただきたい。
学三周瑜も基本的に史実描写と同じだが、狐野郎の中では音楽ゲームの達人、もっといえばどっかのめうめうに匹敵するぐらいにオールマイティの剛力羅という扱いにもなっている。というか絶対どのゲームやっても理論値たたき出しまくってるよね。ついでに狐野郎は周瑜=新谷さなえ、陸遜=ふじのマナミ、魯粛=くまのきよみというポジションでとらえても居たようだ。貴様シスターズか。あと本家に寄せられた周瑜のイメージは「浜崎あゆみのようなオネェ系」ってことらしい。