解説 陸凱
-学三設定-
揚州学区に席を置く陸一族の一人で、陸績や陸遜・陸抗姉妹とは親戚筋にあたる。
曲がったことが許せない正義感の強い少女で、はきはきとした中性的な口調とハスキーボイスから同性からも「男らしい」と言われるほど。張昭や虞翻に匹敵する芯の強さ(我の強さ?)を持ち、長湖部最後の部長となった孫皓にも口憚ることなく諫言を繰り返したが、荊州学区を統括する実力者である陸抗の存在を恐れたのか孫皓は彼女を処断することが出来なかったらしく、無視するにとどめている。
また、族姉の陸遜には及ばないまでも十分に優れた実務能力の持ち主であり、さらには山越高校生徒の取り締まりなどで功があって実働部隊や運営でも重要なポジションを任させるようになって、孫皓政権期には万彧と共に副部長に就任した。その能力の高さは「二宮の変」後の長湖部においては族姉陸遜、朱然といった名主将達の穴を埋めるに十分で、多くの学園史研究家は彼女が優れた運営スタッフであった為に、武勲の多い点についてはその統率能力によるものと目しているが、実は諸嘗流和術の奥義「雁金」の使用を認可されたほどの武道の達人でもある(無論、彼女の指揮統率能力も当時としては一流のものである)。
孫皓の暴君振りに業を煮やした彼女は、親友の丁奉や丁固らと計って孫皓の処断計画を練ったが、丁奉の後輩である留平の協力を得られなかった為、断念した。その後間もなく過労で倒れ、受験勉強を理由に副部長職を返上、引退した。またこれは学園史の黒歴史とも言うべきところだが、彼女は「二宮の変」の最中、双子の妹である陸胤を傷つけられたことに激怒し、朱然・朱績姉妹、丁奉、虞汜に、交州学区に放逐されていた顧譚をも巻き込んで武力蜂起を企て、一触即発の事態を引き起こしたとも言われる。顧譚はこの責任をとる形で階級章を返上したとも言うが定かではない。
実働部隊を指揮しての活動中にも文芸活動に精を出し、占い(主にタロット)を得意としたという。実は潜在的に途轍もない強さの魔力を持っていたとも言われ、彼女の占いは極めて的中率が高かったのもその所為だといわれるが、当人はそのことをまったく自覚していない。
-史実・演義等-
陸凱 一九八~二六九
字は敬風、呉郡呉の人。陸遜の一族であり、年代的には陸遜の子・陸抗と共に活躍した人物で、呉で列侯に叙された陸一族はその陸遜親子を含めて五人存在するが、陸凱もその一人である。
黄武の初年(黄武年間は二二二~二二九)に会稽郡の諸県の県長を務めて、それぞれの任地で治績を挙げた。後に兵士を率いるようになるのだが、軍務にあっても書物を手放さず、特に「太玄経」を好んで読み、それを分析して占いを実演したが、よく的中したという。
赤烏五(二四二)年、朱崖(現在の広東省海康)などの異民族反乱の鎮圧に携わり、五鳳二(二五五)年には零陵で反乱を起こした陳毖を討伐したことで巴丘督、偏将軍に昇進した。また二五七年、諸葛誕の反乱に乗じて出兵したときも軍を率いるなど、軍人としてキャリアを積んでいるあたりは陸遜とよく似た経歴をもっている。孫休の即位の際には征北将軍の官位と仮節を与えられ、豫州牧となり、呉最後の皇帝である孫皓が帝位に就くと鎮西大将軍・嘉興候の爵位を与えられるとともに巴丘都督と荊州牧を兼任し、次いで二六六年には孫皓の寵臣・万彧とともに左右の丞相となった。
国家のためにひたすら心を砕き、義を貫こうとする気概に溢れ、その言葉は真心に満ち取り繕うようなことはなかった。他人が自分を見つめることを極度に嫌う孫皓を諭したり、孫皓に媚び諂う何定を糾弾するなど、孫皓に対する「ご意見番」として活躍した。それゆえに孫皓の暴虐が激しくなると再三上奏してその行為を諌め、一説には呉の将来を慮って丁奉らと図り、孫皓の廃位を画策したともいわれる。そういう人物はほとんど例外なく孫皓の怒りを買って三族皆殺しの目にあったりしているのだが、陸凱に関しては、荊州で大軍を率いていた陸抗に攻められることを警戒したのか孫皓も処断に踏み切れずにいたらしい。
二六九年、七十二歳で世を去った。
-狐野郎が曰く-
なにしろ呉末に活躍した人なので、余程の三国迷でなければ名前も知らない人物の一人であろう。かくいう狐野郎も「三国志Ⅹ」の武将ファイルで初めて存在を知ったぐらいで、「うおなんだこの人の名前なんかカッキエー!?」みたいな第一印象だった。当時は地元のケーブルテレビでアニマックスが視聴出来てて、なおかつ「勇者王ガオガイガー」を全話見終わった直後だったかそんなぐらいだったんで「凱」という諱がなおのこと目についたのかも知れない。というか「敬風」っていう字もなんか格好良いしね。そして正史陸凱伝を読んでみたら事績の大半が彼が孫皓に当てた上奏文で埋まっていることを知って三度ひっくり返った。ちなみに最近で「ガイさん」といったら「ウルトラマンオーブ」のクレナイ・ガイになるけどまあそんなことはどうでもいいな。
実際(上奏以外で)やってることを読み解けばまさしく「プチ陸遜」といった塩梅で、呉末の混乱期における舵取りに苦心した名臣である。出仕して活動を始めたのは丁度夷陵の戦いがあった頃で、族兄(年齢的には親と子ぐらい歳離れてるんだけど)陸遜が大活躍している裏で、若い頃の陸遜よろしく山越相手に四苦八苦してたと考えるとやはり若い頃からその能力の高さを買われていたんじゃないかと思う。正直、もっとよく事績が知られてもいい大人物だと思うんだけど、いかんせん活躍し始めるのが諸葛亮死後どころか蜀の国そのものすら滅び、挙句魏王朝も司馬炎に乗っ取られて晋に代替わりしているような状況だから、そういう意味では三国志時代でも末期の末期をメインの活動時期にしてたわけで、どうしても知名度は低くなるのも致し方ない話。そもそも演義には出てこねえしな。演義の最後のほうで陸抗と羊祜がなんやかんやしてた話は出てくるんだけど、陸凱の凱の字も出てこねえぐらいなんで仕方ないね♂としか。
勿論学三でもほぼ触れられない時期の人物なもんだから、恐らく狐野郎が触れるまで誰も触れなかったとは思うんだけども、それ故に大分好き勝手に設定を盛ったところはある。孫皓排斥計画でもつるんでいたことから丁奉や丁固、孟宗なんかとは無二の親友だったり、世代屈指の玄人だったり、むしろあの世代の長湖部におけるガキ大将というか領袖的な存在になってたり。あと髪の色は陸遜だけどキャラデザインは露骨なぐらいかごめだったり。ただポケモンログ・世界樹ログでも登場しているかごめ者が完全に「詩人少女の皮を被った傾奇者と奸雄のハイブリッド」なんで、敬風姉貴もある意味「狐野郎が魔改造した変種かごめの一形態」と言えなくもない。マジで当時からかごめガチ勢から刺し殺されそうなことしかやってない気がするなあ。