解説 諸葛瑾


-学三設定-

帰宅部連合の「不動のナンバーツー」にして「学園史上最凶の奇人」諸葛亮の実の姉。実姉妹四人、親戚で面倒を任されている者まで含めれば十人を軽く超える「諸葛姉妹」の一番の年長者として、幼い頃から諸葛亮を初めとしたクセモノ揃いの妹達や従妹達をまとめ上げるのに苦労したためか、基本的には真面目で責任感が強く、それでいて温和な心根の優しい少女。「御人好しの権化」と陰口を叩かれることはあれど、基本的には敵を作らないタイプであるのだが、変人にしてクセモノ中のクセモノである諸葛亮は元より、妹達以上のクセモノ集団長湖部の幹部会においても、毅然とした態度で応対し時に有無を言わさぬ迫力でヤツらを黙らせることもある。その辺は流石、一世代前の学園都市で「最凶の風紀委員長」と恐れられ、現在においても揚州・預州など湖畔学区を管轄する蘇州警察署長・諸葛豊の長子なだけはあると言える。
中等部に入って間もなくは洛陽棟のエリートコースに在籍していたほどの才媛であるが、劉氏生徒会の政情不安や「黄巾事変」の勃発で生じた混乱を避けるべく、母親が警察官として管轄する湖畔の校区へ籍を移し難を逃れていた。その時に校区の顔役でもあった魯粛と顔見知りになった縁から、「長湖部」の地盤固めに奔走していた孫策と出会ってその眼鏡に適い、幕僚として迎えられた。妹ほどキラキラした(ぶっ飛んだ?)才知を表へ出さなかったものの、その経理手腕は十分に第一級で、一方で軍事的才幹も優れていたことから孫権の代には長湖部最高幹部の一人となった。前述したように苦労人であったことから、問題児の多い長湖部運営陣の良心とも言えるポジションにあり、さらに孫権に至っては彼女を実の姉以上に慕っていたきらいもある。
同時期に幹部会にいた虞翻には及ばずとも十分に交渉人としての能力も高く、また勢力を伸ばしてきていた帰宅部連合の主要メンバーに実妹・諸葛亮がいた事もあってか外交官的な役を担うことも多々あった。そんな微妙な立場から帰宅部連合との繋がりを指摘され讒言を受けたこともあったのだが、それを受けてブチ切れた孫権が「子瑜さんがボクを絶対に裏切らないのは、ボクが子瑜さんを絶対裏切らないのと同じだよっ!」と幹部会で一喝し、彼女への信任の厚さを内外へ知らしめたなどというエピソードもある。とにかく帰宅部連合のみならず方々に使者に立つためそういう役回りであると勘違いされがちだが、陸遜に次ぐ地位で長湖部実働部隊を総括していたこともあり、そこでは事もあろうに曹叡の機転で一敗地に塗れるなど失態もあったが、その用兵術も姉妹だけあって諸葛亮に通じるものがあったともいう。
孫策政権時代にはお互い接点があまりなかったものの、「皮肉屋」虞翻の数少ない理解者のひとりでもある。恐らくは洛陽時代のわずかな期間で習得したのかも知れないが、その割には明らかに嗜み程度では済まされないレベルのピアニストでもあり、交州学区では彼女と組んで学園中の話題を掻っ攫うリサイタルを敢行した立役者となった。これを始め虞翻が交州に移ってから、彼女と関係する多くのエピソードが交州校区で長く語り草となったが、秘話の域を出ないため公式のレポートには残されていない。
とにかく長湖幹部会の中でもとりわけ孫権の信頼が厚かったため、卒業後も半年を期限に特別顧問として部の運営に関わっていたという。強引に居座った挙句三年も幹部会に口を出し続けた張昭と比較されることも多いが、それ以上に「三年とはいわないがもうプラス半年、孫権が引退するまで運営に関わっていたなら長湖部の後継者争いを回避できていたのでは?」と考える学園史家も多い。
どういうわけか、両サイドの髪がびよんと跳ね、後ろから見るとまるで驢馬の耳のようになってしまう。故に口の悪い者は彼女のことを暗喩して陰では「ロバ(のフレンズ)」と呼ぶこともあり、とあるイベント打ち上げの席では孫権がこのことをからかったエピソードも残っている。諸葛瑾も小さい頃に諦めてこの「驢馬耳」と共存していたのだが…実はこれが諸葛亮に原因があったことが後に判明したものの、その真相がはっきりする頃には彼女自身「驢馬耳」にかなりの愛着を持つようになっていたという。


-史実・演義等-

諸葛瑾 一七四~二四一
字は子瑜、琅邪郡陽都県の人。蜀の武郷候・諸葛亮の実兄(「族兄」で血の繋がりはない、という説もある)で、同じく前漢の司隷校尉である諸葛豊の末裔とされる。
洛陽の太学で学問を修めた秀才で、黄巾の乱、董卓の専横などによって世情が不安定になると、郷里へ戻り、継母や幼い兄弟たちを伴って南方へ逃れた。「諸葛瑾伝」に拠れば、彼らが江東の地に移住してきたのは丁度孫策が亡くなった頃(二〇〇年)とされ、そのときに孫権の姉婿に当たる人物が諸葛瑾の才能を高く評価して、その推挙によって孫権に仕える事となった。
孫権が劉備と同盟関係を結ぶと、彼の弟である諸葛亮が劉備の幕僚であった関係から、劉備への使者として蜀に赴いた。このことから演義では使者として劉備や関羽の元に赴き、魯粛と同様怒鳴り飛ばされたりいいようにあしらわれたりとあまりぱっとしない。正史に拠れば、彼は公式の場で諸葛亮と面会することも多かったが、会談を終えても私的に会って語り合うようなことはなかったという。
彼が孫権と語り合ったり、あるいは諌めるときには、決して強い言葉を用いることはなく、思うところを僅かに態度に表して、孫権が気づくのを促したりするのが常であった。また、それでも理解を得られないときは、話題を変えたり物事に例えるなどして、それとなく本題を示唆するようにしたという。
荊州攻略の際にも参加し、戦功により宣城侯・綏南将軍の爵位を受けたが、折りしも呂蒙が急死したため、彼に代わって南郡太守も勤めることとなった。夷陵の戦いの後、諸葛瑾は左将軍・宛陵侯に昇進し、公安督として仮節を与えられた。この当時、諸葛瑾が蜀への使者とは別に、親しい者を蜀に送って蜀と気脈を通じている、と讒言する者がいたが、陸遜は孫権に上表してそのような事実はないことを申し述べ、孫権もまた「子瑜殿が私を裏切らぬのは、私が子瑜殿を裏切らぬのと同じことだ」と、その讒言を一蹴した。その一方で、呉があまり積極的な対外戦争を展開していないためにあまり知られていないようだが、諸葛瑾の軍略について陳寿は「前もって綿密な行動計画を立て、応変の戦術はとらなかった」と記しており、そのために計画を立てることが綿密に過ぎて兵役が遅々として進まず、その用兵に孫権の不興を買ってしまったこともあったという。
二四一年に六十八歳で逝去。 堂々とした風貌と思慮深さを備え、度量が広く、周囲の者は皆感服していたが、彼は面長の顔であったようで、とある宴で酔った孫権が一頭の驢馬を引き出し、その額に「諸葛子瑜」の四字を書いてからかったが、即座に息子である諸葛恪が進み出て四字の下に「之驢」と追記して孫権のみならず群臣達も感心させ(つまりその驢馬を「諸葛瑾」ではなく「諸葛瑾の私物である驢馬」と主張したわけだ)、その驢馬を下賜されたというエピソードがある。諸葛瑾はそんな息子である諸葛恪の才能と人格を鑑み「結局この子は才能故に一族を滅ぼすだろう」と述べたが、果たしてその通りになった。


-狐野郎が曰く-

演義では魯粛と並び評される「江東のいいひと」諸葛瑾。関羽には怒鳴られ、軍を出した時には曹叡に酷い目にあわされ、蜀へ使者として赴こうとすれば同僚に疑いの眼差しで見られと、損な役回りの多い呉将でもとにかくトップクラスに踏んだり蹴ったりの目に遭わされているが、実際曹叡にけちょんけちょんにされたことは正史にも記述があり、残念ながらそっちの方面は史実通りどころか孫権にも「進軍ノロすぎやぞお前!」とダメ出しされる始末。一方で本当に史実でもメチャクチャいい人だったらしいのは確かで、虞翻が交州に流刑されたときも最後まで擁護したんだとか。ちなみに虞翻、後々諸葛瑾が最後まで擁護をしてくれていたことを知り、親しい者へ宛てた手紙の中で「諸葛殿は仁に篤く、天の法則を体現して万物の命を愛され、不肖の私めもあの方に弁護して頂いたためにこうして生き長らえる事が出来ました。ですが私には古の名士の如き徳もなく、犯した罪悪も重いため、諸葛殿の御援助があったとしても赦免は望みがたいのです」とか書いている。流罪後に丸くなっただけなのか、毒舌家虞翻をしてもこき下ろせないほど諸葛瑾が人格者だったのか。まあ両方なのかも知れないが。
解説では省いたが、孫権に他人の取りなしをする時もわりと変わったことをしており、お決まりの正論羅列や泣き落としみたいな事はせずに、まるで孫権の心中を代弁したような一人芝居を行い、その怒りを和らげる、みたいな手法を使ったらしい。何気に諸葛亮同様「機転は利かないよコイツ」みたいなことを陳寿は書いているが、そうなると即興ではなく影でリハーサルとか入念にしてから孫権の所に行っていたのかも知れない。そう考えるとなんか可愛らしくすら感じるから不思議なもんである(そうか?
さて、実は玉絵諸葛瑾、実は狐野郎の中では陳羣と双璧を成すくらい刺さるデザインである。実際はもっと面長なんだが、よくあのロバ面(「蒼天航路」のアレな)をこういう萌え要素に落とし込んだな、と感服したというのが大きい。実際後年には某トヨサトミミズク(まあこれも聖徳太子のブリセルめいたものなのかも知れんが)だの、「けものフレンズ」のアニマルガール達だのみたいに髪型に種族の特徴を反映したデザインとか登場して今ではそんなに珍しいものではないのだが…いや、当時も探せば結構あったかも知れないけど。あと虞翻と絡みが多い感じなのでわりと話を考えやすかったのはあるかも知れない。
そういえば「みずいろ」等で知られるねこねこソフトの公式ページに裏話みたくメタな4コマ連載されてたけどそれのタイトルが「諸葛瑾」で、しかも公式ページに諸葛瑾の簡単な略歴(勿論史実の)が記載されてたんだけどあれも何だったんだろうな。あのスッタフに諸葛瑾好きな人でもいたんだろうか。今になって思うとあれもナゾだったなあ。