解説 孫権
-学三設定-
不慮の事故が原因で引退を余儀なくされた孫策に代わり、「長湖部」を受け継いだ孫家三姉妹の末妹。
果断で行動派の姉たちと違い、おっとりとしたタイプ。独断で事を決することはないが、根がしっかりしているので大勢に流されることもない。一人称は「ボク」で二人称は「キミ」。末っ子気質で金遣いの荒さに不安要素があったり、どうにも世間知らずな面があるが、そのくせ苦労性。「うう…お姉ちゃあん…」と心の中で泣く事も多いが、一方で姉譲りの激情家としての面もあり、学園無双においてはその性格が災いして幾度も危機に陥ったこともあった。
人を使い育てるのも得意で、「ポカのモーちゃん」こと呂蒙、勉学には無縁だった「湖南海王」元ヘッドの蒋欽といった連中を諭し、学年トップクラスの優等生にしたエピソードはあまりに有名。非常に甘え上手で誰もが放っておけなくなるようなところもあり、特に諸葛瑾に対しては自分の姉よりも「姉」として甘えてたところすらあったと言われる。だが反面張昭、虞翻、張温など、気の合わない者を遠ざけると言う一面もあり、後述する引退際の一件も併せ、その人物についてやや厳しい評価を与えられることもある。
彼女が学園史の表舞台に出てくるのは中等部の頃、先述したとおり孫策は不慮の事故により大怪我を負ってあまりに短い課外活動の幕を閉じたが、彼女はその後継者という形で「長湖部」を引き継いだ。入院による休学を余儀なくされた孫策を想い何日もふさぎ込むものの、張昭に叱咤激励される格好で奮起すると、とにかく多くの有能な人材を幕僚に招き入れ、地盤固めに勤しむようになる。陸遜、徐盛、丁奉、朱拠などといった、後々長湖部を支えてゆく少女達を見出したのも他ならぬ彼女であり、一方で姉の代からの中核メンバーに対する配慮も忘れなかった。こうして団結していった新生「長湖部」は姉・孫堅を卑劣な手段でリタイアさせた江夏の黄祖を撃滅し、南方へ支配の芽を伸ばしてくる曹操を、劉備と共同で当たり赤壁島で壊滅させて追い払い、そしてその後同盟関係をいいことに好き勝手する「帰宅部連合」勢力を荊州校区から一掃するなど、その勢力を着々と拡大させていった。本人主導で行った合肥攻略戦では張遼の少人数奇襲を受けてトラウマ級の逃亡劇を演じさせられる羽目にはなったものの、彼女が一任した呂蒙や陸遜といった名主将達がその実力を遺憾なく発揮して、孫権の信頼に応えてくれたというべきだろう。そうして学園を三分する大勢力となった「長湖部」を、新たな生徒会組織である「長湖畔校区連合生徒会」として独立させ、その初代生徒会長に就任した。
激動する学園上層部の推移を静観しつつ、幾度も起きた部の危機を乗り越えて「名会長」の評価をほしいままにした孫権であったが、当人が引退する際に後継者候補であった従妹の孫登が、元々病弱だった無理が祟ってか風邪をこじらせあっさりと世を去ると、先に次期会長と定めた孫和を疎んじ孫覇に入れ込んだことが原因で後継者問題を引き起こしてしまう。孫覇はある人物が学園に混乱をもたらすべく孫権の傍に送り込んだ、出自不明の少女であったことで陸遜を筆頭とした多くの運営メンバーが危険を訴えたが、孫覇の虜になっていた孫権はその一切を退けた挙句、孫覇派閥の讒言を真に受けて彼女達を片っ端から処断すると言う愚行を犯してしまった。朱然らの尽力により孫覇が退けられたことで正気を取り戻すものの、自分がやってしまったことに酷く後悔した孫権は心神喪失寸前の状態となり、当然ながらその混乱を収拾しきれず失意のうちに学園を去った。その後は陸遜達に対する罪の意識や、孫登を失った悲しみに耐えきれず自ら命を絶ってしまったという噂すら立った。
この「二宮事変」を皮切りに、その性格から招いた数々の失敗などが論われ、一部の学園史研究家から非難を浴びせられることになってしまった。
-史実・演義等-
孫権 一八二~二五二
字は仲謀、漢の破虜将軍孫堅の次男にして、「小覇王」孫策の弟。「江表伝」によれば、孫堅が徐州下邳県の丞であった頃に生まれたとされ、生まれついて顎が張って口が大きく、瞳はきらきらと光るという風貌で、孫堅は「この子は必ず高貴な位に登るだろう」と喜んだという。
孫策が江東に大きな地盤を築きあげた頃、まだ十五歳の孫権を陽羨県の長とした。この時代孫権は度々公金を横領していたが、その部下として功曹の地位にあった周谷という人が孫権のために帳簿を誤魔化していたのだが、一方で孫策の元で財務を司っていた呂範は孫権から金の無心をされても逐一孫策に報告し、許可が出ない限り決して金を渡さなかったことで孫権は呂範を苦々しく思っていたという。しかし孫権が江東・江南を統べるようになると当時の呂範の対応を褒め称えて彼を重く用い、あべこべに周谷は遠ざけられるようになったという。その後孫策に従って廬江攻略などに従軍したが、二〇〇年に孫策が刺客によって横死すると後事を託される。孫権は兄の死を悲しみなかなか立ち直れなかったが、その後見を託された張昭から叱咤され喪服を脱ぎ捨てると軍を視察する気丈さを見せている。軍団を引き継いだ当時は会稽や呉郡など江南の六郡に過ぎず、孫策に協力していた名士豪族達は次のあるじを物色しているような素振りを見せる中、張昭や周瑜は孫権の将来性を見込んで忠誠を誓い、彼等の働きかけもあって当時漢朝の司空であった曹操は孫権を討虜将軍・会稽太守に任じている。江東の地は山越と呼ばれる異民族系の不服従民が多く居たが、そうした不服従民の活動が激しいところには韓当や呂蒙といった実力者を配し、地盤を固めることに心血を注いだ。
孫権が江南六郡を受け継いで三年後、孫権は軍を発し、父の敵とも言える江夏太守・黄祖を度々攻撃し、二〇七年にはその首級を上げた。この頃には譜代の家臣を良くまとめ、なおかつ諸葛瑾や魯粛、甘寧、陸遜など新たに採用した人物をうまく采配し、着々と江南の地に勢力を広げていくようになる。間もなく、荊州牧の劉表が世を去ると、それに乗じて南方を併呑すべく曹操が軍を発し南下を始めたが、孫権の名代として劉表の弔問に出向いた魯粛の勧めで、曹操に追われながらも降伏をよしとせず、江夏の地まで逃げ延びなおも曹操に対抗姿勢を見せる劉備と組んで曹操に対抗することとなる。張昭を筆頭に「曹操に帰順すべき」と言う意見が幕僚の中に蔓延する時勢にあって、魯粛と周瑜は強行に帰順をよしとしない意見を通し、周瑜が「確実に勝てる」と徹底抗戦を訴えると、孫権は居並ぶ幕僚の前で剣を抜き放って机を真っ二つにし「今度降伏せよと申すなら、その者をこの机のようにするぞ!」と宣言。結局曹操軍は江南の風土病に苦しめられ、赤壁の地で周瑜がそれを散々に打ち破ると、その勢いのまま周瑜に荊州南部の諸郡を攻略させ、大きく版図を広げることとなった。
ところが、その戦役のドサクサで周瑜が流れ矢から受けた傷を悪化させて陣没、あるいは漁夫の利を得た劉備が荊州南部を抑えそこに居座ったことで、同盟関係にありながらいざこざが絶えなくなってきた。それと同時に、執拗に合肥を狙って大軍を繰り出し、張遼に少数の手勢で本陣にまで迫られるという屈辱的な敗北を喫するも、一進一退の攻防を続けていた。そんなあるとき、なんとか荊州を穏便に接収するために、荊州を守る関羽に自身の娘と彼の子を結婚させ婚姻関係を結ぼうとするも、孫権を軽んじた関羽がそれを突っぱねたため実力行使で荊州を強奪しにかかるに至る。元々関羽の方が先に、度々孫権勢力下の地域で部下に略奪を行わせており、それに対する意趣返しの意味合いもあったのだろう。これも多大な犠牲を払いながら、呂蒙や陸遜の活躍もあり関羽を斬って悲願であった荊州奪取を成し遂げた。怒れる劉備が関羽の仇討ちとばかりに攻め込んでくると、陸遜を大都督に抜擢し、その武略によって呉の防衛を果たした。孫権は表面上魏の臣下として呉王に封じられていたが、二二八年の石亭の戦いで魏軍を散々に打ち破ると、翌二二九年に魏、蜀に次いで国家として独立を果たしてその初代皇帝となった。
正史の評では、身を低くしてよく辱を忍び、才能ある人物には絶対の信頼を任せ、万人に優れ傑出した人物とされる。孫策が今わの際に「お前には人心をよく掌握する才能がある」と告げた通り、新しく招いた人材、古くからの孫家譜代の将との和を重んじ、その結束によって国を治めた名君である。しかし、その一方で疑り深く、残酷な一面もあったとされ、晩年にはのちに「二宮の変」と呼ばれる後継者問題を引き起こして、陸遜を筆頭に多くの名臣を処罰、誅殺する。その事件で江東・江南名族の信頼を失い、呉の屋台骨がぐらついてしまった。孫権は結局、娘の魯班がその中心的な謀主なったこの後継者争いを完全に終わらせることが出来ず、太子であった三男孫和を廃し、さらにもう一方の火種となった四男孫覇に自殺を命じ、末っ子の孫亮を太子に据えた。裴松之はこのことについて「劉表や袁紹も後継者選びで失敗したが、彼らは始めから長幼の序によって後継者を決めようとしたわけではなかった。それに比べ、孫権は一度後継者としたものを軽々しく廃嫡するのであり、比較にならないほど悪い」と痛烈に批判している。二五二年、七十一歳で逝去。実に五十年もの間呉国を支配し、大皇帝の諡号を贈られた。
演義ではほぼ正史と変わらない行動をしているが、演義では「二宮事変」のことについては触れておらず、ただ代替わりした直後の隙を狙って魏の軍勢が東興堤に攻めてきたことのみに触れている。更に演義では語られていない孫権の悪癖として、非常に酒癖が悪い人物であったことが窺えるエピソードがいくつも残っており(酔った勢いで虞翻を斬り殺そうし、素面に戻ったあとで群臣達に「酔ったときのわしの言葉は真に受けるな」と述べたものが有名)、また常日頃から宿老でもある張昭といがみ合い、まうで子供の喧嘩をエスカレートさせたような、洒落では済まされないようなやり取りをしていたとも伝わっている。
-狐野郎が曰く-
演義そのものや、それをベースにした三国志創作の中では曹操、劉備に比べると今ひとつの君主、というイメージもあるかも知れない孫権。それは演義の扱いがどうの、というより江東勢力が既に三代目に代替わりしていたこと、もっというと曹操や劉備に比べれば世代がひとつ若いことにも起因するのかも知れない。ただし正史が語る孫権像は(多分大いに悪い意味で)曹操・劉備と十分タメ張れる程度にはエキセントリックな行動も多く、大人物とされながらも欠点も多いという、まあ一言で評価するの無理ゲーって程度には一筋縄でいかない人物であることもまた確かなのだ。そもそも孫策は「お前は俺みたいに武力でガンガン打って出て征服して回るのは向かない」と言っているのに、実際その後の孫権は賢臣猛将の類を良く起用して用い、天下を三分する大勢力の領袖となるのだから世の中っていうものは解らない。といっても自分自身が主導した合肥では張遼にやりたい放題されているくらいなので、「孫権自体は」戦ベタだったのは確かなんだろうけど。
そして三国志を程よく齧ったファンなら、孫権といえば「酒乱」の代名詞的なイメージもあろう。演義で酒乱っぷりを発揮してヘマを繰り返すというと真っ先に出てくるのは我らが張益徳であろうが、史実では張飛が部下に暴力を振るいまくったこと(で結局暗殺されてしまうこと)は記述があっても、酒が過ぎて失敗したことに関してはほぼ記述がない。まあ粗暴な性格なので実際酒飲んで暴れてたかも知れないけど、酒乱ぶりが正史に記されているということは、少なくとも孫権の方が遥かに酷かった、と言ってもいいのかも知れない。まあ、張飛は蜀の車騎将軍にまで登った人だし、蜀の皇后の父でもあるので陳寿がそうしたエピソードをオミットした可能性もあるけど…。
史実でも非常に活動期間が長く、それは学三でも同じ事。ただ姉妹で唯一髪の色も目の色も違うので、単に片親の形質というにはあまりにも離れてる気がしなくもないけど…まあ、騒ぐほどのことでもないか()。演義などの記述では「紫髯碧眼」とされるが「学三」では金髪碧眼。ちなみにここでいう「紫」は「赤紫」というか、赤系統の色であるらしい。「蒼天航路」の孫権もなかなか独特なキャラをしてるんだけど、まあここでも群臣の前で自問自答を繰り返しながらでんぐり返しして放屁を盛大にぶっ放すなんて一体誰得なのか…えっそれもまたいいって?変態さんですな( まあ少なくともこの仲謀ちゃん、そんなことしそうにはねえけども。ちなみにオフィシャルでポニテではないんだけど、このカットでポニテなのは完全に狐野郎の趣味なので予めご了承願いたい。