解説 孫登
-学三設定-
孫権の年の離れた従妹のひとり。
元々体が弱く、幼い頃から入退院を繰り返して「高校卒業までもたないのではないか」と言われていたほどだったが、彼女はそれでも孫権に憧れて研鑽を重ね、蒼天学園都市での生活を許されることとなった。孫権は彼女の入学をことのほか喜び、ゆくゆくは後継者として考えた上で、信頼厚い若手である陳表や、張昭らの妹達を側近として宛がった上で陸遜にその教育を任せるなど大切に扱った。孫権が本格的に蒼天生徒会(というよりも曹丕)に牙を剥く決意を固めたのは、人質として孫登を寄越すように要求されたからだと言われるほどその寵愛を一身に受けたが、実際に孫登は病弱であることを除けば非常に聡明で、押しが弱いように見えてしっかりと芯も強く思いやりのある性格であったため、長湖生徒会全体のアイドル的存在であった。
孫登は憧れの学園生活の中で少しずつではあったが元気になっていったが、高等部に進級したその年の秋に風邪をこじらせ、肺炎によりこの世を去ってしまった。孫登は最後まで長湖生徒会、ひいては孫権の身を案じ、陸遜や歩隲らの人物を讃えて彼女達の言葉を重んじるように遺言している。しかし、最愛の従妹であった孫登、そして同じ頃に学園を去ることになったもう一人の従妹孫慮の喪失は孫権の精神的な平衡を失わせ、そのために長湖部は悲劇と惨劇に見舞われることとなる。
-史実・演義等-
孫登 二〇九~二四一
字は子高、孫権の第一子。
二二一年、孫権が魏の文帝曹丕に臣従の意を表して呉王に封じられると、曹丕は孫登に中郎将の役職を与え、爵位を授け召し寄せようとしたが、孫登は病気を理由としてそれを辞退し、孫権も孫登がまだ幼いことからそれを拒絶し続けた。この際曹丕は孫登を(実質的な人質として)差し出せようとした他に、象牙や孔雀などと言った法外な量の珍品宝物の類を朝貢として要求していたが、孫権は古来の例を引き「あいつ(曹丕)が要求してくるものは我々にとってはガラクタのようなものだ。あまつさえあいつは父親の喪中に、このような珍奇なものばかり求めてくる。それが例の定めに背くなどと言ってやっても無駄なことだ」と、曹丕が要求した珍品宝物の類だけは全て送りつけてやったという。それから間もなく呉王太子となり、四友として陳武の子陳表、諸葛瑾の子諸葛恪、顧雍の孫顧譚、張昭の子張休を任命し、他に近侍の者達も才覚に溢れた忠良な者が選ばれた。二二九年、孫権が帝位に就くと孫登も皇太子となり、さらに多くの名士が孫登の元に集められたことから、孫登の周囲には才能ある者が多いと評判になった。
武昌から建業へ遷都されると、孫登は上大将軍の陸遜とともに武昌の守備に当たった。二三二年に弟の孫慮が二十歳の若さで病死すると、悲しみに暮れる余り食事を取らなくなった孫権の元に赴いて励まし、そのまま建業にとどまることとなった。二三四年、大々的な合肥新城への侵攻作戦が開始されると、孫権は都の護りを孫登に一任した。孫登は連年不作続きのため、野盗が多発していたため、上表して禁令を定めた。その禁令は、時代に即し内容の優れたものであったという。
孫登は狩猟に出ることがあると、脇道を通らなければならないときには必ず田畑を避けて通り、休息する際にも人家の近くを避けるなどの配慮を怠らなかった。また、孫登の実母は元々卑賤の出であり、それゆえ孫登は徐氏に育てられていた。徐氏は嫉妬深い性格であったと言うことから孫権に嫌われ、呉郡に放逐されてしまっていたのだが、孫登は徐氏に対して実の母親と同じくらいの敬意を払っており、孫権が歩氏を寵愛するようになると、孫登は歩氏にも母親に対する礼を払ったが、それでも徐氏に対する応対とは非常に大きな差があったという。孫権が孫登を皇太子に定めるに際して、孫権は歩氏を皇后に立てるつもりであったが、孫登が暗に徐氏を皇后に立てるべきであると主張したことで孫権は何も言えなくなり、結局皇后の件は沙汰止みになってしまった(後に反対する者が居なくなったことから孫権の最晩年に歩氏は皇后となっている)。
将来を嘱望されていた孫登は、太子に立てられて二十一年めの二四一年、病のため三十三歳の若さでこの世を去った。孫登は死の間際、孫権に宛てた遺書に陸遜、諸葛瑾、歩隲、全琮らの名をあげ、彼らが国を守る忠臣であり、彼等を重んじて意見をよく聞き国を栄えさせてほしいと記した。孫登の死後にその遺言状が孫権に上奏されたが、孫権は悲嘆に暮れ、以後孫登の名を口にすると涙を流さぬ時はなかったと言う。
-狐野郎が曰く-
ある意味では、孫呉の運命を大きく狂わせたキーパーソンと言って良いだろう。もし孫登が若くして身罷ることなく、次代の呉帝となっていたのであればその歴史は大きく変わったことであろうと考える人は多いかも知れない…が、彼が歩氏を差し置いて徐氏を皇后に据えるよう暗に訴えていたことは、あの孫魯班とて知らぬ事ではないだろう。どのみち近しい末路を辿っていたのではないだろうか、と思うのは狐野郎だけでは無いと思いたい。もし孫和が帝位に就いても、遅かれ早かれあの孫皓が帝位に就くだろう(からどっちみち孫呉は孫皓の代でgdgdになった)という史家が居るというのがその理由だ。まあそれでも太子孫登が非常に人格・資質共に十分であったことは確かだし、歩氏絡みの件はその歩一族の領袖である歩隲が知らぬ事などあるはずもなく、ましてその魯班の夫である全琮のことも「彼等は善良で能力もあるんだから大事に」と遺言してるくらいなので、孫登さえ生きていれば連中も魯班の舌先三寸に踊らされて道化を演じずに済んだのかも知れないが。なお話は少しズレるが、その歩夫人という女性は超絶美人だった上に、本当にあの魯班と直接血が繋がっているのかまるでわからんレベルで善良そのものの人格者だったらしい。マジでどうしてそんな人からあんなハネッ返りが生まれたんだろうな。
学三ではただ「二宮事変」の切欠として孫登が早々に学園史の表舞台から去った事だけが設定されているのみで、その去就については誰も考えていなかった。ガチで病死するという設定を付け加えたのは狐野郎独自のものであり、本家様でどのようなプランがあったのか(あるいはガチで存在してないだけなのか)わからぬが、あくまでここでの設定は狐野郎設定に過ぎないことはご留意頂けたい。最初はただ「病弱」というイメージだけで適当に作ったデザインだったが、面白味がないので狐野郎の性癖(もっさり髪)を前面に押し出してやった。ウマのイメージがないわけでもない(アホ毛は間違いなくアグネスタキオンからだろう)が、実は大部分「古明地こいしのドキドキ大冒険」(あくまで「東方地霊伝」のではない)の古明地こいしが下敷きになっていたりする。