解説 荀彧
-学三設定-
名門の子弟が集まる蒼天生徒会の上流階級「清流会」の領袖的存在で、豫州校区の超名門一家荀氏宗家のお嬢様。スマートだが妙に世話好きで、ふと気つけば周囲に頼りにされているという不思議な魅力を持つ人物。おしゃれに興味はないくせに何を着ても自分の服にしてしまうセンスの良さも持ち合わせており、普段から大き目のストールを身につけている。なお眼鏡を掛けてはいるがそこまで視力は悪くない(眼鏡が必要な程度には視力が良くもないが)。
豫州の名士一門同士という縁で袁紹とも幼少の頃から面識があり、その縁故もあって学園の混乱を避けて避難した冀州学区で袁紹に招聘されたが、かねてから袁紹の器に限界を見ていた彼女はさっさと冀州を辞去し、当時兗州に地盤を置いて勢力拡大に努めていた曹操の元へ赴いた。そこでしばらく曹操の型破りな行動を見定めていたが、次第に惹かれ、ついには無二のシンパになってしまっていた彼女の来訪は曹操にとっても嬉しいことであったらしく、そのときには大々的なパーティーを開催したほどであった。荀彧自身は知らなかった(というか、気づいていなかった)ことであるが、幼少期から曹操は荀彧を知っており、「彼女と一緒なら学園を支配できるほどになれるかも知れない」と運命めいたモノを感じていたという。
彼女の支持を得ることで曹操は学園の争乱を避け隠れていた名門一族の優秀な人材に多く関わることが出来、その支持を得ることで生徒会内における地位を磐石なモノとした。そのダメ押しとなった「蒼天生徒会長の後見役となる」ことを曹操へ強く勧めたのも、他ならぬ荀彧である。官渡決戦が近くなってくると、兵力や物資不足などを理由に何度も弱音を漏らす曹操を励まし続けたことも荀彧の大きな功績であり、全体としては途中で頓挫したものの、南征の時も荀彧は蒼天生徒会書記長というポジションから後方支援を盤石に行っていた。
曹操躍進の上で決して外すことの出来ない最高の女房役であり、お互いに深い絆で繋がれていたはずであったが、荀彧自身はやがて「曹操を慕う自分」と「生徒会名士としての自分」との葛藤に苦しむこととなった。そんな折り、曹操の「魏の君」襲名問題において、従妹で同じ思いを共有していたと思っていた荀攸とも意見を違えてしまった事で心労はピークに達し、程なくして引退という末路をたどることとなった。その引退の有様についても謎が多く、一説には曹操は荀彧に空箱を送りつけ、そこから「荀彧は既に用無しである」と解釈した彼女は自ら命を絶とうとした、というウワサすらあった。曹操はこの件に関してノーコメントを貫いており、真相は不明だが、その後、曹操が身につけるようになったストールが荀彧のものであったことが判明し、その関係については後世学園史研究家たちの間で議論の的となった。
-史実・演義等-
荀彧 一六三~二一二
字は文若、潁川郡潁陰県の人。若い頃、南陽の何顒は彼を「王佐の才あり」と評した。また、容姿端麗の美丈夫であったとされる。
永漢元(一八九)年孝廉に推挙されたが、動乱の混乱を予期した荀彧は官職を捨てて帰郷した。そして郷里の古老たちに「潁川は都に近く、兵乱が起これば必ず戦禍を受けるので立ち去るべき」と説いたが賛同を得ず、結局荀一族だけが荀彧に従って潁川を離れた。荀彧の予想通り、数年後には董卓誅殺から始まる動乱に巻き込まれた。
荀彧は冀州刺史韓馥の招聘に応じて冀州に向かったが、彼が冀州に着いた頃には韓馥は冀州を追われ、代わりに冀州を支配していた袁紹から上賓の礼を持って迎えられた。荀彧の弟や同郷の辛評、郭図などは皆袁紹に仕えたが、荀彧は袁紹が大事業を成せる器でないと判断し、代わりに当時東郡に居た曹操の元に身を寄せた。曹操は荀彧と会談すると「我が子房(前漢三傑の一人張良のこと)である」と非常に喜んで司馬に任じ、幕僚に加えた。荀彧はこの時二十九歳であったという。
一九四年、曹操はこの時兗州刺史であったが、この時徐州の陶謙との確執から大規模な徐州攻めで兗州を離れており、その隙を突いて張邈、陳宮らが呂布を呼び込んでエン州を奪い取ろうとした。留守を任されていた荀彧は程昱らと協力し、東阿など三県を確保した。呂布らは結局、帰還を果たした曹操の攻撃を受け敗走した。兗州が平定されると、荀彧は曹操に天子(献帝)を迎える事を勧め、曹操はその意見を入れて天子を奉戴し、同時に都を荒れ果てた洛陽から、自分の勢力範囲にある潁川の許に遷した。演義では当初から劉備を危険視しており、呂布と劉備を潰し合わせる「二虎競食の計」と「駆虎呑狼の計」を献策して、劉備が呂布によって徐州を追い出される原因を作っている。史実でも「劉備は決して誰かに大人しく仕えているような人間ではない」と曹操に進言しているため、劉備を危険視していた(というか敵愾心を抱いていた?)事が窺える。
官渡の戦いをはじめ、曹操の大規模な出征の際には常に後方支援を任された事からも、両者の間に深い信頼関係があったことが伺えるのだが、その関係にヒビを入れたのは董昭らの発議した曹操の魏公就任だったと言われる。荀彧は道義からその発議に賛同しなかった為、曹操はそれを快く思わなかった。そのことが心労につながったのか、荀彧は折りしも行われた孫権征伐に同行したものの、途中で病に罹り寿春に留まり、その年の内に世を去った。二一二年の事で、享年は五十。
荀彧の死の経緯については、実のところは良く解っていない。一説には、曹操から食物と偽って空の器を贈られ、己が無用の存在であることを示唆していると思い込んで服毒自殺したとも言われる。演義では曹操が魏公に就任する野心を露わにした細に再三にわたって諫め、曹操の怒りを買って死を賜るという最期を迎えている。
-狐野郎が曰く-
史実でイケメンだった事で有名な荀彧。家柄が良く、才能があり、更にイケメン…なんでこの時代こういう、神のクソ野郎がえこひいきしたような輩がちらほら出てくるんですかねえ…。なお「蒼天航路」でも少年時代から登場してるけど、なんか旅に出て曹操のところに戻ってきたら味噌っ歯のおっさんになってたのがなんとも。その時の「荀彧文若!ついにあらゆるものを見聞し頭の中に天下をおさめて、しかも、それらをすっかり忘れて戻ってまいりましたあーッ」ってセリフは、「蒼天航路」を象徴するセリフのひとつになった感もある。この荀彧がどれだけインパクトがあったのかは、その後の「三国志」シリーズの顔グラが明らかに「蒼天航路」ベースになってることからもうかがえるのではないだろうか。あと、「三国志大戦」シリーズの初期でも、反計(相手の計略効果を発動前に打ち消す計略)持ちの代表格になった感があり、その効果範囲に収める(収められている)ことをさして「イク(彧)様がみてる」なんて言葉が生まれたことを覚えて居られる方も居ろう。流石にキャーイクサーンとは言われてないと思うが
荀彧と言えばもうひとつよく話題に上るのが、その死にまつわる真相だろう。「蒼天航路」の最期はそのいくつかをうまく組み合わせているようだが、ベースになっているのは「空の飯入れ(弁当みたいなものか?)を送りつけられた」という有名な経緯だろう。あくまでこれは個人的な解釈であるが、あの中に入っていた「丸まった紙」は、かなり前に伏線が引かれていたことを考えると、曹操は荀彧に「自分を見失うんじゃないぞ」と励まそうとしていたのではないかと思う。決して荀彧を疎んじていたわけではなく、細かいすれ違いが決定的な誤解を生んで、それが閾値を超えてしまったが故の悲劇。そう思いたい。ちなみに荀彧は服毒自殺説もあるが、「蒼天航路」では睡眠薬を飲み過ぎて死んでしまったように…ああまあ、睡眠薬の許容量超えて服用するのも立派な服毒自殺ですな。うん。
学三荀彧はこれと言ってもチーフらしきものが特に見いだせない(強いていえば「輝く季節へ」の川名みさきが雰囲気的に近いか? この人はメガネっ娘どころか全盲なのだが…)正統派美少女。これまで登場していたSSなどでは、クセらしいクセのない、案外何処にでも居そうな普通のお嬢さんって考えれば正解なのではないのかなぁ。育ちの良さはにじみ出てる感じで。