解説 張遼
-学三設定-
学園を荒らしまくった「鬼姫」呂布が率いる軍団のナンバー4。元々は蒼天生徒会の丁原に一般部員のまとめ役の一人として従っていたが、その軍団が董卓に接収されると董卓に、さらにその軍団が呂布に預けられると呂布の麾下になったという経歴の持ち主であり、彼女がその勇猛さを認められ主将クラスに抜擢されたのも呂布に従っていた頃の話である。幼い頃から多くの剣術を学び、さらにモトクロスを幼少期からしていたことからそちらにも抜群の才能を示し、挙句に親戚に牧場経営者や料理人がいた事もあってか乗馬や料理までできる(しかも後者はプロ級らしい)とかなり多芸な少女で、普段はクールな言動に反するやや天然寄りの性格の持ち主であるが、こと戦闘の場になると豹変し、冷酷無比な指揮官であると同時に発散する鬼気で相対する者を萎縮、時に失神・失禁させて戦わずに戦闘不能に追い込む程であったという。
そんな彼女は目の前の呂布と、そして黄巾事変で名を上げた関羽の武勇を密かに敬愛しており、この二人の「武の領域」をひたすらに目指していた。呂布が劉備を追い散らしていた際、張遼はもう一人の憧れであった関羽と直接剣を交えることとなり、関羽もまた張遼の武勇に感銘を受け、文字通り剣と剣で語り合った二人はライバルとしてお互いを認め合うこととなった。そんな張遼も呂布敗北の時には処断を待つ身となったが、関羽が「文遠は至高の領域を目指せる剣士であり、このような形で学外へ追い払うのは忍びない」と曹操に進言、自他共に認める「羽厨」である曹操は「雲長がそこまで言うなら」と張遼を特別に赦すどころか、残った呂布親衛隊を張遼に預け主将として抜擢する特別待遇を与えた。
曹操麾下になった張遼は、呂布ですら学園を制することが出来なかった現実に打ちのめされる一方で、曹操が「至弱」からどんどん力を増していくところに呂布とは異質の「強さ」がある事を認め、共にその覇道を歩むことで自分も至高の領域に至れるのでは、と思うようになった。北方では郭嘉と組んで烏丸高校のバイク軍団との壮絶な戦いを体験し、郭嘉の「戦場を俯瞰する能力」を受け継いだ彼女は、その後も多くの戦いに関わり確実に「至高の領域」へと近づいていった。その圧巻ともいうべきは合肥・濡須攻防戦でわずか四十名足らずのMTB部隊を率いて孫権の本陣を急襲、長湖部全軍を総崩れに近い状態まで追い込んだことが挙げられるだろう。このことは孫権に多大なトラウマを残させ、とにかく恥も外聞も捨て去って逃げてきた孫権は筆舌に尽くしがたいレベルの惨めな有様で濡須棟に帰還した程だった。この暴れ振りから曹氏蒼天会で「五覇」と呼ばれる猛将の筆頭格として目されるようになり、以後も徐州校区総代として、卒業間際まで前線総司令官として長湖部に睨みを利かせ続けたという。ただし史実では長湖部員に敗北を喫することはなかった張遼だが、非公式ながらその卒業後、卒業間際の丁奉との一騎討ちに望んで激闘の末に敗北を喫したとも言う。この話は後に、学園史を題材とした小説などに多く取り上げられることとなった。
なお自分が呂布軍団の生き残りであるという引け目や、生来ストイックな性格だったこともあって他の主将とあまり馴れ合うことはせず(楽進が例外なぐらいであった)、さらには呂布軍団の時の確執もあって李典からは憎まれ本人も李典を嫌っていた。ところがいざ戦闘になると、楽進や趙儼、温恢などが仲介に入っていたとはいえ見事なコンビネーションを発揮している。ある意味、有事と平時での線引きがきっちり出来る人物であったと言え、その関係かプライベートでは長湖部の前線担当者とは一緒にカラオケに行ったりすることも良くあったという(ちなみに同行した魯粛曰く、かなり歌も上手いらしいとのこと)。
-史実・演義等-
張遼 一六九~二二三
字は文遠、雁門郡馬邑県の人。彼の祖先は聶壱といい、前漢の武帝の頃偽の交易によって、当時漢と対立状態にあった遊牧民族の匈奴を騙し討ちにしようとした計略の中心人物であった。この計略は失敗に終わったが、聶壱の一族は匈奴の復習を恐れ、張姓に改めたという。
後漢の末、并州刺史の丁原は張遼の並外れた武力に目をつけ、召し出して従事とした。大将軍の何進の下について河北で兵を募っていたが、何進が宦官に殺されると董卓の配下になり、その董卓がクーデターで殺されると呂布に従った。呂布は間もなく李傕によって長安を追われてしまうのだが、張遼は呂布に付き従い徐州へ逃亡している。このとき、張遼は二十八歳であった。呂布が曹操との戦いの末に敗死すると、張遼は呂布軍団の精強な騎兵を率いて投降した。以後は曹操の下で、官渡の戦いに端を発する河北遠征に参加し、度々戦功を立てた。
そして何よりも彼の武名を高めたのは、二一五年の合肥の戦いをおいて他にないだろう。張遼、李典、楽進の三将に七千の軍で立てこもる合肥守備軍に対し、攻め手の孫権軍は十万という大軍で、まともに当たってはとても勝ち目がない。しかも三将軍は日頃から不仲で、意見も合わなかったのだが、曹操の計略を信じて先制攻撃をかけるべきと張遼は主張し、李典も「国家の大事に私情を挟むべきでない」と賛同の意を示し、結果的には張遼率いる騎兵八百で孫権の本陣を急襲して大戦果を挙げた。張遼はこの際、包囲を突破して退却しようとすると、囲みの中に残された兵たちの悲鳴が聞こえたので、再度猛攻を仕掛けて残りの兵士を救い出すという活躍を見せた。この戦いぶりが世に伝わると、とりわけ江東の住人は皆彼を恐れ、どんなに夜泣きの酷い子供にも「遼来来(張遼が来るよ)」と言えば忽ち泣き止んだ、とさえ言われた。このエピソードは現代でも使われる「泣く子も黙る」という言葉の語源になったとも言われる。
張遼はその後も合肥を守り、曹操死後に曹丕がおこなった南征にも参加した。張遼は病の身にあったが、孫権はそれを聞くと酷く恐れ、諸将に「張遼には軽々しく当たるな」と厳命していた。その危惧どおり張遼は呂範の軍を破る働きを見せたが、病には勝てず二二三年に世を去った。曹丕はそれを伝え聞くと涙を流して悲しみ、その死を悼んだという。
演義でも正史と同様、関羽がその人物を惜しんで曹操に彼の助命を嘆願し、その縁から関羽とは深い友誼関係を結ぶこととなった。関羽が曹操に一時的に帰順した際も、張遼は「かつて関羽殿に一命を救って頂いたのだから、今度は私が関羽殿を救う番だ」と、桃園の誓いを引き合いに出して「劉備殿の生死はまだあきらかではない。なのにここであなたが死を選べば、もし劉備殿が生きておられたなら誓いに背くことにはなりませんか?
ましてあなたは今、主君である劉備殿の妻子の守護も任されているのでしょう?」と関羽を説得し、関羽が提示した「劉備の家族の安全を保障し、自分に引き続きその守護を任せること」「自分は曹操に下るのではなく、あくまで漢帝室の臣として帰順すること」「もし劉備の消息がわかれば、その時点で辞去させてもらうこと」というみっつの条件を曹操に伝え、承諾させる役目も果たしている。さらに関羽が五関を突破し、その最後の渡し場で部下を関羽に殺され激昂し、関羽に斬りかかった夏侯惇を制止して宥めたのも張遼である。勿論合肥での暴れ振りも正史同様に描かれているが、一方でその最期は、濡須口での戦いで呉軍を蹴散らしているさなか、丁奉の放った矢を腹に受けて深手を負ったのが元で病にかかり、間もなく死んだということになっている。
-狐野郎が曰く-
対孫呉専用決戦型ナマハゲ兵器。史実でも魏の将軍の中でトップクラスの戦闘能力を持つとされており、演義でも主を四回も変えるという変節ぶりを示しながら、呂布と違って一切それが論われることがなかったという別格級の扱いを受けている怪物である。やはり後に義人の代名詞にして神にもなる関★羽と関わりが深い事が一因であろうが、最期には直接対決ではなく矢傷で世を去ったということからも「孫呉でこいつを直接対決で倒せるやつが居なかった」というネームバリューを与えられている感がある。おかしいな…徐晃や楽進も演義では射殺されているのに張遼のこの扱いは一体…。ちなみに合肥には現在も彼の暴れぶりを讃えられ、その像が建っているのだそうである。
「蒼天航路」でも当然合肥での暴れぶりは数話にまたいで語られる(まあ回想に近い感じだったけど)程の優遇ぶり。なんか関羽が呂布とやり合ったのを見て偃月刀を持つことを選んだ、とまで言い切っているし、その関羽と初めて刃を交えたときに「張遼!?この関羽がかかりきりだと!?」と関羽を困惑させるという圧倒的な戦闘能力を示しており初登場からインパクト抜群である。あとは烏丸戦かな。しかも赤壁では連環の兵団は郭嘉の発案だけどそれを張遼が進言したことになっているし。準メインキャラとして扱われてたのは間違いないだろうねえ。
学園三国志の張遼だが、実は曹操帰順以前と以後でデザインが大きく異なっており、前者は言うまでもなく「蒼天航路」準拠の髪型なので、それをイメージしてもらえればいいと思う。なおここでのイメージはその後期版をベースにアイマスの双葉杏の髪型を意識したものにしている。アウトドア派というか、鬼化した杏とも言うべき何かのイメージである。ちなみにこれでも(狐野郎的に)声のイメージはゆきんこさんである