解説 厳畯
-学三設定-
徐州校区出身の才媛。張昭よりもかなり年下だが親しい間柄にあり、張昭の推薦で長湖部幹部に抜擢された。
実直かつ思いやり深い性格の持ち主で、これはと目をつけた少女には親身になって悩みを聞いてあげたり、課外活動で重任を任されるように指導するなどして尽くしたという。また、歩隲や諸葛瑾とも親しく交わり、いずれも長湖部幹部として恥じない能力と人格の持ち主であった事から「長湖部三君」と呼ばれるようになったという。
魯粛が学園を去った際、孫権は始め厳畯にその後任を任せようとした。しかし厳畯は頑として就任要請を受けず、終いには衆目の面前で泣きついてまで辞退したため、結局孫権もあきらめて呂蒙を魯粛の後任に当てたという。また、あるとき孫権がプールに誘ったところ、彼女は「泳げないから」と絶対に浮き輪を手放そうとしなかった。孫権はしつこく彼女の浮き輪を奪い取ろうと画策し、奪い取る事に成功したのだが、厳畯は足のつくような場所でもあっさりと溺れてしまい大騒ぎになったという。
とはいえ、データ管理などの仕事はきちんとこなし、マネージャーとして辣腕を振るった事と生来の実直な性格が買われ、長湖生徒会が成立すると初代の風紀委員長となった。しかしあるとき、校則違反をやらかした友人を庇った事でとばっちりを受け、幹部会を離れることとなったが、卒業間際の混乱期に舞い戻って幹部会の任を全うした。
因みにボードゲームの達人であった厳武は、彼女の従姉妹に当たる。
-史実・演義等-
厳畯 生没年未詳
字は曼才、彭城国の人。実直で思いやり深い性格で、見どころのある人物には真心をもって指導し、その人物が大成するように心を尽くしたという。
若い頃は学問に励み、戦乱が激しくなると比較的平穏だった江東の地に移り住んだ。張昭の推挙で孫権の幕僚となり、諸葛瑾、歩隲に匹敵する名声を得、その両名とは互いに親交を結んだという。そのため、彼ら三人を指して「呉の三君」ということもある。
魯粛が思いがけなく病死すると、孫権は始め厳畯にその後事を任せようと考えていた。周囲の人々「厳畯であれば」と納得していた為か大いに喜んだというが、当の本人はそれを固辞したと言う。終いには「私は山出しの書生に過ぎず、軍才もないのにそのような重責を受けては必ず災いの元になります」ということを涙ながらに訴え、その激昂ぶりに孫権はやむを得ずその辞退を認めたという。周囲の人々は、彼のその行動を「己の実力を弁えた立派な行為」と称揚したという。それに関連するエピソードで、あるとき孫権は厳畯を馬に乗せようとしたが、厳畯は馬に上がれはしたもののすぐに鞍から落ちてしまったというものがあり、相当な運動音痴でったことが伺える。
孫権が帝位に就くと、厳畯は衛尉となった。使者として蜀に赴いた事もあったが、その人物を諸葛亮は高く評価したという。その後、彼の友人が弟の葬儀に駆けつけるために仮病を使っていた事が明らかになり、激怒した孫権に処断されそうになったが、厳畯はその友人をかばった事で免職されてしまった。その事件からしばらく後に復帰して尚書令となったが、間もなく七十八歳で死去した。
-狐野郎が曰く-
正史と演義で扱いが真逆な人も結構いるが、厳畯もその一人と言っていいかも知れない。孫呉幕僚、そして文治官僚系と思われる人のアタリ役はやはりというか「大論陣」なんだけど、厳畯はこの時諸葛亮に皮肉たっぷりの賛辞を送り、諸葛亮から面罵されるという役回りを演じているのだが、正史厳畯伝によれば度々蜀漢への使者に赴き、諸葛亮からその人物を非常に高く評価されているという。ここまで扱いが正反対だと清々しくすら感じる。羅貫中と出会う機会があれば握手を求めるフリをして顔面に全身全霊の右ストレートをぶち込んでやりたいぐらいだ。そして正史にある運動音痴ネタ、馬に乗れずとも天才的な軍才を持ち最前線で戦った杜預とは異なり、この人は徐州の悲劇を知っているだろうからガチで軍務には付きたくなかったのかも知れぬ。馬に乗れぬのも芝居だったのかもわからんね。
これも結構即興でデザインしたものだが、イメージの根底にあるのはおそらく「To Heart」の保科智子ではないかと思う。そこまで意識していたわけではないんだろうけど。