解説 陸績


-学三設定-

孫策の侵攻に対抗したために飛ばされた慮江棟長・陸康の妹で、のちに長湖部の重鎮となる陸遜・陸抗姉妹の従姉妹に当たる。
当初は姉を飛ばされたことで孫姉妹(というか孫策)に反感を抱き、招聘に対して無視を続けていた。しかし、旧知の仲であった虞翻の説得や、孫策が不慮の事故でリタイアしその後継者となった孫権に従姉妹の陸遜が重用されるようになったことなどを受けて彼女もようやく招聘に応じ、幹部会の一員として主に内政面で才覚を発揮した。
一見物腰が柔らかく大人しい印象を受けるが、虞翻とウマが合う数少ない存在であるだけあってとにかく何かにつけて一言多く、明らかにタイミングを計った上でぶっ放される切れ味抜群の舌鋒は「いとも容易く他者の肺腑を抉る」と評され、虞翻が丹陽に左遷された際には巻添えを食うというか、もののついでのように彼女も歩隲の補助役という名目で交州に追いやられた。元々荒事やもめ事を嫌う彼女は、折しも帰宅部連合との軋轢により慌ただしく主戦論が飛び交うようになった幹部会を嫌っていた事もあり、嬉々として交州へ向かい、以後は半ば部のマネージャーとしての仕事すら放り投げて趣味の読書に耽溺してしたという。後々虞翻も交州に追いやられてきたことから「陸績も実は虞翻共々何か密命を持って交州に送り込まれたのでは?」などと考える者も居たが、呂岱は後年「陸績の自堕落っぷり(?)には虞翻も呆れていた」と証言しており、長湖部員としての活動をボイコットしていたのはほぼ確実だったとみられている。彼女が何を思ってそうしていたのかは彼女自身にすら解らないが、虞翻が交州に来た頃には何時の間にか階級章を返上していたという事もはっきりしており、以後は基本的には長湖部としての公式活動には絡んでいないことだけは間違いは無いとされる。一説にはこの時点で既に孫権の器の底を見抜いた上で見限っていたとされ、虞翻を仲介として呂岱に対して「あの部長は必ず後継者問題を起こして、誰もかもを巻添えに長湖部をメチャクチャにする。あなた(呂岱)も例外じゃないし、ひょっとするとその際に取り返しの付かない汚名を被らされる羽目になるかも知れない」と忠告していたとも言われ、呂岱は「二宮事変」の後に、歩隲共々「魯の君」孫覇に荷担したカドで非難を受けることになったとき、陸績の言葉通りだった、と嘆息したともいう。
そんなわけで(いろいろな意味で)有名な才媛であった彼女だが、同時に孝行少女としても知られており、かつて初等部にいたとき、ひとつ年上の「ゴーヂャス」袁術に面会した際、出されたミカンを病気の母親の為に持ち帰ろうとした。袁術は陸績を「可愛いみかん泥棒」とからかったが、その理由を臆面も無く堂々と言い放った陸績に袁術さえもがその才覚を嘉し感動したという。また虞翻のみならず益州攻略でリタイアした「鳳雛」こと龐統とも仲が良く、引退後はプライベートで龐統と行動を共にしているのを良く目撃されていた。


-史実・演義等-

陸績 生没年未詳(一八七~二二〇という説もある)
字は公紀。呉の「社稷の臣」として名高い陸遜の従兄弟にあたる。
六歳のとき、当時九江を支配していた袁術に目通りしたことがあったが、そのもてなしに出されたミカン(原文では橘)を懐に入れて持ち去ろうとした。袁術はそのことをからかって「お前は人に招かれた席でも、橘(ミカン)を懐に隠したりするのか?」と尋ねると、陸績はひざまずき「母にも持ち帰ってやりたいと思ったのです」と答えた。このことで袁術は彼の孝行心と、その受け答えに非凡でないものを見出し大きな感銘を受けたという。やがて孫策に招かれてその幕下に入り、当初陸績はまだ年が若かったために末席にいたのだが、議論が武力による覇道を旨とするべきという方向へ向かうと、彼は大声で古の例を引き、主戦論に異を唱えたことで張昭ら名士たちにその才能を認められた。
陸績は男らしい風貌を具え、博学で知識が広く、天文暦法、計算術に関する書物なども読み、その読書が及ばぬところはなかったという。「鳳雛」こと襄陽の龐統は年下だった彼と厚い友誼を結んでおり、また、虞翻とも親友同士であった。しかし「類は友を呼ぶ」というべきか、陸績も虞翻同様に思ったことは口憚りなく主張するきらいがあったため、孫権に疎んじられて交州の鬱林地区に左遷させられた。彼は名目上将軍として兵を預かる立場になったが、学者として身を立てることを本懐としていた彼は軍務を投げ出して「易経」の注釈などを始めとした文芸活動に精を出した。
伝の記述では三十三歳の若さでこの世を去ったとされるが、裴松之の注釈によれば彼は「太玄経」等も通読し注釈をつけており、そのことから己の死ぬ日を知っていたとされる。その記述には「自分の死から六十年後に天下は統一される」とあり、この記述から考えると彼の死は二二〇年ごろということになる(晋による天下統一が二八〇年であるため)。このことを裏付ける記述はないが、伝には陸績が従兄弟の陸遜よりも年下であった事に触れられており、仮に二二〇年没であれば陸遜より七歳ほど年下であったことになる。


-狐野郎が曰く-

例えば魏書の方技伝にも伝がある管路もそうだが 孫呉に限らずどの国の伝にも凄腕の「予言者」というものが存在するわけで、孫呉でいえば恐らく陸績がトップクラスではないかと思われる。彼が己の死を予言した挙句に天下統一のことにまで言及していることは正史にない異説ではあるのだが、この予言通りに実際になったと述べられていることから換算すると、陸績が亡くなった年は二二〇年。陸績は三十三で亡くなっているので生年は一八七年になる。先述したとおり陸績伝では「陸遜(と龐統)より年下」と明言されているのでその記述との齟齬もない。幼い頃に(恐らくは絶頂期の)袁術と面談していることを考えても二二〇年没というのは当たらずとも遠からずどころかほぼ間違いは無いのかも知れぬ。何気に孫呉には占いを得意とした虞翻、陸績同様「太玄経」に習熟して占いを良く適中させたという陸凱などもいるけど、江南八絶も半分は占いの名手だったみたいなんでもしかして孫権、狙ってそういう奴らばかり集めたのでは…みたいな気がしなくも…いや、少なくとも虞翻と陸績は孫権と折り合い良くないどころかそもそも孫策時代からの幕僚だなこいつら。ついでにだが陸凱もひょっとすると陸績の影響で「太玄経」に触れるようになったという可能性も…?同じ陸氏の一族だし面識あったかもわからんし。ちなみに陸績が一八七年生まれと仮定すれば陸凱は十一歳ほど年下になるがまあ…そこまで無理は無いと思う。
なお陸績、正史では数少ない「容貌に触れられている人物」であり、「男らしい風貌」とあるため精悍な、恐らくは結構なイケメンだったのかも知れない。演義で陸遜が「白面のいち書生」、すなわち線の細い文系イケメンみたいな書かれ方をされているのは、「従兄弟の陸績がイケメンやから陸遜だってイケメンやろ!」という羅貫中の強引な見解によるものかもわからんね。あと読書狂でガチで目が悪く、それまでは普通に眼鏡をしていたが諸葛亮に出逢ったことで眼鏡に嫌悪感を示してコンタクトに切り替えた、という裏設定めいたものもあったりなかったり。