解説 呂蒙


-学三設定-

孫策旗揚げの頃、袁術から宛がわれた水泳部員の知り合いとして長湖部に参画した少女。
当初は途方もない乱暴者で、とにかく人の話を聞かず勝手に行動して勝手にやめてしまう困った性格の持ち主であった。そのための失敗も数知れずで、人呼んで「ポカのモーちゃん」。孫策に従ったばかりの頃に、まだ中等部在籍だったことを周囲の者にからかわれたことでキレて上級生を相手に殴り合いの大喧嘩をし、それを切欠としてずば抜けた果敢さと実行力と戦闘能力を孫策に認められ、側近の一人として抜擢された。
孫策のリタイヤ後も引き続き長湖部に在籍し、多くの部活動を掛け持ちしてその中心的な戦力として重宝されたが、生来勉強嫌いで、「教科書を見るだけで寒イボが出る」だの「授業を真面目に受けてる奴らこそバカ」だのと公言して憚らなかったため、体育以外は常に補修の常連であった。そんな彼女も実績から長湖部運営に関わっていくことになり、それをダシに補修の時間をもバックれようと目論んでいたある日、蒋欽共々孫権に散々へこまされ、挙句ヤンキーの代名詞である甘寧が補修にいなかったのは彼女が単にそこまで成績が悪くはなかったことを知って奮起した呂蒙は、まるで真綿が水を吸うかのように学術知識を身につけ、その次の期末考査では学園屈指の才媛である魯粛に負けず劣らずの順位の成績を叩きだした。「知識を得る」ことに楽しさを見出した呂蒙は、それを機に古典や兵法書なども読み漁るようになり、武勇一辺倒の戦い方から広い視野で戦場をコントロールする「司令官」としての戦い方を身につけ、ついには留学のために学園を去った魯粛の跡を継いで長湖部実働部隊総括を任されることに。しかし実働部隊総括の激務は僅かな期間で彼女の肉体と精神を蝕み始め、活動期間の限界を悟った彼女は長湖部の宿願であった「荊州学区併呑」を成し遂げるためにすべてを賭ける。陸遜や虞翻、あるいはその他多くの少女達の力を借りて武神・関羽を打ち破った彼女だったが…。
粗暴だが根は素直で真面目な性格であり、荒くれ揃いの長湖実働部隊の多くの者に慕われていた。特に甘寧は同級生でありながら甘寧のほうが年長(一留しているので)だったにもかかわらず、呂蒙の人柄に惚れ込み任侠的な忠誠を誓っていたという。長湖部員の中でも、キレて暴れたときの甘寧を止められる数少ない存在の一人である。


史実・演義等-

呂蒙 一七八~二一九
字は子明、汝南郡富陂の人。年少の頃に江南に移り住み、孫策の武将となっていた姉婿の元に身を寄せていた。
彼は幼少から功名心が強かったようで、十五歳くらいのとき、山越討伐に向かう姉婿の軍にこっそり付き従い、母親から叱られてもそれを改めようとせず、周囲を呆れされた。呂蒙はその後も姉婿の軍にいたようだが、あるとき軍にいた下役人が、呂蒙の年の若いことを馬鹿にし、その態度がエスカレートしてくると、遂に呂蒙は堪忍袋の緒を切って、その役人を出会い頭に斬り殺してしまった。一度は逃亡したものの、取り成してくれる者もあったので素直に自首し、その件を聞きつけた孫策に召し出されたが、その際に孫策は呂蒙の非凡さを見抜き、己の側近として取り立てた。
呂蒙は孫策死後も引き続き孫権に臣従し、二〇七年の江夏攻めに参加して大いに戦功をあげた。また赤壁の戦いとそれに続く南郡攻略にも参加し、夷陵城に包囲された甘寧を救出する時の作戦も彼の立案であったという。
その孫権とのエピソードで有名なのは「呉下の阿蒙」の故事であろう。孫権は何の気まぐれかあるとき呂蒙と蒋欽を呼び寄せ、書物を読むように諭したが、呂蒙は「軍務が忙しく書物など読むヒマはありません」と反論する。ところが孫権は「なにも学者になるぐらい本を読めなどとは言っておらん。わしも職務で忙しいのには代わらんが、それでも古の例を知るべく多くの書物を読むことにしておるのだぞ」と窘めたため、焚き付けられた呂蒙は熱心に学問に励み、やがて読んだ書物は一介の学者が及ばぬほどの量になった。魯粛はそれまで呂蒙のことを侮って見ていたが、その見識が深まっていたことに「大したものだ、最早“呉下の阿蒙”などとは言えんなあ」と賞賛した。なお、この時呂蒙が言い返した「士たるもの、別れて三日となれば剋目して相対すべき」という言葉も、「呉下の阿蒙(何時まで経っても進歩がない人のことを、かつての呂蒙に擬えた)」共々その言葉自体が故事成語として残り、また現在よく使われる「見直す」という表現の大元になったという。
そうして実戦経験に博識を兼ね備えた呂蒙は魯粛亡き後の孫呉総司令官として重きを成したが、荊州に居座る関羽を撃破して孫呉の悲願でもあった荊州奪取を成し遂げた直後、病によって思いがけなく急死してしまう。享年は四十二。このあまりにも唐突な死と、後に神として祀られるほど民衆に慕われた関羽の死を演出したことで後世多くの人々から嫌われてしまい、演義では荊州奪取を祝う宴の席で関羽の霊に取憑かれ、孫権を罵り倒した挙句、全身の穴という穴から血を噴いて絶命するという壮絶な怪死を遂げる。実際唐突に病没したことから後世で「関羽の呪いで殺された」と言われる有様であったが、孫権は彼の突然の死を酷く悲しみ、孫権が自分に仕えた臣下に対する哀惜の深さは呂蒙に対してのものが最も深かったと言われる。


-狐野郎が曰く-

実は三国志で好きな人物と言われたときに、筆頭にあげるのは呂蒙であった。今でも勿論かなり敬愛する人物であるが、ある意味では関羽を知れば知るほど関羽が嫌いになった反動があったことは否定しない。関羽の項でも詳しく語るところだが、そもそも関羽が神として祭り上げられた背景は後の王朝に祭り上げられ続けた結果そうなった面が大きく、じゃあ誰がその割を食ったのかと言われたら間違いなく呂子明だろう。大体にして関羽の最期は自業自得と言うべきであるし、確かに呂蒙は正々堂々と正面切っての会戦で関羽を撃破したわけでもないのだが…それにしたって、演義であんなわけのわからない最期を迎えなければならなかったのかと考えればあまりにも理不尽である。まあ、史実より一年も延命させられた挙句孟達如きに眉間をぶち抜かれて殺された徐晃に比べればマシなのかも知れないが。むしろ関羽パネェ!!って思うならそれを撃破した呂蒙はもっとパネェ!!って考え方は出来なかったんだろうか。ベーブ・ルースの本塁打記録を破ったのにやたら批判に晒されたロジャー・マリスのような悲しみを背負う羽目になったような気がしていたたまれなくも思う。判官贔屓は多分にあると思うが、それでも無学の暴れん坊が勉学にのめり込んで当代随一の名将に育ったって、すごいことだと思うんだけどなあ。もっと愛されていい人だと狐野郎は思うのである。
さて、デザイン上は何処か某じゃリン子をほうふつとさせるサイドポニーの、やんちゃ坊主が真面目委員長に転身した様なイメージのある学三版呂蒙。実はこっそり元デザインから大きくいじくって太眉娘にしているが、雰囲気的にはあまり違和感は感じないとは思う。